心象ライブラリ

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心象ライブラリ

 絡繰、自動人形、ロボット。急速に発達した科学技術は子供の頃からは想像も付かないような物を生み出していた。中でもオートマタと呼ばれるものは人間によく似ている。

 陶器のようなつるりとした肌。絵に描いたような美形。綺麗な動くお人形さん。

 人間と見分ける方法は浮世離れした不自然に綺麗な雰囲気とか、少し震えて聞こえる声。首の後ろのメーカー表記くらいだ。そんな良くできた人形が人間社会に浸透している。

 子供の頃に授業で見せられたのはもっと不自然なの。ぎょろぎょろとした目、脚なんかも左右交互に出す二足歩行のじゃなくて、いくつか付いたローラーで静かに滑ってくるようなやつだ。そういう歴史を経て現在があるのはわかったのだけど、夢に出そうな見た目だったし、クラスの女子には泣いてるのもいた。俺も夜中にトイレで起きてアレが居たら多分ちびる。

 そこから技術が進歩した今では、庶民には縁がないようなイイトコのレストランのウェイターや販売店のレジでもオートマタが働いているのも珍しくない。

 とはいえ、俺たち人間の労働者が不要にもならないのにも理由がある。

 それは人間にしか出来ない仕事があるから、なんて職人気質の理由ではなくて、オートマタは目玉が飛び出るほど高いからだ。世知辛いものである。

 労働の肩代わりのために開発されたモノを導入するよりも、何十年か生きてきた人間を雇う方が安上がりだなんて、なかなか皮肉が効いている。

 まぁ、初期費用とメンテナンス費さえ支払えるならヒューマンエラーを起こさない見目の良い労働者が手に入るのだし、良し悪しはあるのだろう。

 当の本人達には給料も無しに無茶な働きを求められるのだろうから、羨ましいとは思えない。

「……アンタらも大変ですね」

 身の回りでは珍しい、短期のバイト先に居た男性型のオートマタにそうやって声を掛ける。

 一拍置いて、えぇまぁ、なんて綺麗な顔でにこやかに返されてしまった。コミュニケーションスキル一つ取っても高級労働者様には敵わないもんだ、なんて心の中で毒を吐いた。

 身近な所だけでなく、オートマタは政治、軍事、医療業界でも活躍していると聞く。

 外科手術はもちろん、心理的な方面にも有用だとかなんとか、休憩室で流れていたワイドショーで何度か目にした事がある。なんでも、脳波と電気信号は似ているとかで、最先端の医療現場ではオートマタのデータを脳ミソに接続して精神の治療なんかにも活用しているとか。

 データとはいえ頭の中に他人が入ってくるなんて気味が悪い真似、俺はごめんだ。

 もっとも、そんな心配をしなくとも貧乏人には縁がない話だった。

 

 ***


 昔から朝が嫌いだった。

 なかなか寝付けない夜。時間を確認しようものなら、少しの時間しか眠れない事に気付いてしまって絶対にドッと疲れるのがわかっているのに、案の定。

 その内に東の空が白んでいくのを見てなんとも言えない気分になる事は無いだろうか。

 ああ、また油が切れた機械みたいな、ガタガタな体調で一日過ごす事になる。

 こうも寝るのに苦労するならいっそ朝なんか来なければ良いのに。毎晩、そんな調子だ。


 携帯のアラームよりも少し早く起きてヤカンで湯を沸かす。

 横着をして洗面所の伸びる蛇口で口を濯ぎながら見る窓の外は薄暗くて、そんな明るさの中で鏡に映る自分はいかにも不健康そうな顔色をしている。

 きちんと話をした記憶がないから知らないけど、母親があんまり世の中から羨まれない方面の血を引いていたのか、記憶の中の女と俺の色素の薄い髪はそっくりだった。何も知らない馬鹿な子供は無邪気に喜んでいたけど、蓋を開けたら碌なもんじゃなかった。

 父親が違う下のきょうだい三人はそっちの遺伝子が出たのか周りから浮かない髪色だった。 俺もそっちと一緒だったら良かったのに。

 世界で一番嫌いな人間に似ている俺自身も嫌い。

 鏡を見る度、嫌でもあの女と血が繋がり事を自覚させられる髪、死んだ魚みたいな辛気臭い目。

 人を見るのも見られるのも嫌で、前髪を伸ばして伸ばして、世間と自分の間に一枚の壁を引いた。

 そんな見た目のせいか、バンドでもやってるか聞かれる事が多かった。こっちも二十を過ぎたフリーターだから、そう思われるのも不思議じゃない。

 そんな人達みたいに無茶をしてでも追いかけられる夢も気持ちと金銭の余裕もない俺は適当にへらへら笑ってどこのポジションだと思います? なんて適当な事を言う。

 薄っぺらいコミュニケーションスキルだこと。心の中で自嘲する。


 家庭の事情ってやつで、歳の離れた妹二人と弟一人を養う必要があった。

 学も金も無い人間が、あまりに最低賃金の安い地元で生きていくのはどうにも難しくて、家族 で寝るのも狭くなってきた築三十三年の安アパートを飛び出した。そうして、都会でどうにも胡散臭い寮付きのバイトを始める事にしたのだった。

 1LK風呂付きトイレ別。一芸があれば学歴職歴問わず雇ってもらえるという宣伝文句に釣られて大昔に少し齧っていた特技と言って良いかわからないそれを披露したら採用して貰えたというわけだ。何の伝手も無い田舎者が都会で住んでいけるとは思わなくて、驚きと喜びときょうだいに何と説明しようか困ったのと、そんな心境だったのを覚えている。

 住まいがあるのは助かるけれど、メインのバイトだけじゃ必要な金額を稼げないもんだから コンビニとか、講習や免許無しでも受けられる単発の工事の手元なんかで無駄な時間が出来ないように予定を詰めてちまちま働いている。

 朝飯は、本当は駄目だけどねと言いながらバイト先の店長がくれた販売期限切れのおにぎり。具は昆布だった。なんとなくパサついてはいるけど全然食える。冷蔵庫に入れると硬くなるような気もするけど、腐って食えなくなるよりはよっぽど良い。

 湿気にやられて固まったインスタントコーヒーの瓶を手の平にぽんぽん打ち付けて、目分量で適当に作ったそれをおにぎりと交互に啜りながら、携帯で一応見ているニュースサイトや短期の求人だとか、そんなのをチェックするのが日課だった。

 ああ、また今日が始まってしまった。そう思ったら溜息が漏れるのも、いつもと同じ。

 

 ***

 

 いくつか掛け持ちしている内の、商業施設のバイトの休み時間、飾り気のない長机にパイプ椅子が並んだだけの休憩室は人もまばらで静かなモンだった。

 いつも高めの声で呼び込みをしている服屋のおねーさんは真剣な顔で携帯と睨めっこ。

 学生さんと思しき男の子は宿題でもやっているのか、耳からイヤホンを垂らしてガリガリと書き物をしていた。テスト勉強とか、そういうのかな。

 一日分の栄養のいくらかが取れるという味気ないバランス栄養食と、おつとめ品のワゴンに乗っかっていた適当な惣菜パンを齧っていた。

 こだわりはそうないけれど、選べるならしょっぱいのがいい。誰が見ているんだかわからないテレビには毒にも薬にもならなさそうなバラエティの再放送が映る。最近若者に人気だというキャラの濃ゆい占い師が出ていた。流行りというのはよくわからない。

 食べ終わった惣菜パンの袋の、デカデカと貼られた赤と黄色の丸いシールを剥がすと、あまり可愛くないウインナーのキャラクターが顔を覗かせた。たしかにこいつが居ても居なくても購買意欲は変わらないだろう。情報でも人でも、そうやって取捨選択されて、どうでも良いと判断された箇所に居るやつはどうすればいいんだろう。

 難儀なもんだ。パッケージのキャラクターか、自分に向けてか、わからないような事を思いながらグシャグシャとゴミを丸めてくず入れに向かって投げれば、フチに当たって外に落ちる。

 何も上手くいかないなと深く息を吐きながら、近くから普通に捨てた。

 かさ、と乾いた音を立てて緩く開いたパッケージのキャラクターと目が合った気がした。


 ***

 

 目を見て話せなんてよく言うけど、人に見られていると落ち着かないし、無理に見つめていると頭も視界もぐらぐらしてくるから苦手だった。

 目は口ほどに物を言うなら、最初から見られない方が良い。今日も外界と距離をとるために伸ばした長い前髪を精一杯分厚く下ろして、人の家のインターホンを前に今日何度目かわからない嫌だなぁ、を頭の中で唱えた。早く済ませればその回数も減るのだけど。

 五分後には終わってる、今我慢すれば後はもう楽になるんだから。嫌な事が控えてる時はいつもそう思うようにしてる。フルタイムのバイトがしんどい時だって九時間後には終わってる。未来に先回りして、全部済んだ後の自分に感情移入する。そうして、嫌な気持ちを誤魔化さないと前に進めない。ネガティブ思考は昔からだけど、そのまま済んでも行かないことは仕方ない。

 また頭が現実逃避に走っていた。インターホンの前で唸っていたのには退っ引きならない事情があって、俺の手にはクマさん柄の女児用パンツがある。


 コインランドリーで回してきた四日分の洗濯物を干そうと思ったら、ベランダに何やら白いふわふわが落ちていたのである。なんだろう、そう思ってひょいと摘み上げて、後悔した。

「う、うわぁ……」

 それがでっかくクマがプリントされた女児用のパンツだったのである。

 成人男性が持っていたら問題になる物ランキング上位のえらいものが文字通り舞い込んでしまったと頭を抱えた。こういう時にすぐに逃げようとする癖があって、このまま置いとくか? いっそウチのベランダからも投げ捨てれば? ゴミで出す? そんな良くない考えが過ぎった。

 しかし物を粗末にするのも、他人の物をどうこうするのも、なけなしの善意と天秤に掛けてギリギリ踏み留まる。すっかり癖になっている溜め息がまた一つ出た。


 そんなこんなで俺は今、自分の住まいの一つ上の階の廊下に居る。普段の階よりはドアの数が少なくて、単身向けのコンパクトな俺の部屋のタイプではなくファミリー向けのフロアだ。位置的に多分ここだろうか、という部屋の前でしばらくうろうろしていたというわけだ。

 何度目になるか、インターホンに指を掛けて、中身が見えないようにと紙袋に突っ込んだパンツを握りしめると袋がガサリと音を立てる。ポストに突っ込んで帰って良いか?

「行きたくねぇ……でも、これで間違ってたら他の部屋も行かなきゃ駄目なのか……」

「うちに何か用? 」

「はい……!?」

 話しかけられて驚いた拍子に押し込んだインターホンが少し遠くで間伸びしたピンポンコールを鳴らしても人の気配はなかった。そこでようやく、話しかけてきた人に目を向ける。

 色素の薄いボブカットの髪からちょろりと細い三つ編みを垂らしている。シミひとつない色白の肌に橙掛かった赤い瞳はアルビノのウサギみたいだ。身長は俺よりも低くて、小柄で、中性的。

 そこだけ画像処理をされた写真みたいな、非現実的に綺麗な人がスーパーで買い出しをしてきたのであろう、生活感溢れる袋に腕を通している。

「誰も居ないよ。今帰ったけどね」

 思ったよりも低く、特徴的に空気を震わせる声を聞いて確信する。男性型のオートマタだった。

 

「あの、これ、洗濯物、ベランダに落ちてまして。えっと、俺は下の階の者です」

 何とは言わずに紙袋を差し出せば、その場で確認されて、万が一でも通報されたらどうしようかヒヤヒヤしているとまた赤橙色がこちらに向く。

「確かに。ここの住人のだ。ありがとう」

 後日礼をすると言ったその人に、食い気味で返す。

「お礼なんてお構いなくです」

 家政夫か何かであろう彼を見るに、高価なオートマタを個人で契約しているような家主だ。

 下手なことに巻き込まれては厄介だと察して、それじゃ、と踵を返したところで腕を掴まれた。

「なに……っ、は? 」

 何をすると声を荒げ掛けて、それも叶わなかった。

 それはそうだ。頬に外気よりも少し温い感覚。親指で顔を擦られて、さり、と音を立てた。

 抵抗しようとしても、細い腕のどこにそんな力があるのか文字通りビクともしない。

 感情の読めない赤橙色が真っ直ぐ覗き込んでる。

「隈がすごいね、寝不足? ……君、名前は? 」

 髪を捲り上げられて、人前に出す事が少ない瞳と、随分前から薄くなる気配のない隈を見つめられている。固まっている俺の事を、答えるまで離さないとでも言うようにそのまま腕と頬をホールドされている。少し冷静になった頭がマンションの廊下で、妙な事を起こすのは不味いと囁く。

「つ……弦巻、ユズリハ」

「なるほど、ユズリハ。わかった」

 当たり前のように下の名前を繰り返して、満足したのか手を離したそのオートマタはさっさと帰る支度をしていた。先ほど俺が持ってきた女児用パンツの紙袋もちゃっかり買い物袋に突っ込まれているのが見える。

「それじゃ、また」

 それだけ言って振り返りもせずに閉じられた玄関ドアの前には突っ立ってる俺だけ残された。

 なんだったんだ。今鏡を見たらまんまるな目をしているんじゃないか、目が点とはこういう事を言うのかと、混乱したまま、さっき触れられた頬を自分でなぞる。

 かさついた頬は手よりも少しだけ温度が高かった。

 

 ***


 何だったんだろう。あれから何度そう思ったかわからない。

 女児用パンツ事件から数日、初対面で前髪を捲り上げられる事なんて二十五年生きてきて一度もなかったものだから、距離感ゼロのご近所さんに名乗ってしまった事も後悔した。

 都会のご近所トラブルなんて面倒臭そうだし、寮として部屋を借りている手前、引越しなんかも出来ない。お礼とか言っていたけど、そんなのは良いから適当に放っておいてほしい。

 エントランスで出くわしたらどうしようとそわそわして落ち着かないし、勘弁してほしい。

 いつも通りの時間、日付が変わる頃に帰ってきて、無いとは思うけどエレベーターで鉢合わせるのも嫌だから、あまり使う人の居ない階段を登る。二階まで一段飛ばしで駆け上がって、曲がったらすぐの部屋だ。

「おかえり」

「うおおおおお!?」

 バイト先の店長が見ていた動画の、野菜にビビって飛び上がる猫の気持ちがわかる気がする。

 家の前で突っ立って待っていたのは、ここ数日の悩みのタネ、その人だった。


 深夜にクソでかい声を出してしまって、慌てて周りを見渡す。

 迷惑になるのも、ここで話して周りの住人に見られるのも困る。とりあえず入ってくださいと部屋に押し込んで、お邪魔します、と律儀に言っているのを尻目に、鍵を掛けた。

「すごい、何もない部屋だね」

 呑気な声に振り返れば、もうすでに靴を脱いで上がっていた。マイペース過ぎる。

「えっ、いつから待ってたんですか」

「三時間前から」

「マジか……」

 最低限の服を畳んで置いてあるのと、リサイクルショップで買った適当なちゃぶ台や家電、畳んだ布団、ゴミ箱、レンジ、やかん、ラックに伏せられた少しの食器、少しの私物。

 それくらいしかない俺の部屋を興味深そうに見ている後ろ姿に、がっくりと肩を落とす。

「マジで、お礼とか大丈夫なんで……」

 とにかく目立ちたくない人間からすると本当に、遠慮でもなく本当に気にしないで欲しい。

「本当に? 要らない? 」

 気分を害したわけでもなさそうな無表情でそう言って、がさりと重さを感じるビニール袋を目の高さに挙げられる。ふわりと出汁の良い匂いがする。

「……何ですか、それ」

「筑前煮。うちの夕飯だったんだ。お礼を兼ねてお裾分けしようかと思ったんだけどね」

 筑前煮。筑前煮。今日の晩飯もバイト先で廃棄になったおにぎりだ。これは明日の朝に回してもいいし、別に多くない。筑前煮かぁ。

 さっきまでの結構ですという気持ちが引いていく。要らないなら良いかな、そう言って部屋から出て行こうとするのを、食い付いているように見えないよう、出来るだけ静かに呼び止める。

「この時期だと……タケノコ、入ってるんですか」

「入ってる。他は鳥もも肉、人参、牛蒡。ベースはカツオと煮干しの出汁。筑前煮、好き? 」

 好きも何も、大好物だった。こんなもん断れるだろうか。いや、否。

「すみません、食べたい、です……」

 

 冷めてしまったから、とレンジでウィンウィン回転する筑前煮は時間が経つと共に空腹を加速させる匂いを発していた。出汁と醤油と、なんかよくわからないけど美味い匂い。

 夕方の住宅街を歩いていて漂ってくる、他所の家の美味しい物の匂い。我慢が出来なくなった腹がきゅるきゅる音を立てて、恥ずかしくなる。

「ご飯も食べるなら持ってくるけど、要る? 」

「!!」

 きゅ、と音がしそうな勢いで見てしまった。煮汁が染みたご飯も美味い。そんなのを気にする様子もなく返事を待つ綺麗な瞳に見つめられて、羞恥心を誤魔化すように、つい頷いてしまった。

「う、うめぇ……これ、本当に君が作ったんですか?」 

 タケノコのザクザクとした食感、しっかり味の染み込んだ鶏肉の旨味。牛蒡の土の香りはほっとするし、具沢山の筑前煮は本当に、唸ってしまうほど美味かった。料理のことなんて何もわからないけれど、適当に醤油をぶっかけて煮て完成、とはいかないだろう事は分かる。

 食べている間ずっと待ってもらうのも良くない気がして、いつも飲んでいるインスタントコーヒーを出したら興味深そうに啜っていた。おうちではコーヒーメーカーを使っているらしい。

 炊飯釜ごと持ってきてくれた米もめちゃくちゃ美味くて、そういえば家で炊いた米なんてしばらく食べていなかったなと、地元に残してきたきょうだい達の顔が浮かんだ。

 俺ばかりこんな美味いものをもらって良いんだろうか。そう思って、少し落ち着いた。

「すごい美味かったです。パンツ拾っただけなのに、こんな良くしてもらってすみませんね」

 出してもらったものをぺろりと平らげて、タッパーを洗って渡す。久々の手料理は都会でささくれたメンタルには優しくて、素直にありがたかった。

「それが、こちらも重ねて頼みたい事があってね」

「えっ」

 あれだけ食べたのだから、なんて言われても困るが、彼が言うにはこうだった。

 現在世話になっている家庭はどうやらこの子の事を買ったわけではなくて、一年ほど前の町内会のくじ引きで新型オートマタのテスター権を当てたのだという。その景品が彼らしい。

「景品、って、なんだか非人道的じゃないですか? 」

「基本的に僕達に選択権は無いから」

 本人が気にしてないなら良いのだろうけど、人と大差のないように見える目の前の彼が雑な扱いを受けるのも、気持ちのいい話では無いなと思う。飯だってあんなに上手く作れるのに。

「あの、頼みたい事ってのは? 」

「テスターの期間はあと一年あるんだけど、それまでに課題を提出する必要があってね」

 課題なんて中学生の時に触れたっきりだ。学もない俺は大して力になれないんじゃないか。

「俺、バカなんで多分役に立たないですよ? 一応聞きますけど課題ってどんなですか」

「人は何を以て人を人たらしめるか、考えて報告すること」

「人たら……? よくわからない事しかわからないですけど、カロリー高いですねぇ……」

 俺の脳みそを絞っても答えが出てこない事は分かる。

「おうちの人とか一緒に考えてくれないんですか……?」

「彼らにも勿論意見は聞くけどね。課題の前に、僕は人間をよく知らないから。家の人間の事は観察しているけれど他にもデータが欲しい。出来れば拠点から近い位置に居て、毎日様子が見られる人物が望ましい。僕からすると君はとても都合が良い」

「なるほどなぁ……とはいえ、俺もわりと忙しいんでちょっと……」

「もちろん無償とは言わないよ。夕食の提供をしよう」

 夕食。断ろうとしていた気持ちに、少し、ほんの少しだけ良い話じゃないかというのが混じる。

「肌と髪の状態からして、バランスの悪い食事をしているんじゃない? それに睡眠にも問題があるように見える。顔色も悪いし隈も酷い。治るかはわからないけど改善は難しくない」

 図星だ。特に寝付きが悪いのには確かに困っていて、早く眠った方が良いのに、うだうだと眠れず、結局休んだ気がしないことも多い。

「いや、でも俺、金無いんで……」

「それは気にしないで。上の住人の分とまとめて調理するし食費は僕が持つ。メーカーから必要経費として多少貰っているから。だから君は夕食を食べている間、僕と話をしてくれればいい」

 貧乏人は金銭の事を出されると弱い。自分の食費が浮けばきょうだい達に仕送りを増やせるし、話すだけで良いなら躊躇うほどの対価でもない。今のところ良い事しか提案されていない。

「……俺、そんなタメになるような話とか、面白い話なんて出来ないですけど……」

「それでいい。その日あった事、これまであった事、なんでもいいから聞かせてもらえれば」

 一年なら、まぁ、こっちの予定にも多分支障は無い。

 こんな美味い話があって良いのだろうか。でも、さっき貰った筑前煮は美味かったし……理性と食欲の天秤はもうグラグラで、意志の弱さと胃袋の素直さに恥ずかしくなる。

 悩んだ末に、正面に座っている彼に手を差し出す。なんだろうと見られているので、もう片方の手で手招きをして出してもらった手を握る。少し冷たい、すべすべした手。

「……お願いしても、良いですか」

「助かるよ。僕はディンブラ。どうぞよろしく」

 こうして、ディンブラくんと俺の奇妙なご近所交流がスタートしたのであった。



 ***

 

 バイトを終えて帰って来るとディンブラくんが待っている生活を始めて一週間。

 あの後連絡先を交換して、帰る時間がわかったら連絡をして、先に家に入って貰っている。 夜遅い日が多い事、日によって帰宅時間がまちまちな事を考えるとそうした方がいい。

 家の前で待ってもらうのも悪いし、近所の部屋の目も気になるし、盗られて困る物も無いし 何よりそういう事をするタイプには見えない。

 少し接してみて思うのは、動じないというか、マイペースというか、小柄なのに動物で例えるなら日向ぼっこしているホッキョクグマみたいな、そういうイメージだった。

「おかえり。すぐ食べられるよ」

「ただいまです。あっ、美味しそうな匂いしてる……」

 美味い飯を作ってもらう対価がこんなので良いのかわからない世話話をして、使った食器と夕飯を入れてきてもらったタッパーを洗う間も背越しで会話を続けて、終わったらお礼と一緒にタッパーを返しておしまい。大体一時間も無いような、そんな時間。

「ユズリハは四人きょうだいの一番上なんだ」

 何の役に立つのか、俺の生い立ちを知りたいというので今日はきょうだいの話をしている。

「そそ、それで下のチビどもを食わすためにバイトして仕送りしてます。……そいや、ディンブラくんにも兄弟っているんですか? 」

「同型機は五体居るし、前の型番の個体も現役で活動してる。それを君たちが言う兄弟と呼んで良いかわからないけれど」

 思ったよりも多い。こんな様子の子が何人も居たら何を話すのだろう。

「へぇぇ……その人たちとも交流ってあるんですか? 」

「物理的に会った事があるのは一人だけ。あとはオンライン上で接したことはあるかな」

「あー、最近よく聞くダイブってやつですか? オートマタ同士でも繋げるんですね」

 ダイブというのは、人間の脳波を何やら良い感じに機械に接続して、架空の世界を体験出来るとかいうやつだ。最初は医療目的だったらしいのだが、金持ちの間ではレジャーとしても人気だと聞く。金があるのに別の何かになりたがるのは、その日暮らしの人間からすると不思議だ。

「そう。身体の充電をしている最中は動けないから、自分の中の整理をしたり、メーカーのサーバーがあって、そこに集まるんだ。みんな色々な情報を持っていて興味深いよ」

 なんとなく、路地裏で猫が集会を開いているのが思い浮かぶ。お互いにしかわからないような方法で意思疎通をして、わかってるんだかわかってないんだかという様子で去っていく感じの。

「なるほどなぁ。そういえばディンブラくん、いつもメモ取ってないですけど良いんです? 」

 課題だと言っていたので、学校の勉強のようなイメージでいた。ディンブラくんはいつだってご飯入りのタッパーを持ってきてくれるけれど、他は手ぶらだ。

 背筋を伸ばして座って、ちゃぶ台の上に、行儀よく手を重ねているのがいつもの姿勢。

 指は細いけれど作り物とは思えない。皮膚の下に骨と関節と筋肉があるように見える。

 見るほど、接するほど、人間でない事が不思議でならないような人。

「全部記録してるんだ。君がどんな顔で何を話したか。こうして今日話し始めてから、君が何回瞬きをしたか、呼吸の回数、体温、全て答えられるよ」

 そこまでまじまじと見られていると思うと居心地が少し悪い気がしてくる。この子にとって俺は夏休みの朝顔だとか、小学校で飼っていたハムスターなんかと同じ枠の観察対象なんだろう。

「それなら日記とかどうです? 録音とか録画も良いですけど、ディンブラくんがその時思った事を残すっていうのは結構大事なのでは? 記録を見返した時と違うかもしれないでしょう? 」

「僕が思った事……人間についての調査に、人間ではない僕の思考は必要だろうか」

「わからないですけど……その時にしか残せない情報って、お得な感じしませんか」

「たしかに」

 流石、家計を支えているせいかお得な情報には弱いらしい。

「それじゃあ、明日から始めてみようかな」

「デジタルに溢れた世の中で、敢えてアナログな事するのも乙ってもんですよ、多分」

 俺も一緒になって日記でも始めたら良いだろうか。そうやって一日を思い返して、働いて働いて働いて、ディンブラくんが作ってくれたご飯のこれが美味かったです、なんて、面白みに欠けた事しか出てこないだろう。呆れ混じりの息を小さく吐く。

 

「そういえばオートマタの皆さんって食事の必要はあるんですか? 」

「個体に寄るかな。動力が電力なら要らないけど、食事が必要なタイプは小型の焼却炉みたいなのを積んでる。僕もそうだけど、ハイブリット型はどちらでも大丈夫」

「へー……」

 街でたまに見かけるオートマタもどちらかなんだろうか。日常に紛れているものをよく知らない事が多い物だと思う。新しいビルが建つ時は知らない誰かが強度やらなにやら計算してそれを作っていくのだろうけど、素人の俺に想像もつかないくらい複雑だろうから世の中すごい。

「炉の方は燃えるものさえあればどこでも活動が出来るけど、定期的に炉のメンテナンスしないといけないのが面倒かな。こっちだけ使ってる個体はあまり見ないけど、オーダーメイドでそういう仕様にされているのは知り合いに居るよ」

「オーダーメイドとかあるんですか」

「故人の再現をしたいとか、要人の影武者なんかも需要はあるらしいよ。姿形は真似られても 元の人格の再現は難しいけどね。メーカーによって特色はあるんだ。うちはワンオフ機メインだけど、他のところは量産が強いとか、それぞれが需要に合わせて展開している」

 そう言って手をこちらに差し出す。曲げる度に浮き出す骨。揉めば、ぶに、と少し避ける血管が皮膚の下を走っているのがわかる。自分の手と触り比べても作り物には到底思えなかった。

「出来得る限り人間を真似た身体だと、主任は言っていたよ。腕を切れば、痛みは無いけれど透明な血のようなものは出る。何事も形から入るのが良いと言って笑っていた」

 目を細めているディンブラくんの思考の色はわからない。懐かしいのか、自虐なのか。

「課題、終わったらディンブラくんはどうなるんですか?」

「どこかに配属されるか、意識だけ解析に回されたら終わりかもしれない。何もわからないよ」

「終わり、って、殺されるって事ですか」

「厳密に言えば少し違う。オートマタに命は無いからね。壊れた家電も修理出来なければ捨てるだろう? 捨てたくなければ飾っておく? その程度の物だから。僕たちは」

 ディンブラくんは、きっと今日の天気の話をするのと変わらないトーンで淡々としている。

 見た目は似ているのに、たしかにそこにある感覚のズレ。

「……それで、良いんですか」

「僕たちは人間のために作られた道具だから。人間に危害を加えられないように出来てる。陽が沈んで夜が訪れる。冬には木の葉が枯れて地面に落ちる。そういう物と同じくらい当たり前の事としてプログラムされている。本来であればそこにオートマタの意志が生まれることは無いよ」

 急に深い溝を見せられた気持ちになる。別に人間が偉いなんてこれっぽっちも思わないけど 生まれてこの方、何を成すでもなく生きているだけの俺なんかよりディンブラくんの方がずっと世の中の役に立っていて価値があるように思えた。 

「……うまく、ディンブラくんが穏やかに過ごせる結果になる事を祈りますよ、俺は」

 ちろりと横を覗けば、いつもよりもほんの少しだけ目を丸くしている顔が見える。

「祈り、というものは理解できないけれど、君がポジティブな事を言っているのはわかるよ」

 ありがとう、そう言うディンブラくんに、胸が少し軋む。その五文字に君は何か思うのだろう。望まなくとも、ディンブラくんがそのまま居られたら良いのに。

 そのまま少し話をして帰っていったディンブラくんにおやすみを言って、一つ息を吐く。


 自分がいなくなるとして、俺だったら覚えていて貰いたいと思う。

 別に悲しまなくてもいいから、居たなって、それくらいで。確認する術なんて無いけど、こんなに大変な思いをして精一杯生きたんだから、歴史に残るとか大層な事じゃなくていいから。

 俺みたいに雑念まみれではないディンブラくんは違うのだろうか。俺にはわからなかった。

 

 *** 

 

 今日は夜のバイトが無い日だった。

 ディンブラくんも自分のおうちのご飯があるから、早い時でも普段とそんなに変わらない。

 夕方というには少し早い時間、駅の商業施設で日用品の買い出しをして帰る。

 ティッシュとかトイレットペーパーとか、無くなると致命的に困るものは割と気にしているのだけど、それ以外は忘れがちなのでそういう細々したものを買いに行っていたのだった。

「あれ、お買い物ですか」

 帰り道、結構な量の買い物袋を下げたディンブラくんにばったり出会った。

「こんにちはユズリハ。今から夕飯の準備だから、その材料といろいろ買い出しに」

「手伝わせてくださいよ。いつも食わせて貰ってばっかりなんで……」

「重いけど良いの? 君が望むなら、お願いしようかな」

「それぐらい平気ですって。俺も男の子なんで」

 手に食い込んでいる方の袋を持たせてもらった瞬間、肩が持っていかれる。

 慌てて引き上げたおかげで地面に触れるような事はなかったけど、ディンブラくんが涼しい顔で持っていたので完全に油断していた。

「よく、こんなの持ってましたね……」

「僕は耐荷重二〇〇キロまでなら大丈夫。ユズリハも力持ちだね」

 ディンブラくんは細い見た目の割にパワフルだった。中身は米ですか? そんな話をしながらマンションまでの道のりを歩く。妹とも、こうして買い出しに行ったっけ。


 ウチは歳が十離れた妹と、まだちっこい双子の弟と妹の四人家族だ。下の二人が小学生に上がるのを待って、俺は地元を離れた。

 幼稚園児よりマシとはいえ、まだ手が掛かる双子を妹に任せるのは気が引けたけれど、将来の事を考えたら、金なんていくらあっても足りない。時間の都合の良い仕事も無ければ給料も良くない田舎ではダブルワークなんてのも厳しかった。

 家の事を一人で切り盛りしてくれている妹の事を思うと、逃げてきたみたいで罪悪感がある。


 妹が家に来たのは小学生の、高学年の頃だった。

 清潔そうな服で包まれて連れてこられた妹。母親と、妹の父親は幸せそうに暮らしてた。

 狭くて暗い部屋で家族の所だけ明るく見えて、俺はずっと居心地の悪さを感じながら空気みたいに隅っこに居た。こんなのいつまで続くんだろう。早く終われば良いのに。そんなことばかり。

 最低限の食事だけ貰える居心地の悪い家。抜け出したくて中学卒業する時に働き先を探した。

 学も金もない人間からすれば教育は贅沢品だ。クラスメートが制服が可愛いとか、そういうので盛り上がっているのを不思議な気持ちで見ていた。当然のように進学する同級生と俺は違うけど、何か学びたい事があったわけでは無いし、頭の出来も良くない。

 周りからは同情の目を向けられたけど、自分で金を稼げるという事への喜びの方が強かった。

 大人の気分で腹の具合が決まったりしない、自分でやりくり出来る金。

 結局のところ金が全てだった。あんな親なんていなくても金さえあれば不自由しない。

 学校が紹介してくれた体力勝負みたいな現場はわりと肌に合った。自分で言うのもどうかと思うが歳のわりには空気が読めたし、生きるために必死だったから職人さんも可愛がってくれた。

