ルサンチマンを「プロデュースする」社会承認の他者化救済の壊変

 ニーチェのルサンチマンという用語はニーチェ自身にとって適切な概念なのか。ルサンチマンという用語を政治的・社会的な反動を意味する用語として使うことが有意義なことになっているのか。あるいはそれがニーチェ自身の思想の格下げに対する反動的概念である可能性はないのか。ニーチェが反語・パロディを行使しているときにそれを理論的な言明の概念装置に置き換えることが枠組みに対する存在論的な道徳主義を再生してしまうのではないのか。


 ニーチェのルサンチマンという概念を考えるときに決定的に見過ごされていると思われることが一つある。それはニーチェがルサンチマンを憎悪の表明と見なしているということではなくて、何らかの道徳的・普遍的理念を用いて憎悪の表明を他者の善であるかのように置き換えるという側面を何らかの信念システムに組み込まれたものとして視るような愛情的な欠乏の論理から「醜悪な貶めの」説明を仕立て上げるということである。ニーチェが社会を支配者の支配道徳による圧政と服従に対して弱者がそれに適応するための「反抗的諸力」が自己欺瞞を用いたものであるということが、仮に普遍的理念としての有意義さを民主社会としてもたらすとしても、それが反動的理念であることには変わらない、ということがニーチェが言わんとしたことではなかっただろうか。つまりニーチェが民主主義に反対するというのは実際の民主主義がその理念的な側面の現実性を何一つとして満たしていないことが道徳的条件としてあらかじめ反動に含みこまれているということを否定することが法的な承認の実在性に成り下がっているということであって、民主主義的な政治的立場を言論として否定しているのではないということを、ルサンチマンの「起源的」説明から逆推論している、というのが問題であるように思われる。ニーチェがそこでユダヤ・キリスト教概念を持ち出すのはカリカチュアとして流通している宗教的なミームに「偉大な道徳化」として幾人かの聖人が名として利用されていることがフィクションを製造するための扇動手段の一つになっている、ということである。ニーチェが宗教的伝統と国内に蔓延している宗教的をここで区別していないように見えるのは、ヘーゲル的な理論的弁証法を用いるだけでは、罪責感というスティグマを宗教的にだけではなく政治社会的に集団管理として実践するという側面を何らかの権利的な違反の内容と混同してしまうことがあるからだ。さてニーチェのルサンチマンによる反動性とフロイトが提案するような神経症の「反動形成」は厳密に同じ意味ではない。しかし明らかにそれは政治経済的なプロセスの中に埋没して重複しつつ混同されることがありうる。例えば精神分析的に「反動形成」として症状化されたものが「政治的」ルサンチマンの発露だ、と誤って(あるいは故意に繋げることで)ルサンチマンの社会的他者を再生産する構造を社会的な承認に置き換える経済的理念性がある、ということである。そしてそれが社会的弱者とニーチェ的弱者の意味を末人という問題を無視して「超人」に実存化してしまう貧困をもたらす意味になっているのである。



 ニーチェにとって弱者とは力が弱いことではなく、現実に対する不可欠な「欺瞞の表象」を意識しないで善の意識として強者の個別化という錯覚に対して集団的に「正直でない嘘」を用いてしまうということにあるのだとしたら、「『ニーチェ的弱者』が社会に対して敵意を持つのはルサンチマンでない」という主張は偽であることはあり得るが、それはルサンチマンという語の用法に関する間違いであり、事実命題としてそれが起こるかどうかに関与する解釈にあるわけではない。もしニーチェ的弱者が「実は」社会に対してルサンチマンを抱いているのだ、と主張したいのなら、それはニーチェとは関係のない、あるいはルサンチマンという語の別の使用例としてそれを提起するという意味である。だからニーチェが社会に対して憎悪を抱いていないという説明が必ずこの主張の否定であると言っているのではない。それはニーチェがルサンチマンと憎悪という用語でわざわざ別のものを表現していることを正確に読み取っていないということなのだ。