第9話

日がとっぷりと沈んでも、なかなか母は戻ってこなかった。

私は仲林有紗という女性の残り香が漂う玄関で、しばらく母の帰りを待っていた。

むせかえるような香りに吐き気を覚えながらも、そこから逃げてしまってはいけないと湧き上がる理性が私を耐えさせていた。

私は二階に通じる階段の一番下に座り、膝を抱えて待ち続けていた。

私の小学校の時は体育座りで通っていたが、今は三角座りという名称らしい。

しばらく体を動かしていなかったせいか、三角座りをしているとお尻の筋肉が痙攣して引きつってくるのが分かる。

昨夜、家から坂を下っている時も何度か躓きそうになったし、現にちょっと人にぶつかっただけで転倒してしまった。

体もなまってきているし、体幹もしっかりしていないのだろう。

小さい頃から私は運動全般が苦手だった。

走ることも鉄棒も、マット運動も、跳び箱も、水泳だって何一つうまくこなしたことはない。

だからといって勉強が出来たわけでもなく、図書室で黙々と本を読んでいる女の子だった。

本を読んでいると、「魔女が黒魔術を学んでるーこわーい」とクラスメイトに言われ、その噂は広がり、私のあだ名は魔女になってしまった。

黒魔術の本を読んでいたわけではなく、魔法を使って手助けをする女の子のシリーズにはまっていたので勘違いをされてしまったようだった。

本の裏表紙に大きく五芒星が縁取られていたのもその噂を増長させてしまった理由かもしれない。

空も飛べない、魔法が使えない黒い服を着続ける大人になった魔女は、自分一人では生活も出来ず、ただ夜を統べる国でしか生きられなくなってしまった。

それが、父の意思であることは薄々気付いていた。

母は、その意思に付き従っているだけなのだと。

仲林有紗という女性も、父の命の下、母に私の監視管理をさせているのだろう。

だけど、私は何もできない魔女のままでいたくない。

私はすくっと立ち上がると急いで階段を上っていった。仕度をしよう。

もう一度【月夜の森】に行き、宮原さんとヨルに会おう。

夢中で箪笥の引き出しから服を探している時、背後からひっそりと近づいてくる影に私は気付くことができていなかった。

「雫」

地の底を這うような低い声に私はびくりと背中を震わせた。

「有紗から聞いたよ。この時間帯に目を覚ましているなんて珍しいね」

ゆっくりと後ろを振り返ると、部屋の電気を着けていなかったせいか中央に佇む人物の顔が窺えなかった。

ただ、見えなくても分かる。

そこに佇むのは、幼少時から知る、大きな闇なのだと。

「―—―」

声を出したくても、声帯を絞められているかのように声が出せなかった。

ひゅーひゅーとかすかな息だけが漏れ出してくる。

「……母さんは、また約束を破ったみたいだね。雫を一人にするなと、あれほど話しているのに困った女だな」

その闇はゆっくりと歩みを進めて距離を縮めてきた。

窓から差し込む月の光に顔の半分が姿を現す。

見慣れているはずの、父の顔。

見慣れているはずなのに、いつまでも脅威であり畏怖でもある存在に変わりはなかった。

「……急に来るなんて珍しいね」

父は小さく首を傾げた。

「父親なんだから、家に帰ってくることくらいおかしなことじゃないだろう?」

「そうだけど、仕事で忙しくてあまり家に帰ってくることがないから……」

父はにっこりと笑みを浮かべ、

「たまには娘と直接話して交流をはかりたいと思うことは父親の本分だろう?」

と口にした。

本分―—―

本当に父にとっての本分はそうなのだろうか。

交流ではなく、確認なのではないだろうか。

私が黙っていると、父はふといくつか引き出しが開けっ放しになっている箪笥に目をやった。

「どこかに、出かけようとしていた?」

私はぎゅっと服を掴んでいた手に力をこめた。

父は呆れたように大仰にため息をついた。

「……母さんがいないのに、駄目じゃないか。外の世界は闇や汚れに充ちている!有象無象がはびこっている!それを君は、自分で体感したんだろう?」

「私が―――?」

「……もういいよ。僕には時間が限られているんだ。こういう処理に僕自身が駆り出されるのは非常に困るんだよね」

そして、父は手の平を私の目を覆うようにかざした。

「雫、俗世への関与は控えて、おやすみ―――」

ちく、としたかすかな痛みを首の後ろに感じた時には、目の前の父は歪んでいた。

手足の力が抜けていき、私はいつの間にかいつもと同じ暗く冷たい闇の底に沈んでいた。

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