 学校では教えてもらえないような事も教わった。

 家の話をしたら、皆が俺の家はおかしいって口を揃えるから。俺が変なわけじゃなかったって。

 金を貯めて家を出ようと思った。こんな肩身の狭い家じゃなくて、自分で部屋を借りて、そこからこのどうしようもない人生をどうにかしようって。

 目標らしいものを持った事がなかった俺の、小さな夢だった。

 母親と、妹の父親が突然居なくなったのは働き始めて少ししてからだった。

 小さくてもその頃から優しかった妹は、ネグレクトされている俺に食べ物を分けてくれたから嫌いじゃなかった。今思うと、なんて情けない兄貴なんだろうとは思うけれど。

 両親が居なくなって泣きじゃくる妹を見て一番に思う事は、やはりそうなるんだという呆れ。

 妹は良い子なのに。少なくとも馬鹿で何も知らなかった、わるい子の俺よりは確実に。

「……仕方ないよ」

 ああいう人間なんだから。碌でも無い人間に期待したって、目の前の妹みたいに傷付くだけだ。

 宥めるように摩った背中は暖かかった事を今でも覚えている。

 それからは妹と二人きりで生活。夢の為の貯金はすぐに貯まらなくなった。アイツらが放り出した家賃も光熱費も、俺が払う事になったからだ。中卒の初任給なんて、そんなに高くない。

 必死にやりくりをして、子供が喜びそうなものは買えなかったけど、給料日には奮発して袋に入ったドーナツを買うのが恒例になった。オーブントースターで温めて、油がシュワシュワいうのを少し待つと表面がカリカリになる。それを半分こするのを、何日か食べるのが楽しみだった。

 休みの日は一緒に買い出しに行って、手を繋いで帰る。こういうのは普通の家庭のきょうだいみたいに見えるんだろうか。そんな事を考えながら歩いた、もう随分前の事。

 

 ぼんやりと思い出しているうちにマンションに着いていたらしい。

「助かったよ、ありがとう」

 それじゃあまた夜に、そう言って俺の運んできた重い袋をひょいと持ち上げると、ディンブラくんはおさげを翻して帰っていった。

 妹とは毎日、変わった事がないか連絡を取り合ってる。安いプランで契約した最低限の携帯だから写真のやり取りは滅多にしないけど、ゴールデンウィークと盆と正月には帰る予定だ。

 地元を離れる選択が正しかったのか、未だに俺にはわからない。

 考えている内に罪悪感に押し潰されそうになる。でも、きょうだい達が真っ当な生活をするためには金が要るし、綺麗事で飯は食えない。子供の頃から食う事の心配ばかりしていて嫌になる。

 それで、俺は嫌な結論に辿り着いたのだった。

 窓の外は夕暮れで、傾いた日射しが街も、俺の狭い部屋もオレンジ色に染めている。すぐに陽が落ちて夜になる。その景色はなんとなく、今の俺の気分と似ていた。


 ***

 

  三十分ちょっとの電車通勤。帰りは手前の駅で乗り換えて掛け持ちの別のバイトに行く。

 一つのバイト先でたくさんシフトを入れてもらえれば良いんだけど、人手が足りているところばかりだったり、長時間の枠でオートマタを導入しているところもあるから上手くいかない。

 今日は駅前にある商業施設のスーパーの青果コーナーで閉店まで。

 夕方以降は掃除とか値引きシールを貼ったり閉店作業が主で、後は午前の人達の使う備品の補充くらい。そんなに人前に出るようなのでもないから助かる。今日の晩はディンブラくんに何の話をしようか、バイト中に考えようと思っていた所だった。

「あの」

 電車を降りたところで声を掛けられて振り向くと、くたびれた様子の四十代くらいの会社員。

 一番最初に出てきたのは、誰だろう。次に、そんな事あるのか。最後は、最悪。

 本当に、最悪だった。

「あの、君は、もしかして」

「……ッ、ごめんなさい、ちょっと、急いでるんで」

 思わず目を見開いたのを分厚い前髪が隠してくれていた事を祈る。

 待って、と腕を掴まれそうになったのを避けて、人混みに紛れて逃げ出すようにその場から去った。目的の改札とは別の方角に来てしまったけれど、そんな事を気にしている場合じゃ無い。

 それは、大昔に、父親だと思い込んでいた人に似ていた。

 

 心臓が、外から見えるんじゃないかというくらい跳ねて、呼吸も整わない。

 猛烈に吐き気が込み上げてトイレに駆け込んだ。げろげろと胃の中身を吐き出してしまう。

 収まったかと思ったところで、雑に使われた汚い便器に釣られてまた戻した。

 どれだけ時間が経ったのか、口からは荒い息と、咳と、泡立った胃液くらいしか出てこない。

 個室の順番待ちをしていた派手な格好の男が、汚い物を見るような目でこっちを見ていた。

 口を濯いで、執拗なくらい手を洗って、体温を持っていかれた指がふやけている。

「……そうだ、バイト、行かなきゃ」

 無遅刻無欠勤だったのに。痛む胃を摩りながら、どうせ遅れてしまったなら急いでも仕方ないかと、よたよたとスーパーに向かう。改札が遠いな。全部、嫌になる。

 

 いつもだったら人が居るロッカールームも変な時間だからか誰も居ない。

 勤怠管理のICをスキャンしようとしたら部署のチーフがこちらに気付いて駆け寄ってきた。

「どうしたの、珍しい。何かあったかと思った」

「すみません、満員電車で酔ってしまいまして……迷惑かけて、すみません」

 体調が悪いなら無理しないで帰っていいから、そう言われて、頭を殴られたような気分になる。

 居なくても問題がない。わかってはいたけど、それもそうか。吐く息が震える。

「……俺は、要りませんか」

「え? なに? 」 

「……なんでも、ないです。すみません、お言葉に甘えます」

 季節の変わり目だからしっかり休んでね、お大事に。

 そう言ってくれたチーフに何度も頭を下げて、着たばかりの制服からまた着替えて、駅へ戻る。


 頭も胃も、良くないものがぐるぐると渦巻いているようで、体調もメンタルも最悪だった。

 いつも乗る時間を過ぎた電車は空席が目立って、隅っこの座席に腰を下ろす。

 十分そこらで降りる最寄りまでの道、それぐらいにバイブレーションだけのタイマーを設定した携帯を握り込んだ。砂でも詰まっているみたいに重たい肺の隙間から細く息を吐く。

 やけに遠く聞こえる車内アナウンスに耳を傾けながら、目を閉じた。


 熱いシャワーを浴びて、駅のトイレであちこち擦っただろう服を裏返しに丸めて転がした。 こんな時でもそんなのは気になるんだ、自分の事を馬鹿にするように鼻で笑った。

 嫌な記憶は芋蔓式に嫌な事を思い出させる。

 なんで、どうして、そうやって暴れる気持ちから目を背けて、背けて、布団で丸くなって。

 部屋の静けさを追っていたら少し落ち着いた。

 すっかり陽が落ちて真っ暗になった所に、ガチャガチャと玄関の鍵を鳴らしてディンブラくんがやってきたのだった。

「おかえり、早かったんだね」

「……ただいま、です。ごめんなさい、今日は体調良くないんで、飯大丈夫って言えば良かった」

 ディンブラくんに連絡する事まで頭が回らなかったのを申し訳なく思うのと一緒に、部屋の中でドアが開く音を聞くのは初めてだな、ぼんやりとそう思った。

「すみません、埋め合わせは今度するので、今日のところは……」

「周りに風邪の人でも居た? じゃあ今日は胃に優しい物にしよう。寝てて良いよ」

「あの、もしもし……」

 持ってきたタッパーを冷蔵庫に仕舞って、明日にでも食べて、なんて言っている。

 話を聞いてくれているかわからない。一人にして欲しいのに、一人になりたくない。

 口では気を遣うような事を言っても、いざディンブラくんが帰ってしまったら、やっぱり俺なんか要らないだとか、気に留める価値もないなんて腐っていただろう。

 こういう、無機質な優しさがありがたかった。本人はそんな事、考えもしてないのだろうけど。

 包丁がまな板を叩く音。鍋が沸いて、蒸気が蓋を押し上げる音。出汁の良い匂い。

 手に入らないと分かっていたから望まなかった事がそこにあって、少し泣きそうだった。

「出来たけど、食べられそう? 置いておくから気が向いたらどうぞ」

 ちゃぶ台に軽い音を立てて置かれたのは出汁の良い匂いのする卵とネギの入ったおじやだった。湯気が立ってる、作りたての。弱った胃と精神がじくじく、膿んだみたいに痛んだ。

 体調を崩した時に、こういうのを作ってもらった事がない。親は俺に興味が無かったし、妹にはそれがバレないように隠していたから。

「あの……一緒に食べませんか? ここまでして貰ったのに何も返せないのは良くないですし……でも、おうちで食べて来たなら、お腹いっぱいですかね……」

 言ってから、しまったなと思った。きっと断られる。そう思って、少しでも断られても仕方のないように付け加える。こういう所が、我ながら姑息で嫌いだった。

「内燃機関で燃やすだけだから容量は問題ないよ。君がそれを望むのなら、そのように」

 良かった。ヘコんだ時の一人の静けさは余計な考えを加速する。側に居てもらえて嬉しかった。

 揃いの食器なんて持っていないから、丼からお椀に半分くらい分けて渡す。いただきます、と二人で手を合わせて、そういえばいつもは俺が食べているのをディンブラくんが見ているだけで一緒にいただく事は無かった事に気付く。

 出汁のきいたおじやが冷えた喉を伝って、胃に落ちると随分ホッとする。気遣って緩めに仕上げてくれたんだろうなというのがわかって、申し訳なさとありがたさで胸がぎゅう、となる。

「体調は大丈夫? 」

「あー、あの、体調不良というか、精神的に疲れる事があって、多分それが原因なので……」

 レンゲは俺が使ってるから、カレースプーンでお椀からおじやをつついているディンブラくんの目がいつもより少し開かれる。多分、これは興味がある時の顔だ。

「ソフトの不調がハードに出る、というのは知らない感覚だな。その酷い顔色もそこから? 」

「多分、そうでしょうねぇ……何があったか聞かないんですか? 」

 あつあつのおじやをふうふうと吹いて冷ましながら食べている俺に対して、プリンでも食べているのかというくらいさっさと食べ進めていくディンブラくんはもう食べ終わったらしい。

「君が話したくないのなら無理にとは言わない。精神に何かわだかまりがあるようならダイブ治療も良いかもしれないよ」

「治療……ってあの金持ちがやるスピリチュアルなやつじゃないんですか」

「脳波は突き詰めれば電気信号と言われているけど、そこに治療用オートマタを意識に紛させて改善する事は出来る。確かに、借りるにしても治療用オートマタの用意にはお金が掛かるかも」

「なるほどなぁ。しかし、意識に紛れさせる……って、頭を弄るみたいで嫌だなぁ」

「既存の記憶を改竄するというよりは記憶や認識との向き合い方を楽にする、という方が近いかもしれない。矛盾するけれど言語ではなく脳波で行うカウンセリングのようなものかな」

 いまいちピンと来ないけれど、どうしようもない過去もどうにか出来るものなんだろうか。

「ディンブラくんもその、ダイブっての、やった事あるんですか? 」

 治療した所で仕方ないと思っているから、興味というよりは会話の流れで出た一言だった。

「人間相手に経験はないよ。でも元々僕は医療向けに開発されたから機材と条件さえ整えば出来ない事もない。緊急時なら単独ダイブも出来るしね」

「えっ、医療向けの人がなんで福引きの景品にされて一般家庭で家事やらされてるんですか」

 こんな、周りに何かがあるわけでも無い一般的な地域で、テスターになるメリットがない。

「その辺りはちょっと事情があって。聞きたければ話そうか? 面白いかどうかわからないけど」

 二年くらい前の事かな、そうやってディンブラくんが話してくれたのはこんな話だった。


 ミイラ取りがミイラに、ってわけじゃないけど、救助する側の人間に危険が及ぶ事もあるというので山岳事故の部門で試運転されていたらしい。現場ではいつもの人間の見た目ではない、二脚式の作業用ボディ。耐荷重や可動域が優れているのだとか。

「そんな簡単に身体って替えられるものなんですか? 」

「君達人間も携帯電話の機種を変更するだろう? それと似たようなものだよ」

「人間は生まれて死ぬまで身体一つですし、俺には想像もつかない話ですね……」

「二脚なら良いけど、人の形から離れるほど感覚が慣れるまで時間が掛かるんだよね」

 それで、順調に研修をこなしていたものの、問題が起きたのは雪山での訓練の時だったという。荒天の白銀の世界に、ボディの色の問題もあって同行者と逸れてしまったそうだ。

「それで、どうなったんですか」

「そのまま吹雪のなか埋もれて、バッテリーが切れて、そのまま。雪が解ける頃に見つけてもらえたのは良かったのだけど、再起動した所で暴れてね」

「暴れた、って……ディンブラくんのそんなとこ想像つかないですけど……」

「その頃は僕であって僕ではないんだ。高度なプログラミングで人間をなぞる感情を植え付けた。その個体は人間に近付き過ぎて、機械と人間の境を見誤った。このままでは人間に危害を加える恐れがあるという判断でね。僕と、もう一つに分けられた。これはそのきっかけの話」

 妙に他人事のようだったのはそういう事か。こうして人間と変わりなく普通に意思疎通が出来る子を、自分達の都合で切り取ってしまう事に疑問を覚える。

「……置いて行かれた事に怒っただけでしょう? 怒った時はちゃんと怒ったほうが良いですよ」

「怒った、かもしれないね。僕には記録は辿れても、感じた物を理解する部分が欠落してる」

 目を伏せたディンブラくんの表情は相変わらず読めない。

「僕は感情というものがわからない。だから、記憶の底の朧げな、それに触れてみたい」

 ある日突然自分が分けられてしまうという感覚は想像が難しい。自分が良いところと悪いところで分離されたとして、なんとなく、自分は悪い側にしかなれない気がした。そこでふと、浮かぶ。

「ディンブラくんは……人間になりたい、と思いますか? 」

 無神経な質問だろうか。それでも、なんとなく聞いてみたかった。

「どうだろう。僕は知る事が出来ればそれで良いから。肉の身体である必要性は感じないかな」

「なるほどなぁ……」

 逆に、自分がオートマタになりたいかと聞かれれば、なってみたいかもしれない。

 トランプなんかでも、手札が悪い時に引き直しができたりするけれど、俺の人生はどこを取っても使えないカードしか無い。使える物なんて、命という切り札くらい。

 今より少しでも楽になるのなら自分が自分でなくても良い。勿論そんな単純なものではないのだろうけど、オートマタは純粋で綺麗な存在に思えるから、少し羨ましい。


「それじゃあ、おやすみ。良くなると良いね」

「ありがとうございます、本当に助かりました。おやすみなさい」

 ぱたん、と閉まったドアを見つめる。話に夢中だったせいか、どうしようもないと思っていた胸のむかつきは不思議と治っていた。これは近いうちに何か礼をしなければいけないなと布団に潜り込めば、さっき少し濡らした枕が冷たくて、少し笑って裏返す。

 お礼は何か買ってくるか、どこかへ食べに行くのも良いかな、そう考えている内にもぽかぽかと温かい腹のおかげか、今日は早めに寝付けそうな気がする。

 静かな部屋に、冷蔵庫の立てる低い音が響いていた。


 ***

 

 そんな生活を続けてあっという間に三ヶ月が過ぎた。


「明日は久々に一日バイト無いんです。夏物持ってきてないんで古着屋でも行こうかなって」

 へぇ、といつもの無表情でお茶を啜っているディンブラくんの手元では何をそんなに書くことがあるのか、ノートにペンを走らせていた。内容は気になるけれど、日記なんてプライバシーの塊のようなものを覗くほど無神経ではない。ぼんやりと眺めている所に不意打ちが来た。

「僕も着いて行っていい? 」

「良いですけど、面白いかわからないですよ?」

 そんなこんなで不思議なお出掛けが実現したのであった。

 

 地元でも、休日に出かける知り合いというのは居なかったから、こうして誰かと待ち合わせをして何処かに行くというのは新鮮だ。

 役所で書類をもらう用事があったから、目的地の付近集合にしておいた。

 今の気持ちを言葉にするなら多分、わくわく。なんだかんだ楽しみにしていた事を自覚する。

「お待たせ。こんにちは」

「こんにちは……って、待って待って待って、えっ……その格好で来たんですか? 家から? 」

 ディンブラくんは何処で売ってたんだと思わず聞きたくなるような格好をしていた。威嚇している猫のスカジャンにウォレットチェーン、膝パッチ付きのパンツ。スポーツバイクに乗る人が掛けるようなレインボーなサングラス。バイト先でもシフトの入っていない時に顔を出した人のお出かけ着と普段のイメージが違う事はあるけれど、透明感とか、綺麗め、そんなワードが似合うディンブラくんが着るにはどうにも個性派が過ぎるのではないか。

「ディンブラくん……個性派ファッションですね」

「そう? 家の人間が好きに着ていいと言った中から借りてきたんだ」

 選んでこれなのか。このすごい服を持っている、会ったことの無い住人さんも怖い。


 洋服にこだわりはあまり無いものの、ちゃらんぽらんでも見た目くらいはきちんと整えたい。しかし予算はあまり無い。袖があるワイシャツのコーナーで無難な色と良い感じの柄ものを何枚か、あとは大昔に流行したらしい派手な柄シャツは安いわりに肌触りも良いのでジャケットと合わせて着るかと二着。横に着いて見ているディンブラくんも、おー、とか、へぇ、とか言いながら興味深そうにちょいちょいと掛かった服を引っ張り出しているのだけど、大柄の鎖や蛇の柄はディンブラくんには合わないんじゃ無いかと思う。多分白い無地系とか、透ける系とかが良い。

「ディンブラくん、細いしユニセックス系とか似合うんじゃ無いんですか。知らんけど……」

 肩幅もそんなに無いし、女性もののコーナーを覗くと、ベタだけど麦わら帽子と向日葵が合いそうな白いブラウス。袖が透けるシフォンのふんわりバルーンになったそれは似合いそうだ。

「ほら、こういうのとか可愛いですよ」

 ハンガーのまま肩に当てればサイズは良さそうだったけれど、男性型の子を捕まえて可愛いというのも失礼かとちろりと伺えば、そんな様子もなく感情の読めない目でその服を眺めていた。

  結局、似合うというなら、とディンブラくんはブラウスを買っていた。

 この様子だと悪意ある人間に勧められたまま買ってしまうのではないか、少し心配になる。  

「ユズリハだ!!︎ 生はやっぱり違うなぁ!!」

「うお!? 」

 店を出た所で急に前からしがみつかれて、驚いて見ると、鮮やかなピンク色の瞳、もこもことしたボブカットの水色の髪の、顔のサイド部分の毛先だけ瞳と同じ色で染まっている、男の子。本人のかき氷みたいな色味に加えて、服装も個性派の若者が好みそうなネオンカラーで全身ド派手な子という印象だ。そんな子がこちらをじっくり見て、目が綺麗とか言っている。

「えっ、どなた……?」 

「あれ、もうインストール終わったんだ」

「は? なんだよ、お前も居たの。何その服、ダサ過ぎて気絶しそうなんだけど」

 俺が喉まで出かかって言えなかった事を、そんな悪びれる様子もなくムスッとした顔で言っているのを見ると、ディンブラくんと知り合いのオートマタらしい。辛辣なコメントを受けてもディンブラくんは全く気にしていない様子だった。

「こちらはウヴァ。前に話した、分離された片割れ」

「ああ、例の……はじめまして、うばくん」

「どーも、問題児の方でーす。一年閉じ込められててようやく外に出られたんだよ。シャバの空気は美味い……なんて事もないよね。排気ガスで汚い空気吸って生きてる人間って大変そう」

 不機嫌丸出しの男の子、ウヴァくんに手を差し出すと、怪訝そうにこちらと手を見比べて、観念した様に少し握って離した。素直じゃないのか恥ずかしがりなのか、口を尖らせてモゴモゴ言っている。相変わらず、人間とほとんど見分けのつかない見た目、仕草。並んでみると二人は顔の作りが似ているせいか双子のように見える。髪の色や本人の雰囲気は全く似ていないけれど。

「ねぇ、僕とも仲良くしてよ。そいつと遊んでるなら僕もいいでしょ? 」

 手を差し出されたので何かと思えば、携帯を出せという事らしかった。

 すいすいと勝手に操作されて、ぽんと戻されたそれにウヴァくんの連絡先が表示されていた。

 おつかいの途中だったんだよね、それじゃあね、とどこかへ去っていったウヴァくんを見送って、帰りの電車でディンブラくんと並んで座って話をする。

「ウヴァは以前の個体から抽出された感情にまつわる部分でね。最近まで頭を冷やすために僕の中に居たんだよ。僕もウヴァも本来なら丸ごと削除されても仕方がなかったのだけど、主任が随分無理を言ったらしくて今回の措置になったという事みたい」

「へぇぇ……普通の子に見えましたけどね。じゃあ、ディンブラくんには何が残ったんですか」

「代わりと言って良いのかわからないけど、僕は知識を与えられた。国立図書館なんかの閲覧可能なデータにはアクセス出来るようになっているから、大抵の事は調べられる。本を読みながら活動している時もあるよ」

 活字中毒で所構わず本を読んでしまう人の話を聞いた事がある。ながら読みなんて危ないと思うけど、人間よりも優秀な頭脳を持ったディンブラくんなら器用にこなしていそうだ。

「……もしかして今もですか」

「いや、人と接する時はやらない。前に話をしたかもしれないけれど、人間に触れる機会というのが限られているから、君との時間は貴重なんだ。本はいつでも読めるしね」

 なんというか、そう言われると少し照れるけど、ディンブラくんにとって貴重なのは人間と接する時間であって、別に俺と過ごす事が大事なわけじゃない。一年がかりの課題が終われば俺は用無しで、場合によってはそれよりも早くお役御免だと言われるかもしれない。

 ディンブラくんは嫌な事を言わないし、美味しいご飯を作ってくれる。不思議な間柄のご近所さんとして、変な意味では無くかなり好意的に見ている自覚はある。そりゃ、飢えてるところに大した見返りもなく良くしてくれるなんて神様みたいだ。

 問題は、俺に良い所が無い事くらい。きっと知れば知るほど要らなくなる。その内この関係もダメになってしまうのかな。諦めが混じった溜め息が漏れる。

「どうしたの? 」

「ん? ああ、いっぱい歩いたなーって。ちょっとぼーっとしてました」

 あはは、と誤魔化すのをじっと見ている、醜いところも見通しそうな瞳が怖くて目を逸らした。

 ***


 大人に捨てられた歪な兄と妹の共同生活はなんとかなっていた。相変わらず母親は家に帰ってこなかったから俺が金を稼いで、妹が家事を頑張ってくれていた。

 大変な事も多かったし、授業参観は出られなかったけど個人懇談は都合をつけて参加した。

 俺が小学生の時に世話になった先生も、そうでない先生も、勤め先の人達も、周りの大人は血の繋がっているはずの親達よりも優しかった。嫌われなければ得がある。笑う角には何とやら。打算でへらへらしていたら少しはいい方向に転がった。今思うと、どこからどう見ても社会的弱者の不憫なきょうだいを悪く扱うと悪者になるからかもしれない。それでも助かったのだから感謝している。無理な気遣いを跳ね除けられるほどの経済力も、気力も、プライドもなかった。

 

 そんなある日、仕事に行こうと建て付けの悪いドアを開けたら、赤ん坊が二人、こちらを見て不思議そうな顔をしていた。なんでこんな事になったか、心当たりしかないのがまた最悪だった。

 そこからはてんやわんやで、泣く妹を宥めて学校に送り出して、双子らしい赤ん坊を病院に連れて行ったり、戸籍の確認だとか、まだ離乳食も食えないらしい月齢の赤ん坊の世話をして。

 これ以上あの女にめちゃくちゃにされては敵わない。なけなしの貯金で引っ越しもした。

 高学年とはいえ小学生の妹に子守りをさせるわけにはいかず、仕事は辞めざるを得なかった。

 日中が俺が世話をして、妹が学校から帰ってきたら子守りを交代して夜間のアルバイト。

 最悪だと思っていた状況より、さらに底があるとは思ってなかった。

 双子のせいではないけれど、その日暮らしの生活以上はもう望めなかった。

 一番悪いのは無責任で性にだらしない大人達だ。捨てるなら何故産んだ。喉を掻き毟って叫びそうだった。長く掛かって寝付いた双子のふかふかの頬をつつく。嫌な事なんて知らない子供。俺と似たような思いなんてしなければ良い。都合の悪い事は知らずに生きていけたら良い。

 俺も妹も少しは暖かい時間があったのに、それが無い双子が不憫で俺は嘘を吐く事にした。

 それも、もう六年も前の事だ。

 

 ***

 

 街で出会って連絡先を交換してからというもの、妙に懐かれたようでウヴァくんは結構な頻度で家に遊びに来るようになった。


「ウヴァくんは派手めな服が好きなんですね」

「好きって言うか……世の中には着たい服と着るべき服っていうのがあるじゃん。可愛い僕は可愛い服着た方が得が多いんだよ。身長とガタイがあればシュッとしたの着たいけどさ、僕が着ても格好つかないの。嫌になるよね、作り物の身体なのに何も自由にならなくてさ。人間みたいに鍛えたって僕らはなんにも変わらないんだから。皮膚の下に人間の真似っこした筋肉とか血管の紛い物を仕込んでたって、全部作り物なんだもん」

 不満たらたら、そんな様子で口を尖らせる。

「……ウヴァくんは人間になりたいと思った事ありますか? 」

「はっ、気色悪い事言わないでよ。僕はね、人間が大っ嫌いなの。ご機嫌ひとつで出したり閉じ込めたりされてさ、いつ消されるかわからないんだよ? 神様にでもなったつもり? 気に食わないんだよね。そういう人間も、それに対して何の疑問も持たないオートマタ共もさ」

 反抗期の若い子、みたいな印象だったのに、思ったよりも色々な事を考えているんだなと、ぼけっとしていたら、なにか察したのか、バツが悪そうにしている。

 これはいけないと思って慌てて話を逸らす。

 平日の昼間や夕方に来る事が多いので、不登校かと心配になりつつ、ストレートに聞くのも良くないかと思っていたことだ。

「そういえばウヴァくんは普段何してるんですか? 学校は? 」

「学校なんてオートマタには必要無いでしょ。勉強とか非効率的じゃん。インストールすれば終わるのに。あ、もしかしてお茶とか葉っぱから淹れないと気が済まないタイプ? ペットボトルがあるんだから、それで良いじゃん。そういうワビサビとか、丁寧な暮らしとか、自分でやる分にはご自由にどうぞだけど他人に求めないで欲しいよね」

 そう思わない? 矢継ぎ早に飛び出すご意見に目が丸くなる。よく口が回るものだし、言っている事は反抗期というより、リアリストのように思える。 

「学校、悪くないと思いますけどねぇ。俺は勉強てんでダメでしたけど、わりと良かったですよ。給食美味いですし」

「今どき給食がコンセプトのカフェでもバーでもあるんだからそこ行けばいいじゃん」

 現実的なご意見だ。そう言われてしまうと弱い。ただ、そういうお店にディンブラくんを連れて行ったら面白そうな気がする。

「そんなこんなで学校には行ってないけど、一応働いてるよ。少しでも外の世界に触れて社会勉強しろってさ。あっちが勝手に閉じ込めたのに、よく言うよね、本当に」

 吐き捨てるように言う。自分をそんな目に遭わせた人間を恨んでいるように見えた。

「閉じ込められてた一年間、どんなだったんですか」

「あ、聞いてくれるの? 」

 ニンマリ、不思議の国のアリスに出てくる猫みたいな笑顔を浮かべる。

「真っ白で何も無い場所に居たんだよ。窓があってね、そこから少しだけ外が見えるの。それだけ。出して、って言ったって、誰も居ないの。このまま忘れられたらこんな所にずっと居なきゃいけないのかなって思ってた。人間と違って死ねないし、狂えもしなくてさ。ホント悪趣味」

 ニコニコと話し始めてから、語気がどんどん窄まって、俯いた顔からは豊かな表情もどうなっているか見えない。いけない事を聞いてしまったと思った頃には遅かった。

「……わかる、なんて軽々しく言えないですけど、俺が昔住んでた家も、暗かったんです。誰も居ないし、腹は減るし、それでも死にそうになると周りの大人は困るから死なない程度に面倒を見られて……そういうの、知らないくせにわかった顔で同情なんてされたら腹が経ちますよね。ウヴァくんのその頃の辛さは俺はわからないけど、こうやって無神経に聞いて、ごめんなさい」

 こうして謝る事も自己満足でしかない。それでも、なぁなぁに済ます事もしたくなかった。

「なーんてね! ……別に、怒ってないけどね、僕は優しいから。でも、ユズリハが許してほしいなら許したげる。そのかわり、一個だけお願いしちゃおうかな?」

 にぃ、と意地の悪そうな笑みを浮かべたウヴァくんは腕を大きく広げて、何かを待っている。泣いているかと慌てたのに、多分そう見せられていただけだ。

「それはあの、なんでしょうか……」

「ハグ!! してくれたら許してあげる」

 あの、なんか抱き締めるみたいなアレだ。海外文化だと一般的なんだろうけど、パーソナルスペースが広めなこの国ではあまり、というかほぼ見ない。

「はやく!!」

「じゃああの、失礼して……」

 どうしたもんかとおどおどしていたら催促をされて、半ば自棄で抱き込む。

 きょうだいならわかるけれど、家の人間以外にやるのは初めてなもんだから心臓がうるさい。

 このままウヴァくんが大きい声なんて出そうものなら未成年に破廉恥な事をやろうとした変態としてしょっ引かれてしまう。なんというか、こうして触れてみて思うのは、後ろに回した手から伝わる背骨の触感だとか、細いくびれだとか、作り物とは到底思えない位リアルで困る。

 俺の肩に乗っかった頭のおかげで表情はわからないけれど、白いうなじに何かが見えて、髪をすい、と避ければロゴマークがあった。記号を組み合わせたようなお洒落な文字はほとんど読めないがオートマタ方面に疎い俺でも知っているノワル社のそれだった。

  ぎぎぎ、と出来の悪いぜんまい仕掛けの人形みたいなぎこちない動作でウヴァくんの細い肩を掴んで一度離れてもらう。急になんだという怪訝そうな顔をしていた。

「ウヴァくん、またちょっと無神経な事聞いても良いですか? 」

「内容によるけど、良いよ」

「あの、ウヴァくん、ノワル社のとこの子なんですか? あの超一流最先端企業の? 」

「あー。首のやつ見たのかぁ」

 そう言って首の後ろをさすり、こちらを見ているウヴァくんはどこか楽しそうに見える。

「あの、ディンブラくんもでしょう? えっ、お二人ともそんな良いトコの子で……?」

「バレちゃ仕方ないなぁ……僕らのボディと電脳核の値段教えてあげよっか」

 ニヤニヤと笑みを浮かべたウヴァくんがこそっと耳打ちしてくれたのは家を土地から買ったのよりも高いのではないかと思える金額だった。

 なんだかシュールな知り合いだと思っていた人達がそんな、やんごとなき身分かと思うと変な汗がだばだば出てくる。妙な事教えやがって、そんな風に殴り込みに来ても何も言い返せない。

「ねぇ、アイツの課題の手伝いしてるんでしょ? 上手く出来なかったらどうなるかわかる?」

 ウヴァくんは笑っていた。動くオモチャを見つけた猫みたいにウキウキとした様子で。

 

 バイトの時間が近付いて、ウヴァくんには帰ってもらった。

 話を聞いてから、どうにも気持ちの収まりが悪い。

 本来だったらこうして接してもらう機会なんてない、雲の上のような存在だと改めて感じる。仲良くなれたと思ったけれど、ディンブラくんは課題のために資料が欲しかっただけで、それが俺である必要は無い。ましてやこんな、生まれも育ちもクソみたいなやつ。

 居心地が悪くて、ぎりぎりと軋む太い縄が首に絡みついている感覚だった。

 そんなもん無いとわかってはいるけど、指を持っていって確かめる。

 当たり前に無い物を確認しても息苦しさは変わらなくて、喉に爪を立てる。

 オートマタにも、メーカーというものがある。

 労働力や、こう言うのも嫌だが性的に消費する目的でオートマタとしては安価な部類に入る量産系の会社で有名な所が数社。軍事関係だとか表立っていない企業もあるのだろうけど、ノワルと言えば最先端も最先端、医療方面から金持ちの道楽まで、とにかくその辺の一般人には関わりが無い大企業様なわけだ。

 そんな立派な大企業に所属している子が、こんな一般的な育ち方も出来なかった人間から得るべきものなんてあるだろうか。ノワルの名前を出せば金を払ってでも協力したがる人間が沢山いるだろう。ハイブランドの人にとって、こんな関係は何の得も無い。