この場合ルサンチマンという語の「起源性」がニーチェにあるとは言うことができるが「系譜性」がニーチェにあるということはできない。そしてニーチェが「道徳の系譜」ということで云いたいのはこのことである。何らかの心理的概念が歴史的に操作された適用水準の連続から「神話的に」それが下りてきた、とかいうことではないだ。ニーチェが言いたいことは道徳性に関する発話はその話者の「歴史的起源性」があらかじめ考慮されて水準からしか説得力のある弁明を正当化できないということなのだ。これはニーチェがルサンチマンという概念を説明する上でかなり基本的なことである。なぜならルサンチマンは憎悪と違って道徳に関する発生史を「説明しない」ことに本質があるのであって、わざわざ憎悪の原因を「説明する」ことにあるのではないからだ。もちろん憎悪が自分自身に対して説明することが間違っていることはあり得ることであり、それが見当違いの場合もあるだろうが、憎悪はとにかくそれが返済であるということを説明する。しかしルサンチマンは返済することを絶対に妨げることに愛のアクセントを置くということ、これがニーチェが近代的な道徳性の「系譜的な」説明において重視していることである。のだ。したがって何らかの愛情の量が足りないとか愛の質が欠如しているとかいうことが問題なのではない。外傷神経症においては「初めから」愛の対象は不可能な剥奪の位置に置かれているのだが、ルサンチマンはそれを何らかの努力あるいは天運があればそれが手に入れることが可能であり、それは強者の能動的な良さの自己規定にではなくて善の道徳的な弱さの結果として生じるものだ、と主張するのである。だからニーチェが価値判断を「そもそも」それ自体能動的な判断として可能であると思っていたかどうかは道徳的な解釈がそれを社会的貧困のとしてスティグマを設定すること自体にある。愛の対象が不可能な原初性としてあらかじめ剥奪されているということは、経済的なサービスや保証が性的な社会性への愛の承認として剥奪されてもいいということにはならないということをのだ。だから偽造された認識を別の真理として表わすために芸術作品の創造がルサンチマンを解消するための鍵になるのだ。



 ごく単純に言って、経済的な負債をいつまでも返済させずにそれは愛の道徳的配慮だと身体に罪の責任を被せて、政治的な認識を一方的に偽造させることが憎悪の対象にならないとは思えない。もしこれをルサンチマンだと主張してしまうのだとしたらニーチェの言わんとしていることを何一つとして読んでいないことになる。しかしスケープゴートとして持ち出される他者化においてはそうではない。その場合は政治的な憎悪の発言を捉えてそれを政治的排除の起源にある悪意の本質だ、と偽造することが可能になる。その場合はそれが「劣悪な本能」として身体化されるのだ。これが「ニーチェの」責任であると言ってしまうことは、道徳の世界化がニーチェの系譜学の形而上学の主張だ、というのと同じになる。しかしニーチェが主張しているのはそのような形而上学化が道徳的な世界観の身体的スティグマを支えており、経済的負債はその弁済構造の不可能性として愛着的な障害になっているということだ。要するに何一つまともに読まれていないのだ。何かニーチェ的な道徳の解釈になっている。明らかになぜこんなまずい読まれ方しかされていないのかを究明する必要がある。それは芸術家の腐敗なのである。それは芸術家が現実的なものを表現しているとルサンチマンの認識の偽造の水準から聴衆を錯覚させることで、芸術が意図的に認識の偽の表現の演出を行うことを道徳的な世界観の規範から放埓な救いを導き出そうとしている、ということである。ニーチェはここで二つのことを批判している。一つ目は芸術家とは認識を単に事実として言い表される真理の水準においてのみではなく物事を偽にも真の多様な姿に対して開くことにあるのに、それをルサンチマンの道徳的な認識の偽造に従って真偽を構成してしまっていること。もう一つは、その芸術家の姿を世の中の「真実」を表現しているものとして社会が評価することで聴衆をさらなる錯覚に導くものであること、である。