第19話 朝が来る

 私は彼のその行動の意味を理解できず、しばしぽかんとしましたが、彼が私の要求を呑んでくれたのだと気付くと、安堵と共に羞恥心が顔から爆発したのです。


 せっかく彼が受け入れる姿勢を見せてくれているというのに、足が……というか、身体がすくみました。


「迎えに行った方がいいのか?」


 照れ笑いのような微笑みを浮かべて訊ねてきたイエンウィアに、私は慌てて首を横に振りました。


 四つ這いで彼の前におずおずと移動し、正面にぺたりと座った私に、彼は何やら聞き覚えのない単語の羅列を口にしました。


 何を言ったのか訊ねると、イエンウィアは私を引き寄せながら、こう言ったのです。


「野犬避けの呪文だ。邪魔されたくはないだろう?」


 確かに、逢瀬の最中に野犬に襲われるのは御免だものね。


 私は「ありがとう」とお礼を言うと、彼の上に身体を横たえて唇を欲しいままにしました。当たり前だけれど、今度こそは拒まれず、ちゃんと応えてもらえましたわ。


 身体を重ねている間、唇が自由でいる限り、イエンウィアは野犬避けの呪文を紡ぎ続けてくれました。苦しそうな吐息を漏らすその時すら、彼はその呪文を途切れさせまいとしていました。

 それがあの人なりの、最大級の優しさだったのね。


 お互い初めての経験だったから一度目を終えるまでは時間を要したし、とても疲れて眠ってしまいました。

 でもすぐに目が覚めて、そうするとまた温もりが恋しくなって、私は何度もイエンウィアを求めました。しつこい私に辟易していたようだったけれど、イエンウィアは何も言わず応えてくれました。


 逢瀬の間、結局彼から名を呼ばれることはなかった。けれど、その代わりに、彼が繰り返し繰り返し紡ぎ出す野犬よけの呪文が、次第に自分の名前のように感じられるようになったのが不思議でした。


 朝になり、街に入ると私達は別々の道に別れました。

 イエンウィアは自宅に戻り、出勤前に沐浴をする必要があるのだと言っていました。そこでさっき言っていた、神殿の性行為に関する決まりを知ったのです。


 家まで送ってやれない事を詫びた彼の様子が、少し可笑しかったわ。


 イエンウィアは私に、「それじゃあ」と言っただけで、『さようなら』も『お幸せに』も言いませんでした。


 その後、私はもう神殿には行きませんでした。踏ん切りをつけたつもりではいたけれど、やっぱり、想い人の姿を見つけて決心が揺らぐ事が恐かったのです。


 あとは、子供ができたと何となく勘づいていたのですよ。

 あの日から不思議とお腹が温かく感じていたというか。そんな風に感じる女性はめったにいないと、後で助産師から聞いたけれど……。


 三週間後、嫁入りの準備が整った私はセンネフェルの元へ腰入れしました。

 花嫁行列は、プタハ大神殿の前も通ったのよ。だけど、中からイエンウィアが現れる事はありませんでした。


 その後、腰入れしたは良かったのですが、直後に悪阻が始まり妊娠が確定したのです。結局私は、嫁入り道具の荷ほどきをする間もなく、実家に戻されました。


 勿論実家は私の後始末にてんやわんやでした。父は子供を降ろさせようとしましたが、私は頑としてそれを受け入れませんでした。しかもやっと娘が相手を白状した時、相手はいつの間にか死んでいたのだから、父は驚きのあまり卒倒しました。


 私もイエンウィアの死を知って、毎日のように泣いたけれど、大きくなっていくお腹を見ると勇気が出ましたの。ここにはイエンウィアの半身がいるのよ。私、頑張らなくちゃ、と。