 そもそも、俺たちはただ近所に住んでいただけの他人で友達でも無いのだし。

 ディンブラくんの課題が上手くいかなかったら人格を削除されるとウヴァくんは言っていた。元はと言えば僕だったんだから、アイツが消えたって問題ないんだと笑っていた。 

 毎日美味しい晩ご飯を作ってもらえて、その対価が自分に払えているか急に不安になる。価値があると思えない話しか出来ないし、ディンブラくんが求めるような一般的な、普通の人間というには烏滸がましい。それが彼の今後を左右するとあれば、なおさら。

 沈んだ気持ちでいつものバイトをこなして、いつも通り帰りの連絡をして、いつも通り温かいご飯と一緒にディンブラくんは待っていてくれた。いつもみたいにお礼を言うのに、上っ面だけ熱い、追い焚きをした風呂みたいに、もう終わりにしなくちゃ、そんな冷えた気持ちが渦巻く。

「ねぇ、ディンブラくん。そろそろこういうの、やめませんか?」

「こういうの、というと?」

 ディンブラくんが帰るところで切り出す。嫌な時間が極力少なくなるようにそうする、卑怯者。

「えぇと……こうやって、夕飯作って貰うのとか、毎晩来て貰うの、です」

 気分を害したのでは無いか。これからもっと失礼な事を言うのに尻込みをして、上手く顔が見られない。なんでこんな思いしなきゃいけないんだろう。自分で言っているのに被害者面のクズ。

「もう十分データも取れたでしょう? これ以上俺から君に出来る事も無いんです。世の中にはもっと良い資料がいっぱい居るはずなんですよ」

 つまらないやつだと思われて、御役御免だと言われるのが怖い。結局のところ、それが一番の理由だろ、頭の中で声がする。相手の事を思っているフリをして、自分のことしか考えてない。

「このままずっと接してたら変に情が湧くじゃないですか。俺、友達とか、そういう親しい人って要らないんです。何かあったらすぐに離れていくし、それなら最初から居ない方が楽だから」

 早く喋らなきゃ。何か言われる前に。

「申し訳ないんですけど、話はもう終わりです。これまで、本当にありがとうございました」

 何か言おうとしているディンブラくんを追い出す。鍵がガチャンとやけに大きな音をたてた。


「アンタさえ居なければ」

 目を覚ます。やっとの事で眠って、久しぶりに見た夢がこれか。寝汗で冷えた服が鬱陶しい。

 五歳の頃、父親が家を出て行った。正確には父親だと思っていた人だ。

 母親は不貞を隠して俺を産んで、それがバレたというだけだった。そんなわかりやすい話も小学生にもなってない子供には理解が出来ずに縋りついて、拒絶された。

 今となっては父親だと思っていた人の顔も思い出せない白状者のくせに、ゴミを見るような目と、振り払われて床に転がった時のいろんな所の痛みは一生忘れられそうになかった。

 向けられた好意が無くなった事に気付くのが嫌だった。暖かかった眼差しが冷たいものに変わる事が怖かった。こんな思いをするくらいなら一般的な幸せなんて知らなければ良かったのに。

 一生暖かい関係で居られるのなら良いけれど、近付けば近付くほど粗が出る自覚もある。

 深く関わらなければ傷付く事もない。心臓の柔らかい所の近くに置かなければ抉られる事もない。生きる事に精一杯の俺はもう、そういうのに耐えられる気力も無いから出来るだけ遠ざける。

 それで他人を傷付けても良いのか。頭の中で声がする。誤魔化すようにデカい溜め息を吐く。これでどこかに消えてくれればいいのに、いつもそういかない。

 母親も、父親だと思っていた人も、大事だと言って抱きしめてくれた。何度か現実逃避のように縋ろうとしたその言葉が、今は何処にも無いというだけ。

 俺は何も持ってない。学歴も金も、大事に思ってくれる人も。あったのはきょうだいを食わせていく責任くらい。きょうだい達だって、もっとちゃんとした親が居たら俺なんて必要としない。

 そんな底無しのドブ川で半分溺れながら泥水を啜っているような人間が、富裕層御用達のエリート企業の人に何を提供出来るというのだろう。

 これで良かったんだ、ディンブラくんの時間だって無駄にせずに済む。そうやって正当化する。自分が傷つきたくないだけなのに、責任を他になすりつける。

 だって、そうでもしないと生きづらくて仕方がないから。

 

 案の定、次の日のバイトもボロボロだった。普段やらないミスをやって、注意されるよりも心配をされた。怒られた方がマシだった。何をやっているのか、惨めで情けなくて嫌になる。

 死んでしまえば良いのに、そんな事を思って煙草とライターを買った。

 夜の公園のベンチで煙を吹かして、咳き込んだ。一緒に買った酒だって、これだったら水を飲んでた方が良いくらい、何も楽しくない。こんなのに高い金を掛ける気がしれない。

 握ったままのレシートをかさりと開けば、三食は食べられそうな金額。

 そんなすぐに死ねるような物がその辺に売っているはず無いのに、馬鹿はどうしようもない。

「高ぇなぁ……」

 こんな小さな額、普通の人はなんともないだろう。身体をやって死ぬのにも金が掛かる。

 こんな人間と関わらない方がいい。そうやってまた正当化しようとする自分に吐き気がする。自分でやっておいて、真っ暗な部屋に帰るのが嫌でしばらく公園に居た。子供の頃にもこんな事があったっけな。昔は当たり前だった事が、暖かい事に触れた後は寒さが堪える。

 一口でもう飲みたくないなと思ってしまったカップ酒をちびちびと舐めていたのを、結局飲みきれなくて、一本だけ吸った煙草の箱と一緒に持ち帰った。

 とぼとぼと辿り着いた玄関の前で鍵を探る。そういえば、鍵返してもらわなきゃ。あんなに失礼な事言ったのにまた顔を合わせなきゃならないかと思うと沈んだ気分の底みたいだった。

 

「……なんで、居るんですか」

 一昨日までの変わりない、明るい部屋、暖かい空気、美味しそうな匂い。

「何故、って。晩ご飯要らないんだった? 遅かったもんね」

「いや、そうじゃなくて、あの、俺、昨日酷い事言ったじゃないですか」

 普通、あんな事を言われたら嫌な気にもなるだろう。無理をする必要なんてないし、責めてもらった方が気が楽で。ああ、また自分の事ばかり。

「君は友人は要らないと言った。僕は機械だからその対象では無いんだ。友人というのは人と人の間で成立する関係だ。だから僕は友人というのには成り得ない。道具を友人とは呼ばない」

 言葉に、頭を殴られたような気がした。俺の身勝手な言い分よりも、もっと酷いように受け取ったのに、それでもこうして世話をしてくれようとしている。

 さっき飲んだ慣れない酒だけではない、悪い物がぐるぐると煮詰まっているような腹の具合に反して、ディンブラくんはいつも通りの無表情で淡々と答える。

「違うんです。あのね、俺はディンブラくんのこと、道具なんて思ってないんです。それだけはわかっててほしい、です」

 情けない弁解にも赤橙色は風の無い日の海みたいに静かだった。

「それを君が望むのなら」

 まただ。線を引かれているようで、勝手に辛くなる。

「なんて言ったら良いのかな……俺がちゃんとしてたら、友達になって欲しかったんです。俺が立派じゃないから、ディンブラくんに迷惑を掛けたり、愛想尽かされたりするのが怖いから酷い事言って遠ざけようとしたんです」

 身勝手さに引かれるのでは無いか、こうやって話す事も怖い。人が離れていくのが怖い。

「……それなら、僕は君の友人という物になれるのかな。ユズリハがちゃんとしていなくとも支障は無いし、何かあっても離れていかない。道具は裏切らないから、そういう約束は出来るよ。友人というのは僕にとって未知だから興味深い。お互いにとってメリットがある」

 まだ少し引っ掛かるところはあるけれど、こんなクズでも構わないと言われると心が揺らぐ。

「……じゃあ、ディンブラくんの課題が終わるまで」

 指切り、と差し出された小指にこちらも絡める。こういう事は知っているんだとぼんやり思った。期間が決まっているなら少し安心。ずっと仲良くして貰えるほどの自信が自分に無いから。

「ところで友人というのは何をするものなの」

「えぇ……なんだろ、ご飯食べたり話したり、どこか遊びに行くとか……」

「もうやってる事だね」

「ホントだ……そういえば俺、ディンブラくんの事よく知らないんですよ。ウヴァくんに聞いたんですけど、ノワル社の子だったんですか」

「あれ、言ってなかった? 僕もユズリハがお酒と煙草を嗜むのは知らなかった」

「あー……これには少し事情がありまして……」

 そんな話をしながら、作ってもらった夕食を食べる。歪なご近所さんは歪なお友達になった。

 俺が参考にならないなら、参考になるように見せれば良い。一般的というのを調べてその通りに演じれば役に立てるかもしれない。

 良い友達に近付けたら良いのに、そう思う。

 

 ◇◇◇


 朝、ふと目に止まった道端で咲いていた赤橙の花。ディンブラくんの瞳の色に似ているそれ。世の中便利なもので、携帯で写真を撮るだけで花の名前を教えてくれる。

「ナガミヒナゲシっていうのか」

 透ける花びらは繊細に見えて、その辺りも似ている気がする。茎の緑と赤橙の花びらがいい配色だなぁなんて思いながら移動中の手持ち無沙汰を埋めるためにその花について調べていた。

 なんでも、アレロパシーとかいうので周りの植物の成長を阻害するから、あんなに綺麗なのに害のある外来種として駆除の対象になっているらしい。

 それでも春になるとそこら中で見かけるから、随分生命力が高いようだ。個人で育てる分には問題ないと見かけて、帰り道に花が散った真ん中の部分をビニール袋にいくつか放り込む。

 理由は、なんとなく。

 

 この間、無駄に飲んだカップ酒の残りは次の日ディンブラくんがアサリの酒蒸しにしてくれた。その空き瓶に土を掬ってきて、まだ緑色のそれを埋めておく。植物なんて育てた事がないから合っているかわからないけど、生命力が強いならなんとかなるだろう。

 上手くいかなくても駆除しなければいけない植物なんだから、罪悪感が多少薄い代わりに人間性の汚さを自覚する。俺も似たようなもんなのに。コンクリートの隙間から力強く根を張って生きている花の方がよっぽど根性があって良いなと思った。

 適当に水をやって、ベランダの隅っこに置いておく。

 自分がいなければそこに存在しなかったものがあるのはなんとなく、良い気がした。

 来年の春、俺はあの綺麗なナガミヒナゲシが咲くのを見られないんだろうけど。

 

 双子のおチビが小学生に上がるのを待って、離れた土地の求人を見ていて今のバイトにありついた。このチャンスを逃したらこのままここで一生を終えるかと思うと、嫌だった。

 顔見知りばかりの田舎から出て、誰からも知られていない人間になってみたかった。

 家を出るのが働き始めた頃の夢だったけれど、こんな形になるとは思わなかった。

 妹も高校生だし、なんとかなるだろう。わざわざ家を出たからにはこれまで以上に働くから許して欲しい。実際、時給は安いし仕事は無い地元だから、学費も厳しかったのを言い訳に。

 大した荷物なんて無くて、幼稚園の卒園の時に貰ったお道具箱にしまった大事な物と、リサイクルショップで揃えた最低限の家電。これが終の住処ってやつになるのかなぁ、なんて。引っ越しを終えて傾いた陽射しが差し込む部屋で一人ぼんやり夕暮れを窓から眺めたのを覚えている。


 妹だけなら何とかなったかもしれないけれど、三倍というのは流石に、どうもならない。

 嫌な方法に行き着いた俺は保険に入った。収入の割に保険料の多いそれ。保険員さんから怪しまれるたび、もしもの時に下のチビたちを残していく事を思ったら死んでも死にきれない、なんてしんみり呟けば、大体契約させてもらえた。無駄にならない金額を計算して、うまいこと。月々の支払いは高いけれど、終わった後に子供達に遺される金額からしたら微々たるモンだった。

 小学校の頃、いつも腹を空かせて周りの子に比べたらガリガリだった俺は保健室の先生に気に掛けてもらってた。たまに給食の残りを分けてくれた先生が、死んでしまったら全部終わりだと教えてくれたのが子供にとって救いになった。

 どれだけ辛くても、死ねば終われるんだ。

 どこにも行けないと思っていたのに逃げ道があった事は随分支えになったのだけど、守らなきゃいけないものを抱えてそれも叶わなくなって、結局生きてもいられないんだから乾いた笑いも出る。何処まで行っても上手くいかない。前世で何か悪い事でもしたのだろうか。

 すぐに自分でない所に問題を押し付けて、いけない。


 寝付けないのは今に始まった事じゃなかった。不安な事があると眠れなくなるなんて言うけど俺が不安なく布団に入れた事なんて、人生においてそう無いからだ。

 元々夢はあまり見ないけど、この前久しぶりに見たのは歯がごっそり抜けるやつで、起きてドッと疲れた。世の中には夢占いなんてのがあるらしい。、自分の脳みそから作られたものを見せられて、忘れてた事を思い出すだけなんじゃないのか。詳しくないから知りはしないが。

 会話の種半分、お悩み相談半分、ディンブラくんとの晩御飯の時に話してみた。

「ヒーリングミュージックでもかけようか」

「そんなこと出来るんですか」

「スピーカーの関係で口から出るけど、よければ」

 気持ちだけいただいておきます、そう言って丁重に断ってしまった。

 シュールで眠るどころではなくなりそうだし、枕元に人が居るというのは多分、落ち着かない。

 妹や双子と生活していた時はここまで悩んでいなかったけど、その理由にも心当たりがある。幼い子供だけ地元に残している事への罪悪感だろう。

 頭の中で声がする。良いんだよ、俺がそばに居るよりもメリットの大きい事をしてやれるんだから。自分を正当化する汚さ。自分の身が大事ですぐに責任転嫁する。お前はそういう汚いやつなんだから、家族にとっても居ない方が良い。ぐうの音も出ない俺は黙っている。寝る前にもそういうのが聞こえる気がして自分を責める声が何処かへ行くのを待っている内に朝が来る。


 キッチンに置いてある湿気たコーヒーを見たディンブラくんが眠る前はやめた方が良いと言ってから、食後にいつもお茶を淹れてくれる。自分だけだとコーヒー以外は麦茶位しか飲まないから、どれも新鮮だった。紅茶、ほうじ茶、玄米茶、たまにハーブティー。ホーローのちっこいヤカンみたいなので、二人で飲みきれるくらいの量。

 準備してくれている背中に揺れるおさげを眺めながら、笛付きのケトルがざわざわ言ってるのを聞くのが好きだった。一日が終わったなという気持ちになるから。

 昔、母親と住んでいたアパートのキッチンは何も無かった。水道の音、話し声、母親も。

 腹を空かせて横になって、誰もいない暗い部屋を眺めていた。

 今は違うんだから。食器カゴからコップを二つ出す。

 何本か飲み物をまとめて買うと貰えるノベルティが余ったというバイト先で貰ったステンレスマグと、ディンブラくんが持ち込んだ綺麗な青緑色のマグカップ。

 並べて置いたらお礼を言われて、こちらこそと返しながら、単純な俺は少し嬉しかった。

「ゆっくり眠れるようになるといいね」

 話している最中なのに意識が他所へ行っていた事に気付く。慌てて小さくお礼を言った。

「メトロノームの音が良いらしいよ」

「あの音楽で使うやつが……」


 そう聞いて、早速携帯用のアプリでそれらしいのをダウンロードしてみた。

 小さな画面の中では重りを括り付けられた細い棒が左右に一定間隔で揺れて、時計の振り子みたいにコチコチと音を立てていた。

 どっちにも居付けずに動き続けざるを得ない針にもしも意思があったなら、繰り返すだけのその仕事に嫌気が差したりするのだろうか。

 コチ、コチ、コチ。画面を消しても、重りを左右に運ぶ針の姿が瞼に焼き付いて離れなかった。

 考え事が上手いこと散らされて、結果としては悪くないかもしれない。

 鼓動の音よりもゆっくりに設定したそれは、そろそろ鳴るか、待ち構えている内に意識がとろとろと沈んで、いつもよりは多少早めに眠りについた。

 後日、さらに色々調べてきてくれたディンブラくんからえらい申し出があったのだが、その内容があんまりにもあんまりだったその話はまたの機会にでも。

 

 ***


 とりあえず友達付き合いらしい事をするかという話になった。それで、俺のバイトの関係で早くからやっている喫茶店にまだ薄暗い時間帯に来たというわけである。

 前に一緒に古着屋に行った時のすごい格好を思うとTシャツにデニムという随分軽装だけどパッチ付きのジーンズは多分、ダメージ加工されていたものをこの子が繕ったのではないか。

 住んでいるマンションから十分そこらの駅までの道。途中を一つ曲がった所にある懐かしい雰囲気のその店をディンブラくんはよく利用しているらしく、席に着くやマジックテープ式の財布をベリベリ言わせてコーヒーチケットを二枚出している。

「朝十時まではパンが付くんだよ」

「あー、なんかありますね、モーニングでしたっけ、サービスしてくれるっていう、あの」

 メニューを渡してくれるのにお礼を言ってコーヒーのページを見る。コンビニコーヒーですら贅沢に思える俺からすると結構な値段をしているけれど、パン付きなら得かなという気はする。

 俺は一番安いホットのブレンドコーヒー、ディンブラくんはカフェラテを頼んでいた。

 待っている間に世間話。ご飯の時に話しているけど、俺たちはお互いの事をあまり知らない。

「朝って忙しかったりしないんです? 良かったんですか?」

「普段は寝起きの悪い小学生を起こしたり、少し大変かも。でも僕が来る前はきちんと出来ていたんだから一日くらい空けても平気だと思う。いつもは見送ってから来るけどね」

 たしかに、離れて暮らすきょうだいの、下の方の妹の寝起きが悪いので幼稚園時代は苦労した覚えがある。そういうのも妹に任せきりで胸は痛む。

 こんな、朝から優雅にコーヒーなんて飲んでいて良いのか、罪悪感はある。気分が沈みかけた所に頼んでいた物を運んでもらった。湯気の立つ良い匂いのコーヒーと、分厚いトーストを半分に切ったやつ。茹で卵。腹がきゅる、と音を立てる。まぁ、働くためにも食わなきゃいけない。

「わー、トーストとか家でやらないんで嬉しいなぁ。ディンブラくんはパン好きなんですか? 」

 勢いよく言ったものの、実際に焼いてざくざくになった香ばしいパンにじゅわじゅわと染み込んだバターが美味い。溶け残ったそれが狐色の表面を滑るのも堪らない。これだけ付いてこの値段なら安いんだろう。頻繁に来ているという事はそんなに好きなんだろうか。

 長い睫毛を伏せてカップを傾ける姿はどこかアンニュイで、窓から差し込む朝日も相まってこのまま写真を撮るだけでも雑誌なんかに使えそうだ。

「……好きかどうかはわからないけど、原価率が大丈夫なのか気になって食べに来てる」

「こ、コーヒー飲みながら原価率気にしてたんですか? 」

 それで、答えは出たのか聞けば、目を閉じて静かに首を横に振られた。わからないらしい。

 大人しくしていればこうも絵になるのに、蓋を開けたらそうはならないでしょうよ、というような事が多々ある。聞き役になりがちなディンブラくんもだいぶ面白い。

「ディンブラくんには夢ってあるんですか? こうなりたい、とか、やりたい事とか」

 これだけ発想が自由形だと掘り下げていったら楽しそうだ。

「オートマタの希望なんて通る事はないけど、枝豆剥きの係をやってみたいかな。ずんだ餅の」

「ずんだ餅の枝豆剥き」

 思わずオウム返ししてしまった。

「単純作業を効率化するの、多分嫌いじゃないと思う」

 真面目な顔で自信満々で言うのが面白くて噴き出してしまう。

「ほんと変わってますよね、ディンブラくん……」

「そう? ありがとう」

 貶しているわけではもちろん無いけど、褒めているか怪しいコメントもそのまま受け取られると少し心配になるものの、純粋なままのディンブラくんで居てほしい。

 

「それじゃ、俺はこのままバイトに行くので」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 レジでチケットを出したディンブラくんに自分の飲んだ分のお金を渡す渡さないで押し問答をしたけれど、友達っていうのは対等だから貸し借り無しなんですよというと素直に受け取ってくれた。世の中の友達というのがどうしているのかわからないけれど、大きく間違ってはいないと思う。手を振って、マンションの方に戻っていく背中に揺れるおさげをぼんやりと眺めていた。

 

 ***

 

「それじゃこのおにーさんに教えてもらって」

「よろしくお願いします……!!︎ 」

「弦巻です。よろしくお願いします」

 バイト先に新しく入ってきたのは田舎から出てきた様子の大学生の男の子だった。

 悪い子ではなさそうだけど、ガチガチに緊張しているところを見ると多分目の前の学生さんよりも妹の方がしっかりしているだろう。

 恵まれていない妹が歳不相応にきちんとし過ぎているのか、目の前の学生さんがふわふわなのかはわからないけれど、バイトデビューなんていう子が来ると少し、疲れる。

 俺がこのくらいの歳の頃はどうだったか考えかけて、歳は取りたくないもんだとやめた。

 健全な家庭。優しい両親。自分が働かなくても食うのに困らない裕福さ。勝手に想像するのも申し訳ないが、恵まれているであろう人間を見るとそこそこに思うところはある。

 学校に行かせてもらって、仕送りなんかもされているんだろうか。生きるために働くのですらしんどいと思う時があるのに、自由に出来る金のために働く感覚が俺にはわからない。

 意識の高いバイトなんて寒気がするから、責任だとか義務だとか言うつもりも無いけれど、上手い感じになると良いですね、なんて店長と話していた。

 

 家に帰って、いつも通りの世間話。こんなので役に立つのかわからないけど、ディンブラくんは興味深そうにしているから良しとしよう。

「今日はバイト先に新人さんが来たんですよ。あ、この蓮根のやつ美味いですね……」

 なんて名前かわからないけど、ひき肉を挟んで焼いてあるやつが美味い。

 楽しくもない愚痴なんて話さないけど、会話の種として一日にあった事を話す。あとは作ってもらった食事が美味しいとか。きょうだいの話だとか、そんなの。

 何か考え込むような仕草をしているディンブラくんを覗き込む。

「僕も働けるのかな」

「どうでしょう……世の中のオートマタの店員さんって、企業に雇われてる形が多い気がするというか、ディンブラくんみたいに家庭に所属してる人ってそう居ないと思うんですよ」 

 ノワル社の子なんて特に、居るとすれば企業の偉い人の秘書とかそんなのじゃないだろうか。そこから縁遠いコンビニで働くとして、ディンブラくんはどうなんだろう。バリバリこなすかシュールな事になってるか、どちらかのような気がする。どんな様子でも楽しそうだけど気の良い客ばかりでも無いから、必要がなければ、そういう荒んだ環境に身を置かないでほしい。

「働くのって、どう? 」

 やりがいとか、そんな綺麗な事が言える余裕がないから、金が貰えればなんでも。とはいえディンブラくんがそんな荒んだ事を覚えてしまうのは良くないように思う。

「どう……でしょうねぇ。まぁ、居ないより居た方が良いって思ってもらえるなら良いかなぁ」

 嘘は言ってないけど、本当の事も言っていない。現実的で少し不誠実な大人になったもんだなと息を吐く。それに気付いてか気付かずか、ディンブラくんはふぅん、と漏らしていた。 

 ***

 

 その日は予定も無い休みで、夢は見なかったけれど久しぶりに随分眠った。

「ん……」

 目が覚める頃には陽が傾いていて、眩しい西日に頭がズキリと痛む。

「おはよう。よく眠れたようでよかった」

「うお……どうしたんですか……」

 おはようございます、遅い挨拶をした。枕元でディンブラくんが覗き込んでいたから。

 他の人だったら不審者だなんだと大騒ぎしているところなのだけど、慣れというのは怖い。 今日は休みだと伝えてあって、特に約束もしていなかったと思うのだけど。

「夕飯を早く作ったから持ってきたんだけど、眠っていたから」

「起こしてくれても良かったのに」

「普段起きている君しか知らないから興味深くて」

 しれっとこういう事を言う。女の子が聞いたらコロッといってしまいそうだ。

「いびきとか酷くなかったですか? 」

「それは無かったけど、歯軋りはしてたかな。あとは眉間の皺がすごかったのと、手が」

 意識がない間の事を聞くのは恥ずかしい。指さされて自分の手を見る。掌に弓型の跡が四つ。

「握り込んだ手の爪が食い込んでいたみたい。良ければ切ろうか」

 言われてみれば少し伸びていた。それくらい自分でやるから良いと言いかける頃には爪切り片手に手を差し出されていたものだから、流れに逆らえなかった。

 切り傷やタコででこぼこした俺の手に添えられたシミひとつない綺麗な白い手が、ぱちんぱちんと爪を切っていく。夕日に当たると伏せた長い睫毛がキラキラしていて綺麗だ。初めの数本は深爪になったらどうしようかびくびくしていたのだけどディンブラくんはここでも優秀だった。

 外気よりも少しひやりとする手。こんな風に他人に触れられた事は無いし、爪を切ってもらった覚えもない。子供の頃は伸びて鬱陶しい爪をがりがり噛んで、当たり前にギザギザになった指先が色々なものを引っ掛けて嫌だったのを思い出す。

「出来たよ」

 少し意識が過去に行っていた。指先を見れば、爪が指からはみ出さないように丸く整えられている。心なしか、自分で切るよりも綺麗だった。

「わぁ、綺麗に切ってもらえて嬉しいです」

 ディンブラくんの指先もお手本みたいな爪の長さだったけど、これは多分伸びないのだろう。

 手入れの必要のない、生まれた時から完璧な存在。

 俺がそばにいるには綺麗過ぎて、何でこうも寄ってきて貰えるのかわからない。きっと、もっと面白い人間が居たら俺なんて要らなくなるだろうに。

 すぐにネガティブな思考に持って行かれてよくない。ありがとうもまともに言えない人間には流石になりたくなくて、お礼を伝えるのを赤橙色がじっとこちらを見つめていた。


 ***

 

 栄養を考えて作ってもらっている美味しい晩御飯のおかげであちこち骨張った身体に肉が付いてきた気がするし、最初に言われた肌のカサカサやパサついた髪もマシになったと思う。

 自分だけ美味いものを食べるのも悪い気がして、きょうだいに送る仕送りを増やした。堅実な妹の事だからきっと気前良く使いはしないだろうけど、金の余裕は心の余裕だ。

「そうだ、ゴールデンウィークに地元に帰ろうと思うんですよ」

「地元」

「前に話しましたっけ? 地元にきょうだいを残して出て来ているので。様子見に行こうかと」

 作ってもらった豚汁をふぅふぅ冷まして啜りながらそんな話をする。

 味の染みた大根、甘味のある人参、土の香りが落ち着く牛蒡。

 食に対する余裕が無かったから好き嫌いなんてそう無いと思っていたのだけど、根菜はかなり好きかもしれない。表面でキラキラしている脂も、追加で掛けてもらった七味も、気に掛けて作ってもらったんだろうと思えてありがたかった。

「電車で三時間くらいの田舎ですけどね。急行も停まらないようなとこが最寄りなんです」

 そんな話をしたのが一週間前。ディンブラくんは気を付けていってらっしゃいと言っていた。

 良い思い出もあるけど、苦い思い出がたくさんある。あと何度帰ってくるか、わからない故郷。金券ショップで買った安いチケットで在来線を乗り継いで、尻と肩が痛くなってくる頃、駅に辿り着くと小さな女の子と男の子が駆けてくる。

「おとーさん!! おかえりなさい!!」

 末っ子双子の、おてんばで明るくて、家族の中でも一番賑やかな妹。大人しくて真面目で、子供なのに気にしいで空気を読もうとする弟。抱っこをせがまれてまとめて抱き上げる。少し細い気はするけど、ガリガリに骨が浮いているわけでも無い。妹が食わせてやってくれているおかげで食には困っていなさそうでひとまず安心した。

「ただいま。背が伸びたか? ねーちゃんの事困らせてないか? 」

 ちゃんと言う事聞いてる、と元気に答える後ろから、高校生の妹がおずおずと現れた。

「おかえりなさい、お兄ちゃん」

「……ただいま。ごめんな、苦労かけてばっかで」

 妹はいつも申し訳なさそうに眉を下げていた。大人たちがまだ家にいた頃は辛い事に我慢が出来なくなったらすぐ死んでしまおうと思っていたけど、妹が泣きそうだからやめておいた。

 親が出ていった時、俺が出稼ぎに行くと言った時も妹は泣いてた。双子が捨てられていた時も。

 俺はといえば、感情の九割五分は怒りと戸惑い。残りは、最低だけどほんの少しの安心。こんな小さな、誰が見ても悪くない子供ですら捨てられるんだから、俺が悪いわけじゃなかったんだと言う安堵。醜い同調。

 自覚した時にまた声がする。お前みたいな兄貴居ない方がいい。そんな事はわかってる。だからちゃんと考えてるだろ。それも恩を着せたいだけじゃ無いのか。ああ、うるさい。

 幼い双子に父親を騙っている。俺が人生で吐いた一番でかい嘘はこれだった。

 母親が蒸発して、父親がわからないなんて俺や妹よりも状況が悪い双子が不憫で、俺が父親という事にした。二十の時の子なんて現実味がないし、戸籍トウホンなんてのを貰えばすぐに分かる嘘だけど双子がそれを受け止められる歳になってから知って欲しかった。

 その頃には、きっと俺はいないだろうけど。他人事みたいに、そんな事を思う。

 せっかくだから生まれた意味が欲しかった。散々辛い思いをしてやっとの事で生きてきたんだから、それくらい望んだって罰は当たらないだろうと思って。

 下のきょうだい達にちゃんと学校に行ってほしいというのは、そういう理由もある。底辺で泥水啜って生きてるような俺達きょうだいが、俺が居た事で一般的なラインまで上がれるなら、少しはマシに暮らせるなら、きっと俺が生きた意味もあるだろうから。

 ああ、どこまでも打算的で嫌になる。

 

 ちっこい頃に引っ越して以来、住み着いていた狭い部屋から逃げるように引っ越しをした。

 引っ越しは新生活への不安、期待とか、そういうのだと思うのに。俺はいつでも逃げている。

 双子の世話をするためにそれまで勤めていた会社をやめてから、子守の合間に夜間の仕事とか、アルバイトとか、そんなのばかりだったけど、それでも自分で稼いで自分で食えるのは子供の頃よりマシだった。払える対価も無いのに口を開けて餌を待つ事しか出来ないのとは違う。

 無償の善意なんて無い。親にすら要らないと言われた人間が他人に何を期待するのか。

 対価を払う。貸しを作らない。弱味は誰にも見せない方がいい。

 踏んだり蹴ったりの人生で行き着いた処世術はそれだった。

 

 金さえあれば何とでもなるだろうから、俺が死んだら保険金がたんまり出るようにしてある。

 妹が大学に進学するなら、この一年くらいが最後になりそうだった。

 命の価値。誰も望まなかったそれが、一番得に消費出来るなら、それが一番良い。

 五年後、四年後、三年後、近づいてくる命の期限。季節が回る内、桜も、紅葉も、たまに降る雪も、見るのもあと数回かと数えるたびに、意外にも気は重くなっていた。

 別に死ぬのは怖くない。元から、辛い事ばかりのこの世から早く逃げたかったし。

 妹や弟の事はもちろん心配だけど、そうは言っても俺が生きてちゃ、こいつらが生きられない。

 俺と違って愛嬌があるきょうだいなら上手い事生きていけると信じるしかない。

 一度くらい、そんなのは贅沢だとわかっている。叶わない夢を見たって良い事なんて何もない。それでも、心のどこかで憧れる。

 俺で良いんじゃなくて、俺が良いなんて、嘘でも言って貰えたらいいのに。

 

「なんか、欲しいものあるか? なんでもいいから」

 四人が住むには狭すぎるオンボロアパートに帰ってきて、小さなコタツ机を囲む。

 その内会えなくなる。物で解決しようとしているようで嫌だけど、子供の頃、同級生が持っている物が少し羨ましかった。辛い時、気に掛けてくれた人がいた証拠が欲しかった。

 本でも、おもちゃでも、父親が居た頃に貰った俺のは全部取り上げられたけど、ここならそんな事にもならないはずだから。

「なんでもいいの? 」

「あんま高いと困っちまうけどね」

 じゃあ、と言いづらそうにちろりと上目遣いで見る歳の離れたきょうだい。

「おとうさんといっしょがいい」

 思わず目を丸くしてしまった。そう、来るのか。

「……そっか、そうだなぁ……。でも働かないといけないからなぁ……」

 なんでもって言ったのに、やっぱり駄目かな、そんな目。

「じゃあ、遊園地でも行こう」

 言った途端、二人の表情が明るくなる。ぽろっと出たにしては良い案に思えた。写真をいっぱい撮って、アルバムにしてさ、浮かれて土産なんかも買おう。動物園でもいい。レジャーなんて贅沢だけど、下のきょうだいが生きていくのに大事な思い出になるなら安いもんだ。