これはどういうことなのか。ニーチェは例えば「罪の重さ」という表現を「下腹部の満ち足りなさ」という身体状態の記号でしかないと判断するほどに唯物論者であるということか。明らかにそうではない。ニーチェは政治が真理を表現するべきものであるという判断に肯定的なのである。もちろんニーチェは政治が真理を表現することができるとは考えていない。しかし少なくとも歴史がスキーマのように構造化されるその時代の水準に応じて認識に関する適切な応答が行われることを期待している。しかしルサンチマンの善意はそれを別の醜い悪意を持った他者に翻訳することで、自分たちの尊厳を「芸術的」にするのである。それは人間的な愛の「真理」からかけ離れているし、ただ一つの真理が存在しないとか、形而上学的な真理は存在しない、というような学問的誠実さからもかけ離れている。芸術家は単に人を喜ばせる「嘘」をついているに過ぎないのであって、真理の偽の水準を開示するような能力も責任もただの神経症になっている。これがニーチェが芸術家の腐敗ということで言わんとしていることである。



 社会システムの「生理的機能」の説明と人間が生きることに対する価値規定の表現的な生理現象は異なるものであるということがニーチェにとって道徳を「病気」と見なす根拠になっている。これはニーチェが「道徳的事象」を理解していないということではない。そうではなくて、他人に道徳的なるように要請しておいて自分たちは道徳など知らないかのように政治やら戦争やら言論やらを垂れ流すのはいかなる意味でも「道徳的」説明などではない、ということだ。ここで身体的な規律性と暴力的な存在証明が混同されていることがルサンチマン的な醸成にとって決定的である。生理的渇望と渇望という欲望、これは精神分析が欲望したくないということを欲望するという欲望の維持のことだが、それを暴力一般の拒否感情として提起するのは観念的な世界観に起因する身体的嫌悪感に属している。ニーチェが暴力を構成するときに主張していることは、人間が身体に加える直接的な暴力の虐待のことではなくて、人間がルサンチマンとして自分の身体を傷つけるその衝動のはけ口を、愛他的にする認識を持つよりはそれを単なる暴力衝動として無害な対象に発散した方がましだということであるように思われる。ただしそれは行動が暴力的だということではなくて、暴力的な言動が認識の偽造を行わないように別の解釈の基準に認識の対象を置き換える技術として考えるべきであると主張されている。つまりニーチェは認識を暴力に関する切断性だと見なしているのであり、それが一方的な解釈に対して衝動を自由に切り離したり、再構成したりすることの可用性を満たす条件だと思っている。この「内面化」が正しいかどうかに関してニーチェは判断を保留している。というのも確かにそれは内面の認識の広がりを示すことができるようになる訓練の一環としてもあるのだが、そのような虐待まがいのことをすることが「効率的なやり方」であるとは全く考えていないからである。そうではなくて、身体的内面性に対するルサンチマンの偽造は認識の規律の「効果的な適応」という誤った基準に関して考慮されているのであり、それが実際にその通りに利用可能になる、という側面とはまったく別個の事象として存在しているのである。罰を受けることの結果として犯罪が抑制されるのではなくて、罰の事実が罪をより狡猾な犯罪者の「悪性」として思い描かれることで増幅されるということなのだ。そしてニーチェが「悪人」を称賛するとき、この増幅された悪意の塊としての悪人のことを言っているのではなくて、社会システムが悪意の塊だと「間違って」(カードゲームなどで俗にいう「犯罪的な動き」で)人間のことを評価しているであり、善意の皮を被った独裁者がより好ましいという意味などではないのである。



