第18話 捨て身の誘惑

 ――さてと。家出した私の行く先ですが、まあ今までなら神殿なりに駆け込んでいたのかもしれませんが、その時はイエンウィアから絶交宣言されておりましたので、行くあてがありませんでした。キキのテントは二人で眠るには小さすぎますし。


 それでね、しばらくメンフィスを彷徨った私は、母の所へ行ったのです。


 夜の墓地はひっそりとしていて、少し寒かったわ。けれど、母の墓の壁に身体を寄せると、何となく温まる気もしました。


 少々自暴自棄になっていた私は、これからの事を考えるのも面倒になり、母のお墓にもたれて、うつらうつら浅い眠りを彷徨っていました。面倒だしこのまま目覚めなくてもいいわ、なんて思いながらね。


 どれくらい眠ったのかしらね。名前を呼ばれた気がして、ふと目を開けたのよ。そしたら、目の前に松明をかざしたイエンウィアがおりましたの。


 自分でも悠長だと思うけれど、イエンウィアの後ろで輝いてた星空が、寝ぼけ眼にとても綺麗み見えたわ。


 砂を蹴りながら足早に近づいてきたイエンウィアを、目をこすりながら見上げると、どことなく切迫感のあった彼の顔が、ほっとしたものに変わりました。眠っている私の姿を、死んでいると勘違いしたのかもしれませんね。


「無事でよかった」、と膝に手をついて脱力した彼に、私は呑気に訊ねました。


「どうしてここだと分ったの」


 正直、私がお墓にいるなんて誰も思わないだろうと考えていたもので、誰にであろうと見つかってしまった事は意外でした。


「分ったというか」


 イエンウィアは大きなため息をつくと、松明を石垣の間に挟んで立たせ、私の隣に座り込みました。


「散々探して最後にここに来たんだ」


 よく見ると、松明は残り少なくなっていて、もうすぐ消えそうでした。最後にここに辿り着いたというのは本当なんだな、とぼんやりした頭で思いましたわ。

 散々歩いたであろう彼に、申し訳なくなりました。


「ごめんなさい。最後の最後まで迷惑をかけて」


「気持ち悪いくらいしおらしいな」


 イエンウィアは私から少し身を引いて、失礼な事を言いました、


 それから、イエンウィアが丁度仕事を終えて帰ろうとしていた頃に、父と弟がプタハ大神殿に私を探しに来た事。今も一家総出で街中を探しているであろう事を、彼は教えてくれました。


 どうやら弟は、イエンウィアの事を父には話していないようでした。もし話していたら、イエンウィアは多分無事ではすんでいなかったでしょう。――いえ、彼は腕に覚えがあるし、もしかしたら父の方が怪我をしていたかもしれませんね。この時ばかりは、セケムウィの配慮に感謝しました。


「そう。じゃあ早く帰らなければね」


 一家総出ということは、メリトや膝を悪くしている老境の召使も私を探して歩き回っているということです。彼らをこれ以上酷使することはできないものね。そう思いながらも、お尻が岩のように重くて。私はそこから動けませんでした。

 どうやらまだ、心はここに居たがっていたようです。

 以前イエンウィアが言っていた、心と理屈が離れ離れになっている状態でした。

 諦めた私は、再び母のお墓に身体を預けて呟きました。


「私、こう見えて聞分けは良い方だったのよ。父に反抗した事なんか、思いだす限り無いのに」


 私がやってきたその善い子ぶりが、これほどに自分を苦しめ、他人を引っかき回すとは思っていなかったのです。


 どこで何を間違えたのかしらと考えたけれど、思考が続かなくてね。やっぱり面倒になって、考えるのを諦めたわ。


「あがいたところで結局私は、ナイル川に沈む運命だったみたい」


 独り言だったけれど、真面目に聞いていたイエンウィアは「言っている意味がまるで分らないんだが」と説明を求めてきました。


 詳しく説明なんて、そんな気力、その時の私にはありませんでしたわ。

 両膝を抱えそこに顔を埋めると、私はイエンウィアに帰るよう言いました。


「私の事は放っておいて。このままお母様の墓前で砂に埋もれるんだから」


 このままミイラになってやる、と私は本気で思いました。何日か粘れば、脱水で死ねるだろうし、上手い具合に誰にも見つからなければ、そのまま乾燥して干からびるはずだとね。今考えると、可笑しくて笑っちゃうのだけれど。