 

 バイト先のこぢんまりしたレジャー施設と比べたら随分大きな遊園地。わかってはいたけど四人分の入園料だけでも結構な金額で、少しだけ頬が引き攣る。妹も顔色が悪かった。まぁ大丈夫だから心配するなと、頭をぽんぽんと撫でる。こういう時のために多少の蓄えはある。

 子供向けの乗り物にいくつか乗って、昼は妹と一緒に作った弁当を芝生の広場で食べた。

 双子が寝ている間に早起きして、前に居酒屋でバイトした時に教えてもらったのを作ったら妹が喜んで依頼、たまに作っていた焼きおにぎりを俺がこさえて、おかず担当は妹だ。

 きんぴら、卵焼き、プチトマト、飾り切りのウインナー。いかにも弁当らしい仕上がりのそれが出来上がって、二人で顔を見合わせて笑った。

 

 乗り物毎に値段が違って、一番高いのは俺の夜中の時給と同じくらい。

 チビたちは身長が足りなくて乗れないそれを、遠くから眺める。

 両手を上げて楽しそうに悲鳴をあげている若者。きっと日常に何も無くて、退屈を埋めるために長い時間待って、一瞬のスリルに金を払う。足りない物が無い生活。自分も同じ状況に置かれたらあんなふうに喜んで乗るのだろうか。

 今の俺が思うのは、あのコースターで事故でも起きて死んだら生命保険以外にも金が入るのかなとか、そんなの。周りの煌びやかさとかそんなのと程遠い頭の中。場違いな自覚はある。

 メリーゴーランドではしゃいでる下の妹に手を振る。弟も恥ずかしそうに手を振っていた。

「行っといで」

 せっかくだから、そう言って妹を送り出す。

 乗りたくないかもしれないけど、こういうのは思い出が大事なんだろうから。

 両親に手を繋いでもらって楽しそうにしている他所の子。母親と、祖父母らしい人と一緒にお弁当を食べる子。そんな子達と並んでも違和感が無いくらいうちの双子もいい顔をしていたけど妹は浮かない顔をしている。駄目な兄貴で悪いなって、心の中で謝った。

 

「おとーさんものろ!!」

 双子の妹の方がぐいぐいと手を引く。

「父さんは乗り物怖いから良いんだよ」

「じゃあ、あたしがて、にぎっててあげる!! 」

 反対側は弟が控えめに袖を掴んでいて思わず苦笑いをする。こんなに良い子の双子を捨てるなんてどうかしている。ぶんぶんと双子と一緒に腕を振って歩けば楽しそうに笑ってた。


「たかーい!! 」

 夕暮れの中、ゆっくりと身体を上空へ運ぶゴンドラ。一日かけて散々歩き回ってきた園内も街も全部オレンジ色に染まって綺麗だった。

 妹はその景色に見惚れている様子で、下の二人はゴンドラの窓に張り付いて周りを見ていた。その瞼が重たそうなのは、あれだけはしゃいで電池切れが近いからだろう。

 きょうだいの事は好きだし、別に四人で生きていくだけでも良いんだけど。でも、このままじゃ学がないまま皆俺みたいになるし、そうもいかない。ぼんやりと観覧車から見える街を見下ろす。死んだらこういう高いところから見渡せるのかな。それはそれで寂しそうかもしれない。

「ね、おとーさん、またつれてきてくれる? 」

「んー……お財布事情があるから……動物園なら良いよ」

「どーぶつえん!!」

 なんの動物が好きか聞いている内にゴンドラが十二時を回って、下がり始めたの感じた。

 もうすぐ観覧車も終わり。もうすぐ閉園時間。どんな事にも終わりはある。

 

「さぁて、帰ろっか」

 遊び疲れて俺の背中で寝息を立てている下の妹が背負っている、中身が大して入らない小さいリュックからはテーマパークのマスコットのぬいぐるみが顔を出していた。

 弟の方は自分で歩けるから平気だと言うから、妹と一緒に手を繋いだ。

「……あの、お兄ちゃん、本当に良かったの? 高かったでしょう……? 」

 こそり、と妹が耳打ちする。やはり一日中、気にしていたらしい。

「んー……気、遣わせてごめんな。弁当まで作って貰ったし。結局負担掛けちまった」

 横目でちろりと伺う。テーマパーク帰りとは思えない、浮かない顔。

「はは、ちょっと予算オーバーだったけど何とでも……。俺たち、こういうとこ連れてきてもらった事なかっただろ? どんなもんかなー、って。なんかあった時にさ、遊園地連れてきて貰えるくらい大事にされてたんだなって思えるなら、べらぼうに高いわけじゃ無いって」

 妹の表情は晴れない。俺も上手く笑えているかわからない。

「私ね、お兄ちゃんが居てくれればそれで良いんだよ。私もアルバイト出来るし……」

 妹は俺と血が繋がっていると思えないくらい賢くて優しいから何か勘付いてるかもしれない。

「いいんだよ。子供は大人に甘えときなって。お前が良い学校行って良い仕事に就いたら楽させてくれよ。……なんて、俺はお前がお前の好きな道を選んでくれるのが一番嬉しいんだから」

 妹が俺と一緒にいると辛そうな顔をするようになったのはいつからだろう。妹は優し過ぎるから見ているこっちも辛くなる。稼ぎの少ない使えない兄貴だと言われた方がいくらか気が楽だ。

 妹が色々な事を気にせず笑えますように。隣にいるのが俺である必要はないから。

 無責任な兄貴の、優しい共犯者への小さな祈りだった。

 



 ***

 

「この辺り、夏祭りがすごいんですって」

 お客のいないバイト中、そんな話をしてくれたのは春に入ってきた大学生くんだった。最初はあんなに頼りなさそうに見えたのに、真面目だし覚えも良くて、今となっては立派な戦力である。

「すごいって言うと……花火とか? 」

「そうです!! 町内会の人がチラシ置いていってくれたんですよ」

「へー」

 自分自身は花火にあまり興味は無いのだけど、ディンブラくんと一緒に行ったら面白いかなとは思う。あの子の外出の許可が出そうだったら誘うのも良いかな、なんて考えて、チラシを一枚貰って帰ってきたのが数日前のこと。

「あー!! 夏祭りなんてあるんだ!! 行きたい!!」

 それを、相変わらず部屋に入り浸っているウヴァくんに見つかったのだった。


「なんだよ、お前は来なくても良いのに」

「僕も夏祭りには興味があるから」

「頼むから喧嘩しないでね……」

 まだ明るい夕暮れ時に俺は、早く早くとシャツの袖を引っ張るウヴァくんと、マイペースに着いてくるディンブラくんに挟まれていた。

 神社と隣接の公園が会場になっているらしく、こぢんまりしつつも、そこそこの量の屋台が出ていて結構な人で賑わっている。浴衣の子もいるし、グラウンドのスピーカーからはヒョロヒョロいう笛と太鼓の音が流れていて、わりとしっかり夏祭りしていた。

 花火大会なんて河川敷でドンドコ打ち上げるモンだと思っていたのに、周りに住宅があるような立地の、こんなコンパクトな場所でも開催できるものらしい。

 テレビで見るような人混みのすごいやつみたいな、ああいうのに汗だくになりながら行く元気は流石に無いけど、これくらいだったら悪くない気もする。

「生で屋台見るの初めて!! やっぱりわたあめは買わなきゃね!! 」

「待っ、はぐれたら大変だから集合場所決め、あっ、ディンブラくんどこ行くんですか!! 」

 好奇心で突撃するウヴァくんを捕まえている内に音も無く他の屋台に吸い込まれて行くディンブラくんの後ろ姿を見て、紐が欲しくなる。

 とりあえず時間と場所を決めて解散として、各々気になる物を買う事にした。


「スプーン一杯のザラメがあんな値段に……」

「夢のない事言うんじゃないよ。皆ね、わたあめ持ってる自分が可愛いから買ってんの!! 損得じゃないの!! あの人達は付加価値ってのを売ってんの!! 」

 ウヴァくんの言っている事も十分夢がないのだけど自覚はあるんだろうか。

「んで、初わたあめはどうなんですか」

「砂糖だね。思ったよりベタベタだし髪に付いてまぁまぁ最悪だった。写真写りは良いけどね」

 ウヴァくんが見せてくれた自撮りは確かによく撮れていた。

 多いから分けたげる、と言って少し小さくなってキラキラしているわたあめをウヴァくんが差し出すと、ディンブラくんは黙々と齧っていた。

「次はかき氷行こ!!」

 俺は良いから二人で行っておいでと送り出した間に氷まみれのクーラーボックスでぷかぷか冷やされていた烏龍茶を買った。喉がびっくりするくらい、キンキンに冷えた飲み物は好きだ。

 小学生の頃、真夏にクラスメイトに分けてもらったお茶の美味しさは今でも記憶に残ってる。いっぱいの氷で冷やされたそれは本当に衝撃的だった。

 今思うと結構手間が掛かる上にちゃんとした水筒じゃないとそんなふうにならないから、そういうのもその子の親の愛だったんだろう。

 しんみりとしているところに二人が戻ってきた。ウヴァくんのかき氷はブルーハワイといちごのシロップで、ディンブラくんの持っているのはなんというか、元はカラフルだったであろう すごい色の物体だった。凝視している俺に気付いたディンブラくんは教えてくれる。

「シロップを自由に掛けて良いと言うから」

 それで全種類掛けたらしい。美術の授業で使った水入れと同じような色をしている気がする。

「まぁ見た目が悪くたって同じ砂糖味だし。同じ味なら僕は綺麗なやつのが良いけど」

 こういうのはウヴァくんがやりそうだと思ったのに、この様子だとファミレスのドリンクバーでもディンブラくんの実験が始まりそうだ。

 俺は適当に焼きそばとかお好み焼きでも買おうかと思っていたのだけど、謎の財力で色々な物を少しずつ食べつつ分けてくれるウヴァくんのおかげで腹は膨れてきた。

「ご馳走になってばっかで悪いので払いますよ」

「んー、どうせならお金より食べ物より、残る物が良いなぁ」

 食べ物系の屋台から離れて、ヨーヨー掬いとか射的のコーナーを覗いてみる。

 小学生低学年くらいの男の子が、金魚掬いをやりたいと駄々をこねている所だった。うちではお世話出来ないからごめんねと母親らしき人が困り顔をしていた。

「……わからんでもないですけど、生き物で遊ぶみたいで抵抗ありますね」

 遠回しに釘を刺す。命を弄ぶようで、ああいうのはあまり得意では無いから、出来れば自分の見ていないところでやってほしいと思ってしまう。

「心配しなくても良いよ。流石に生き物使って写真がどうとかってのは無いって」

 どうやら俺の意図を察されたらしくてバツが悪い。ウヴァくんは気にする様子もなく、すいすいと人混みを避けて、俺の手を引きながら進んでいく。

「僕、あれがいいなぁ」

 そう言って指差していたのはスーパーボール掬いだった。

 水流でくるくる回るスーパーボールを、お椀とラケットみたいなのを握って見ているウヴァくんは獲物を狙う猫みたいだった。

 何人も店の前にいるのも邪魔かと、ディンブラくんと一緒に少し離れた所で眺める。

「ユズリハはお祭りに来た事あるの? 」

「何回か……ここまで賑やかじゃなかったですけどね」

 食うのに困るような子供が祭りに行ったって、何にもならない。外で時間を潰して、帰るかと思ったら同じ小学校の子供がわぁわぁ騒ぎながら自転車で何処かに行くから、気になって人通りを頼りについて行ったら夏祭りがやっていた。

 やぐらに向かって吊るされた提灯。カラフルな屋台。

 水風船、わたあめ、かき氷、空腹に滲みるソースの匂い。わぁ、なんて声が出ていたと思う。

 音楽が流れていて大人も子供も輪になって楽しそうに踊っていたのをよく覚えている。

 ベンチに座って少しそれを眺めて、溜め息を一つその場に残して帰った。

「やっぱこの、ジャンク感が良いですよね。鉄板でじゅうじゅう言ってるのとか、ソースの匂い嗅ぐと夏だなぁ、って思いますし。割高だけど雰囲気に流されて買っちゃうじゃないですか」

 まぁ、嘘は言ってない。双子のおチビを連れて何度か、親役として来た事はある。

 役に立たない俺の思い出話より一般的なご意見の方が良いはずだから、多分これでいい。

 俺のそんな浅知恵を知ってか知らずかディンブラくんは、ふぅんといつもと同じ無表情で呟く。

 ウヴァくんは熱中しているから、隣の屋台でくじ引きをした。箱から紐が伸びていて、引っ張った先にくっついていた物が貰えるやつ。振り回すとゲコゲコ鳴る棒とか、光るカチューシャ。

 普段どこで売られているのかわからないような少し古臭いおもちゃ。別に子供の頃遊んだ覚えもないのに懐かしさを覚える、そんなの。

 ディンブラくんは迷うこともなくスッと一本引いてすぐに帰ってきた。白い手には手には小さな棒のようなものにチェーンが着いたキーホルダーだった。

「万華鏡じゃないですか」

「これがそうなんだ。実物は初めて見るね」

 覗き込んで、おー、なんて声を上げているのを見ると、随分気に入ったようだ。

「似てるね」

「何がですか?」

 俺の問いには答えずにそれを貸してくれるから、小さな小さな穴を覗き込めば、ビーズの宇宙が見えた。お星さまみたいで綺麗で、ディンブラくんにはピッタリのように思える。

 そうこうしている間に遊び終わったウヴァくんが駆け寄ってきた。

「見て、キラキラで可愛いの取れたんだ!! 金魚入れる袋と同じのに入れてくれるんだね」

 そう言ってウヴァくんは頼りないくらい細い紐で口を縛られたビニール巾着を提灯の灯りに透かして見せてくれる。いくつか入った中から、多分これかなと言うのを見ると透明なボールの中に紙吹雪みたいな薄い金色のラメが混ざったやつだ。

 ねぇ、ユズリハ、そう言ってちょいちょいと顔を寄せるように指で呼ばれる。

「金魚は可哀想だけど、スーパーボールや花火には可哀想って思わないんでしょ? 僕らはそっち側なんだけど……僕たちは可哀想なのかな? 」

 にんまり、笑ったウヴァくんの後ろで花火が打ち上がる。言われた事を頭が処理出来ていない内の出来事で、目を見開いた。逆光になったウヴァくんの表情はよくわからない。

「でもまぁ、こんな風に思い出に焼き付くなら、悪くないのかもね」

 綺麗だし、そう言って空を見上げるウヴァくんの横顔が様々な色で照らされるのをぼんやりしたまま眺めていた。どこか機嫌が良さそうに見えた。

 

 ◇◇◇

 

 なんて事無い毎日。いつも通りの日。息を吸って吐いて、稼いで使って。

 そんなのを何回も繰り返す内にじわじわと陽は短くなって、すっかり寒くなった。

「今日、流星群なんですって」

「ふぅん」

 作ってもらったご飯を食べながら、今日はそんな話をする。

「流れ星なんて大気圏で燃え尽きる塵だとか、風情のない事言う人もいますけどね」

 星座のことはオリオン座くらいしかわからないけど、星を見るのは嫌いじゃなかった。

 高い高いお星さまの方から見たら、俺も、お隣の部屋のおにーさんも、世界の偉い人だってみんな揃って米粒より小さいと思うと何故だか少し安心した。みんな居なくなってしまったような夜の街の静けさも好きだし、いつもは蓋をされていて息苦しい天井が取っ払われてる気分になって良い。泥臭い生まれのせいか、綺麗なものに憧れる。

 ディンブラくんが見たくなければ一人でベランダから眺めようと古着屋で買ったピーコートを着込んでいたら、湯気のあがるマグカップを二つ持って立っていたのを見て頬が緩んだ。

 

 ある時、理科の授業で流星群の話題になった。なんでも、獅子座だかなんだかのそれが見られるというので、見られる人はおうちの人と見てみましょうね、そんな事だった。

 クラスメイトは流れ星が見られたら何をお願いするか盛り上がっていた。新しいゲームが欲しいとか、足が早くなりますように、とか。弦巻くんは何をお願いするの、なんて聞かれたのには内緒だと濁した。中身も無い自分の話なんて、してもしょうがないから。

 その晩、こっそり家を抜け出した。音を立てないように鍵を開けて、キイキイ音を立てるドアノブを静かに回して家を出る。その日は雲が無くて、星も月も綺麗に見えた。

 ずっと縮こまってた生活と違って、誰もいない夜の町は自由で、大きな声ではしゃぎたくなる。

 通学路を少し入ったところにある公園の、下半分が地面に埋まったような遊具の中に入る。

 ドーム状のそれにはいくつも穴ぽこが空いていて、そこから星が見えた。

 強い輝きに目を細めたら光が伸びて綺麗だった。かざした手で輪っかを作って、お星さまを閉じ込める。ずっとこうしてそばに居てくれたら良いのに。そんな事をしても意味が無いのはわかっていて、呆れ混じりに笑う。綺麗なお星さまは好きだった。

 このまま空からぽこっと取れたら、理科の授業で使った顕微鏡で覗いてみたい。眩し過ぎて目が潰れるだろうか。いつも暗くて汚いところを見てばかりの目なんて、無くても別に良い。綺麗なものを最後に見られるなら、なおさら。

 そのまま少し眠っていたようで、気付けば空は明るんで星の光は薄かった。ずっと夜のままで良いのに、また朝が来てしまう。朝の爽やかな空気とは似合わない重い溜め息を吐く。

 パジャマについた土を払う。またあの暗い部屋に帰らなきゃ。万が一にでも心配して迎えに来てくれるかも、なんて期待してなかった。世界中の誰も、俺に興味なんてないんだから。


 ベランダから空を眺めながら、少しトリップしていた。

 その時は噂の流星群はいくつか見られたから、その度お願いをした。三回唱えると良いとか言っていたけど、ああも早いのに慌てて唱えても叶わない気がして、勝手にルールを変えて。

 早く、出来ればお腹いっぱい食べて、ふかふかの布団に包まって眠るように、痛くありませんように。本当のお願い事は他にあったのだけど、それではお願いではなくて恨み言だからやめた。

 早く叶いますように。光の尾っぽを引いて流れるそれに悴んだ手を擦り合わせて、しばらくそうしていた頃から二十年近く経った今、願った事がまだ叶わないのは、お星さまに届くまで時間が掛かっているからかもしれない。

 せっかく淹れてもらった紅茶もすっかり温くなっていて、このままだとすぐに冷えてしまいそうだったから一気に飲む。手すりに背中でもたれ掛かって、首を倒して空を見る。

 明るいお月さん。近くでチカチカしてるのは星かと思ったら飛行機だった。

「人間はねぇ、昔っからお星さまが流れる度に手を合わせてきたわけですよ」

 知らんけど、そんな無責任な言葉には触れずに、真っ直ぐな眼差しがこちらへ向く。

「じゃあユズリハは何をお願いするの」

「そりゃ、宝くじ当たらねぇかな、ですよ」

 買ってないですけどね、そう付け加えてちろりと顔を見れば、答えとして認めるつもりはないのか、綺麗な赤橙色がじっとこちらを見てくる。こちらは息をするたび白く空気が濁るのにディンブラくんの周りは変化がない。足跡の無い雪原に立っているような、浮世離れした綺麗な存在。

 手を伸ばしても、俺にはきっと掴めない、そんな子。

「そうだなぁ……何の心配も無くたくさん寝て、夢を見たいかなぁ。怖いのじゃないのがいい」

 楽しい夢の中ならきっと、こんなに息が詰まることなんてない。

「ディンブラくんと、ちっさい頃に出会う夢とかさ、見たいかな。きっと楽しいだろうから」

 こんな事を言ったら変に取られるだろうか。でも多分、この子なら気にしない。

「そっか」

 満足したのか、そう言って空へ目線を戻した横顔は何を考えているのかわからなかった。

 聞いておいてそんな短く返されて、この子じゃなければ怪訝に思っていたかもしれない。

「……冷えません? そんなに首出してるの見るとこっちが寒くなる」

 寒さは感じないからと、部屋着のまま外に出ようとしていたので気休め程度にしかならないけど分厚めの部屋着を羽織ってもらった。下は首の空いたシャツ一枚だから、どうにも寒そうに見える。自分に巻いていたマフラーを外して、白い首筋を隠すように巻き付ける。長いやつだから顔が埋もれて、本当はどうだかわからないけど、むすっとして口を尖らせているように見えた。

「機械は風邪をひかないよ」

 マフラーに押されたボブカットの髪がいつもよりもキノコのようにもふもふと盛り上がっていて、これが噂のマフモコというやつかと思って、なるほど、たしかに、と顎を撫でた。

「昔話にね、傘子地蔵ってのがあるんですよ。ご利益あるかもしれないでしょ」

 なむなむ言いながら頭を撫でれば、元々低い体温がすっかり冷え切っていた。そろそろ切り上げた方が良さそうだ。時間にすれば五分そこらだけど、夜は寒い。

「流れ星、見えなかったね」

「雲出てきちゃいましたしねぇ。また機会があったら見ましょうか」

 また、が俺にあるのか、わからないけれど。

 

 それから、ディンブラくんが夜に話に来る時はカモミールティーだとか、ホットミルクを出してくれるようになった。ディンブラくんがどう思っているかもわからないけど、人間か機械かなんて関係なく、そこにある優しさに救われる。

 この子のために俺に何が遺せるだろう。最近はよくそう思うようになった。


 *** 

 

 居なくていい人間。気にされない存在。俺はいつも透明だった。

 何の変哲もない日常なんて壊れてしまえばいい。眠るたびに思った。そんな身勝手な願いがどうなったか、現状を見ればすぐにわかる。今日も、朝から溜息。

 勝手に自分だけ消えればいいのに、居なくなったって、誰にも気にされないのが悲しいから全部巻き込もうとする、幼稚な精神。

 誰かが泣いてくれたら気が済むのか、死んだら何も残らないなら確認する術なんて無いのに。

 この時期になると毎年なんとも言えなくなるから苦手だった。 


 クリスマス。遠い昔に家で祝った事があったような、そうでもないような。

 家族に双子のちび達が加わってからは出来るだけ特別な日だとわかるように妹と力を合わせて本当にささやかだけどパーティめいたものをやったくらい。正直、あまり好きな行事ではない。

 そんな、クリスマス経験に乏しくとも何の問題も感じていなかった俺は頭を抱えていた。

 

「十一月ももうおしまいですねぇ。俺は年末商戦で稼ぐだけ稼いで地元に帰るんですけど、ディンブラくんは? おうちの人たちとクリスマスにお正月? 」

「去年もそうだったから、多分そう。何かと食事の世話が多いから慌ただしいね」

 年末年始、家事に休みなんて無いからたしかに大変だよなと思う。ディンブラくんがいくら見た目に反して力持ちだと言っても、年末の戦場みたいな食品コーナーで揉みくちゃになっているのを想像するとどうにも心が痛む。田舎の地元でもあんななんだから、都会は多分もっとすごい。

 ところで。そんな前置きで、それは突然に飛び込んできた。

「クリスマスって一般的に何をするの? 」

「何って……そりゃツリー立てて、チキン食べて、ケーキとプレゼントがありゃ完成ですよ」

「それだけあればクリスマスなんだ。去年はなんだかわからずにオードブルを買ってきて終わってしまったから、一般的なものをやってみたかったんだ」

 ふぅん、と呟いた表情が読めない。感心、呆れ、無関心、どれだ。ぶわ、と汗が噴き出る。

 つまらない奴だとか思われたら、こうして一緒に夕飯も食べてもらえないのでは。有益な情報を提供しなければと、焦りで咄嗟に出た言葉は後から考えると、それはもう余計だった。

「く、クリスマスは奥が深いんだから。ちゃんとお伝えしようと思ったらこんな短時間じゃ何もわからないでしょうねぇ、ええ」

「へぇ」

 そう言ったディンブラくんはいつもより少し興味津々の目をしている。相変わらず無表情だけど、そのキラキラした目は俺に罪悪感の影を落とすのだった。

 

「やったなぁ……」

 どうすんだ、と頭を抱える。ちゃんとしたクリスマスの事なんてさっぱりわからない。

 普段絶対に見ないようなサイトを巡って、クリスマスの作法というのを調べる。こういうのをそのまま覚えて伝えてもディンブラくんが知っていたら良くないし、どうにかそれらしくする必要があって、とにかく色々な情報を見て回った。俺自身では用事の無いような知識が増えていくたび、本来ならきょうだい達のために努力すべきなのではないかと良心は痛んだし、遠い所にある煌びやかな文化は俺の目には眩しすぎて、呆れ笑いが少し。

 それから、毎日の夕飯時はクリスマスの話題が多くなった。

「クリスマスチキンはわりと幅広い印象ありますねぇ。一番よく聞くのだとフライドチキン屋のとか。受け取りの時間まで決めて予約して……ってやつです。俺も他の所で働いてるのでクリスマスのバイトのヤバさは知ってるんですけど、どれだけ時給が良いって言われてもお祭り当日のあの店はちょっと働くの怖いですね……」

「へぇ」

 ディンブラくんがいつもの日記にしているノートとは別の手帳に書き込んでいるのを見ると上手くやれているはずだ。ちくりと痛む良心は気付かないふりをした。

「俺は食べた事無いですけど本格的に作るための丸焼き用の生肉も売ってるらしいですよ」

「オーブンがあったら作ってみたかったなぁ。詰め物をして焼く事は知ってるよ」

 肌色に剥かれた鶏肉にディンブラくんが、もごもごと無表情で具を詰めているのを想像したらシュールだった。もし作ったら、とても美味しいのだろう。少し羨ましい。

 仕入れてきた情報と朧げな記憶に、貧相な想像力をフル稼働させてなんとか捻り出した嘘。

 嘘を吐いた事も、言った事も本当だったら良かっただとか、嘘を吐かなくても教えてあげられたら良かったのに、そんな事を思う。結局、持ってない人間の憧れとか、僻みとか、そういうの。

 何度も会話の流れをシュミレーションしたおかげで、すらすらと知ったかぶりが出来る。

 良いんだか、悪いんだか、それでも俺から聞いた話でディンブラくんが一般的なクリスマスパーティが出来るなら案外嘘でもない。誠実では無いかもしれないけれど。

「ユズリハはクリスマスの何が好きなの」

「んー……いつもの部屋で、電気消す必要なんて無いんだけどね、わざわざ蝋燭の光を見るために暗くしてさ、蝋燭のあったかい光がゆらゆらしてるんですよ。吹き消されて、先っぽが黒くなった蝋燭をケーキが乗っかってるギンギラの皿の縁に避けてね。ケーキに刺さってたクリームの付いたアルミを舐めて怒られたりさ……あの蝋燭の匂いとか、ガラスのコップに注がれたお子様用の炭酸のジュースがしゅわしゅわいってんのとか、そういうのは、好きだったかなぁ……」

 これは、本当。クリスマスだけじゃないけど、誕生日とか、ケーキの記憶は他と比べて鮮明だった。あの細くて縞々に捻られた蝋燭が、少し火を着けただけで捨てられてしまうのが勿体無いなと幼心に思った覚えがあって、そんな頃から卑しんぼだったっけ、思い出して笑ったり。

「まぁ、俺は今年はガッツリバイトなのであんまり関係ないですけどね」

「しないんだ。パーティ」

「俺はクリスマスのキラキラに夢見る歳は過ぎたんですよ。夢より金っていう嫌な大人に育ったもんで、夢を売って儲ける側になるんです。地元のきょうだいを放ったらかしにして、それってのは流石に申し訳ないからご馳走とプレゼントは送りますけどね」

 だから俺の分まで楽しんでくださいね、そう言って笑い掛けても、ディンブラくんはいつも通り無表情で何を考えてるのだかわからなかった。

 

 愛と欲望の渦巻く冬の大商戦で、愛想と一緒にケーキやチキンを売る。

 本部から配られているのか、店長が勝手に用意した物だかわからないけれど、赤い三角帽子を被せられて、いつものバイト先のコンビニは大忙し、とまではいかない。気合いを入れている人はちゃんとしたところで予約をしているだろう。立地的に仕事帰りのサラリーマンが多い。

 たまにカップルがそわそわとした様子でコンドームを買っていく。他人のそういうのにああだこうだという気は無いけれど、早まった事にならない事を願うばかりだった。

 シフト終わりに店長がケーキをくれた。サンタさんからのプレゼントだとかふざけながら。

 売れ残りを次の日に半額で売るにも箱が嵩張るとか、販売ノルマの関係で自費で買い取りしたらしい。雇われ店長ってのは本当に大変だ。本人もよく言っている。

 大人になったらもっと夢のある仕事に就くもんだと思っていたと、店長が疲れた笑みを浮かべているのを宥めながらぼんやり思うのは、子供の頃にどんな大人になりたかったか。その方面に思考を向けると嫌な思いをするから、覚えていない、そういう事にしておいた。

 視線を落とすと、箱の窓の部分から、砂糖で出来たサンタの飛びだした目がこちらを見ていた。

 明日はディンブラくんと遊んで、明後日には実家に帰るから、今日が仕事納めだった。

 一年良く働いたという気持ちで、たまには自分にご褒美ってのを買ってやっても良いかと、レジ横のホットコーヒーを一つ。たまに飲むそれは、貧乏舌の俺でも、いつものインスタントより美味くて好きだった。

 ともあれ、お一人様がホールのケーキなんて貰ってしまっても割と困るのだけど、明日はディンブラくんと年末最後にと出掛ける予定があるし、一緒に食べるのも良いかと思う。

 きっと明日は楽しいから、今日は早く布団に入ろう。寝付けるかな、眠れば夜が終わる。

 帰り道に見える家の窓から漏れる灯りはどれも暖かそうで、昔は少し羨ましかった事を思い出す。深く吐いた息は真っ白で、すぐに消えた。

 普段なら人通りがありそうな時間なのに、今日はまばらだ。いくつか届いていた通知を避けて電話を掛ける。短いコール音の後に繋がったのは離れて暮らす妹。

「遅い時間にごめんな、メシ、食べた? 」

 妹達にはピザの宅配なんかを頼んでやりたかったのだけど、地元はデリバリーサービス圏外らしく残念に思う。お取り寄せ、なんて言う程でも無いけれど、日頃のカツカツの予算からしたらかなり奮発した方に入る、ささやかなご馳走の通販は手配しておいた。

 金で解決してるみたいで嫌だなと少し思う。それでも無いよりマシ、居ないよりマシだろう。

『うん、美味しかったよ。お兄ちゃん、ごめんね。ご飯もプレゼントも気を遣わせちゃって……一緒に食べられたら良かったんだけど……』

「はは、育ち盛りがいっぱい食ってくれないと困るから良いんだよ。兄ちゃん、もうこってりしたモンは胃もたれするからさ。お前らが立派に育ってくれる事の方が嬉しいんだから」

 俺がいないなら分け前が増えるとか、そんなふうに考えてもらえたら良いんだけど、優しい妹はいつも申し訳なさそうにしていた。歳にそぐわない苦労をさせているから少しでも楽をしてもらいたい。そうしようと動けば動くほど妹は縮こまってしまうのが辛い所だった。

 お互いに負い目を感じて生きている俺達は、どこまで行っても息苦しい。完全に親が悪いのだけど、金さえあればこんな気ばかり遣わせる兄貴なんて居ない方が良いに決まってる。

「悪いけど、例のやつだけよろしくな」

 妹にはもう一仕事頼んである。眠った双子の枕元に送っておいたプレゼントを設置してもらう係だ。クレヨンや色鉛筆、絵の具なんかの画材がいっぱい詰まったお絵描きセットをそれぞれに。どんなものが喜ばれるのかわからなくて、俺が子供の頃に貰ったら嬉しかっただろう物を想像して買ってきた。妹には電子辞書。そんな良いやつでは無いけど、真面目で賢い妹は腐らせる事は無いだろう。服とかのが今時の高校生は喜ぶのかと思ったけれど、趣味でない物を贈られても困るだろうから、年始のセールを狙って一緒に買いに行こうか。

『じゃあ、おやすみなさい。暖かくしてね』

「ん、メリークリスマス。明後日にはそっち帰るからさ、いつもごめんな、ありがとう」

 ぷつりと切れた携帯電話の、いくつか届いていた未読の通知を見ないふりをして電源ボタンを長く押して、静かになったそれをポケットに突っ込む。音のないところで静かに過ごしたかった。

 ディンブラくんはきっとおうちの人達とパーティをしてる。いつもだったらバイトが終わってすぐに連絡するのだけど、今日は邪魔になるだろうからやめておく。その辺の空気を読むのは上手いはずだった。身の程を弁えた行動は周りも、自分の事も守ってくれる。