 ニーチェが健康な強い人間に対して病気であり痛めつけられた弱者から保護する必要がある、というのはいったいどんな根拠から言われているのか。もしこの言葉を文字通り取るなら、ニーチェはよく言われているように、社会的弱者に対しても経済的に強くあり続けている資本主義の支配者として情け容赦なく振舞うべきであり、そのような社会構造を是正するような救済措置に反対して戦っているように見える。問題はニーチェが「健康な強い人間」という言葉で何を意味しているのかである。ニーチェ自身がそうでないことは明らかなのだからニーチェは自分自身も含めて病人を社会から一掃すべく努力するように弱者を自身の部分から他者化しているのだろうか。ニーチェが言いたいことは弱者を病気から保護するためになされる言説はそれ自体弱者を弱者のままでいさせる言説であり、それは強者の都合をダシにして問題を構造化している、ということではないだろうか。もし強者が「必然的に」弱者を搾取しているのだとしたら、この主張は正しい。しかし弱者を保護する人々にとって搾取するために必要な言説であるとしたらどうだろうか。その場合は、「健康な強い人間」として扱われている人を弱者が保護するための措置として管理されることが「搾取を改善する」ということにされてしまうのではないだろうか。ということは医療提供が不必要だと言っている人間に対して不断に医療的措置の手段を適用することが本来の医療的措置の障害として強者と弱者の関係を適応的にしていることになる。強くて健康的な人間が経済的なのは弱者が病気で優生学的に劣っているからではなくて、結果として経済的な人間は強くて健康的だ、と定義されているだけではないのだろうか。だから経済的な保護が必要なことが医療的な言説として再配置されることが人間的な強弱を決定する要因であるわけではないことを承認言説では「強い」言葉として機能させることが救済措置として与えるべきことなのである。ルサンチマンとして認識が偽造されている人間が「道徳的な病気として」保護されるべきであるのかという点に関して経済競争から脱落的に淘汰されるという言説の配置が「当てはまる要因が一つもないほどに」間違っているとは思われない。もしそれを政治的な道徳的正当化の原因として苦痛を麻痺させる措置の基準が持ち込まれるのなら、それこそが政治的な腐敗であると言わざるを得ない。なぜなら問題は政治的ルサンチマンによる認識の偽造を取り除いて、経済的な措置を医療的な言説から隔離することにあるのに、それをしないままで弱者は強者に搾取されているというのでは、社会的な法的承認の実在性においてすら性的な問題が「なかったことに」されるからにほかならない。



 労働の変動水準における経済的保証による社会的承認の愛の負債の返済がルサンチマンの道徳からあらかじめ歴史発生的な要因を突き止めることが不可能なやり方で存在に対する痛めつけが宗教的なスティグマのように性愛的身体の他者化として行われている。ということは「本来的な原初性」として絶対的な差別集団が社会的に承認できないようなやり方で潜在的に要請され、それよりも「程度の低い」差別構造が知性的な要求を無視した社会構造の経済的原因として障害化されているということである。もちろんこの「程度の低さ」は意図的に教育格差として調整されているものであり、それを利用して救済の現実的な返済額を社会的スティグマの回避として売りつけているということだ。「人権商品」と「性的商品」のどちらの方が高くつくのかという問いはより悪質な方、つまり人権商品の品ぞろえを確保するという意味合いで、性が学問化されている。ルサンチマンの他者化と性的承認のマネタイズ化を認識の偽造という観念から記述するために芸術作品の批評をするというのは美が最初から経済的システムの返済に充てられていないということが必要であり、それが現実の労働力身体で性的な享楽なしに済まされるとは思われないということが社会的なレッテルの構造化として否認されている、ということ。ここで問われなければならないことは日本の法的承認は戦争犯罪のレッテルを貼られないことに関して人権を守ることに平和的な主張の起源があるのであって、例えば戦争犯罪の審議がどのような政治状況で行われたのかとか、その結果日本はどのような法的承認の責任を負っているのかということを普遍性の偽造的概念で普及させることに学問的な真理を接続させていることにある。そして性的侵犯は法的承認に常に同じやり方で構造化されているわけではない。