「実は私、今朝まで自宅に軟禁状態で。外とのやり取りはメリトが代わってやってくれたのですけれど、今夜は久しぶりの外出なのですよ」


 レクミラはそう言って締めくくると、残りの水を飲み干した。


 神官達はぼろぼろと大粒の涙を流して泣いていた。


「本当にすみません」


 カエムワセトは目を伏せて未亡人同然となったレクミラに詫びた。


「私がイエンウィアを巻きこをんだりしなければ、貴方と彼は家族になれていたのですね」


 無関係のイエンウィアまで魔物と戦わせ、命を落とさせたのは紛れもなく自分の力不足によるものだと、カエムワセトはずっと自責の念に囚われていた。


 レクミラは心の痛みと必死に闘っている青年に優しく微笑んだ。


「カエムワセト王子。死は生ける者にすべからく課せられた宿命です。その魔物戦とやらに挑んだのは、イエンウィアの意思でしょう? 彼が命を落としたのは、こう言ってはなんですが、彼の落ち度でもあるのですよ」


 武人の様な厳しいその言葉に驚いたカエムワセト達は、一斉にレクミラを見る。


 注目を浴びたレクミラは、にこりと笑って「――と、イエンウィアなら言うと思いますが」と付け加えた。


 それは、魔物戦に参加せず、且つイエンウィアという人間をよく知るレクミラだからこそ、もたらす事が出来た回答だった。


 続けてレクミラは、ふふっ、と笑う。


「お仲間を助けて命を落としたなんて、イエンウィアらしいじゃありませんか」


「彼の最後を、お聞きになりますか?」


 ライラが緊張した面持ちで申し出た。

 戦友の死の有り様をその家族に伝えるのは、同じ戦場を闘った者の使命だと、軍人のライラは教え込まれている。

 レクミラにもそれを聞く権利は当然あるはずだが、レクミラは首を横に振って申し出を断った。


「いいえ。今はいいわ。貴方もまだ辛いでしょう」


 でもいずれ聞かせて頂戴、と約束をとりつける。


 ライラはホッとした表情で、強張っていた肩の力をぬいた。


 すっかりしんみりしてしまった空気に、レクミラは明るく笑う。


「やあねえ! これじゃまるでお葬式じゃない!」


「お葬式っスよぉ」


 亡くした戦友を思い出してぐすぐす泣き始めたカカルが、初めてレクミラの天然ボケに指摘して返した。


 フイが、「のう、レクミラさん」と声をかける。


「ワシはイエンウィアの養父ゆえ、多少あやつの性分を分っとるつもりだが……。あやつはお前さんの最大の望みは叶えられんだが、あやつはあやつなりに、お前さんの幸福を模索しとったと思うよ」


 レクミラは「そうですね」と頷いた。


 だからこそイエンウィアは、最後に自分のワガママを聞きいれたのだろう。とレクミラは考えていた。

 残念なことに、最終的にレクミラの存在がライラを超えたか超えなかったのか、それはイエンウィアに訊いてみないと分らない所ではあるが。それを知る機会は来世(あの世)にまで持ち越しである。


「でもまさか一晩で子供ができちゃうなんてねえ? きっとイエンウィアもあっちで驚いていると思いますわ」


 あっけらかんと言って再び明るく笑うレクミラに、話を聞いていた面々は愛想笑いすら出せなかった。

 やはり嫁入り直前の女性の腹に子供を残したのは、イエンウィアらしからぬ最大の落ち度であったと言うべきだろうか。


「相手方には本当に申し訳ない事をしたし、家にも泥を塗る事になったけれど……最終的に、父も弟も私達を受け入れてくれたわ。全部私のワガママが引き起こした事だけれど、結局これが、私にとって一番幸せな形なんだと思うの」


 レクミラが『幸せだ』と口にしたことで、その場の面々は幾分救われた気持ちになった。


「腹に触っても良いか?」


 フイがレクミラのふっくらした下腹に目をやりながら、遠慮がちに申し出る。

 レクミラは最初にここでフイに挨拶をした時と同じ、華のような微笑みでその申し出を受け入れた。


「勿論ですわ。お義父さま」


 立ち上がり、フイの座る椅子の前に進み出る。


 フイは両手で包みこむように、養子の忘れ形見が宿っている腹に触れた。

 そして、腹に触れたまま俯いた彼は、孫同然の命とそれを宿したレクミラに「ありがとうな」と涙を流した。


「これでまた、生き甲斐ができたわ……。ありがとう」


 フイは、生まれた子供の後見人として力を尽くす事を約束した。



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