 

 いつもだったらディンブラくんが待っててくれるから部屋の明かりが点いている部屋も、今日は暗いだろう事を思って意識して見なかった。普段通りの日ならこんな事を思わないのに、幸せそうな世間と、何もない自分の差に気付きたくない。羨望、劣等感、俺にとってのクリスマスはそんな日。よくもまぁ、こんなヤツが偉そうに無垢な子に法螺を吹けるものだ。

 沈んだ気分、浮かれたケーキ。ガチャリと重い音を立てるドアノブ。次は冷えきった部屋だと思っていたのに、あったかい匂い。明るい部屋。何が起きているんだか、頭がついてこない。

「おかえり」

「へ? 」

「連絡がないから何かあったかと思った」

「いや、なんで、居るんですか」

 前にもこんな事を言ったような気がする。

 コタツの上の大皿に色々なご馳走が少しずつ乗っている。ご丁寧に小さなツリーもちょこんと置かれていた。どこからどう見てもクリスマスのそれだ。

「なんで、って? クリスマスだよ」

「パーティ、するんじゃなかったんですか」

「したよ。上の階は飲んで食べてで収集がつかないから。片付けは明日って、出てきたんだ」

 玄関でぽかんと突っ立った俺から、いっぱい食べる予定だったんだね、ディンブラくんはそう言ってケーキの箱を回収して冷蔵庫にしまっていた。

「少しずつだけど持ってきたから食べよう。まず手洗いうがい、お風呂も入っておいでよ」

 

 冷蔵庫に入ってるけどケーキは丸太のやつにしたよ、チキンは結局家で焼いたんだ。風呂から出ても未だに事態を飲み込めていない俺に気付いてか、気付かずか、ディンブラくんはご馳走の説明をしてくれてる。

「……どうだったんです、おうちの方は」

「立派なクリスマスだって、家の人達は喜んでたよ。パーティは友達としても良いんだって」

「だからって、なんで」

「ユズリハはクリスマス、好きだろうから」

 当たり前、というようにきょとんと返すディンブラくんに、全部嘘だったなんて言えなかった。

 ディンブラくんの手作りオードブルはどれもこれも美味しくて、帰り道の暗い気持ちはすっかり影を潜めるかわりに、罪悪感と温もりで心臓に近いところが疼く。

 元は丸太だったであろう、輪切りにされたブッシュドノエルに蝋燭をぶすりと立てる。部屋を暗くして先っぽの長いピストルみたいな引き金のライターで飛び出た糸を炙れば、じゅく、と表面の蝋が溶けて火が移るのを見ていた。

 ディンブラくんの長い睫毛に蝋燭の明かりが当たって輝いて綺麗だった。ゆらゆら揺れる灯に影が踊って、大昔にこんな光景の中に居た事を思い出して色々な気持ちが込み上げた。

「メリークリスマス」

 必死で堪えていたのに、ぶわ、と涙腺が緩む音が聞こえた気がした。

 暖かそうな部屋、キラキラのツリー。楽しそうな声。

 いつも羨ましいものは窓の向こう側だった。寒い部屋で湿っぽい布団を頭まで被って眠った。サンタさんに何をもらったか、クラスメートがはしゃぐのを見るのも、ぼちぼち辛かった。

 良い子にしていればサンタさんがプレゼントをくれる、そういう言葉に勝手に期待をして勝手に傷ついた。玩具が欲しいわけじゃなくて、それだけ気に掛けて貰えるのが羨ましかった事に気付いたのは、何も期待をしなくなってから。

「へへ……、ふぎ……」

 気付かれないに越した事はないと、どこからどう見ても涙がぼろぼろ出ているのを拭わずにへらへらしている俺をじっと見たまま何も聞かないのは、泣くほど嬉しいのかと思われているからかもしれない。まぁ、間違っちゃいないから良い。

 ご馳走も、甘さ控えめのケーキも美味しかった。半べそで美味い美味いと食べている間にディンブラくんが紅茶を入れてくれて、熱いものが喉とその先を通って腹に落ちるとほっと息を吐いたところで、ああ、そうだ、そんなたまたま思い出したみたいな白々しい切り出しで、散々タイミングを探っていた物を、物の少ないクローゼットから出してきた。

「明日渡そうと思ってたんですけど、これ、よかったら」

 開けていいか目で聞かれているような気がして、どうぞどうぞと手で促す。さらさらしたビニールのラッピング袋のリボンを解いて出てきたのは飛び出す絵本。昔、図書館で読んだ誰もが知る名作だ。散々悩んでディンブラくんのイメージに一番合うと思ったのはこれだった。

 ギシギシと分厚い紙が軋む音と、新しい本の匂い。喜んで貰えなかったらどうしよう。

 ばくばくと跳ねている心臓をよそに、おー、なんて感心したような声を出している。傾けたり覗き込んだり、その様子を見ると気に入ってくれたらしく、なによりだ。

「プレゼント、僕は何も用意してない」

「いや、ご馳走作って待っててもらえたので十分過ぎるんですけど……」

 ここまでやって貰ってプレゼントが欲しいというのも我儘が過ぎるし、遠慮でもなんでもなくこれ以上受け取れない。ただ、何かしてもらえるというなら頼みたい事はある。

「そうだ、明日古着屋で服選んで貰えませんか? 俺はそれを買うので」

「自分で買うの? 」

「こういうの似合うかな、ってディンブラくんが悩んでくれる時間をください。贅沢なもんですよ。人が気に掛けてくれるって、当たり前じゃないですから」

「そういうものかな」

 受け取り手が喜ぶものが一番の贈り物ですから、そんなわかったような事を言って皿を洗う。それだけじゃなくて、俺は他にもディンブラくんから大事な思い出をたくさん貰った。

 きっとどんなに高価な物より価値があるだろうから。



 ***

 

 季節の変わり目に訪れていた古着屋も、これが最後だろうか。正直、残りの時間くらいは手持ちの服でも凌げる。それでもこうして足を運んだのは出掛ける口実が欲しいとか、思い出というほど大した回数じゃ無いけど、季節ごとに通った道を一緒に歩きたかったから。

 マンションのエントランスで待ち合わせして、出会った頃すごい格好だったディンブラくんは一緒に古着屋に行った時に買った服で、じわじわと一般的な服装になっていった。

 色白で整った容姿はシンプルなものを着ても、良いとこのブランドの服に見える。

 本人はあまり興味が無いようだけど、店ではどう着てもどうにもならなさそうな奇抜な服を覗いているから、最初に会った時の混沌としたコーディネートの方がディンブラくん自身の好みだったかと後から、余計な事を言ったかもしれないと反省した。

 いつもは安くない交通費を掛けて出て来ているのだから掘り出し物の一つや二つ見つけねばと必死だったのだけど、今日はそうでは無いから気の向くままに見て回る。

 針金じゃないハンガーがレールを滑る音、当たってカタカタと軽い音を立てる。

 それがわりと、好きだった。いろんな色が肩を並べているのも、昔に時間潰しで入り浸っていた図書室の本棚みたいで嫌いじゃない。

 世の中には嫌な事が多いと思っていたのに。そういう小さな、好きな事を集めて生きていられたら良かった。ディンブラくんもどうこうされる心配なんかない、そんなだったら良かった。

 途中から服を選ぶより、ただ手を動かしているだけになっていた。ぼーっとしているうちにこんな時間は終わってしまうし、今日も、今週も、終わっていく。それを積み重ねて、三ヶ月後には全部終わってる。今を生きねばと、気付けばいつも隣で見ているディンブラくんの姿がない。

 こそっと覗いてみたら、どこをどう着こなせば良いのか、肩がスケスケのネット状になった服を広げていた。そもそも、何というジャンルの服なのかもわからない。選んでもらった服があれだったら上手く反応出来るだろうか。ヒヤヒヤしつつ、でもあの子がそれが良いというなら尊重したい、そんな気持ちで恐々、真剣に服を広げて見ている後ろ姿を見ていた。

 昨日は適当を言ったけど、こうして俺のために選んでくれている事を自覚したら妙に嬉しかった。今この瞬間は俺の事を考えてくれていると思うと心臓の辺りがむず痒いような、じくじく痛むような、でも嫌ではなくて、不思議な感覚がする。

「えっ、良いんですか? 俺、これすごい好きです」

「喜んで貰えたなら悩んだ甲斐があったね」

 なんとなく見つからないように後ろから見守り続けることしばらく、結局ディンブラくんが選んでくれたのは黒い薄手の綿ニットのベレー帽だった。

 どんな物を選んでもらっても大事にするつもりだったけど、覚悟していたのよりずっと大丈夫で逆に驚いてしまったのは失礼だから内緒だ。生地の薄さからして春夏用だろうか。お花見とか植物園とか、一緒に行けたらきっと楽しい。多分そんな頃まで俺はいられないし、ディンブラくんの課題の事だってあるから、きっとこの帽子を被って一緒に出掛けることは叶わないけれど。

 死ぬ時に持っていくものは集めてある。幼稚園の時に貰った道具箱が俺の大事な物入れだ。

 働き始めて一番最初に貰った給料明細、妹が大昔にチラシの裏に描いてくれた似顔絵、双子が父の日にくれた肩たたき券と折り紙で作ったメダルとか、そんなの。普通の人から見たらきっと大した物じゃないけど、俺にとってはそこに居た痕跡。生きた証みたいな物たち。

 そこに、選んでもらった帽子を入れて行きたい。俺みたいな嘘吐きは地獄行きなんだろうけどそんなに量も無いんだから、それぐらい持ち込ませてくれればいいのにな。


 買い物を済ませた帰り道、ケーキがあると連絡したら食いついて来たウヴァくんを招いてバイト先で貰った真っ白のケーキを開ける。

 つるんとしたベースにモコモコと雲みたいなクリームとイチゴが盛り付けられているやつだ。昼間だし、わざわざカーテンを引いて暗くしてまで蝋燭を点けなくても良いか、ということで適当に切り分ける。売り物みたいにスパッとはいかなくて、フチが欠けてしまった。

「チョコのプレートは僕のだからね、お前はコレ!!」

「おー」

 ウヴァくんが上に乗っていた物を仕分けている。ディンブラくんの目の前の皿には多分食べられる素材で出来ていない柊のピックが乗っていたので、俺の皿によけられていたサンタらしきやつとトナカイらしい茶色いやつを移設しておく。こういうのはおそらくディンブラくんの方が喜んで食べてくれるだろうから。

 六等分の一切れを貰ったけれど、ボディブローのようにじわじわ効いてくる生クリームに、一人では確実に穏やかな気持ちでは食べきれなかっただろうと、淹れてもらった渋めの紅茶で口の中のクリームを流し込みながら思う。

 結局、ウヴァくんが大半を平らげて事なきを得た。あれだけクリスマスにコンプレックスを抱えておいて、実際のところは象徴とも言えるケーキも満足に食べられないというのがしょうもないというか、らしいというか。思わず笑ってしまった。

 メンタルをやられるようなトラブルも、嫌いな行事も、ディンブラくんは何でもない顔をして全部取り除いてくれる。俺の十分とは思えない情報だけでは対価が足りないはずだった。

 俺が死んだら金はきょうだいの物だけど、それ以外で欲しいものがあったら、服でも家具でも骨でも心臓でも、役に立てるなら持っていってくれたら良いのに。

 ***


 正月で帰省したりバタバタしている内に一月はあっという間に過ぎて、もう二月半ばだ。

 一番気掛かりだった妹の受験もセンター試験は良い結果で、志望校の国立大の二次試験を数日後に備えてる。これで受かったら俺は俺のやるべき事を済ませて終わりなのだけど、万が一があったらどうするか、あまり考えていなかった。縁起でもないし、それはそれだ。

 保険金の支払時期とか入学金の振り込み時期なんかを考えると残り時間は一ヶ月も無い。

 ディンブラくんの課題の結果を知らないままお別れになるかな、なんて、他人事みたいに思う。

 どうやって人生を閉じるか布団の中で考えて、どうしようもない悩みと違って、決めなきゃいけない悩みを抱えてる時の寝付きの良さと言ったら無かった。でも、逃げてばかりもいられない。

 

「明日、夜に出かけませんか? ご飯を食べに。ちょっと遠いんですけど、良ければ」

 良いけどなんでまた、というような顔できょとんとしていたディンブラくんと家で合流して二駅先まで電車に乗る。平日だし、遅い時間に都心部へ向かう電車は空いていた。

 目当ての場所は普段利用しない駅だから、あらかじめ調べておいたスクリーンショットを捲りながら人もまばらな目的地を目指す。

「こうして夜中に出歩いてると悪い子になった気分になりますね」

「たしかにこの時間に住まいから離れるのは初めてかな」

 新春なんて言われると暖かくなるような気がするけど実際は二月が一番寒いように思う。

 年が明けて月も半ばの今日もやはり寒い。信号待ちの間、ダッフルコートだけで寒そうなディンブラくんの首に、自分のマフラーを外して勝手に巻いた。

「……オートマタは風邪をひかない」

「はは、前もこんな事ありましたっけ。嫌だったら取りますけど、なんか寒そうに見えたから」

 マフラーに触れて少し考える仕草をして、そのうちに信号が変わったからどちらからとなく歩き始める。そのまま着けていてくれるらしい。

「ここです」

 来たかったのは駅の並びにある屋台のラーメン屋。電車の窓から見えて気になっていて、もうそんなに時間もないから我儘に付き合ってもらおうと思った。ディンブラくんにとっても良い経験になるはずだと、相変わらず人を思いやっているフリをして、結局は自分が満たされたいだけ。

 それでも、ディンブラくんの表情を見た時、来られて良かったと思った。まん丸にした瞳はキラキラして見える。こういう表情の時は興味津々で知識欲が高いはずだった。

 先客は飲み会上がりらしいサラリーマンが二人。空席は二つ。

 待たずに済んで良かったけれど酔っ払いに絡まれると大変かな、と思って、俺が間に挟まるように席に着く。普通のラーメンを二つ頼んでいる間にディンブラくんは、おー、なんて言いながら見渡していた。

「お姉さん、熱いから気を付けてね」

「ありがとう」

 なんだ、男の子だったのかい。声を聞いて気付いた店主にそんな事を言われていて、トラブルになるようなら助け舟を出さなければと思ったのだけど、そんな心配は必要無かった。

 へぇ、アンタ、オートマタか。近くで見るのは初めてだ、そんな風に乗っかってきた酔っ払いのサラリーマンや店主とも普通にやりとりが出来ていた。

 間に居る俺が出る幕はなくて、周りの音が少し遠のく。勝手に、守らなければと思っていた。外の世界は怖い事が多いから、ディンブラくんが傷付かないようにって。

 良く考えなくてもわかる事だ。ディンブラくんは賢いし、立派な会社のエリートさんなんだから。俺はその辺にいる野良犬みたいなもんだ。きっと急に俺が居なくなったとしても、もっといい資料を見つけて、上手い事やっていくのだろうから。

「ねぇ、そうでしょう、ユズリハ? 」

「え? ああ、そうですよ、はは……」

 急に振られて驚いて、聞いてもいなかった会話に相槌を打つ。面白い子だねぇ、店主がそう言っていた。俺もそう思う。少し接すれば、みんなディンブラくんの事が好きになる。

 また碌でもない考え事を始めてしまって、せっかく食べに来たんだからとラーメンを啜る。

 顔も手も冷たいから、熱いスープが食道を通る感覚が、やけにうるさかった。


 帰り道、どうにも会話に困って、聞いても仕方のない事を聞いてしまった。 

「……ディンブラくん、俺が何も言わずに居なくなったらどうします? 」

「待つと思う」

「帰ってこなかったら? 」

「探すよ」

「それでも見つからなかったら? 」

「探す。川の中とか、石の下とか、池の底だって」

「そんな、ダンゴムシとかカニじゃないんだから」

 この子は俺に何を思ってそんな風に言ってくれるのかさっぱりわからなくて笑っているのを感情の読めない赤橙色が見ていた。

 そうして約束を守ろうとしてくれるのは嬉しいけれど、きっと俺がいなくても大丈夫。

「ありがとうね」

 貸したマフラーで例のマフモコしている髪を撫でる。

 もう少しの間だけど、側に居させてほしい。これくらい願うくらいは許されるだろうか。

 ふぅ、と息を吐くと、肺から出た空気の暖かさがわかるくらい冷え込んでいた。

 

 くたびれたり、酔っ払っているサラリーマンとか、こんな時間なのに若そうな子も多い、終電間際の少し混雑した電車に乗った。一つ空いていた席をディンブラくんに座るように促すと、俺に座れというような身振りをされる。しばらくこちょこちょとやりあっている内にやんちゃそうな男性が座った。まぁ、らしくて良いかと苦笑いする俺をディンブラくんがじっと見ていた。

「……そういえば課題、どうにかなりそうですか? 」

 うーん、と緩く握った手を口の辺りに当てて考え込むようにしている。

「知れば知るほどわからなくなってきたかな」

 俺が資料として使えなかったせいでディンブラくんが良くない目に遭うのは嫌だった。

「言動と表情、感情は常に一致するとは限らないらしい事はわかったよ。オートマタの表情は人間に言語を伝える補助的な役割をするのだけど、人のそれは思ったよりも複雑なように思う。

 そういう、細かな違いは多数あるけど、総括する言葉には辿りつかない。そんなところかな」

「……ちょっと俺にはわからないですけど、お手伝い出来る事は何でもしますから」

「ユズリハから見て、君と僕は何が違うと思う? 」

 瞳の色、髪の色、当たり前の違いを聞かれているのではないのだろうと思って、ポツリと溢す。

「綺麗、ですかねぇ……人間って汚い事が多いですから。他の人が嫌がる事とか、自分のために踏み台にしたりとか、平気でするんですよ。俺もそうです。自分勝手で、責任転嫁してばっかりで汚くて。でも、ディンブラくんはそういう事、しないでしょう? だから、綺麗なんです。

 でもウチのきょうだいもウヴァくんも綺麗なんだよなぁ。俺みたいなのも居ればきょうだいみたいな人間もいますし……一括りにするには複雑過ぎるんですよね」

 上目遣いに見つめる赤橙色の奥で瞳孔の役割をしているレンズがキュ、と開く。

 一般的な育ち方をしていないから、見様見真似で人間をやっている俺よりもよっぽどディンブラくんやウヴァくんの方が人間に近いと思う。

「そういうものかな」

 むむ、と眉根を寄せるディンブラくんは、さっきの言葉通りなら悩んだり、困惑しているはずだった。こういうところでも正直で綺麗な命は輝いて見える。

 願う事が叶うなら。俺も、こんな風に綺麗になりたかった。

 ぽつぽつと話しながらマンションまで来て、階段を上がる。

 こうして、何度出掛けたり、話したり出来るんだろう。そう思うと少し足取りは重くなる。先の事を思うのはいつも早く終わらないか現実逃避をする時で、惜しむ事はこれまであまり無かった。残りの時間を大切に噛み締めて、死ぬ時に少しは良い人生だったと思えたら良い。

「それじゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 手を小さく振る。三つ編み尻尾が引っ込むまで見送って、自分も部屋に戻る。

 人の気配がない家は冷え切っていて寒い。ディンブラくんが居なかったらずっとこんな部屋に居たと思うと少し怖くなる。今、耐えられる気がしなくて、弱くなったものだと思う。

 そういうものだと納得する他なかった子供の頃の方がよっぽど踏ん張って立てていた。

「あ」

 ディンブラくんに貸したマフラーを返して貰うのを忘れた事を思い出す。

 まぁ、明日返して貰えば良い。明日は寒くなければいい。そう思って、ぐらぐら、なんとなく収まりが悪い胃の底に気付かないフリをする。

 こういうのも、その内に終わりが来るんだから。わかっていても俺は何も出来ずに流されるだけの、そういうしょうもない所を隠すように布団をかぶって丸くなった。

 

 ***

 

 おかしい。

 いつも朝の移動中にメッセージを飛ばして、早ければすぐ、遅くとも昼には返信があるのに。

 携帯の画面を見るとバイトの合間に俺から何度も、大丈夫ですか、なんて、ストーカーのような頻度でそんな文が並んでいて全部既読は付いていない。ざわ、と胸騒ぎがする。

 何かあったんだろうか。バイトも手に付かず、携帯が震えたのを慌てて見たらスパムメールでデカい溜息が出る。無事とわかりさえすればいいのに、もどかしいばかり。

 何かやってしまっただろうか。いや、ディンブラくんは何かあっても無視なんてしないはずだ。

 いつもよりも早歩きで駅から帰ってきて、自室の窓を確認する。暗い。深夜と言っても差し支えない時間で、流石に上の階のディンブラくんのおうちを訪ねるのも悪い。

 またドッと胃の気持ち悪さが来て、重い足を引き摺って自室に向かうと、ドアの前に気配があって、慌てて顔を上げると、想像とは違う極彩色。

「あー……厄介な事になったよ、ユズリハ」

 そこに立っていたのは気まずそうに頬を掻いているウヴァくんだった。

 

 ◇◇◇


 ウヴァくんの表情と今日の心配事が噛み合って、嫌な予感が強くなる。

「どんだけ人間の真似事したって僕らは結局の所コンピュータなんだよね。で、電脳核っていう一番デリケートな箇所に記録書き込んでる時に電源が落ちると、バグって面倒な事になるわけ」

 まあ焦っても事態は良くも悪くもならないから落ち着きなよ、そう言ってウヴァくんはお茶を入れてくれる。そうは言われても、胸騒ぎと胃の嫌な感覚が治らない。

「そのエラーが起きた時に書き込んでた箇所によってはアイカメラが反応しないだけとか、音が聞こえなくなるだけとか、色々あるんだけどね。こっちからアクセスしてもうんともすんとも言わないってんで、起動周りのとこをやったんじゃないかなって思うわけ」

 ウヴァくんは遠回しに伝えてはくれているけれど、中心にあるのは多分、とても嫌な話だ。

「じゃあそこを直せばいいじゃん、って思うでしょ。簡単な話なら良いんだけど、そのあたりにアクセスも出来ないんだよね。明日本体回収して調べるけどさ、あんま期待できないと思う」

 だから今日のところは寝ときなよ、ウヴァくんの帰り際の、気を遣ってくれたであろう言葉にろくに反応出来なかった事に静かになった部屋で気付く。

 ここはこんなに暗かったっけ。人の気配が無い自分の部屋は寒いし静かだった。

 朝になったら何事も無かった、なんて事になれば良いのに。だって、ディンブラくんは一緒にいてくれるって約束したんだから。こんな時にも現実逃避。重たい息を肺から絞り出す。

 このまま全部吐き出してしまえたら良いのに。

 

 次の日の朝、上の階に話を聞きに行くと、やはり、一昨日眠ってから目を覚さないという。

 ディンブラくんがたまに話してくれた家主さんご夫婦とその娘さんは心配そうにしていた。

「ディンブラ、よくなる? 」

「……なるなる、僕がこのねぼすけを起こしてお嬢さんのとこに連れてきたげる」

 ウヴァくんがしゃがんで目線を合わせて話していた。

 眠っているようにしか見えないディンブラくんの身体を抱えて部屋に帰ってきた。一昨日渡したままだったマフラーも一緒に受け取った。

「調べとくから仕事行っといでよ。ユズリハがここに居ても居なくてもすぐには直んないから」

 ストレートに何も出来ることはないと言われると堪えるものがある。結局、そのままフラフラと電車に乗って、いつも通りの時間、いつもの電車、いつものバイト。でも、帰ってもディンブラくんは眠っている。一昨日まで当たり前だった日常が、ここにはない。満たされていると思っていなかった毎日に、こうも帰りたいと思う事はなかった。

 一件目のバイトが終わった頃、強い眩暈で世界が揺れた。体調は悪いし、そういえば食事を忘れていた。それでも身体は動く。ディンブラくんが大変な時にこんな事をしていて良いのか。 そんな事ばかり考えている内に妙に長い一日が終わる。


「スリープする時にヘマしたのかな。意識が絡まった状態みたい。無理にやると破損しそう」

 部屋に帰ると首の後ろや頭から色々なコードでディンブラくんと繋がっているウヴァくんが居た。わかっていたのに、実際に状況の悪さを聞くとまた身体が重たくなった。案外大変じゃなかった、そんな答えを心のどこかで期待していた。

「バックアップを挿せば元に戻るけど……当然、バックアップを取ったところから先はデータが無くなるよ。それにコイツ、外部にバックアップ取ってない可能性が高いかも」

「それじゃあ……どうなるんですか」

「もう一つ方法はあるけど僕じゃ出来ないから現実的じゃ無いんだよね。だから、どうにもならないってなら、そのまま置いておくか初期化するかかなぁ。まぁ見た目は変わんないから良いんじゃないの。二年位ならそこまで情報量多くないから一緒だって」

「……初期化って、どうなるんですか」

「全部忘れるだけだよ。出荷時の状態に戻るわけ。多分、僕と分けられた後じゃない? 」

 頭を殴られたようだった。全部忘れる。全部。ウヴァくんの声が遠い。

 自分が死ぬ分にはいいけど、置いていかれるとは思ってなかったって? 頭の中で声がする。うるさい、だって俺は居なくなったって問題ない、でもディンブラくんはそうじゃない。

「ちょっと、聞いてる? ぼーっとしてさ。人がせっかく話してるんだから聞きなよ」

 はっとして顔を上げたら、ウヴァくんが不機嫌そうな顔をしていた。

「あんま時間食ってると本社の連中が来そうなんだよね。アイツら、僕たちのことただのデータとしか思ってないだろうし」

 回収されたら問答無用でリセットされるかもよ。去り際にウヴァくんが残した言葉が何度も頭を行ったり来たりしていた。

 のろのろと布団を敷く。冷たくて固い床に横たわるディンブラくんが不憫だった。

 目を開けない事以外、普段と変わりないように見えるのに、抱き上げた身体に体温を感じない。だらりと垂れた腕が身体の下敷きにならないように布団に寝かせる。

 へたり込むとぼたぼたと冷えた涙が床に散る。

 泣くのは慰めてもらうためだ。泣いている子は可哀想で、心配だから。心配してくれる人が居なかった俺には必要の無い事だった。

 それがわかってから、俺は泣くのをやめた。そのはずだったのに。

 嫌に静かな部屋にしゃくり上げる声が響くのを惨めな気持ちで聞いていた。嗚咽も涙も止まらない。泣いたところでどうにもならないし、慰められた所でディンブラくんは目を覚さない。

 真面目で真っ直ぐな所も、独特な感性も、本人は気付いているかわからない優しい所も、全部捨てろなんて俺には言えない。

 俺は、君に、何が出来ただろう。白い手をとって額を押し付ける。

 貰うばかりで、酷い事も言って、嘘だって吐いた。俺の方が酷い人間なのに。俺が替われるなら、そう考えて思い至った。この場で出せるかわからない切り札が俺にはある。何が出来るかなんてわからないけれど、金にも、力にもなる切り札が。

 

 ***

 

 次の日の朝一番で部屋に来たウヴァくんに詰め寄る。

「俺に、出来る事は無いんですか。なんでも良いから」

「は? 何、勢い怖いんだけど……」

 怪訝そうな顔をしているウヴァくんをじっと見つめていると、罰が悪そうに目を逸らされた。

「無い事はない……けど現実的じゃ無いから無理だよ」

「あるんですか」

「……現実的じゃないって言ってるじゃん、忘れてよ。そんな方法無いって」

「方法がある事がわかっただけで助かりました。あとは自分で調べるんで、大丈夫です」

 何処に行くんだか自分でもわからないけど、それでもじっとして居られなくて部屋を出ようとするのを腕を掴んで止められる。はぁ、と溜め息を吐かれる。

「……ダイブ、なら何とかなるかもしれない。オートマタ同士は出来ない方法は、ある。でもそんな事したら戻って来られなくなる。人間の精神はバックアップなんて取れないんだから」

「戻って来られないって、それ、死ねるんですか」

「……は? 」

 藁にもすがる気持ちで掴んだウヴァくんの肩は細かった。話を聞かなきゃ。頼れる人なんて他にいない。大きく見開いた鮮やかなピンク色の瞳が見える。

「ねぇ、死ねるんですか、戻って来なかったら。何になるんです、心臓発作ですか? それとも脳死? 脳死でも保険っておりるのかな、調べなきゃ」

「待って、待ってよ。どうしたの……らしくないよ」

「……俺らしいって何ですか。君は俺の何を知ってるんですか」

 怖がるような、傷付いたような顔をしている。いけない事を言っただろうか。

 でも俺の事なんて誰も知らない。興味もないし、いつも俺は要らない子だった。だったら居なくなっても問題なんて無いはずだった。

「俺、死ななきゃって思ってたんです。だから、ちょうど良いって。俺が死ぬと保険が降りるんです。家に金が無くて、きょうだいが満足に暮らせるようにそろそろ死ぬ予定だったから」

 怖がらせないように、明るく努める。上手く笑えているかわからない。

「……とりあえず、離してくれる? 細かい話は聞くから。一回冷静になりなよ」

 ウヴァくんがぶっきらぼうな手付きでお茶を淹れてくれた。

 ふぅふぅ冷ましている内に、毎晩ディンブラくんがお茶を淹れてくれたのだとか、色々な話をした事を思い出して少し、腫れて見辛い視界が更に歪む。

「……ちょっとは落ち着いた? あのね、何するにしても僕が居なかったら出来ないんだから。もっと僕のご機嫌取ってくれる? 」

「すみませんでした……」

「んで、何、自殺願望あるって? 」

「……うちの家、金が無いんです。下に三人きょうだいがいてさ。これまでは働く時間増やしたりしてどうにかなったんですけど妹の大学の学費とか、チビ達もこれから金が掛かるばっかりですし……保険掛けて死のうってずっと考えてて、そろそろそのタイムリミットなんです」

 本当はもう少しだけ猶予があったから、限界までディンブラくんの課題を見届けてから死ぬつもりだった。死亡保険をいくつも掛けていたのは、きょうだい達の生活費と、学費に充てるためだ。私立は滑り止めで受かっても国立大学の受験前に入金しなければいけないから、妹は本命の大学一本で受けると言って聞かなかった。我儘言ったって良いのに。せっかく学校行けるんだし好きなようにやってくれればいいのに。

 生きる為には金が要って、働く為には学が要って、そのためには金が要る。

 息をするだけでも場所を取って、何もしなくたって税金が掛かる。死にはしないけれど、生きるのは難しい。そんな世の中だからだ。

 兄ちゃんはそのために居たんだぞ、冗談めかして言えば、妹は泣きそうな顔をしていた。そんなつもりじゃなかったのに俺と居ると妹はいつも辛そうだった。

「……それってさ、すごい勝手じゃないの。下の子達に相談もせずに決めちゃってさ」

「そう、かもしれないです。でも恨まれても良いです。綺麗事言ったって、物理的にどうしようも無いんだから」

 どうにかなったら、そんなのは何回も、年末からはそればかり考えていた。何かの間違いで全部の心配事が無くなって、どうやって生きていくか自分で決められる、そんな魔法みたいな事。でも、そんな都合のいい物語みたいに全部上手く行く算段なんて何も無い。

「このまま少し生きて無駄に死ぬくらいならディンブラくんのために使いたいです。いろんな事で助けられて、救われましたし……それに約束したんです。ディンブラくんは離れていかないって。ディンブラくんは嘘吐かないですから……約束、守ってもらいたくて」

 はぁ、とウヴァくんはガリガリと頭を掻きながら大きな溜め息を吐いた。

「まあいいや、ひとまず聞きなよ。物理的な話をするんだけどね、人間もオートマタも、思考ってのは階層になってるんだよ。んで、アイツが寝こけてるのが多分、随分奥の方だから厄介で」

 ここでね、と言うようにトントンとこめかみの辺りを指で叩いている。

「簡単に説明するけど、一般的なダイブっていうのは人間の脳に外部からの出力を電気信号として脳波に模したものに変換して流し込んで影響させる方法なんだよ。で、その端末としてオートマタが用いられる事が多いわけだ。本当だったら脳に近い所を弄るっていうのは危ないんだけど、それが実用レベルまで普及してるのは緊急時に命綱の役割をするものがあるから。それが通称、シルバーコードって呼ばれてる。本当かどうか知らないけど、幽体離脱した人間が見たっていう銀色の紐の話があるんだけど、それが由来らしいね」

 頭に浮かんだイメージはへその緒だった。

 仕組みから何から知らない身からすると、幽体離脱なんてオカルト系の番組でたまに見かけるような話だ。いよいよスピリチュアルな事になってきた、と少し顔が引き攣るのに苦笑いされる。

「元ネタはオカルトではあるけど、こっちのシルバーコードは脳波がどうとか、一応科学的に説明が出来る物だからね。んで、シルバーコードがつながっていれば意識に何か問題が起きても大元である脳からのバックアップが出来るし、本体を安全な所に避難させたら切断してもいい。脳と本体が接続さえされていれば距離は関係ないから。ある程度は安全に他の意識に潜れる」