つまり承認という物事が記憶の約束化として用いられる限り、性が商売的な承認の要素を含まざるを得ないことが法的な承認を刑罰のように利用される誤解を道徳的に造り出すということ。だから戦争犯罪と性的侵犯は結びつくが人権尊重と性的侵犯は結びつかない。そして法的承認が平和に基づいて性的侵犯を要求した場合もそれは人権尊重と結びつかないのである。確かに「学問的な普遍的真理」としての性的侵犯は法的に承認されている。しかし日本の「学問的な普遍命題」と性的侵犯の人権性は法的に承認されていないのであり、それは労働力商品の承認で負債が払わされることになっている(が可能であるとは言っていない)。そしてデジタル化の個人認証による承認が性的な人権として機能し得るということも(仮にそれが単に復讐的な言説を概念として広めることに加担してしまっているとしても)それが技術的な象徴化における法的な承認としてありうることを道徳的な象徴の侵犯から認めていない。職業的なスティグマが戦争犯罪として認知されている場合に、そのスティグマが戦争に関する考え方ではなくて産業的なインフラの基礎認識を個人的な認証性の支えにしてしまう構造化が起こる場合には、それが性的な差別であれ、歴史認識において本質的であれ、道徳的な理念性の配置からは偽造的な認識として捉えられることになるだろうことが経済的に反映されるのだ。それはその発言をする人間が「実際にどうであるか」とは無関係にそのルサンチマンの枠内に回収される形で差別集団の帰属が「認証される」ことになるという点に歴史発生的な論点を捉えることを不可能にしている弁済への自己責任論がある。日本が戦争に負けたことが経済的な負債に対して影響を与えていないとは思えない。しかしそのことを指摘することが「日本が」戦争責任を払っていないことによる自己費用の原因性だ、とすることがそのことの必然的な原因であるとは思えない。経済的な原因は別にあるのであって、技術的な負債を払うことが認識に障害を与えているのは、性的な享楽の構造に支配的な主人の言説がそれに沿った動きをしているからではなくて、神話的な動因が法的な承認の技術的な換喩を支えているからなのである。



 ニーチェが科学的真理の進歩は理念的進歩の根拠にはなりえないということで言いたいのは、真理とは単なる真理としての事実の集合ではなくて、ある特定の創造に対する隠喩性やそれに対応する換喩性の質を維持する物事の全体性であるということである。もし科学が真理の代表としての側面を担っているとしたら科学者はある理念性の代表的存在としての矜持が何らかの社会的なシステムの水準に入り込んでいるのでなければならない。しかし科学が理想を喪失していることの隠れ家として探究という口実を主張するのなら、それは必ず自分たちの認識欠如の代償を償わされることになる。それは自分たちの研究成果を「売る」ことで社会的承認を求めることの対象欠如の探究である。だからこそ科学的成果を「歴史化」することは決して歴史的な研究の発生的原因にはならない。それは科学的な部分性への貢献的な偉業の物語だからである。例えば核兵器の発明に関する研究者たちの努力は明らかに学問の知的偉業の一つであるが、だからと言ってそれが実際に使用されたことが日本の法的権利の必然的な達成の一つだ、ということになるとは思えない。だからといって核兵器が科学的な民主主義社会の道徳的欺瞞としてルサンチマンが科学的探究の達成を妨げるべきである、ということは理念的な根拠をどう問うかの問題で表現として禁止されるべきであるような種類の問題ではない。もし核兵器の被害者が救済されるべき問題があるとして、それが「核兵器が悪い」という答えであるとしたら、何かが間違っているとしか感じられないだろう。それは明らかに誰が悪いのかという問題を法的承認から封じている場合に起きることである。そしてそれは日本が戦争犯罪を行ったことを弁明している正当化なのではないし、放射能汚染が性的な侵犯としての機能を持つことを優生学的にしたいと主張しているのでもない。それは学問的な理論性と人権理念の構造を重複適用しているのであり、真理の水準に対する物象化を誤って商品の形式と同じレベルで遺伝のコードとして象徴化している。