第57話 現代版神の目
その映像をチラッと見ただけで私にはもうすべてが違和感だらけだったのだけど、数日経って某Ytubeを覗いたときに、それに関連する動画を作っている人をちらほら見かけて、なんとなくホッとした。
というそれは石川県の被災地の猫を「保護した」といって、どこぞの保護団体なのかそういう人たちが勝手に連れ去ってしまった某テレビ番組。
居間に行くとちょうどその場面がテレビから流れていた。確か港近くの住宅街にたくさんのにゃんこがいた。保護団体の人間が近付いても逃げることはないし、抱き上げても嫌がる素振りすら見せない。団体の人間は、
「ああ、首輪をしていますね。ということは、飼い猫だったのかな?」
というような発言までしていた。
まぁ、「だったのかな?」じゃなくて、被災された方々は自分自身(人間)が避難をするために泣く泣く飼い猫をその場(自宅)に置いていかなければいけない状況だった、と考えるのが妥当なわけだ。
次の場面になったら、奥に食べ物が置いてあって、それに口を付けると仕掛けが作動して出口がふさがれてしまう一種の「罠」によって、そのにゃんこたちを「保護」という名目の「捕獲」をしていた。
すでにそのときには、一匹のにゃんこの飼い主さんがSNSで「うちのにゃんこが連れていかれた」と声を上げていたらしい。
その番組を見ていた母いわく、そこにいたにゃんこたちには毎日だったか、数日に一回程度だったか食事を持ってきてくれるおじさんがいたようで、飢えている様子はなかったし、無論、にゃんこたちの健康状態は見るからによさそうだった。
昔に見たテレビ番組でも似たようなことがあった。
野良猫を保護して育てているという芸人が撮影スタッフと一緒に夜の住宅街を歩いていると、偶然公園の隅っこに子猫を見つけたのだが、その芸人は「(子猫に)親はいない」と勝手に決めつけて家まで連れ帰って育て始めた。
私はその当時、母猫が一時的に見失っていただけで、ずっと探していたらどうするのだろうと心配になったのだけど、いまになってみたらあんなタイミングで子猫が現れるというのもどことなく解せない。テレビ用に置いたような気もしてくる。
人間不信になった犬をわざわざ人間の家の中に入れて、その犬が心を開くまでを放送する番組もあった。犬が人間を嫌いになるのは、単純に人間になにか嫌なことをされたからだ。
「別の人間だから」という考え方は、無論、人間側の身勝手さでしかない。犬側からすれば「放っておいてくれ!」でしかないだろう。
というふうに、両親はそれほどまでに動物を扱ったテレビ番組をいまだに見続けている。それなのに、これだけあるのに、どこにもなににも違和感を覚えないのだろうか。ともすれば、一番不思議なのはその部分かもしれない。
テレビ側(作る側)は一種の感動を商売にしているのだろうし、商売にしているということは、その映像に出てくるすべては極端に言ってしまえば「モノ(演出)」でしかない。
作為的な感動なんていうのは、目的地が指し示されているぶんだけわかりやすい。まあ、それで感動できてしまう人間自体も目的地がはっきりしていないと「わからない」なんて吐き捨てて考えることをやめてしまう。というのは、いつぞやのデイヴィッド・リンチ監督の話をしたときに立ち戻る。
なんとなく、「感動」自体は緩い状態の中で風に煽られているような不安定なモノなのだと思う。現象が主体になっているのではなく、捉える個人の心の動きによって作用する(させる)モノだ。
ってのは当然のことで、道端の花を見て「花である」以上の何かを思えるのが感動だし、動物がその動物としての行動の中に見せる世界にこそ感動がある。
人間に都合のいい動きをした(させた)から感動が生み出されるなんて考えは、その世界を見ていないのとまるで同じなのではないのだろうか。
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