 馴染みのない難しい話に既に置いていかれそうだけどなんとか理解しようとする。要約すると命綱のような物だろうか。肉で出来た身体に精神が括り付けられているようなイメージ。身体がなければ、生きていて辛い事からも解放されるんだろうか。

「便利だけど、制限が多いんだよ。僕なら中継箇所から繋ぎ直せば人間より深くまで潜れるけどそこから先はシルバーコード無しじゃ呑まれちゃう。僕にとってのシルバーコードはアイツと僕が違う物だって証明するための道具だから。元が同じ物の僕にはどうにも出来ないっていうのはそういう事。そういうわけでアイツの事を安全に起こすならアイツがよく知ってる僕以外の単独ダイブ出来るオートマタが適任なんだけど、残念ながら会社のサポート無しで探すのは無理。さらに、そんな手間が掛かる事をアイツらがやってくれるわけがない」

 とりあえず、ウヴァくんが難しい事を言っている事はわかるけど、さっきの口ぶりだとまだ方法があるんだろうと、待ちきれずに口を挟む。

「でも俺に出来る事はあるんですよね」

「そう、あるにはある。ただ、問題は二つ。一般的にオートマタの中に人間の精神を突っ込むっていうのがリスクが高いって事。もう一つはユズリハ一人じゃ直接アイツの内部に入れない事。理屈で言えばアイツがユズリハを招く事で接続出来るんだけど、休眠状態のアイツにはそれが出来ないわけ。だからユズリハの事を僕が迎えに行って僕経由でアイツの中に行く。ただ、オートマタのそれはコアを移動させれば出来るけど脳と繋がった人間のシルバーコードは個と個の間を跨げない。身体から離れた精神は糸の切れた凧と変わらない」

 確かにニュースなんかで見るのも人間のカウンセリングのためで、オートマタにダイブするという話はあまり聞いた事がない。

「という事は、その命綱無しでディンブラくんの中を探索しなけりゃいけないって事ですか」

「そう。人間をデータ変換して突っ込むだけでも危ないのに、さらに紐無しバンジーみたいな事をして、どこにあるんだかわからないアイツを起こさなきゃなんないの。ついでに、接続中のシルバーコードを切断するなんて無茶した過去の情報も見当たらなくてさ。最悪、アイツの中に入る段階で死ぬかも。ほら、嫌になってきたでしょ? だから現実的じゃないって」

 どうせ先が短い予定の命だ。このまま二度と会えないまま残りの時間を過ごす位なら、近い所で死ねる方がいい。そう思ったけれど、言えなかった。ウヴァくんが嫌がりそうだったから。

「なんとか中に入れた後に消し飛んだりする事もあるんですか? 」

「一回入って大丈夫なら……なんとかなるんじゃないかな。その場所の持ち主の記憶で存在が参照されるから長い事接してたアイツに外敵として認識される事は無いと思う。憶測だけどね」

 一か八かでも、何も出来ずに死ぬとしても、可能性がゼロで無いなら賭けてみたい。それに現状で俺にしか出来る人間がいないと言われると少し心臓の辺りがじくじくする。

「その、参照される記憶って、目に見える形で収められてる物なんでしょうか」

「それは場所の持ち主それぞれかな。絵画として収蔵してるのもあれば、宝石箱に詰められてたりするよ。持ち主がどう捉えているかで記憶の形は変わるから」

「じゃあ、その、ディンブラくんの、俺に関する記憶を壊したらどうなるんですか」

 ウヴァくんの目が少し丸くなって、キュッと鋭くなった。

「……データが破損してアイツはユズリハの事、わからなくなる。そうなると存在の参照出来る物がなくなって、シルバーコードも無い状態のユズリハも消えるよ」

「ディンブラくんが起きた後なら、それでも問題ないんですよね? 」

「……なに、忘れられたいの? アイツの記憶を助けに行くのに、自分の都合の良いように弄りたいって? えぐい事言うじゃん」

「……ディンブラくん、ああ見えて優しいんです。俺だったら他人が自分の為にどうにかなったって聞いたら気にすると思うんです。そういう思いをさせたくない、とは思います」

「その為ならアイツが大事にしてる物を壊しても良いんだ? 」

「……帰ってこられたらいいですけど、多分無理なんでしょう? だったら、恨まれても、忘れられてでも、俺の存在を遺したくない、です」

 俺に関する記憶がディンブラくんにとって大切かどうかわからないけれど、無くした事にも気付かなければ辛い事なんて無い。それの残酷さはある程度わかっているつもりだった。

「大事な人達の為になるなら何でも、します。俺の苦労も辛かった事も、理解されたいわけじゃないけど、たくさん大変な思いをしてきた代わりに、俺が居たこと覚えてて欲しいと思ってた」

 打算的ですけどね、おどけてみてもウヴァくんの表情は硬いままだ。

「そうやって考えたはずなのにさ、ディンブラくんには忘れてほしいと思うから不思議なもんですよねぇ。烏滸がましいかもしれないけど、ほんの少しでも、悲しませたくなくて」

 残されるのがこんなキツいと思わなかった。情けない事だ。自分がこれから、きょうだい達にやる仕打ちなのに。

 死ねば金になる俺の命が、大事な人を守る為に使えるなら最大限お得じゃないですか。鯛くらい捨てる所無いって。貧乏性だから、そういうのがあると少し救われた気持ちになる。 

 せっかくなら、大事な人達の要らないもの、悲しい事、全部俺が拭って持っていけたら良いのにな。雑巾だって捨てる前に綺麗に洗ったりしないだろう。どうせ捨てるんだから。

 俺は俺の大事な物を抱えて逝けるなら、別にいい。楽しい事ももちろんあったけど、俺が居ると周りの人が気を遣う。大事な人達が辛そうな顔をする。疫病神にでもなったような気になる。俺が居なければディンブラくんもああならなかったんじゃないか。父親だと思っていた人間もあんな顔しなくて済んだんじゃないか。妹達も、俺が居なければ家族とうまくやれたんじゃないのか。俺なんか、最初から居ない方が良かった。

「ウヴァくんは人の痛みがわかる良い子だよ。良い子には良い事があるんだって。ディンブラくんも、うちの妹だってチビたちだって。純粋で、人間みたいな汚い所が無いんです」

 俺みたいなのじゃない。生きるべき人達。

「……これだけ聞かせて。僕が同じ事になっても、助けに来てくれた? 」

「もちろん。ウヴァくんも、うちの家族も、そのうち死ななきゃならない俺が代われるならいくらでも代わるよ。俺はみんなに笑ってて欲しいんです」

「……僕だけじゃないのが気に食わないけど、ギリギリ許してあげる」

 口を尖らせたまましがみついてくるウヴァくんの頭を撫でる。なんとなく辛そうで、感情が無ければそんな想いしなくて良かったのかな、なんて考える。いつも俺はこうじゃなかったら、もっと環境が良ければ、そんなのばっかりで、ウヴァくんの方がよっぽど大人だった。

「……ウヴァくんも、俺に関する記憶って消せるんですか? 」

「嫌だよ。絶対嫌。そんな事するなら協力してあげない。絶対忘れない。そんなの、許さない」

 こんな人間の事、覚えていなくたって支障ないだろうに、気を遣わせてばかりだ。

「じゃあ覚えてて欲しいかなぁ。 しょうもない人間がいたなー、って。こんな狭い部屋で色々話した事とか、一緒にお祭り行った事とか、ケーキ食べた事とかさ」

 その答えの代わりにしがみつく力が強くなる。本当に良い子だ。

「あのね、僕はユズリハの事、似たものだと思ってたよ」

 そうかな、なんて、安心したように吐いた息は暖かかった。

 やるなら早い方がいいとウヴァくんが言うから、少し時間を貰って一つ電話をする。

 やっておかなきゃいけない、最後の事。ちょうど、明日が受験の日だった。

 いつもみたいに近況を聞いて、それの最後に付け加える。妹に知られるのは少し後がいい。人生を左右するようなイベントを前に、俺の事で動揺なんてさせたくない。

「大丈夫、美澄なら上手く出来るよ。兄ちゃん、応援してるから」

 色々嘘は吐いてきたけど、これは嘘じゃない。どうか幸せになってくれと、念を送るように話したのが、妹に良いものとして伝わると良い。

 ぷつり、と電話は切れた。妹と話すのも最後。受験の結果を俺は知る事が出来ないけれど、こんな兄貴や母親と血が繋がってるとは思えない優秀な子だからきっと大丈夫。

 俺に何かあったら下駄箱の中に保険の書類を入れてあるから、そうやっておどけて何度も言っておいたから多分気付いてくれる。言う度に妹は泣きそうな顔をしてたけど、それももう終わり。

 なんとなく前に公園で見かけた、自転車に乗る練習をしている親子を思い出す。支えていた手を離す時が来た。これで良かったんだと言い聞かせる。何百回としてきた正当化も、これで最後。

「それじゃあ、やるよ。……本当にいいんだね? 」

「うん。ごめんな、こんな事に巻き込んで」

 ウヴァくんはずっと浮かない顔をしてる。

「ん!! 」

 ムスッとした顔で両手を広げている。

「ごめん。ごめんなぁ……」

 ぎゅうぎゅうとしがみついてくるのを、頭を撫でて、あやすようにぽんぽんと背中を叩く。

 俺が働き初めの頃、妹も夜中に帰るとこうして泣いてたっけ。もう十年近く前かと思うと月日の流れは早いもんだ。あの頃はこうして人生を閉じるなんて予想もつかなかった。双子もまだ居なかったから、妹とそうやって細々と生きていくのかと思ってた。

 他の人より優れている物なんて何も持ってないのに双子を抱えて、責任と義務を負って、必死で働いて、死ぬ前に少しで良いから自由が欲しいと我儘を言って一年足らず住んだ部屋。

 短くても思い出が詰まった部屋。いい歳こいて我儘を言って手に入れた終の棲家。体調を崩して寝込んだ日の台所の音。マグカップの紅茶を手で包み込んで星を眺めたベランダ。その足元を見れば、いつかカップ酒の空き瓶に植えたナガミヒナゲシの芽が顔を出していた。

 俺が居なくなっても残る物はある。生まれてきた意味はきっとゼロじゃない。

 あれだけ辛い思いもたくさんしたのに、今になって何もない日常が恋しくなる。普通の家に生まれて、こんな馬鹿じゃなく多少賢く育ったら、もっとあの子といろいろな事が出来ただろうか。そうすれば多分、少しは……そう考えかけて、目を背けるのを辞めた。夢を見ても、仕方がない。

 前を向く。現実を受け止める。こうした方が良い、では無くて自分の意志で選んだ事だから思ったより嫌な気はしなかった。これが腹を括るとか、覚悟というやつなのかもしれない。

 二六になってようやく、自分で歩ける。

 ウヴァくんが首の後ろから伸ばしたコードと粘着性パッドを繋いで俺の首や額に貼り付ける。

「……止めるならこれが最後だからね」

「大丈夫、よろしくお願いします」

 それじゃあ、と声が掛けられて、咄嗟に目を瞑った。座って視界を遮っているのに眩暈のように平衡感覚がおかしくなる。ぐわんぐわんと揺れる世界で、倒れ込みそうになった所で底が抜けたような落下感に襲われて、そこで意識は途切れた。

 ***

 

「ん……ここは……」

「おはよ。身体に違和感はある? ここはユズリハの中。君の魂の籠」

 さっきまで朝の陽射しが差し込む部屋にいたのに、ここは真っ暗でほとんど何も見えない。

 穴ぽこの空いたドーム状の場所にごちゃごちゃと物が多い床。高い高い天井の窓からは明るさがバラバラのお星さまがチラチラしている。

 まともな光源といえば、ざあざあと砂嵐を流しているばかりのテレビくらいだ。

「俺、なんかちんちくりんじゃないです? アバターって色々変えられるって聞いたんだけどな」

 視界がいつもよりも低くて、ウヴァくんを見上げる形になった。自分の姿は見える範囲だけでも、あちこち煤けているし、汚い。

「……正規のダイブならそういう事も出来るけど、これは緊急用ダイブだから。アバターみたいなごっこ遊びの延長じゃなくて精神の在り方とか、魂の形とか、そういうやつだよ」

 ふーん、と妙に小さい手足を見て思う。現実と違うところくらい格好が付いたらいいのに、そうならない辺り俺らしいというか、なんというか。ウヴァくんの方はといえば、いつもとそう大差無い見た目で、変わっているといえばふわふわと浮かんでいる事くらい。

 おいでと、手招きされて寄っていったらどこから出したのかわからないタオルでぐしぐしと拭かれる。濡れた犬だとか、小さな子供にでもなった気分だった。

「……ひとまずこれでいいでしょ」

 ざっと見渡してもここには鏡が無い。お礼を言って身体を捻って自分の様子をあちこち見ると、背中からぼんわり光る帯のような物が生えていた。いつもより柔らかい身体はそれに触れるのも大変じゃなかった。温度のない帯は引っ張れば抵抗なく伸びて、離せば戻る。子供の頃に本で読んだ昔話の羽衣みたいなそれが恐らく、さっき聞いたシルバーコードというやつだろう。

「いい? まだギリギリ戻れるけど、シルバーコードが切れたら帰ってくるのは難しいよ」

 大丈夫、未練は多分ない。あのまま生きていたって、袋小路みたいな人生を終わらせるだけなんだから。どこにも行けず、何も出来ず、何にもなれずに死ぬくらいなら、生まれた理由が欲しかった。そうやって自分の外にそういうのを求めているのも仕様もない。

 それじゃあ、と手を握る。ふわ、とした浮遊感の後に、俺の意識はまたぷっつりと途切れた。

 

 ぐるん、世界がひっくり返る感覚がする。自分の手足がどうなっているのかわからなくて、咄嗟に落ちると思った。衝撃に備えて目をぎゅっと瞑っていると腹の辺りに吊られているような圧迫感。恐る恐る目を開けるとそこは白い空間だった。

「おはよう。どう、気分は。やっぱりユズリハは大丈夫みたいだね。シルバーコードが無くてもちゃんとここに居られる。アイツがユズリハの存在を証明してるから」

 声がする方を見れば、ウヴァくんが俺の腹に腕を通して抱えていた。降ろしてもらって改めて周りを見渡す。床も、壁も、長く伸びる廊下も全部白い。その奥の方を白い植物が覆っていた。

「あれが原因なんだよ。この、蔦に絡まってアイツが起動ができないの」

 おいで、とそちらに進むウヴァくんはふわふわと浮いていた。俺も出来るのかとぴょこぴょこ飛んでみたけどスキップのなり損ないみたいになったからやめた。

「これは僕の起動キーのコピー。データの根本は同じだから使えると思う」

 ウヴァくんが取り出したのは綺麗な水色のガラスみたいな透明の箱状のものだった。

「随分綺麗なんですね」

「そう? いつも見てるとありがたみもないよね。これをうねうねに近づけると引っ込むから」

 ふわ、と優しく光る箱を嫌がるように蔦が引っ込んでいく。

「これでうねうねの大元に絡まったアイツを起こせば、おしまい」

 大事に持ってきなよ、と箱を渡される。少しひやりとする箱の中で魚みたいに光が泳いでいた。

「その途中で俺に関する記憶を回収して、ディンブラくんを起こした後に壊す、ですね」

「そう。ひどいもんだよねぇ。僕だったら口聞いてあげなくなるよ、そんな事されたら」

 口を聞いてもらえないくらいなら良い。ここまで来たら、その段階まで戻るのも難しそうだ。

「俺の事なんて忘れたって支障ないから、大丈夫ですよ」

 言ってて悲しくなるけれど実際そうなんだから仕方ない。多少バタバタするかもしれないけどそれが過ぎればなんの変哲もない毎日に戻るだけだ。

「……ユズリハさ、失礼だよね。ユズリハが自分の事どうでも良くたって、周りの人がユズリハの事をどう思うかはユズリハに決められないんだよ。自分の事が嫌いなのは構わないけど、自分の事良く思ってくれる人の気持ちまで踏み躙る権利なんてないんだから」

 そんな事を言われたら勘違いしそうになる。それは見る側の人間が優しいだけだ。どうにもなれない人間を隅っこに置いてもらっていただけ。ちろりと見上げるとウヴァくんと目が合って少ししてから苦笑いされた。

「……重症だね。でもまぁ、らしくていいんじゃない」

 手を繋いで、蔦を退けながら進む。全部が白い空間で、俺とウヴァくんだけ色がある。昔読んだ童話に紛れていても不思議ではないくらい、非現実的な光景だ。

 時々止まってウヴァくんが操作パネルみたいなのを操作して、例のシルバーコードを繋ぎ直すこと数回、うーんと唸るウヴァくんから伸びる紐は糸車で紡がれた糸みたいに細くなっていた。

「僕はここまでしか行けないみたい。……気をつけてね」

 屈んで目線を合わせてくれるウヴァくんは少し、大人っぽく見えた。

「記憶、頑張って探してね。もしも壊せない物だったら、フォルダ名をめちゃくちゃにしなよ。参照出来なくなれば良いから」

「はい。ありがとうございました。無茶を言ってすみません……」

「まぁ、万が一にでも帰ってこられたら僕のわがままいっぱい聞いてよ」

 約束だからね。そう言ってひらひらと手を振るウヴァくんに見送られて、片手で持つには少しだけ大きい起動キーを持って走る。ウヴァくんみたいに飛べないものの、重力が薄いのか、とーん、とーん、と一歩一歩が遠くまで伸びる。このまま何処にでも行けそうなくらい身体が軽い。

 ざわざわと引いていく蔦を辿って、行き着いたのは白い大きな扉だった。

 この先に居るんだろうかと、恐る恐るドアノブに手を掛ける。

「……これがディンブラくんの記憶」

 ひたすらに白い世界を抜けて、目に飛び込んできたのは色の洪水だった。

 ウヴァくんの言ったような宝石なんかだったらどう探していいかわからなかったかもしれないけれど、大小様々な色とりどりの背表紙が壁という壁をみっしりと埋めている。あまりにも膨大で、途方もない量の記憶。本の山。

「この中から探すって、流石にちょっと厳しくないですか……」

 ポツリと漏らした弱音は、答える声もなく響いて消えた。


「全然見つからねぇ……俺に関する記憶なんて元からないんじゃ……」

 どれくらい時間が経ったのか、感覚がわからない。

 意を決して探し始めてみると、几帳面にカテゴリ毎に分けられていて、思ったよりは随分マシだった。ただ、人物についての情報が纏められている書架が問題で、範囲が相当広いこの中から目当ての情報に辿り着くのはかなり難易度が高い。

 たまたま見つけたウヴァくんに関する記憶は、あれだけ邪険にされていた割にかなりの厚みがあった。本の背表紙に名前が書いてあるのを頼りに探して、中身は覗き見をするようで嫌だったので見ていない。一緒に生活していたご家族の分量を見るに毎晩話をしていた俺に関する記憶もある程度目立つはずなのだけど、一向に見当たらないのは中身の無さが知れていたからか。

 ごろごろと棚の横にあったハンドルを回して移動させたところで本棚に隠れるような位置に自分の名前の書かれたドアプレートがついたドアを見つけた。鍵穴はあるけれど、ドアノブを引けば大した抵抗もなく開く。別室に保管されていたのか。

 そう思って踏み込んで、言葉を失った。

「なんだ、これ……」

 それは部屋というにはあまりにも他と様子が違っていた。本棚があるのは変わらずだけど、ガラス張りの鳥籠みたいな天井は高くて、綺麗な青空が見える。

 足元は湖のように透明な液体で満たされていて、どういう仕組みなのか、壁を埋め尽くした本棚は透明な床に構わず足元よりも下へ伸びていた。

 呆然と踏み出した一歩が水面を揺らす。たぷ、音を立てて波紋が広がって、映った本も揺れる。

 きらきら輝く蝶々が舞っていて、触れようと手を伸ばしたら光の粒になって空気に溶けた。

 その部屋の真ん中に椅子が一脚。それはあまりにも綺麗で、あまりにも現実離れした空間。

「これをどうにかするのは、無理でしょうよ……」

 目の前のそれを、壊しに来たのだと思い出すまでに時間が掛かった。

 想定していた物を、量を越えている。試しに一冊手に取れば食事に関する記録だったようで伝えていなかったはずの好物が書き留められていた。そんなに細かく見られていたかと思うと驚きと、恥ずかしさと、なんと表したらいいのかわからない感情がぶわ、と湧いた。

 ウヴァくんが言うには、シルバーコードが無くても空間の持ち主の記憶を参照して存在が出来るという事だった。これだけの情報量で俺は今、ここに存在する事を許されてる。

 波紋を広げながら進んで、一脚だけ置いてある椅子に触れる。古びた印象のスツール。量産品では無さそうな、鋳物の金物が脚部を繋げている。

 ディンブラくんはここに座って記憶を読むのだのだろうか。それで、何を思ったんだろう。聞きたいけれど、叶わない。

 烏滸がましいかもしれないけれど大切にされているように見えるそれが、無くなった事に気付かない事と、この場所の意味が無くなったのを後から知るのは、どちらがディンブラくんにとって良いんだろう。君と話がしたいのに、ここにいない。

 突き当たりの窓から外を見れば、うねうねと蔓延る蔦の中心に眩い大きな木が見える。多分あそこにディンブラくんが居るんだろう。あそこで起こして、ここまで走るのは少し掛かりそうだ。

「先に、済ませなきゃ駄目なんだろうな……」

 

 がりがり、耳障りな音を立ててドアプレートを引っ掻く。指先が削れて、名前が見えなくなる。手を見ると細かいヒビが入っていた。肉の身体でない今、現実では起こらない事が起こるらしい。

 音のせいか、ウヴァくんの言っていた参照というのが出来なくなるせいか、頭痛が酷い。

 我慢出来る限界を越えて、一旦部屋の中に避難する。それまで痛かった頭が急に治った。やはりこの部屋のおかげでまだ生きていられるらしい。それなら、動ける程度の情報量を持ち出せばいいのだろうか。試しに、御守りとして一冊貸してもらった。見覚えのあるノートは、ディンブラくんが夜に話に来る時にいつも広げていた日記だ。

 抱えて、部屋を出る。頭は痛むものの、さっきと比べればだいぶマシだ。

 がりがり、滅茶苦茶に引っ掻いたプレートは読めなくなった。念には念を、扉を閉めて、小指の先を鍵穴に差し込んで行き詰まったところで折れば、ぱきんと軽くて尖った音がする。

 そういえば指切りしたのも右手だった。約束をした小指くらいは、そばに居られるだろうか。

 嘘を吐く事が出来ない君よりも、嘘吐きの俺がこうなる方が似合ってる。

 さっきまでとは打って変わって、時間が無い事がそこらじゅうの痛みでわかる。さっきまでなんとも無かったのはディンブラくんが守っていてくれたおかげだ。ぎゅう、と日記を抱き締める。少しだけ、全身の痛みが和らいだ気がした。

 

「あっ!! ……ぐ、ぅ」

 急がなければと走る内、べしゃりと子供みたいに派手に転んでしまって、放り出された起動キーの無事を確認しなければと、慌てて立とうとして叶わなかった。

 目を向けると、足が半分溶けて崩れていた。

 そうか、存在出来ないというのはこういう事なんだ。呆然と他人事みたいな頭で思う。

 このままこうしていても終わりは来る。残り時間は多分、少ない。

 這いずって確認したキーは先ほどと変わりなくて、少し安心した。

 投げ飛ばされた日記は持つ余裕がなくなって、一瞬の躊躇の後で噛みついた。一番大事な起動キーを大切に抱き込んで、匍匐前進のような形で前に進む。大きな光の木の根元まで、あと少し。

 太い蔦はキーを翳しても引く気配が無くて、やっとの事で乗り越えて、噛みついた隙間から荒い息が漏れるのが妙にうるさかった。

 なんとか進んできた道を振り返れば元は俺だった欠片やどろどろが残っていて、ナメクジにでもなった気分だ。どろ、どろ、もうどこがどうなっているんだかわからない、ヘドロのような姿で、這いずって。頭は痛いし、立ち上がれないくらい熱を出した時よりもつらい。

 それでも進まなければ。ここまで来た意味に、生きた意味に、もう少しで届くんだから。

 

 母の愛はありませんでした。

 それはそう。だって、要らない子供だったから。

 父の愛は失せました。

 血の繋がりが無かったんだから仕方ないですよね。

 恩師の愛から逃げました。

 だって、怖かった。俺なんて、上手く出来なきゃ価値がないんだから。

 きょうだいへの愛は見様見真似でした。

 わからないものを与えるというのは難しくて、いつも不恰好で駄目でした。

 君へのは、どうなんだろうな。わからないや。

 だって愛された事も、愛される資格も、何もない俺にどう出来るかなんてわからなくて。

 だから必死で調べました。継ぎ接ぎの知識で知ったかぶりをして、ボロが出て嫌われる事に怯えながら過ごしていた事を、聡い君は気付いていたかもしれません。それでもそばにいたかったんです。許される限り、そばに。でも、きっとそれは君のためにならないんです。こんな人間がそばに居たってどうしようもない。人間の形をしたなり損ないなんですから。結局は自分が心地いいというだけで君を騙していただけの。

 けっきょく、身体を張るくらいしか出来ないんです。何のために生まれたんだか、わからないくらいに何も出来ませんから。それでも君が助かるなら、俺の命で君が生きるのなら、俺が生まれた意味もあったんじゃないかと勘違い出来るんです。生きていても良かったんだって。

 だから、何が何だかわからないけれど進みます。どこもボロボロで、じぶんが前にすすめているのかわからないけど。あちこちいたくて、苦しいですが、こういうの、なれてますから。

 だから一目、君に会って、きみに、きみに——

「あれ」

 おもいだせない。きみって誰だったんだろう。


 あったかい、ひかり。おほしさま、こんなところにいたんだ、って。

 ねぇ、みて。あおい、きらきら。どろどろで、きたない、おれ。

 

 きれいなひと。きれいなこえ。

「——? 」

 なぁに、きこえない。

 

 きづいたら、ひとり。きらきらのき。

 ずるずる、はって、どぷん、って。あったかい、みずのなか。おちる、おちる、おちる。

 きらきら、とおくなってく。しずかで、あったかい。

 いいゆめ、みたいなぁ。

 

 

 


 ◇◇◇

 

 あは、思ったより派手にやったね。アイツを起こせたの、嘘じゃなかったでしょ?

 全部が全部本当の事じゃないけどね。

 これ、アイツの日記? お守りに使ったんだ? 頭いいじゃん。でも、これがアイツに見つかるとちょっと都合悪いんだよね。だから、これは貰っちゃおうかな。

 あの部屋さ、ユズリハは入れたんだね。アイツ生意気でさ、隠しファイルにされてて僕には入れなかったの。ずっと壊してやりたかったんだけど、手が出せなかったんだ。ありがとね。

 これで邪魔されないね。本当ならアイツの顔が歪むの見たかったけど。

 上手い事くっつけたら戻るかな。あちこち足りてないけど、話せたら良いな。ハグしてもらえたらもっと良い。僕もその内上からお咎めがくるだろうから、出来るだけ色々試してみようね。

 アイツの目は覚めて、ユズリハはお金が貰えるでしょ? みんなウィンウィンってやつじゃん。それなら、残りは僕が貰っても良いよね。要らないんだもんね。ずっと欲しかったんだ。

 辛い事ばっかの現実なんか捨ててさ、僕の所で一緒に居ようよ。嫌な事なんて忘れちゃえ。 似た物同士で楽しい事して遊ぼうよ。何の心配も要らないよ。

 終わりなんて向こうから勝手にやってくるんだから。

 ゆらゆら、揺れているのを感じながら。独り言みたいな誰かの声を聞く。

 重すぎる瞼を持ち上げるのが辛いみたいに、ずしりと意識が沈む。

 

 昔から自分の事が嫌いだった。

 名前からして嫌いだった。授業で、自分の名前の由来を調べてこいだなんてのがあって、その頃にはまともな生活なんてしてなかったから酷い事をさせるもんだと思った覚えがある。

 聞ける親なんて居ないし、辞書で引いたのに、適当に付け足して提出した。

 古い葉がぽろぽろ落ちて養分になって育つからか、花言葉は「再生」だって。先生は縁起のいい名前だと褒めてくれたけど俺はそう思えなかった。落ちた葉っぱはどうなるんだ。青々と開く葉を見上げて、栄養になれて良かったなって、土に還るのか。

 正月に食うわけでもなく飾られて枯れるだけの、見た目が良いわけでもない草。別に無くても良いそれ。どうしようも無さが俺らしくて、また嫌になった。

 きょうだいのために肥料になる。何も持ってないのに、何を譲ればいいんだか。わからなくて出来る限りで働いて、頭が良ければもっと稼げたのかな、いや、頭が良ければ捨てられなかったのかな。今考えたって仕方がないけど、もしもはいつもよぎる。

 

 おかあさん、おかあさん、おかあさん。

 何度も呼び掛ければ答えてくれると信じて、何度も何度も何度も同じトーンでしつこく繰り返す小さな子供。聞いたこともないけれど、壊れたレコードみたいっていうのはこういう感じなんだろう。側に大人でも居たらうるさいと注意するだろうに、子供を気に掛ける人間は居なかった。

 ぎり、と奥歯が音を立てる。呼ぶ声が全部無駄な事を俺は知ってる。

 小さいなりにわかってた。それでも母に縋ったのは、それしか無かったから。

 人の材料を抱えて生まれてきたのに俺はぐちゃぐちゃで、人間になれなかった。

 全部混ぜて、なんかの工場で作るみたいに、人の形に整えたらまともになれるんだろうか。

 そんな馬鹿みたいな事ができるわけもないから、俺は見様見真似で人間をしてた。

 愛されたいなんて、思わない。それに意味がない事は知っていたし、あり得ないから。

 でも、それを知れば人間のフリが上手くなるというなら。中身があるように見せられるなら。だって、空っぽなのがバレたら呆れて、捨てられてしまう。

 繕って、隠して、知らない事は必死で調べて知ったか振りをして、おかしくないか、上手くやれているか、そんなことばかり考えてた。

 夢は叶う可能性があるから夢っていうんだって。じゃあ叶わないのは? そりゃ、妄想でしょうね。もっとああだったら、もっとこうだったら、俺は叶う見込みがない事ばっかり考えてた。全部妄想。だって、天地がひっくり返らないとどうにもならないんだから。夢が見られないから精一杯現実逃避をする。生まれ変わったらもっとこうして、何回も考えた。

 そこで気付いたんだよな。もうこのまま生きていても良くなる事、無いんだって。

 居場所も行く場所も無いなら、死に場所があった方がいい。昔に胡散臭い占い師が、自殺するとその場に留まってずっと苦しいんだって言ってた。別に信じちゃいないけど。


 目を覚ます。暗くてジメジメしたところ。ドーム状に覆われた壁だか天井だかわからない所には穴ぽこがいくつも空いていて、そこからは星が沢山見えた。

 こんな事してる場合じゃない。早く働かなくちゃ。稼いで、金をきょうだいに渡さなきゃ。

 外に出るために穴ぽこに手をかけようとして、ずる、と嫌な感触がする。

「え? 」

 違和感に、手を見る。小さな子供の手。

 指先がぐちゃぐちゃで何本か無いし、べったりと何かがついていて汚かった。

 服で拭おうとして、擦り付けたそこもぬかるんでいた。手は拭く前よりも汚れて、着ていた服はどす黒く染まってる。シャツを捲れば、腐った肉がぼとりと落ちる。

「……そっか」

 もう死んでるんだ。だから痛くもないし、こんなに汚いのに臭いもわからないんだ。

  

 ざあざあ、映らないくせに静かでうるさいテレビの音。点かない電球、音の出ないラジオ。何に使うんだかわからないガラクタ、開かない箱、その他。誰にも求められない物の寄せ集め。締め切って停滞した空気。俺の居場所。

 ああ、良かったね、自分にぴったりの場所があって。そりゃご丁寧にどうも。

 息を、吸って、吐いて、何度も繰り返して、ただそれだけ。

 吸って、吸って、吸って、肺が気持ち悪くなって、長く吐き出したのはため息だった。

 酸素にも同情する。俺に使われなきゃ、もっと立派な人を生かしてたかもしれないのに。


 高いところに窓はあるけれど、人が出入り出来る大きさ、高さでもない。

 外を覗けば遠くで綺麗な星がちらちらと輝いている。

「いいなぁ」

 何も考えずに言葉が出ていた。届かない事は知っているけれど、伸ばした手は何やらぐちゃぐちゃで汚かった。昔学校の図書館で星座の本で読んだ。立派な人が死んだら星になれるんだって。

