第6話

りーりーとかすかに虫の声が静かな店内に流れ込んできた。

こんなにも静けさに充ちているのに、たくさんの本に囲まれて、ゆっくりと時間が過ぎるのが勿体ないと思わせる夜は本当に久しぶりのことだった。

ふと横を見ると男性がパソコンを開いてキーボードを叩いていた。

私がじっと見つめているのに気付いたのか男性は顔を上げた。

「ああ、すみません。今日使う会議の資料を作成していて、気が散っちゃいますよね?」

「……会社にお勤めなんですか?」

「普段は食品メーカーに勤めています。夜11時からこのお店を開けているんですけど、残業が続くと終電に間に合わなくなってしまってお店を開けられないことがあるんです」

「大変ですね。会社とブックカフェどちらもやられてると、寝る時間があまり取れないんじゃないですか?」

男性は一瞬表情を曇らせると、口をつぐんだ。

「あ、ごめんなさい。余計なことを言ってしまって、すみません」

私は昔からこうだ。小さい頃から気を使いすぎて本当のことが言えなくなる、とか雫ちゃんがいると会話が弾まないなど言われ続けた。

そのため、相手の顔色を窺いすぎては駄目だと思った。

ある時、思ったままに口にするようにすると、周りの友人たちは波が引いていくように一様に私の傍から離れていってしまった。

母に相談したが、雫の思うようにしなさいと言われるだけだった。

美波は母や家に関わることを脚力控えていた時期だったのであまり接点がなく、一緒にテレビを見たりお菓子を食べたりすることも少なくなっていた。

自発的に何かをしようと心がけると、何かが正解か不正解か分からぬまま実行してしまうので、大抵なことは失敗で終わってしまうことが多かった。

私は小さい頃から何も変わらず何も学ばずここまで来てしまった。

「いえ、気にしないでください。そう思われることはもっともです」

男性ははあーと長い息をつくとゆっくりと話し始めた。

「このブックカフェに来られるお客様は、やはり心の片隅に澱を抱えた方が多くいらっしゃいます。私は、無意識に眠らないようにしているのかもしれません。眠ろうとすれば眠れるのかもしれませんが、意識の不在は、余計な感情を引き起こす……」

「意識の、不在?」

男性は彼方を見据えたまま、そのまま何も言わなかった。

私も目線の先の虚空を一緒に見つめるが、そこに彼が見据えるおぼろげは形を成すことはなかった。

「そういえば、もう深夜の2時ですが大丈夫ですか?」

「え!もうそんな時間!?」

少しだけなら、と母に言われていたことを思い出し、私は勢いよく椅子から立ち上がった。

「ごめんなさい、少しだけと言われていたのに、このお店が居心地がよくてすっかり長居してしまいました!」

「長居する方は閉店時間までいらっしゃいますから大丈夫ですよ。良かったらまた来てください」

「ありがとうございます!」

男性は店の扉を開いて見送ってくれた。

「自己紹介していませんでしたね。私はここの店長の宮原です」

「私は宇野雫です」

「雫さん……素敵なお名前ですね」

その時、ふみゃーおという声とともに足元に何か柔らかいものが擦りつけられた。

「あ、ヨルさん」

「雫さんをお見送りしてくれるみたいですね」

「また来るね」

そう言ってごろごろと喜ぶヨルの頭をゆっくりと撫でた。


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