ラカンを再検討するための「非言説的」アーキテクチャ構築1

 精神分析は存在として在るのか。ラカンは精神分析をのか。つまり精神分析が「享楽は学問的真理として存在する」という言説に加担するような構築に対して「身体的な部分としての享楽は実在する欲望として扱われるべきだという学問的合意」に回収されるような反論の対立性として他者を建ててしまっているのか。


 ラカンの言説を意味として産出する体制から批判することはヘーゲルの知の所有者の名義人としての大学のディスクールに対する暗部を参照することになってしまうということをどのように回避するのか。問題の核心は「性関係は存在しない」という分析命題を学問的真理の記述として認知するのか否かに関わっている。つまり書かれないことをやめない関係の記述はどのような「疑似言説」への非難声明として理論化されてしまっているのかを問うこと。サークルの名義人の性の参照と存在の性の問いかけのポジションが同義反復になってしまう人権の擁護はそれ自体としての侵犯を容認するか否定するかの実践を法的な暴力の配置に見かけとして頼るようになること。


 性は一義性なのか。精神分析が主張していることは「性はトポロジーのようにしか隠喩を排除して説明することができない」である。なぜ性を二元性と性差の容認として説明してはならないのか。性を二元性として建てることはディスクールに回収される知としての学問とその身体的立場を一致させることが許される専門家のポジションしか享楽の実践を説明することが許されないからである。言い換えると、法的な刑罰と性的な侵犯との関係を言説の学問的な真理は問題にすることができないので、それを表現の意向にずらすような手段でしか性の実践を区別することができず、その場合、消費と呈示の自己開示を存在の議論ではなくて単なる身体的容貌の議論に引き下げることになってしまうからである。だから性を生物学的に規定する必要が出てくるが、もちろんその領域は「社会的ジェンダー領域の言説」なので、構成文法として議論することができる主張になる。だがこの次元には精神分析は関わっていない。しかし享楽の参照先を容認する見かけの議論としては精神分析の他者を呼び出す必要があるので、その「専門的でない」科学性を否定するための学問の一つとして「精神分析の言説」が密輸入されることになる。感染症の予防言説の実在性が医療化されるというアンソロジーと違ってこれは性別規範プロバガンダの一種としての宣伝戦略にすぎない。精神分析は性をとは認めていないからである。


 では精神分析は男女以外の「第三の性」が存在すると言っているのか。もちろんそうではない。生物的でない男女の性を決めるのは「言われたこと」に対する「発話行為」の位置が見かけの享楽の位置のどの言説を実践するかで構造的な意味が産出されるかを身体的なシニフィアンとして構築する欠如対象aに依っている。大学のディスクールはこの欠如対象aを関数対象xと混同するために科学のディスクールの普遍項と参照先を間違える結果として誤りの副産物そのものを対象化してしまう。そのため大学のディスクールは見かけの権利を法の侵犯として普遍的に性の魅力を擁護しているにも関わらず、実際の意味の産出の機制としては何も変わらない説明を学術知として温存してしまう結果に終わることになる。ここで言いたいことは「私は存在する」という主張は分析命題としては偽だということである。なぜなら「私は存在する」とはそれ自体としては何も意味しておらず、したがって学者が存在について語ることとそうでない人間が存在について語ることは同義ではないからである。一方で存在の権利に対する科学のディスクールの方はそうではない。しかし存在が科学的に不変であることは明らかに不可能なことなので、それは何らかの社会的特権の表明と同時に語られるのでなければ権利としての普遍的な意味を喪失することになる。だが人権は構造的には特権の欠如の方向でしか語られることはあり得ない。法学者が人権は平等だと主張してもそれは「学問的には」正しいがそれが人権の手続きを擁護しているとはつまり特権を擁護していることであり、それが民主主的な権利として非近代性に対抗しているのだとしてもそうでしかありえない。これに第三世界の奴隷制度や独裁国家の横暴を比較してもそれ自体としての体制の人権は何一つ説明されているわけでもなければ、性についての存在が容認されていることにもつながらない。単に人権がそれ自体としての金銭的保証機構として消費が正当化されているだけなのだ。