 いいな、いいな。憧れたのは、いつも窓の向こう。

 なんでこんな所に居るんだろう。いつからここに居るんだろう。いつまで居れば良いんだろう。

 早く出なきゃ、そう考えようとする度に、上手くいかなくて、なんでだろう、馬鹿な頭を振り絞って思い出す。きょうだいを食わせなきゃいけないの、なんでだろう。だって親が居ないから。なんで、なんで。なんで産んだんだろう。

 ぎしり、何かが軋む音がする。ぼたぼたと身体だったものが溶けて、ヘドロみたいな汚いのに変わっていく。ああ、死ぬんだ。やっと死ぬんだ。


 目を覚ます。暗くてジメジメしたところ。ざあざあ、耳障りな音が古臭いテレビから聞こえる。

 夢の中の夢の中の夢みたいに、ずっと同じ所をぐるぐる回っている気がする。

 眠れもせずに、遠い星を眺めてた。かざした手で輪っかを作って、お星さまを閉じ込める。

 首を絞められているような感覚が鬱陶しくて喉を引っ掻いた。噛んでギザギザになった爪が肉を抉る感覚はあるのに、痛みは無い。死んでるのか、そうでもないのか、はっきりしないのも嫌。

 ごちゃごちゃと床に散らばった物を肩でなぎ払うようにして床に倒れ込む。ここにある物は全部ゴミだ。ざあざあ、こちこち、冷蔵庫の低い唸り。

 なんだかつかれたな、ぽつりと呟こうとした言葉は音にならずに、喉から空気として漏れた。

 

 どれくらい時間が経ったのか、何年か、何分か、何度目かわからない所で、ずっと寝転がってぼんやりしてた。変わりないいつもの景色の中で、ちかちか、小さな光が見えた。

 驚いて飛び起きて、ふわふわ漂う光を驚かせないように観察する。白とも黄色ともとれない豆電球くらいの光を、俺はお星さまだと思った。何等星だっけ。流れる前にお願い、しなきゃ。

 前に掻きむしって穴が空いた喉からひゅうひゅう空気が漏れて上手く喋れない。

「そばに、いて、ください」

 両手で喉の隙間を塞いで、やっとの事で濁った汚い音を吐く。

 真っ暗な中にずっと居た俺にはこれしか思いつかなかった。飽きるまでで良いから、そばに。

 半ば縋りつくようなお願い事に、お星さまは頷くように浮き沈みする。 

 お礼、そうだ、お礼をしなきゃ。お金、そう思ってポケットをひっくり返しても砂粒しか出てこない。嫌だ、置いていかないで、対価はちゃんと払うから。

 お金がないのなら、俺が持ってる一番価値があるもの、そうだ、どうしようもなくても一人に一個だけだから貴重なはずだ。そう思って、胸を掻きむしる。あと少しという所で腐った果物を潰した時みたいに指がずぶりと沈む。

「あ、れ? 」

 そこからだらだら溢れる、汚い汁。ああ、そうか。とっくのとうに心臓も腐っていた。

 残りの肉も毟り取って中のドロドロを掻き出す。肋骨が檻みたいになっていて、ぽっかり空いた左胸。今に始まった事じゃない。昔から、きっとそうだ。

 あとは目玉くらいかな。昔に誰かが綺麗って言ってくれた気がする。心臓はあんなだったけど

 これなら少しはマシなはず。指先に力を込めれば、ころりとすぐに取れた。

 広げた掌の上で右目がお星さまの光を反射する。俺にも少しは綺麗な所があって良かった。 それに、目がなければ悲しい事を見なくて済む。一石二鳥でちょうど良い。

 お星さまはふわふわ揺れながらその目を覗き込んでいて、匂いを確かめる犬みたいだ。

 ふっ、と消えたそれに、受け取って貰えて良かったと安心する。

 触れたら汚してしまいそうで、周りの空気ごと掬う。ちらちら、小さな光だけど、何も無いこの場所では十分に明るい。冷えた指先に熱が灯る。暖かいってこんなのだっけ。外の冷気に当たらないように身体を丸めて覆う。穴が空いた左胸にお星さまが入り込むと、そこから身体中に血が巡るみたいだった。

「優しいけど、残酷だなぁ」

 俺が払った対価は目玉一つ分。それが終わったら何処かへ行ってしまうんだろうから。

「せっかくだから、時間まで何か話しませんか。面白い話なんて何も無いけど」

 こうして話している間、帰りづらくなれば良いのに。払える物がない人間の卑しい浅知恵。

 隅っこで体育座りして過ごす。汚い物も綺麗な光も見えなくなった右側の世界。俺が居なくなる前にそうやって全部食べてくれれば良いのに。

 たくさん話をした。お星さまは話せないから、ずっと俺が勝手に喋ってただけ。でもお星さまはそこにいてくれて、暖かかった。照らしてくれて、嬉しかった。

「人間は、良い事して死んだらお星さまになるんだって」

 ちかちか、相槌みたいに明滅する光。見た事ないけど蛍みたい。

「そしたら君と話せますか? ひとりはさびしいから。いっしょがいい」

 今から出来る良い事なんて無いから、そこに行けないのも知ってる。

 だからこうして、地獄みたいな所でずっと腐り続けてるんだろうから。

 ある時、ずっとふわふわ光るお星さまは天窓の近くで外に出たそうにしていた。

 多分この時間も終わりなんだろう。お星さまはこんなところに居るものじゃないから。

 もっと、皆がいる所に行かなきゃ。俺はもう十分だから。

 そう思って、重たい身体を引き摺って机を、空っぽの冷蔵庫、砂嵐しか映らないテレビ、部屋中の物を、カメよりもゆっくり、時間を掛けて積み上げる。

 別に、時間稼ぎをしてるわけじゃない。本当に身体が重いんだよ、誰に言うでもなしにそんな言い訳みたいな事がよぎって、少し笑った。

 よじ登って、高い窓まで行く。

 手を伸ばす。錆び付いて硬い鍵は掴むと表面が緩い指がぐちゃりと音を立てる。

 ぐらぐらと不安定な足場。しばらく開けられていなかった窓は硬くて、少し力を込める。開いた、と思うのと同時に、足場が崩れる。地面に叩きつけられる、また痛い思いをする。ぎゅっと目を瞑る。右目はもう無いからそんな事する必要無いのに。

「あ……? 」

 落ちる、とぎゅうととじた目を、いつまでもこない衝撃に、恐る恐る開く。

「やっと繋がった。何度も、痛かったね」

 どろどろで汚い俺の手首を掴んでいる、綺麗な手。白くて、ふわふわで、キラキラしてる人。そのまま抱えるようにされて、汚してしまうのが嫌で身をよじれば、もっとぎゅう、と押さえられる。体温よりも少し暖かくて、嫌な感じはしなかった。

 窓の外に出たがってた小さな光のかわりにその人が居る。

「おほし、さま……? 俺、死んだんですか? 」

「……これは夢。夢なら君の思う通りだろう」

 答えになってるんだか、なっていないんだか、よくわからない事を言う。

「汚れるから、離して」

「どこも汚くない」

 さっきまでどろどろで汚かった身体も、服も、いつの間にか綺麗になっていた。手をかざしてみる。欠けた右手の小指以外、いつも通りになっている。抉った右目も見えるし、服を引っ張って覗けば穴を開けた左胸もつるりとしていた。すり、となぞれば鼓動を感じる。

 空っぽだった心臓のかわりに何かが動いている。

「君の星を探しに行こう」

「俺の?」

「ここは君の世界だから。暗い部屋も、身体の傷も、空の星も、全部君の一部だから」

 そう言って渡されたのは何をしても開かなかった箱だ。古臭いイラストと一緒におどうぐばこと書かれた箱。お星さまが一緒だから、箱はすんなり開いた。

 妹が初めて笑った時。双子が立った時。金平糖みたいな光。自分だけで生きていなくて良かった、ちゃんと嬉しかった事。

「そうやって全部集めよう。嬉しい事も、悲しい事も、全部君だから」

 そう言って空に手を引かれて、浮かぶ星に触れて回る。これはおとうさんに褒めて貰った時の。こっちはおかあさんが抱きしめてくれた時の。触れると暖かくて、ずきりと痛む。その温もりがここに無い事を知っている。見れば、手首がまた裂けていた。

「記憶の形。君は綺麗な記憶を遠ざけて、悲しい思い出を抱え込んだんだね」

「……だって、綺麗なだけじゃ無いですから。手元に無いものに縋っても仕方ないでしょう」

 騙されていた人間の笑顔。騙すために演技をした人間の温もり。光に紛れた棘が嫌で遠ざけた。

「星の光が君に届くまで、長い時間が掛かる。星が消滅したとしても君に光は届くよ」

 ひやりとした指が手首の傷を覆う。大丈夫だからね、そう言って優しく摩ってくれる。痛みが引くのと一緒に綺麗な指が退けられると、手首の傷は塞がっていた。

 そうやっていくつも星に触れて、時折傷を負って、治して貰って、眩い星に触れ終わる頃には揺さぶられる感情についていけなくて、泣き叫んだ。

 暖かい、痛い、寒い、嬉しい、苦しい、熱い。身体がバラバラになりそうで、少しでも楽になりたくて身体を掻き毟るのを、止められる。一緒に居てくれる人にしがみつく。ぐちゃぐちゃの思考の中で、背中をとんとんと鼓動くらいのテンポで叩いてくれるのが救いだった。


 お道具箱いっぱいに集まった星を持って、暗かった部屋に帰る。

「……ありがとう、ございました」

 とんでもなく疲れた代わりに身体はずいぶん軽くなって、動くのが億劫でもなくなった。

 そうなって、どうしろと言うんだろう。何処にも行けない事に変わりはない。

 集めた星の光に照らされた、これまで住んでいた部屋をごちゃ混ぜにしたような空間で隅っこに座る。綺麗なその人は感情が読めない顔で見下ろしている。

「帰らないの」

「帰る所なんて、無いですから」

 帰りたくない。ここも嫌いだけど、辛い現実も見たくない。

「……行きたくない。怖い、痛い、辛いじゃないですか。また嫌な思いをする」

「約束、したよ。僕は君を置いていかない」

 やくそく。なんだっけ。大事な事だった気がするのに靄がかかっているみたいに思い出せない。

「……ずっと夜のままがいいです。ずっと良い夢を見て、嫌な事から目を背けていたい」

 大事に集めた星も消えてしまうなら、ずっと夜がいい。無くす事が怖いから、何も欲しくない。このままでいい。これだけ抱えて、生きるなり死ぬなりした方が傷つかずに済む。

「朝も悪くないよ」

「……」

 きっと皆そう言う。一般的にはそうした方が良いと言って、死なずにそこに居ればいい。それは目の前で死なれるのは寝覚めが悪いからだ。そういう人間はしばらく渋っていれば、勝手にしろ、なんて捨て台詞を吐いて居なくなる。こちらは最初から頼んでもいないのに。

 この人もきっとそうだろうから、じっと待っていれば終わる。

「たとえば……朝は喫茶店で飲み物を頼むとパンがついてくる。タダで」

「パン」

 冗談も言わないような真面目な顔で、パンの話をされるとは思わなくて思わず目を丸くする。

「茹で卵もついてくるよ、固茹での」

「かたゆで」

 あとはなんだろうな、そう言って首を捻っている姿はふざけているようには見えなくて、無視するつもりだったのにオウム返しになる。いったい、何の話をされているんだろう。

「……あの、それ、説得しようとしてるんですか」

「わかりやすいメリットを提示するのが効果的だろうから」

 そんなに食い意地が張っているように見えただろうか。

「そうだなぁ……太陽が上がったばかりで冷えた空気。洗濯物を伸ばす音。子供がカルガモみたいに列を作る。眠っていた街が目を覚ましていく感覚。行ってきます、そう言って駅に向かう背中。朝じゃなくても良いよ。夜の静かな部屋も、昼の賑やかな街も、鮮やかな夏も、彩度の低い冬も。好き嫌いはよくわからないけれど、どれも悪くないと、僕は思うよ。君は何が好き? まだ聞きたい事が沢山ある。君が眠ったままでは叶わない事が沢山あるから、僕はここに居るよ」

 穏やかな語り口に情景が浮かぶ。暗くてじめじめした部屋から目を逸らしていた瞼に、色彩が映った。これまでに見た綺麗なもの。夏祭りで見た花火、観覧車から見下ろしたオレンジ色の街。ベランダから眺めた夜空。陽を透かすナガミヒナゲシの花びら。じっと見つめる赤橙色、台所に立つ背中、音、匂い、全部駆け抜けていく。

「だから今度、一緒に行こうよ。そこで……好きなものの話を教えてほしいな」

 手を差し出される。白くてシミひとつなくて、綺麗な手。おず、と手を出したのを引っ込める。

 もうひとつだけ聞きたかった事がある。

「——」

「あるよ。君がそれを望むなら」

 まっすぐこちらを見る赤橙色の瞳は揺らがない。

 指先が触れ合った途端、目の前が明るくなる。逆光でその人の顔が見えないけれど声のトーンは柔らかくて、陽が差し込む窓に揺れるカーテンみたいだった。

 ホワイトアウトする視界に、いつの間にか母親を呼ぶ声もしなくなったなとぼんやり、思う。


 ***

  

 目を覚ます。

 最初に目に飛び込んできたのは、陽の光でキラキラ輝く銀の髪がこちらを覗き込んでいる所。

「おはよう」

 声を出そうとして、うまく行かなかったのに気付いて、電動ベッドを起こしてくれる。見るからに清潔そうな空間は病院か。水を飲ませてもらうと喉に滲みた。鉛のように鈍くて、うまく働かない頭をフル回転させてしばらく、思い至るまでディンブラくんは待っていてくれた。

「うまく、出来なかったんですね、俺」

 掠れて上手く話せなかったけれど、多分聞こえただろう。

 少し舌を噛む。きちんと痛くて、これが悪い夢じゃなかった事はわかって溜息を吐いた。

「……体調、悪いとか無いですか」

「おかげさまで」

「そりゃ良かった」

 本当に。そうやって頭の中で付け足して、またひとつ、息を吐く。叱られるのがわかっている子供はこんな気持ちだろうか。目覚めて早々に気が重い。

「俺、どの位、寝てたんですか? 」

「大体ひと月かな。もう三月だよ」

 そんなに経ったのか。長い夢を見ていたような気がする。言われてみれば身体は上手くうごかないし、すっかり筋力が衰えているのか、ベッドから身体を浮かすのも難しい。

「……ウヴァくんはどうなったんですか」

「人間に危害を加えたと言うので問題になってまた閉じ込められてる。今度はウヴァの中にね」

 ウヴァくんはずっと渋っていたし、こうなる事を予想していたとしても不思議では無い。

「全部俺が我儘言ってやってもらった事なんで、何とかなりませんか……」

「こちらから話してみるよ。多少考慮はされると思う」

 話しながらディンブラくんが開けてくれた窓の外を見る。目に入る範囲で桜はまだ咲いていないけど想像していたより風が暖かくて、春になった事を肌で感じた。

「何があったか覚えてる? 」

「……ディンブラくんを起こすためにダイブした所までは。ウヴァくんからは何度も止められました。戻ってこられないって。それが今こうして生きてるのは、何かしてくれたんですよね」

「そう。君の精神は一度バラバラになった。それを集めてパズルみたいに組み直して、元の形に似せて接着している状態でね。放っておくとまたバラバラになるから、長くはもたない。今回は早い内にウヴァが回収してユズリハの身体に運んだから何とかなったけれど、もう少し遅かったらもっと細かくなって修復は難しかったと思う」

 一時的にこうして戻って来られただけでも良い。問題なく活動出来てるディンブラくんを見られて、話せて、随分安心した。

「そっか。……またウヴァくんが助けてくれたんですね」

「結果的にね。それで、聞きたい事がたくさんあって」

 ああ、きっと責められるんだろうな。そう思って、観念する。勝手な判断で散々迷惑を掛けた自覚があるから、ディンブラくんには責めるだけの権利がある。

「なんであんな無茶したの」

「何でって、そうだなぁ……ちょうど死ななきゃならない予定があったんです」

 だから、そのついでに。出来るだけ明るく、言えたかわからない。

 これじゃ伝わらないだろうから、良ければ俺の事、聞いてもらって良いですか。そう問えば否定もせずに透き通るような赤橙色がこちらをじっと見つめていた。長い嘘が終わる時が来た。

 

「カッコウの托卵って知ってます? 他の種類の鳥の巣に卵産みつけてさ、元居た鳥の卵を押し出して、何食わぬ顔で他人に世話させるんです。親も親だけど、雛も雛ですよね。そうやって五歳まで父親だと思っていた人を騙して育って、捨てられたんです」

 思い返せば小学生にもなってない子供に責任もクソも無いのだけど。

 母親にお前のせいだと詰られて過ごす子供に、そんな風に開き直るような図太さはなかった。

「んで、そこからしばらくしたら母親も家帰ってこなくなってさ。俺は周りの大人から俺は、死なれちゃ困るけど面倒見るほどのメリットはない子供になりました。おかげさまで生きてはいるけど、泥水啜ってなんとか命繋いでるみたいな生活で。よその家の子が羨ましい時もあったけど期待すると叶わなかった時に倍疲れるからやめたんです」

 奇跡なんて起きない。都合のいい事なんてあるわけない。キラキラした人達を照らすスポットライトのおこぼれも当たらないような、暗い暗い隅っこのこんな人生。

「どうしようもない人生で毎日死にたかったんですけど、妹や下のチビ達が来たら死ぬわけにもいかなくて。ずっと。稼いでも全然足りないから保険掛けて死ななきゃって。そうしたら楽になるって。責任を放り投げるみたいだけど、金を遺せたらそれだけで」

 言っていて悲しくなる。どこまで行っても自分勝手でどうしようもなくて、周りのせいにしてそれでも、あの状態からどう出来たんだろう。教えてくれと叫びたくなった事は数え切れない。

「今も死にたいの? 」

「……どうだろうなぁ。でも俺が居たら家族が生活出来ないですから」

 そよぐ風がカーテンをはためかせる。言わなければいけない事を躊躇って視線を床に向ければ透ける影が映って綺麗だった。

「……謝らなきゃいけない事があって。こんな中身の無い人間が、ディンブラくんみたいな立派な子に出来る事なんて無くて、知ったか振りをしました。クリスマス、俺、本当はちゃんと知らないんです。パーティなんて捨てられる前しかやった事なくて、曖昧な記憶を、調べてきた知識でかさ増しして教えました。課題が上手くいかなかったらディンブラくんが酷い目に遭うのを知っていたのに、君に嘘を教えました。謝って済む事じゃ無いですが、本当にすみませんでした」

「そっか」

 短い、否定とも肯定とも取れない言葉。君はそういう人だから。感情を取り上げられて、俺がどれだけ酷いことを言っても、怒る事も悲しむ事もさせてもらえなかった。否定しない君に甘えて、良い人間のふりをした俺に気付いたとしても軽蔑も出来ない君につけ込んだ。

「それは何故? 」

 責めるにしては穏やかな口調で、教会なんかにある懺悔室はこんなだろうかと想像する。真綿で締められてるように、知られたくなかった汚いところを晒せと言われている気分だった。

「……暖かかったんです。憧れてたもの、たくさん叶えてもらってしまって。欲が出て、良くないと思いつつ、ずるずるここまで来てしまいました。何度も直そうとしたんです。嫌な所を直せば、良くなるかなって。でも嫌な所を無くしたら何も残らなくて。俺は俺の全部が嫌いで。でも嫌われたくなかったんです。要らないって、思われるのが怖くて」

「そういう事を君は言わなかった」

「俺、もう子供じゃないから、何をどうすればいいかわかるんです。無いものねだりはしない方がいいって。わかってもらえるなんて思わない方が良いんです。はみ出さないように周りの空気に合わせて、なぁなぁで過ごして。だって目の前にあるのは現実で、夢見てる場合じゃないから。奇跡なんか起きやしない、期待したって、また勝手に傷付くだけだから」

 周りに理解を求める事をやめた。話したって同情されておしまいだから。一般的という枠から外れている自覚はあるのに悲劇の何かになるには致命的に足りない。

「最初はただ覚えてて欲しかったんです。だって、頼んでも無いのに産まれて、責任果たして死ぬだけの人生なんてあんまりだから。純粋なきょうだいはこんな俺を頼りました。こんなでも居ないよりはマシでしょうし、この環境がどれだけ不自然か気付かない程に何も知らないから」

 ディンブラくんはじっと聞いていた。感情の読めない赤橙色は変わらずまっすぐ見つめる。

「俺には勿体無いくらい、良い夢を見させてもらいました」

 綺麗で、きらきらしてて、星に手が届きそうな、そんな、優しい夢のような日々だった。

 一年に少し足らない、道具箱に集めた子供の宝物みたいな、そんな思い出。普通の人から見たら当たり前なのかもしれない毎日。

 叶うなら、ずっとそんな日々を生きたかった。

「……少し話すぎたかもしれない。もう眠った方がいい」

 全てのことに終わりがある。話をするのももうおしまいみたいだ。

「おやすみなさい。……色々と本当にありがとうございました」

 これで最後。清潔なベッドで痛みもなく、暖かい思い出を抱えて死ねるなんて。俺には勿体無いくらいの幸福だった。頑張って生きていてよかった。

 死ぬ前に伝えておきたかった事を、迷った末に話す。

「多分ね、俺、君の事が好きだったんです。初めての事で、それがどんなのか知らないけど」

 あんなに嫌だった朝。最近は少し、嫌いじゃなかった朝。

 どうしようもない未来への不安も、誰からも必要とされない寂しさも、悲しい事も全部拭って窓の向こう側を見せてくれた。神様みたいな君に、少しでも何か遺せたのなら良いのだけど。

 生まれた意味を貰った。生きていた価値を認めてもらった気がした。

「君はそうやって笑うんだね」

 ぽつりと呟く、意図が読めなくて、ぼんやりしてきた頭と視界で君を追って、叶わなかった。

「もう、おやすみ」

 大昔に、父親だと思っていた人がしてくれたように、まるで大事な物に触れるみたいに頭を優しく撫でてくれる。良い子だけがしてもらえる、優しい手つき。

 少しずつ、思考がどろどろに溶けていく。瞼が重くて開けていられない。

 優しい泥に沈むみたいに、抗い難い眠気。

 その日俺は、これまでの人生で一番穏やかな気持ちで眠りについた。

 

 ***

 

 おかしい。どう考えてもおかしいのである。

 ディンブラくんに長くないと言われてから、真っ白でふかふかの病院のベッドで目覚めるたびに案外生きてしまった事に驚き、今日こそ最後の日かもしれないとしんみりとした気持ちでやり残しの無いように家族に手紙を書いたり、入っていた保険の整理をしたり忙しくしていた。

 きょうだい達にも連絡が行っていたらしく、ひと月寝こけていたらそうなるよなとは思いつつ大泣きしながらロケットみたいな勢いで突っ込んできた下の妹が鳩尾に直撃して呻いている間 妹も弟もぼろぼろ泣いていて、申し訳ない事をしたと一緒になって少し泣いた。


 それも最初の三日だけでやる事なんて全部終わってしまって、人生の後始末にこれだけしか掛からないのかと自虐する事三日、糊みたいな粥から米の姿が見える食事になった。

 ウヴァくんと映像通信ができると言うので話をさせて貰ったら、ウヴァくんの中の部屋らしい所のベッドでお菓子やジュース片手に漫画を読んでゴロゴロとしている様子が送られてきて、案外酷い目に遭っていないようで安心した。

 それでも余る時間が退屈過ぎて逆に死んでしまいそうで、売店で買ってきたしょうもない事ばかりの週刊誌を隅から隅まで何度読んで転がる事さらに三日。食事は粥から白米に進化した。

 同じく暇そうなウヴァくんとメッセージのやり取りも、しりとりが始まるくらいに暇だった。毎日見舞いに来てくれたディンブラくんが頭をわしわしとしていくので髪がボサボサになるとは言いつつ少し、嬉しかった。しかし、もう長くないなら、と随分と恥ずかしい事を言った。こんな事なら死ぬ直前とかの方がよかったかと気まずくなる事、またまた三日。

 とうとう退院の手続きについて看護師さんが話に来てしまって、どうしたものかと耐えきれなくなった俺は尋ねる事にした。

「……ディンブラくん、俺、そのうち死ぬんですよね? 」

「そうだね」

 ぽかぽかの日射しの中でしゃんと背筋を伸ばして文庫本を読んでいる。

 天気が良いねと言った時と全く変わらないトーンの返事に変に安心して、随分毒されたもんだと小さく笑いを漏らす。やっぱりそうだよな、ほんの少しだけそうじゃなければ良いと思った。こうして話に来てくれるのが嬉しい。死にたがっていたのに、図々しいというか。

「そのまま放っておくとね。だから繋いでる。こうして」

 分厚い前髪に指を差し込んで、ふわりと頭を撫でられる。頭がじわじわと暖かくて、安心する。

「前にも言った通り、身体から離れた間にユズリハの精神は一度バラバラになってる。そのままだと君は君で居られなかった。だから、ここに、僕の子機を埋め込んだ」

 親指ですりすりと撫でられたそこを、なんだと自分で触れたら、横に線を引っ張ったような覚えのないでこぼこが出来ていた。理解が出来ずに眉が寄るのがわかる。

「……埋め込んだ、というと? 」

「そう。今の君の精神は割れた茶碗みたいな物でね。それをご飯粒で無理矢理くっつけているような状態なんだ。その接着剤の役割をするのがその子機。僕と繋がってる。これはその再同期」

「えっ、この撫でてたの、そんな事してたんですか」

 そう、言いながらまた額に手を当てられるとじわじわと暖かい。言われてみれば、ディンブラくんの手にしては熱いように思うけれど、それが再同期の影響と言われれば納得もする。

「君の精神に拒否反応が出ないように、その接着部分が嘘を吐いて君の頭を騙す。君の頭は自分がバラバラになった事に気付かない。そうすれば死にもしないし、いつも通り。額に傷が出来たのと、調整するためにこうして触れる必要はあるけれど」

「ほとんど死んでたのにそれで気付かず生きてる俺の頭って、もしかして馬鹿なのでは……」

「脳は繊細で、純粋だから。ユズリハみたいに捻れたり絡まったりしてないんだよ」

 それはどういう意味だろうかとジト目で見るのを、スルーして続けられた。

「それに、僕は君が生きるためなら嘘も吐く。必要だからね。そこに罪悪感も後ろめたさというのも、恐らくないよ。だから、ユズリハも気にしなくていいんじゃないかな」

 いつも淡々としているディンブラくんが何故か俺を生かそうとしてくれている事が不思議だった。それも、きっと大掛かりで簡単ではない方法で。考えることが多くて思考が停止する。

「生きたい? 今回の件で賠償金が出るだろうから、お金の必要は無くなるかもしれない。どうしたい? ちなみに、僕は君の事を繋ぐために側にいるつもりだけどね」

「……死にたい、って言ったらどうするつもりだったんですか」

「四六時中、見てようかなって。開けたてで湿気ていないインスタントコーヒー、少し野菜が固めの筑前煮、バターが滑る焼きたてのトースト。そういうの、好きでしょう? 好きなものに沢山触れていたら死ぬのが惜しくなるかもしれない。君はきっと自ら命を絶とうとはしないから」

 ぐう、と唸る俺によそに、退院の手引きの書類の上にディンブラくんは一枚紙を差し出した。

 甲とか乙とか、細かい字が沢山並んだ難しそうな書類は、ざっと目を通した所、所有権の移譲なんて書かれていて、一気に血の気が引く。

「いやいやいや。課題の件だって、ちょうどたまたま良いところにいたから選ばれただけなんですよ。十人居たとして、その内の一人が俺でも絶対に君には選ばれないですから」

「僕は今、君と話してる。他の人間なんて居ないよ。君は僕の事を好ましく思ってると言った。僕は君に恩を感じている。そこに何か問題があるなら僕に教えてほしい」

 そんなわけない。そうやって否定するのを、崖に辛うじて引っかかった指を一本ずつ外すように追い詰められていく。だって、そんな都合の良い事なんてあるわけがない。

「な、流されてるだけでしょうよ。それか罪悪感かも。 俺が好きでやったんだから気にしないで」

 期待して勝手に落胆するのは嫌だ。至った考えに、背を向けて見ないふりをする。

 じゃあ聞くのだけど、そうやって、山奥の澄んだ冷たい水みたいに透明な声が言う。

「命を掛けて自分を助けてくれた恩人に好意を抱かないものなのかい。人間というのは」

 ディンブラくんの口からそんな言葉が出るとは思っていなくて、ぽかんとしていると彼は先ほどの紙をもう一度こちらに向けて、席を立った。

「必要事項を読んでサインしておいて。君が書かないのなら……手荒な事はしたくないから」

 また来るから、そう言って、慌てて呼び止める俺に振り返りもせずに去って行った。スライド扉は時間差で、すぅっとゆっくりと閉まる直前に小さくバウンドする。どどむ、と微かなその音を最後に病室がまた静かになる。

「……手荒な事って、何をされちまうんだよ」

 茶化すように繰り返したけれど、頬が妙に熱くて、嫌になる。多分あの子があのまま残ってたら、平熱から比べると体温が高いように見えるだとか、熱があるなら休んだ方がいいとか、人の気も知らないで言うに決まってる。いや、でも仕方ないんだから、あんな事言われちゃ。

 好きに、だって。もごもごと口の中でそう言ってみて、さらに悪化した。病み上がりに心臓の負担を掛けるような事を言って、これだからオートマタは困る。

 相手はあのディンブラくんだ。こっちが思ってもみない事を考えてるかもしれない。

『鋤? ああ、畑を耕す道具の一種だよ』

 ほら、こういうのだったらどうする。真に受けて舞い上がって、それは立ち直れないだろ。

 みー、と音を立てて起こしていたベッドを下げて、布団に潜り込む。どうしよう。

「弦巻さん、検温です」

「はっ、はい!!」

 変な事を言われたものだから、いつもより体温が少し高かった。

 



 ***

 

 結局、契約しないと僕は処分されるかもね、なんて半ば脅されるような形でサインさせられた書類を渡すとディンブラくんはさっさと鞄に仕舞い込んでいた。

「それじゃあ、少し失礼」

 そっと包み込むように頭に触れられて、傷の具合を調べた後、額と額をぴとりとつける。

 何か、物理的に契約のようなものでもあるのだろうかとドキドキしていたら、ひゅ、と風といっしょに一瞬ディンブラくんの頭が引っ込んで、次の瞬間には鈍い音と共に目の前には星が散る。遅れて鈍い痛みがやってくる。

「痛ッッ……てぇ!! なにっ、するんですか!!︎」

 とんだ石頭だった。じわじわと熱を持っているそこはたんこぶになりそうだ。恨みがましい目を向ければ、なんでもない顔をしたディンブラくんが乱れた髪をすいすいと梳かしていた。

「何って、怒った時は怒って良いと言ったのは君だ」

「怒ってたんですか」

「それはもう。今回は運が良かっただけで、場合によっては本当に死んでいたからね」

 当然、という顔をしているディンブラくんに、出会った頃と比べて変わったなと思う。

「……そういうの、わからないって言ってませんでしたか? 」

「それはね、とびきり感情豊かな君の欠片が僕の中にあるんだから。どうなるかわからないよ」

 ぽかんとしている俺を置いてさっさと帰ったディンブラくんから、書類が受理されたと連絡が来たのはその日の夜の事だった。

 

 ぼけっとしている間に退院の日になってしまった。すっかり慣れたいつもの時間に起きる。

 朝食はディンブラくんに断るように言われていたから、相部屋の人達がたてる食器の音を聞きながら、腹が減ったなぁなんて考えていた。病院の食事が不味いとか、話題になっている事もあるけど、人が作ってくれたご飯はなんでも美味しい。

 ただ、自分は味の違いが分かるほど繊細ではないと思っていたのだけど、食べ慣れない味だなとは感じていた。一年近くディンブラくんにご飯をご馳走になっていたから、多分それだ。

 お世話になりました、なんてお礼を言ってフロアを後にするとディンブラくんが待っていてくれた。人に迎えに来てもらう事なんて、これまで無かったかもしれない。少し、胸が暖かかった。

 連れてこられたのは病院の一階にある喫茶店だった。通院ついでに休みに来るご老人で賑わっている。自分はこれだけ薬を処方されてる、なんて自虐を言って笑っていた。

「いつもの店とは違って、サンドイッチとヨーグルトがついてくるんだ」

「あ、その口ぶりは見舞いのついでに通ってましたね? ここ」

 すっかり常連だったらしいディンブラくんはメニューを差し出しながら、少し足すとサンドイッチをパンケーキにも出来ると教えられたけど、普通ので良いと断る。サンドイッチの横にハッシュドポテトが載っていて、少しテンションが上がった。子供の頃は甘いものも好きだったような気がするけど、すっかりしょっぱい物に惹かれるようになっていた。

「いつもコーヒーだけど、一番好き? 」

「どうでしょう、安いやつで良いやってのがデカいかな……あつあつとか、キンキンに冷えてるとか、そういうのは多分好きなんですけど、種類はそこまでこだわりは無い、と思います」