「砂で埋もれる前に飢えた野犬の餌になると思うがな」


 正直、その言葉にはぎくりとしましたわ。イエンウィアの言うとおり、夜のお墓には御供え物を狙った野犬が沢山いるのですもの。そんな場所で無防備に眠ったりなんかして、襲われなかっただけでも幸いでした。


 野犬で脅しを与えても、すねた子供みたいに丸まって動こうとしない私に、イエンウィアはため息交じりに言いました。


「どうすれば、あなたの腹が決まるのか……」


 聞こえてきた彼の自問自答は、途方に暮れているような声色で。ああ、私またこの人を困らせてしまった、と恥ずかしくなり、余計に顔が上げられませんでした。


「もう心配しないで。今まで迷惑かけてごめんなさい」


 更に膝を寄せて丸くなった私に、イエンウィアは「私がいつ迷惑だと――いや、確かに頭が痛い時はあったが」と、全く救済フォローにならない言葉をかけてきました。正直な彼らしい言動だったわね。


 けれどね、次に発した彼の言葉は、見事、私が見失っていたイエンウィアと過ごした日々の記憶に、色を取り戻させてくれたのです。


「『私と居るのは楽しいか』という貴方の質問に、私は『はい』と答えなかったか?」


 この問いかけで、喪失された自信と思い出が、洪水のように私の元に帰って来ました。

 空っぽだった心が満たされて胸があったかくなって、力が湧いて来るのを感じましたわ。

 

 顔を上げた私に、イエンウィアは、絶縁宣言をしたのは、私の為を思っての選択だったと言いました。そして、傷つけて申し訳なかった、とも。


 そうよね、彼はそういう人だったのよ。固いくらい物事に誠実で、伝わりにくい時もあったけれど、常に他人の為を考え行動する人だった。

 そして、実直な性格を象徴しているかのような整った背筋せすじと、優しさが浮かび上がる温かい笑顔と、静かな声が、私は本当に好きだったのです。


 元気を取り戻した私は、最後の一あがきをすることにしました。


 私は身体を起こすと、隣に座っているイエンウィアの襟元を両手でひっつかみました。そして、必死にお願いしたのです。


 一晩だけ付き合ってくれ。そうしたら必ず踏ん切りをつけるから


 とね。


 嫁入り前のうら若き乙女の口から出た言葉が、貞操観念も体面もあったもんじゃないでしょう? けれどね、これが私の答えで、前に進める唯一最後の原動力だと思ったのですよ。


 当たり前だけど、イエンウィアは言葉を失っていました。襟を掴まれたまま、呆気にとられて私を見ていたわ。


 殆どもう、捨て身だったわね。一世一代の大勝負というやつなのかしら。これで断られたら、あとはもう、放心状態で家に帰って、粛々と嫁入り準備を進めるしかないと覚悟しました。


 恥ずかしかったし、何より怖くて。彼の襟を握っている手が震えました。

 それでもね、ここで逃げたら私は自分の人生を捨てたも同じだと思えて。なりふりなど、構っていられなかったのです。だって、イエンウィアは据え前を喰わぬは恥というような男性ではないもの。


「あなたと友人になれただけでも奇跡だと思う。これ以上を望むのは贅沢だと分ってるわ。だから、あの子の名前を呼んでもいい……。お願いよ」


 流石に想い人だと思って抱けというのは、私も情けなく思えたけれど、まあ、それくらい必死だったということね。

 涙を浮かべて懇願する私の肩に、イエンウィアはそっと触れました。そしてこう言ったのです。


「レクミラ。私にとって、貴方は貴方でしかないんだよ」


 やっぱり駄目なのかしら、と絶望に落ちかけました。けれど、ここであっさり引き下がるような軟い覚悟で誘惑などしておりません。


 私はキッと彼を睨むと、抵抗したのです。彼にも辛いであろう言葉を用いてしまったことは、後で反省しました。


「そうよ。貴方を好きなのはあの子じゃないわ。私よ! だけど私が進むべき道は貴方に繋がっていない。ならこうするよりないじゃないの!」


 イエンウィアは「そうだな――」と、少し悲しそうに微笑みました。そして、「ちょっと待ってくれ」と言うと、草色の肩布を器用に帯から抜きとって地面に敷いたのです。


 その上に座りなおした彼は、「さあ」と私に両手を伸ばしました。


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