 精神分析は「すべて」の語り方が男女では異なる構造を有していることに分析の要素を置いている。まず男性側の構造は「xについて少なくとも一つはaではないすべてが存在する」として性が積み立てられる。男性の場合、欠如対象と去勢が幻想の隠喩で繋げられて主人のディスクールを代表象するが、そこに父の名が来なければファルス関数が欲望の欠如としてペニスの機能を粗相させる母の見かけにしか繋がらないことになる。女性側の構造は「すべてのxにおいてaでない対象の存在はあり得ない」として重複される。女性の存在が主人のディスクールの欺瞞に本気で騙されることはあり得ないが、声の欠如が幻想の見かけとして天使の衣服のように配当される場合には、母のファルス関数を剥奪された父性が器官的な身体のように象徴化される。ここでファルス関数とは何かを説明する必要がある。ファルス関数はペニスの機能が言説として象徴化された物であり、それは欲動の機能を指し示す実践領域のトポロジー代数だ、と説明されるが、これをアーキテクチャ構築で表現しなおすと、動物の現実の性機能と人間の性構造を論理演算子の戻り値で身体的な現前を呼び出すメソッドである、という風になる。ラカンが享楽の関数としてファルス関数を代数として表現してしまっているその命名法が、まだアーキテクチャ量子としての発明に対して不十分な普遍の否定を持ち込んでいることが解剖的な演繹を呼び出す原因であると思われる。ここで私が言いたいことは精神分析は虚栄心の解剖という役割を持っていないということである。確かにヒステリー言説の実践はサロン風のテーマを提示することに対して形式的な機能を性格的に分離して、それを喜劇的なキャラクターに「すること」で見かけの配置を構造化する。しかし性的関係を表現する題材は大抵政治的支配者の顔を立てる配置で物語が理論化されるので構造は意味から逆算されて記述されることになる。つまり政治的ディスクールでは男性側は「父の象徴化」を打ち破ろうと努めており、女性側は主人の幻想の見かけを大衆の醜悪な暴露から防ごうとしているのであり、その経済的収益化が享楽の欠如対象aとして学問の普遍性を二人の女性xの異性関係として男性的にすべての侵犯から擁護することになるのである。



 精神分析が普遍対象xと欠如対象aの区別を建てているからと言って、この説明の方法そのものが幻想を隠喩的なシニフィアンの連鎖項として享楽のXにしてしまっているのではないか。言われたものと言うことの大文字の他者Aを精神分析は転移の構造にしているのではないのか。精神分析がこの批判に応える方法は、クロスキャップのトポロジーの切断に関わる事例が鏡像関係の配置と異なっていることを説明することである。ここでは「欲望とは他者の欲望である」という定義について考えよう。思うに、この定義をヘーゲルの弁証法と完全に区別する形で規定することが大学のディスクールの補遺に精神分析を貶めないために必須だからである。ヘーゲルの言い方では、自分の利益を利己的に規定することは結局は他者の利益につながる自己を対象化することであり、そのことで自己と他者に等しい関係が生まれるが、その関係は差異の構造として空間化されるので時間的な現出関係が異なる理性的実践を契約的な国家の普遍性として貨幣を媒介に構成する、ということになるだろう。このヘーゲル的な説明では享楽は他者の実存であり、それは国家的な契約として自己規定を対象化する平等的な普遍形態の一種として学問的理性が存在し、そのことで各人が自由な可能性を表現することになると司法が規定することになると思われる。が、その関係は実際には不平等なので主人と奴隷の弁証法が享楽の可感性に組み込まれた形で資本が形成されるとマルクスが付け加えるかもしれない。ラカンが主張する定義は全く違う。まず欲望は自己の規定対象では全くなく、他者が欲望しているものを自己の欲望だと錯覚する関係が欲望の対象を規定することであり、利益の基準はその欲望を他者の領域から普遍的に否定することで建てられる欠如対象の方にある。しかしその欠如が社会的関係だと表象される状況では、それは鏡像として提出されることになってしまうので、トポロジーを構造化することなしには同一化を繰り返すことになってしまうから、時間の等価形態である享楽から自己を引きはがさなければならないのである。この論理量化子の代価が貨幣にほかならない。「母の欲望は子供の欲望である」とか「父の子供であることの他者は欲望の他者である」という定義に精神分析が構造的に引っ掛からない理由(エディプス・コンプレックス)は、まさに鏡像と同一化を欠如の埋め合わせの位相化として主体を引き裂いており、欲望の享楽の実存的平等に存在の自我を核として置いていないからである。