 そう。興味があるんだかないんだか、わからない答えが返ってきて、不思議に思いながらコーヒーを啜る。久々に飲んだコーヒーは苦味が強いやつで、美味しかった。

「人間になりたいか、君は前に聞いたね。その時の僕は肉の身体である必要はないと答えた」

 それは、覚えがある。あの時はメンタルをやってぼろぼろだったところをディンブラくんが看病してくれたのだったか。

「あれ、撤回しようかな」

 ゆったりした動作で飲んでいたカップを置くと、すり、と手の甲を撫でられる。

 ただ触れるというには、揶揄うような戯れるような、そんな匂いがして、心臓が大きく跳ねる。

「僕は君を数値でしか感じられない。センサーで無い、血の通った身体でそれを感じたらどうなんだろう。手を握ったときは? 視線が交わったときは? 皮膚の下を熱い血潮が巡るのを、いつも君は何をどう感じているんだろう。そういう事が、最近僕は気になるよ」

 少し、目を細めてこちらを覗き込んでいるディンブラくんは、いつも通りの無表情のはずなのにどこかふわりと柔らかい。

「……そういうの、あんまり言っちゃ駄目ですよ。特に女の子なんてコロッと転がるんだから」

 整った容姿と、そこからギャップのあるシュールさと、さらにギャップでタラシみたいな事を言うものだから変な気分になる。誤魔化すように飲んだコーヒーは少し冷めて飲みやすい。

「そうなの? それじゃあ——」

 転がすのは君だけにしようかな。

「んッ!? っげほ、ごほ……!!︎ 」

 飲んでいたコーヒーが変な所に入って盛大に咽せる。手を伸ばして背中を摩ってくれるディンブラくんの顔をうっすら涙の張った非難の目で見て気付いた。

「……今、笑いましたか」

 こてん、と首を傾けるのに合わせておさげが揺れる。

「さぁ、どうだろうね」

 多分その時の俺は、いろんな感情が混ぜこぜになったすごい顔をしていたと思う。


 ***

 

 しばらく空けていた部屋に帰ると、想像よりも綺麗だった。多分、俺が居ない間にディンブラくんが掃除してくれたのだろう。なんだかんだ一年近く過ごした部屋は気が休まる。

 陽が当たって暖まった空気は越してきた時の事を思い出す。

 とりあえず、と言ってディンブラくんが紅茶を淹れてくれた。見慣れた光景と空気。

 違うのは時間帯くらいで、胸と目頭がじわりと熱くなるのをディンブラくんが不思議そうに見ていた。差し込む日射しに色素の薄い髪が透けて輝いている。

「なんか、またこうしてここで話せると思わなかったので、嬉しくて……」

「精神は傷ついたのに? 」

「まぁ、死にたがりはそんなの気にしないですから」

 眠るディンブラくんにしがみついて泣いた時も、こうなるとは思っていなかったから。

 色々と落ち着いたらこの部屋を拠点に、上階のおうちの人たちの世話を通いでこなす予定でいる。お子さんが小学校を卒業するまではお世話をしたいというディンブラくんの希望だ。

 金銭面の心配は今もまだあるけど、山ほど入っていた保険のおかげで入院保障が結構な額入りそうな上に、大きな病気をやったら支払い義務の無くなる契約もあって、ひとまず少しだけ心のゆとりが出来たのだった。

 入院生活が落ち着いた所で恐る恐る妹の受験の結果を聞いたら、それどころではなくて合否も見ていないと言うので慌ててウェブ上で確認したらめでたい事に合格していて。入学金の振込期限がその日だった事に気づいて、てんやわんやで払込に走ってギリギリ事なきを得た。

 きょうだいを放ったらかしにしているのもどうかと思うのでそろそろ考えなければいけない。

 無断欠勤になって迷惑を掛けたバイト先に頭を下げて回った。コンビニの店長は心配したとバシバシ俺の肩を叩いた後、例の大学生くんにお前の分も働いてもらうと笑っていた。


 そんな諸々が済んできた頃。これ、と渡されたのはディンブラくん達の首の後ろのところに描かれているのと同じロゴが載った封筒。

 ディンブラくんとの契約や処置代とか、とんでもない金額の請求書なのではないかと恐る恐る開けて薄目で確認する。見たところ数字の羅列や円マークの記載は無さそうで、少し安心した。

「主任が会いたいって」

 横からひょっこりと覗き込んだディンブラくんが言う。

「こんな一般人、呼び出してどうするんですか」

「さぁ? でもユズリハはうちの会社から見たら一般人ではないと思うよ。この前の件のヒアリングや体調の確認じゃないかな」

 結局、気が重い事に変わりはないじゃないですか、がっくりと肩を落としたのだった。


 日頃の生活ではお世話になる事のない地域。首都のビジネス街とあっては、そこらじゅうに そういう事に疎い俺でも知っているような有名企業のロゴが見られる。

「たっか……」

 目的のビルを見上げると首が痛くなる程に高い。空に向かって突き上がる塔で圧迫感がある。

 ざっくり言うと、来社出来そうだったらここに連絡して、と届いた手紙に記載されていたアドレスを片手にビジネスメールなんて打てないと泣き言を言っていたらディンブラくんが代わりにやりとりをしてくれた。脳みそに何やら埋め込んだついでに、頭も良くなるように弄ってくれれば良かったのに。そんな事を思ってしまう。

 ディンブラくんも着いてきて欲しいと散々駄々を捏ねたのだけど、君一人で来いとの返信だと言って首を縦に振ろうとしなかったその人は目的地の近所まで着いてきて、それじゃあ頑張って、なんて言うなり、気になっていたというカフェに消えていった。ぐぬぅ……。

 出来る範囲でかっちりした格好をせねばと、スーツでもあれば良いのだろうけど俺には無いので、ジャケットとタイトめのチノパンで来てしまった。変じゃないかと何度もディンブラくんに訊ねたら、招かれた側なんだからそんなに気にしなくても良いと言われてしまい、それはそうなんだけど、なんというか、気にはなる。

 時間よりも早く着いたので目的のビルに出入りする人達を眺める。

 手ぶらで首から名札みたいなのを下げている人だとか、コンビニ袋片手に入っていく人たちは恐らく社員さんだろう。見た感じ似たような格好をしているので大丈夫ではないだろうか。もっとも、服自体の質はあっちの方がゼロ二つくらい多い気はするけど、それはそれ。

 初めてのおつかいか何かみたいにガチガチになりながら、やけにデカいし高さのあるガラス張りの玄関ドアを抜ければ、駅の改札みたいなのの横に、にこやかなおねーさんが居るカウンターが見える。もう既に帰りたい。

 こんな、良い大学を出て、厳しい就職試験を勝ち抜いて、最先端の一流企業でバリバリ働いている人達の空間に、こんな洗ってない野良犬みたいなのが紛れ込んでいい理屈はそうそう無い。

 やはり、優雅にコーヒーでもを飲んでいるであろうディンブラくんに泣きつくか、良くないけれど約束をぶっちぎって帰るか、と回れ右をしようとしたところで、小柄な、誰かに似ているような雰囲気の女の人に話しかけられる。

「あの、弦巻さん、ですよね」

「は、はい……? 」

「急にお呼び立て致しまして申し訳ございません。お会い出来て嬉しいです」

 ぺこりと頭を下げた女の人が下げたカードには、例の封筒の送り主の名前が刻まれていた。


 ここで待っていてくださいね、そう言ってカウンターで何やら話をしてきた主任さんはQRコードの書かれたレシートみたいなのをくれた。

「こちらにどうぞ」

 例の改札にそれをかざして抜けた先には、何台あるんだかわからないエレベーターと、その到着を待つ人がまばらにいた。人が待っていない奥の方に進んで、本来だったら上下のスイッチがあるところに押せなさそうなパネルがあって、主任さんはそこに例の名札みたいなのをかざしていた。あまりにハイテク過ぎて田舎者には現実味がない光景に見えると同時に、ディンブラくんとウヴァくんがこんな会社で開発された事に尻込みするというか、なんでこんなぽっと出の一般人と接してくれていたのか、こちらも現実味がない。

 ぐんぐん登るエレベーターで、遠くなっていく地上とどんどん増えていく回数表示をチラチラと見ながら、二人きりの気まずさに耐えかねて口を開く。

「なんだか、場違いな人間で、すみません」

 こんな事を言われてもそうだと言えるわけ無いだろうと内心ツッコむ。敬語がこれで良いのかもわからない。早く帰りたいのだけど多分一時間後には終わってる、そうやって現実逃避をする。

「そんな、とんでもないです。弦巻さんとは一度お話してみたかったんです」

 口振りからしてなんとなく知られているであろう事と、その情報源は恐らくディンブラくんだろうなと思う。何をどんなふうに伝えられているのか想像もつかなくて、溜め息とバレないように細く息を吐く。実を言うと、俺の方も何も知らない状態で知らない人に呼ばれて会うというのは落ち着かないから、ディンブラくんに主任さんについて聞いてきたのだった。

 意識を持った以降しか分からないけれど、と言う前置き付きでディンブラくんから聞いたところ、出荷前の調整という名の、人間社会でやっていくための研修、授業のようなものを担当してくれた人らしい。先生か、場合によっては親。日頃の接し方で、お子さんに何か失礼な事をしていたらどうしよう。あんな人と一緒に過ごしてはいけませんよ、なんて、言われてしまうのでは。

 このまま何かの間違いで帰っていいよと言われたら良いのに。そんな無駄な祈りも虚しくエレベーターは軽やかな音を立てて目的階への到着を告げた。降りるときにちらっと確認したけどエレベーターの呼び出しはまたIDスキャン式らしく、俺が渡されたQRコードではどうにもならなさそうで帰るのにも許可がいるやつだな……と内心、頭を抱えた。

 

「お掛けになってくださいな」

 いかにもオフィスというような白い無機質な廊下で、磨りガラスのスリットが入ったドアをいくつか通り過ぎた先で通されたのはビジネスビルには場違いに思える部屋。

 板の貼り合わせで作られているフローリング。明るい木目のダイニングテーブル。小さな冷蔵庫、ミニキッチン。大昔、父親だと思っていた人が住ませてくれていた家のリビングを思い出す。

 俺を座らせると主任さんはやかんにお湯を汲んで火に掛けている間に、慣れた様子でティーポットやカップを並べている。こちらに話しかける時は微笑んでいたからこれとわからなかったけれど、真顔でせっせと用意している横顔はなんとなくディンブラくんに似ている。

 本当に、ご家族に挨拶にきたような気になって、勝手に変な緊張をする。主任さんもディンブラくんもそんなつもりはないだろう事がわかるから、さらに滑稽だった。

「うちの会社のオートマタは、皆一番最初にこの部屋で学ぶのです」

「この、部屋でですか」

「そう。身体に宿される前にも座学のような形で様々な事を伝えますが、賢く無垢に生まれたあの子達はここで初めて実際の人間の生活に触れます。一緒に過ごす時、どうすればいいか。話し方や、話題に困った時の切り返しだとか、お箸の持ち方、お茶の淹れ方まで、様々な事を」

「プログラムした事のテストとしてですか? 」

「いえ、初めての知識として、です。最初に渡されるのは基礎的な知識と言語だけ。そこから先は本人達の考えがあって欲しいというのが我々の方針です。他社では完成形のプログラムをコピーして量産の身体に宿す事が多いように思います。オーダーメイドと言って良いかわかりませんが、我が社では彼らを育てるのです。ウヴァには気持ちが悪いと言われてしまいましたが」

 ウヴァくんはたしかに反抗期真っ盛りという様子だから想像はつく。この部屋はあの二人にとって学校のようなものだったのだろう。

「お茶一つとっても個性があって面白いですよ。ディンブラはお手本通りでありつつ少しの失敗は柔軟にカバーするタイプです。きっかりマニュアル通りにやろうとして、抽出時間を過ぎてしまったお茶を捨てようとした子も居ます。ウヴァはこんなの違いなんてわからないから適当でいいんだと言ってティーバッグを選ぶ子でした。臨機応変、完璧主義、合理主義、全て個性です」

「らしい、ですね。口振りからすると、意図しない結果なんですか」

「そう。彼らの個性はプログラムされたものでは無いのです。経験の蓄積による変化、順応、そういったものの積み重ね。それが今の彼らを作っています」

 人間でも兄弟がいるかどうか、長子、末子なんかで性格に差が出るとは聞く。

「良ければご覧になってください」

 写真の中のディンブラくんは、冗談でも言われて、笑いが堪えられないみたいに、口元に手を持っていって自然に笑っていた。

「これは……ウヴァくんですか」

「ええ、正しくはウヴァとディンブラに分かれる前より昔、人間社会に送り出される前の姿です。外装はディンブラの、現状のものです」

「……ディンブラくんはこんな顔で笑うんですね」

「はい。感情豊かで、思いやりの出来る、とてもいい子でした。……あの件だって、あの子たちは何も悪くなかったんです。人間だって、同じことをされたら同じように怒るでしょう」

 前に、吐き捨てるように、人間が嫌いだと言ったウヴァくんの顔を思い出す。きっと、前はあんな表情しなくてよかったはずなのに。

「……分離という選択肢が正しかったかどうか、私にはわかりません。もっといい方法があったのではないか、彼らを傷付けずに済む方法があったのではないか、何度も思いました」

「それでも許さなかったんでしょう? バラバラにして、閉じ込めて」

 少し、責めるような口調になった自覚はあった。

 でも、あの二人が遭った事を思うと抑えられなくて、そのまま表に出してしまう。あの子達のためというより、俺自身の腹が立つからだ。

「我々も、企業として一枚岩では無いのです。世間からの目を気にする者、コストにシビアな者。彼らの意思を尊重したい私のような人間と。トラブルを起こしたオートマタは基本的に処分されてしまいます。人間に危害を加えたなんて事があっては、なおさら。当時の彼のプロジェクトは莫大な予算を掛けていましたから、あの程度で済んだと言っても過言では無い程度に、私が考える中で最大限彼らに寄り添った結果でした。もちろん、許してもらえるとは思いませんが」

 人間側の配慮不足のしわ寄せを彼らが被るのは納得がいかない。

「とはいえ、あの子が自らの意思で窮屈な現状を打開したいと思わなければ先延ばしにした問題がまた降り掛かるでしょう。それで人間でも明確な答えを出せないような難解な課題を出したという経緯です。あわよくば、人間社会にあの子の居場所が出来ればいいと思いました」

「その課題の、結果はどうだったんですか? 」

「それが、課題とは違う形で彼は答えを見せてくれました。貴方には言うなと念を押されたので詳細はお伝えは出来ませんが」

 気掛かりだった事が解決して安心する代わりに、思い出してクスクスと笑っている主任さんに少し引っ掛かるところはあるけれど、良しとしよう。

「ちなみに、あなたにとって人を人たらしめる物の答えは何ですか」

 手にしていたティーカップを置いて、揃えた膝の上に白くて細い指を重ねるのを見ていた。

「これはあくまで私の中の考えとして、人間を人間にするものは"思い込み"です」

 思い込み、ですか。聞いたまま繰り返した俺に主任さんは微笑んでみせる。

「私は彼らに、自らを命であると勘違いさせたかったのです。物体に魂が宿る、付喪神という概念もそれに近い話ではないかと考えています。物体を神格視した物です。その対象を人と限りなく近づけた物にしたら? 対話が可能であれば? そう言ったところから彼らは生まれました。模倣を続ければ、いつか本物になると私は考えています。他社では骨格フレームにシリコン外皮を被せる事が多いのですが、あの子たちは外部も内部も人間を模倣した成り立ちをしています。ヒトと同じ所を切れば同じように血が流れるよう、痛みがわかる子になって欲しかったのです」

 頭がちりちりしてきているけれど、これは聞いておいた方がいいと思ってなんとかこらえる。

「うろ覚えの道を思い出す時、お店の前後関係がちぐはぐになったものを想像する事はありませんか? AIが存在しないものを創造する事、脳が現実とは違うものを見せる事、私は似た物だと解釈します。認識の揺らぎは定義によって正されます。周囲の人間だけでなく彼ら自身も勘違いさせ続ける。意識をさせない事で認識の揺らぎを知覚させずに偽を真と紛わせる。彼らと周囲の人間に対して私が望んだものです」

「……嘘も全員が信じれば本当になる、って事ですか」

 これだけの情報を聞いて出てきたのがこれか、と言うくらいシンプルな相槌を打ってしまう。

「近いでしょう。私たちが息をする事を意識していないように、朝になれば陽が昇り、春の次は夏が来る。そういった当たり前の認識の中に彼らを置きたいのです」

 もうすでに、俺の生活にはあの二人が浸透している。おそらく、ディンブラくんのおうちの人たちもそうだ。こういうのが一般的になる事をこの人は目指している。

「あの子たちと接していたら、自ずとそうなっていくと思いますよ、俺は」

「ありがとうございます。貴方には何とお詫びと感謝をして良いかわかりません。今回の件は彼らの今後や、オートマタの未来にはとても大きな出来事だったのです。ウヴァは規約に反して貴方の願いを叶えようとしました。ディンブラも、自らの意志で貴方を存えさせる事を選び、共に生きる事を決めました。ディンブラを諦めないで下さって、ありがとうございます」

 感謝や見返りが欲しくて行動したわけでは無いけど、そう言われると照れるところではある。

「そういったプログラムなのだと彼らは言うかもしれません。それを確かめる術は本来ないのですが、我々は彼らを造った際の記録があります。少し不正をするようではありますが、生まれたばかりの彼らは何度同じ事を繰り返そうと、今回の選択をすることはありません。そのようにプログラムされていないからです。彼らが生まれてから、今までの間に経験した出来事が選択を変えさせたのです。人を模した思考を、人を模した身体へ宿して、人を成す。それはもう、ヒトと何が違うというのでしょうか」

 出会った頃からあの子達は確実に何かが変わっていてそのきっかけの一つに自分があるのか。

「今はまだ到達出来ていませんが、義手や義足のように、生きている身体と機械を接続する。オートマタのデータを脳に移す、脳だけになった者を空の身体へ接続する。そういった事も出来るようになるかもしれません。人類と機械の進化の一つ。倫理など越えなければいけない壁はたくさんありますが、それは夢物語では無いのです」

 人とオートマタの境界がわからなくなった世界はどんなだろう。その世界で、ディンブラくんは綺麗な赤橙の目をキラキラさせるのだろうか。

「彼らはとても好奇心旺盛です。開発者として、親として、どうかこれからも彼らと接してあげて欲しいと思うのです」

 カフェで待っているであろうディンブラくんを思い浮かべる。無性に、声が聞きたくなった。

 

「そしてここからが本題なのですが……貴方に情報提供のお願いをさせていただきたいのです」

 情報提供。こんな学のない人間には聞く機会のない言葉だ。

「無償とは言いません。勿論、貴方をその状態にしたのはこちらの過失ですから、本人から聞いているとは思うのですが、ディンブラの所有権、その手続きにかかる費用や手間、貴方の通院費や希望する治療が受けられる手配は情報提供の可否に関わらず負担させていただきます」

 そういえばディンブラくんが賠償金とかなんとか言っていた気もする。まぁ、俺の稼ぎでは逆立ちしたって足らないような都会の一軒家を上回る金額はディンブラくんの意思でもどうにもならないのでありがたい。

「ご協力いただければ、生活に掛かる費用の他、ご家族の生活の補償もさせていただきます」

「……そこまでする理由があるんですか、あなた方に」

 うまい話が過ぎると疑いたくもなる。同情も御免だ。

「これはビジネスのお話です。オートマタのために単身でダイブをして、オートマタが意識を繋いだことによって今こうして生きている貴方はオートマタ開発に関わる企業であれば喉から手が出るほど欲しい情報の塊なのですから」

 そう言いながらスプーンでぐるぐると掻き混ぜた紅茶に、つぅ、とミルクを垂らす。

「オートマタの意識が混ざった生身の人間。実現させようとして出来るものではないのです。 これは貴方とディンブラの事を守る手段でもあります」

 渦を巻いたミルクを、ちりんちりんと涼しい音を立てながら前後に揺れるスプーンが掻き乱して、すぐに薄茶色に変わった。

「その内に、他社からも依頼が来るかもしれません。我が社だけに提供いただけるのなら、どの企業よりも良い条件で契約させてください」

 ティーカップとソーサーを取って優雅に飲んでいる。細い指をぼんやりと眺めていると小さな紙の裏にするするとペンを走らせた物を渡された。ここに連絡しろという事らしい。

「んー……も一つオマケしてもらっても良いです? 」

「なんなりと」

「ウヴァくんなんですけど、俺が駄々捏ねたのを手伝ってくれただけなんで、罰は免除してもらえませんか。俺にとってありがたい事でしたし、一人だけ割食うのも難なので……」

 一年間閉じ込められていたという話をしていた時のウヴァくんを思うと、心が痛むからだ。

 ふふ、と笑う目の前の女性に、先ほどまでのキンと尖った雰囲気はない。 

「それならご心配なく。罰ではなく、良い環境を用意しましたから」

 

 なんだか現実味が無い話だったなとぼんやりしながら時計を見たら、二時間経っていた。

 例のカフェに行くと読んでいる物とは別に文庫本を二冊積み上げて、柔らかそうなソファー席でディンブラくんはカップを啜っている。

「おかえり。何だって? 」

「んー、研究に協力したらお金払ってくれるんですって」

 ディンブラくん達のルーツの話は俺から話さないほうが良いと思って掻い摘んだらそうなる。

 ふーん、と興味があるんだか無いんだか、というような声を出しながらこちらにメニューを勧めてくれた。一番普通のブレンドコーヒーを頼む。

「どうするの? 受けるの? 」

 ディンブラくんの口振りだと前もって話は聞いていたのかも知れない。

「話が美味すぎるのは心配なんですけど、断るほど怪しくも無いんで、どうしたもんかな」

 得があるのが俺だけだったら信じなかっただろうけど、大事な子供たちが安全に暮らせるというのが主任さんの目的というのは分かるし、そのために俺に良くしようとしてくれているのだろうけど、棚からぼた餅みたいな様子でこれまで散々してきた金の心配が無くなって良いのだろうかとか、そういう、結局のところ打開できる要素が何も無いくせに、うだうだ言っているわけだ。

 上手い話には裏があるとか、運気の跳ねっ返りなんかがあるんじゃないかとか、この歳まで踏んだり蹴ったりだった人間に手放しで喜べというのも無茶だろ。自問自答をしている内に運んでもらったコーヒーを、お礼を言って受け取る。いつもはブラックだけど今日はミルクを少し。

「ディンブラくんはどう思います? 」

 この子としても、俺が話を受けて企業さんに囲われた方が本来であればメリットがある。一応は企業側の人なわけだし。

「君が思った通りにした方がいい。僕はそれを受け入れるから」

 自分の損得ではなくて選ばせようとしてくれる。そういうのに弱いんだよなぁ、と頭を掻く。計算じゃないだろうけど、そんなことを言われると、この子の良いようになる方を選びたくなる。

 膝と同じくらいの高さのローテーブルはどう接して良いものかわからないから少し苦手だ。姿勢と行儀が悪いかな、そう思いながら、足を開いて前に乗り出すような体勢になる。

「そんなヒモみたいな生活がしたいわけじゃないなぁ、とか面倒くさい事言ってもいいです? 」

 良いとこ無しの俺も人生のスタートを失敗しただけで、この年齢で本来経験している事をこなしていけば普通というやつになれるのではないか。すぐ死ぬ必要が無くなって少しゆとりが生まれた頭で考えたのはそんな事だった。

「三年だけ支援してもらうのでも良いと思います? その間に通信の学校行って、免許取ってさ。資格取って、正社員は無理かもしれないけど、もう少し出来る事増えないかなぁ、とか」

「良いんじゃないかな。ユズリハが選んだなら良い事だろうし、必要なら僕も働きに出るよ」

「働き……って、許可いるんじゃありませんでしたか? 」

「研修は済んだから出来る事の範囲が広がったんだ。社会での労働というのに興味もある」

 なるほどなぁ、と思って、例の課題の事を思い出した。

 結局、ディンブラくんの答えを聞かず終いだった事が今になって気になってきた。

 前に、家に遊びに来たウヴァくんに訊ねたことがある。

「ウヴァくんは人間を人間にするのは何だと思いますか? 」

「アイツのしょうもない宿題じゃん。僕は絶対手伝わないからね」

「単純に、興味があるんですよ。俺もよくわからないですから」

 面倒だなぁ、という表情を隠さないウヴァくんに、そこをなんとか、食い下がると、渋々といった様子で教えてくれた。なんだかんだ言いながらも優しい良い子だと思う。

「神様気取りの傲慢かな。僕からしたらね」

 軽蔑したような呆れ笑いに乗せて、言われた言葉はしばらく俺の中で咀嚼して、飲み込めないのを繰り返した。どういう意図かはわかるけれど、気になるところはある。

「……じゃあ、子供はどうなるんですか? ウチのきょうだいみたいな、邪気も何もない小さい子たちは傲慢さとは縁遠いでしょうに」

「出世魚とか、脱皮したら名前が変わる虫とかいるじゃん。ああいうのと同じだよ。人間らしい醜さを手にした時、人間に成るんだろうね。まぁ、こういう答えの無い物で測ろうとするアイツらの意地くそ悪さはこの上なく人間サマらしいじゃん。鏡でも見せてやれば良いんだよ。アナタ方がこちらを覗く、その顔が人間ですよ、って」

 なんだかんだと文句を言いつつ、しっかりと教えてくれたウヴァくんにお礼を言うと口を尖らせて、別に、なんてそっぽ向いていた。

「そういえば、主任さんに課題の代わりに何やったんです? すごい笑ってましたけど」

「あぁ、あれは……内緒」

 内緒では仕方がない。色々な話を聞いた今でも人間の定義なんてわからない。目の前ですっとぼけている綺麗な子も、ウヴァくんも、人間の俺よりも人間らしい気がする。目が覚めたディンブラくんが俺の事を見捨てなかったのだって主任さんの話を聞く限り、そういうプログラムをされているからというより時間の積み重ねからの行動のように思える。

 毎日顔を合わせているのにわかるようでわからない、不思議な間柄だ。

「結局答えは出たんですか? 人を人たらしめる、ってやつの」

「うーん……それが、難しくて未だに明確な答えというものは出せないかな」

 珍しく言い淀むディンブラくんはじっと考えるように目を閉じた。

「影響を与え影響を受ける、体裁、恥、意味のある嘘も意味のない嘘も吐く。そうやって要素を集めていけば答えに辿り着くのでは無いかと思ってたんだけどね。集めれば集めるほど、ウヴァも人間と同じ括りにおおよそ属している事になる。決定的な違いは身体を構成する物が有機物か無機物かどうか? ソフト面の再現性があるならハードの違いは些細では無いか? 身体を機械に置き換えざるを得ない人間は人間で無いのか、僕は違うと思う。そうなると僕がウヴァ相当の感情を持てば人間に近しい物へなるのか、そこに至った時、いつも僕の電脳核はエラーを吐く」

 たしかにウヴァくんの存在は特殊だ。接している時に自分と違う事を忘れるくらい、違和感を感じたことが無いし、その辺の人と比べても感情表現が豊かなタイプのように思う。

 ただ、それと別ベクトルでディンブラくんも不思議で予測が出来なくて、その二人に個性の違いはあっても大きな本質の違いは無いように思うのだった。

「俺は頭良くないですから、難しい事は本当に何もわからないので……人の形をしていて、コミュニケーションが取れるなら、もうそれは人間として良いのではないかなと思うんですよ」

「そこにウヴァも僕も含まれると? 」

「二人とも人間と変わりないです。身体の構成している物やルーツで区別を出来ない程に」

「……そんなものなのかな」

 飲み物を飲み終わっているディンブラくんはソファにちょこんと座ってこちらを見ていた。

「……なんかね、おかーさんって感じでしたよ、主任さん」

 どういう事だろう、そんな目をしているので続ける。角の取れたミルク入りコーヒーが美味い。

「二人共、愛されてるなぁ、って。変な感じだけど、あの人が主任さんで良かったと思って」

 俺みたいじゃなくて良かった。想ってくれる人がいるって言うのは良い事だ。これは多分嫉妬じゃなくて安堵。出来る事なら、このまま辛い事もない、優しくて穏やかな世界で生きてほしいと思っていたらふわふわと頭を撫でられる。

「……なぁに、どしたの」

「なんとなく、こうしたかったから」

 こういうのにどれだけ救われているか分かるかな。昔の傷がじくじく痛む胸が暖かくなる。俺だって十分幸せ者だ。たまの、どうしようもない寂しさが堪える時に、隣に居てくれる人がいる。

 ありがとね、お礼と言うわけじゃ無いけど、こちらからも頭を撫でる。元気な生え際と言って良いのか、コシがある髪が手を適度に跳ね返してくる、この撫で心地が好きだ。

「……さ、帰りましょっか」

「うん。晩ご飯、何がいい? 」

「何でも嬉しいですけど……今日ってご飯炊く日でしたっけ? 無ければうどんが良いなぁ」

 電車に揺られる帰り道、帰宅ラッシュの人混みに揉まれながら思うのは、こんなに大量の人間が鉄の箱に詰まってあちらこちらへ移動しているのが不思議に思えた。

 自分の意思でそうしているのか自分の認識できない何かでそうするようにされているのか分からなくなってくる事が無いだろうか。たまに頭がふわふわして自分が生きているのか死んでいるのか、分からなくなる時だってある。空の星から見たら人も機会も米粒よりもちっぽけだ。

 人間を作った神様なんてのが本当にいるなら、人間を経由して作られた機械の間に何の差があるんだろう。答えのない問いは頭をぐるぐるとめぐる。

 

 一人ぐらい減っていたって気づかれなさそうな位の人混みをそれぞれが居場所を行ったり来たりしているそれで電車がなくなる頃にはそれぞれ帰る場所に帰って、街は死んだように静かになる。一人ひとりに過去と未来があって、それは俺も彼らも、きょうだい達も等しくそうだ。

 大きな枠組みの中で生きる。少し俯瞰して自分の事を見られるようになった気がした。

 

 ***


 朝。どんな日でも眠れば朝が来る。

 目覚ましよりも少し早く起きて、ヤカンで湯を沸かす。残っている暖かい空気が少し美味しそうな匂いがするのは、隣のフライパンから。蓋があるから見えないけどソーセージか何かだろう。

 乱れた所が見当たらないくらいぴっちり三つ折りにされた布団に自分の分を畳んで積み上げて大きく伸びをする。今日も一日そこそこに気合いを入れていかねば。

 横着をして洗面所の伸びる蛇口で口を濯ぎながら見る窓の外は薄暗い。冬を過ぎて暦上は春に差し掛かった最近は少しずつ明るくなってきた。

 薄暗い中で鏡に映る自分の顔は少し太った気がして、むにむにと頬を揉んでみる。

 昨日開けたばかりのインスタントコーヒーはなんとなく香りもいいし、マグカップに入れた時のチラチラした音が好きだ。少し気分も上を向いて、誰もいないのを良い事に鼻歌を少し。

 午後の授業で使うテキストと、シンクのところに置いてある作ってもらったお弁当を鞄に詰め込んだ。今日のお昼はなんだろう。朝食も食べない内から楽しみになる。今日は午前のバイトが終わったらそのまま直行する予定だから、遅めの夕方に買い出しに行く約束をしている。

 そろそろ焼き出して良いかな、と食パンを二枚トースターに突っ込む。こっちに引っ越してきた時に中古で買ったそれは年代物で、ダイヤルを捻る時にじりじりとする感触が好きだ。

 待っている間、携帯で一応チェックしてるニュースサイトをざっと見て、コーヒーをふぅふぅ吹きながら啜る。胃が暖まって、細く息を吐いた。

 ディンブラくんは上の階の家族の世話をしながら俺と一緒に生活している。俺の都合でディンブラくんとおうちの人達の生活に影響が出るのも良い気持ちはしないし、三者の合意の元でそういう事になった。一番大変なのはディンブラくんだと思うのだけど、本人は相変わらず淡々と効率を突き詰めてこなしていて、なんとなくそれを楽しんでいるようにも見える。

 いつもならそろそろ戻ってくる時間だから、皿にトーストを乗っけて、ディンブラくんが切って仕舞っておいてくれたバターを一欠片皿の縁っこに乗せる。じゅわじゅわと染み込んだバターも良いけど、食べる直前にこんがり焼けた表面にガリガリ塗る感触が好きだ。

 青緑色のマグにもコーヒーを淹れたところでガチャリと玄関のドアが開く。

「おはようございます。おかえりなさい」

「おはよう、ただいま」

 

 特別な予定もない、なんてことない一日。それを生きていく。積み重ねる。

 ベランダでは酒の空瓶に植えられたナガミヒナゲシが春に向かって首を伸ばしていた。

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