もしルサンチマンの概念を逆用してこの場合誰が悪いのかと問うことは復讐的な感情の政治化だ、というとしたらまさにルサンチマンの道徳的偽造という使用例の汎用化をもたらしていることになる。したがって政治的排除は憲法の補償的な責任機構と戦後の経済的安全保障の枠外で境界的なコンテキストがデジタル的なフレームワークを用いるコードの再利用に関する記述と類似するような性的な享楽のトポロジーを定義する構造化でもあることが、ルサンチマン的な説明の汎用例に反論するために必要な技術的負債の脱-構築をアーキテクチャ構築の隠喩性で独立して提供することが労働条件の構造を変革するための戦略になる。



 現在の経済的世界は無を欲するように人間を仕向けている、という主張について考えてみよう。資本主義は無-世界的であり、その労働奉仕的な価値判断の承認構造から税金的な支払い手段の確保を唯一の自己承認のための実存的契機にしているのであり、それは貧困の負債そのものを実存の欠如に組み込んでしまっている、ということ。もしデジタル化が人間の身体を「数字化」することで欠如対象としての身体的部位に対象物としての説明を与えてしまうだけだとしたら、それは世界性が欠落することの実存的意味を補う再補償戦略の差異化と何が違うのと言えるのか。このことを考えるにはデジタル商品を「購入する」とは商品のものとしての性質において何を「購入する」ことを無として意志しているのかということを考えなければならない。つまり商品を購入することで自分の中にある「無」が一瞬でも満たされることがありると期待するとはどういうことなのかを構造化することが知性に対して思いを具体化することになることにおいてなぜ他者の要求の不一致を炸裂させる根拠になるのかということ。なぜなら商品を購入することが何らかのつながりを「決して通じ合えない主体同士の接合」として機能しつつ、それが理性の言葉として代理=表象されたルサンチマンの影響に左右されないことが対象としての性質において欠如の表象代理にならなければならないからだ。問題になっているのは労働力において性がその接合の役目を果たすことで貨幣が換喩として落とされる物象化の機能を人格的な差異の人権的言説に直接肉体として配置することなく隠喩的に身体化する技術であり、そのことを労働が何らかの他者とのコミュニケーションの承認として満たされることが教養という意味ではなくて知性的に把握されないといけないということだ。知性化が資格や学問テストの点数のようなイメージから脱却するために欠如対象を意志として意味することの反復にするためには何が必要なのだろうか。もちろんそれは父の欲望である。しかし父の欲望が父の名として法になっている場合には、社会的なルサンチマンの道徳的な覆いの評価言説が教養化することを身体のイメージとして所有的に利用しなければならないので、それは父の欲望の苦痛の饗応になる。それを回避するために商品の普遍性を形式論理として持ち込んでも性的な換喩が別のシニフィアンに代理されることは不可能であるので、結局父の代理を自身の享楽の囮として呼び込まなければならないことになる。もう一方の極、母の欲望に関してはどうなのか。母の欲望とは欲求を全能の他者に構造化するやり方で他者の欲望を自分が世話する欲求の持続にすることであるから、自分を理解してくれるだろう保護的なイメージの幕と、ルサンチマンの自分を否定するイメージの外傷性を欲望の贈与の反復規定において繰り返すことが承認に対する商品の穴埋めになるが、それは本性上象徴的なシニフィアンが欠けているので隠喩的にはならず、身体への直接的な参照を取り込みとして要求する。このどちらの構造も商品の欠如対象に対する意味を代表象することはできず、労働力を否定的な命令に従うやり方でしか無を指定することができない。それは象徴的な法が単なる隠喩のアレゴリーになっており、憲法の記述水準で象徴的な換喩があらかじめ実体として構成されているので、それを改めて対象として欠如させることが現実の法の侵犯として社会に評価されてしまうからで、それをアイドルや性的な承認構造の商品支出に幸福の要素として物体化に所有されてしまうという理由に依っている。象徴的なシニフィアンが民主的な権利を規定するはずが、象徴的なによって民主的な実在が人間的に要請されることになっているのだ。



 インターネット空間では性は商品のシステムにあらかじめ転倒した眼差しの身体領域に声として再現=表象が意識から対象に可視化されている。したがってデジタル化が労働力の無を実存的な世界の欠落から差異化するという労働奉仕に象徴化を欲望するためには声をシニフィアンに変換することをデプロイユニットとして世界から独立させることでインターフェースにおける活動をトポロジー的な享楽の性的な分離としてインテグレーションとして継続することにある。声をシニフィアンに変換するとは声を身体的な発話の承認主体として個人を直接化しないということであり、常に声が隠喩的な意味作用の連鎖から身体を表象代理するように欲望の記述を行っていくという意味である。そのためには声の構造が厳密に換喩的な操作に従って落ちていくことが必要であり、声がある権利主体の代理=表象を普遍的にするための理念性であってはならないということである。これは理念性を信じてはならないということではなくて、声の位置に理念の欲望を置いてはならないということである。なぜなら心の声は常に無の位置に欲望として在り、それが個人的承認に特定の意味を与えたいと願っているが、それは自我によってしか占拠されないので、結果として自我が声を封殺するという風に代表象されてしまうからである。このことはなぜ自我が心の隠蔽を声の大きさとして世界の実際性を破砕的に表現することになるのかを電話の技術のアナロジーとして説明する。画面の中の声が自分の声の願いを代弁する無であるだけでは、その声が私であることの保証が得られないので、その声が自分の欲望を代理することがなくなった時点で、それは無から欠落し、排泄の貶めの対象として破壊される。言い換えるとシニフィアンとは別のシニフィアンを代表象するシニフィアンであるという構造を取らない限り、存在の換喩である私の欠落が止むことはなく主体が性的な声と自我を侵入から区別するために必要な享楽の象徴化も行われないままで放置される。しかしシニフィアンを知性的に把握するとはシニフィアンを理解することを別の主体に対して代理しているわけだから、欲望の差異性としての世界が崩壊していくこと自体は避けることができない。もちろんここで言いたいことは声を部分対象として切り離すことがシニフィアンの連鎖水準を定立するための法であり、シニフィアンとしての自己定立は再帰的に世界性に「私」を置くわけではないから、それが無の欠如を主体の労働的な隠喩性としてフィードバックループを通して外的にインターフェースの要求を構築できるという点に現実に対する性の換喩があるのである。しかしもちろんこれだけではコミュニケーションの承認にはならない。どうしてだろうか。それは身体のデプロイユニットが声から世界の内的な表象の囲い込みに対して独立した形で与えられているわけではないからである。つまり声が分離されているためには身体が声の起源的な部分としてデジタル化されているだけでは足りておらず、その声が欠如としてスキーマ的に与えられていることが「多数の」ではなくシニフィアンとして意味されているのでなければならない。それは声がとしても快楽の現実的な判断に対して承認されることが、置き換えの要求に屈しないことが必要なのである。労働力が生理的対象の嫌悪感として隠喩に交換されるだけでは、欲望の換喩は単に再現の記憶に読み込まれている「結果的な」承認の欲求の反応でしかないからだ。だからルサンチマン的な道徳的嫌悪の対象を欲望の貨幣の換喩として料金を流通させ、それをシニフィアンの身体に物象化することを「生理的に」禁じるための別のインターフェースとしての隠喩を声の部分的なトポロジー対象であるキャラクターとして表象代理することが、性の境界付けられたコンテキストとして声の重複を名づけに利用するための欠如した享楽の量子化なのである。

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