 ラカンが現実的なものは「不可能な欲動として在る」という時、現実的なものは不可能というヒステリー言説のフィクションと混同しないことが精神分析の実践として重要であるということを強調するのには象徴界の助けが必要になる。この表現とはある人間が性を持っているとはどういうことか、という問題である。ある人間が生物的に男性であり、しかし実存の享楽として女性になる演技をする趣味を持っているという言説は性的な構築なのか。それはフィクションの問題に過ぎないのではないだろうか。男性が「実際に」女性の身体になることが「不可能である」ことを夢見ることの代価として「女性である」演技をすることの権利が現実的なのだろうか。単にナンセンスであるように思われる。それは「女性俳優」が「男性の演技」をするために男性の衣服を仕立て上げることを倒錯と呼ぶのがナンセンスであるのと同じようにそう言える。このことは男性が女性に「変身する」フィクションが馬鹿げているのと同じ意味でナンセンスであるのではない。問題は生物的な性とは逆の性別化の構築を語ることができてしまう主体を享楽の実存で想像的に位置づけることが言説の普遍性では不可能であるという見かけの方向にある。ある作品で異性の登場人物を書くとかいうことが機械的に生成されても問題になりえないのはそのためである。社会的な状況でジェンダーロールを考えればそのことははっきりする。ある女性的身体を持った男性の語りの構造を持つ主体に性的な話題を振ることと、ある男性的身体を持った女性の語りの構造を持つ主体に性的な話題を振ることは、同じ侵犯の幻想を想像的なフィクションとして共有できるとは限らないということが表現の享楽の不可能性を現実的なものにするのであって、性的な過激さの身体的な容貌が性的反転の容貌で代表象されることが法的な規則適用の矛盾を構成するのではない。それでは「性的少数者の自己表現」なるものが性的な実存であるということになってしまうし、まさにそれが差別的な消費を促す身体的な苦痛として存在の現実を政治的言説の不可能性に構築してしまうことになるからだ。だから男性が父として象徴化することと女性が母の想像的なものを提供することは子供の欠如対象aに対して非対称的に数えることの不可能性を「異性恋愛」のシニフィアンとして命法化するのである。


 

 したがって異性恋愛のトポロジーと異性恋愛のコード化が別の対象規格を有しているということを何で理解するかが性の存在を現実的にする「不可能性」でなければならない。ところでこの「異性恋愛」のコード化が学問の専門性ではことが問題なのである。学問的探究の不可能性が別のジャンルの不可能性の関係を性別化の反転として繋ぐことに享楽の矛盾が現前しないからである。(つまり単純に愛妻家とか愛国者とかになる)。逆に男性的モデルと女性的モデルの恋愛がなぜ禁止されるのかの理由は、芸能界やサロンではこのディスクールの配置は現実の利害関係と衝突する享楽の欲望になるからである。これが「不可能として在る欲動」異性恋愛の一種であると同時に、関係性の破綻が享楽の実存としては否定される性的語りのトポロジーから倫理として追放される機制であり、フィクションとしては隠喩として繰り返し繰り返しその欲望が差異として再生産される子供の代理表象の結実になる。明らかにここには「現実とフィクションを混同するな」という命令の何らかの重複がある。象徴的なものと想像的なものを幻想で繋いでしまうのは主人のディスクールの見かけに過ぎない。しかし単に現実とフィクションは違うというだけでは不可能なものを現実存在の否定として考えているだけで、それを幻想の領域に閉じ込めようとするコード化を世論として備給し続けることで自我勢力の圧力をかけることと同義になるような利害関係が異性恋愛のトポロジーを「同性愛の差別」として反対する言説に加担する意味を産出する体制として理論化されてしまう。このことは「権利としての同性愛の普遍性」を否定することではないが、もし男性的権利の普遍性が普遍対象xの見かけとして機能する限りでは欠如対象aの論理量化子は女性の語りのコード化から「あり得ないもの」として排除されるのである。なぜなら宣伝広告の享楽は他者の欲望であり、それを否定するものの普遍性の見かけから自己の欲望を取り出せると錯覚する機制が逆のトポロジーの現実的なものを否定する不可能性の宣伝としても建てられているという点に、無限集合の鏡像のトリックがあるからだ。



 男性が天使を欲望することと女性が天使を欲望することはどのように異なるのか。男性が天使を欲望するとはある種の愛人関係を求めることであり、仮に性的な接触がなかったとしても男性的身体の側に存在していることがその感情に安らぎの気分を与えることを可能にすることが理想的な関係になる。一方で女性が天使を欲望するとは魂の友愛の中で消え去ることであり、女性の身体が仮に性的な接触として意味づけられるとしても、それは存在しない実在性の内側で行われる試みであり、思考はそれを知っていてはならない。そうであるにもかかわらず意志はすべてを「感じ」ていなければならない。この享楽の説明には欠陥がある。それは享楽の第一の原則は白痴的であるということである。それは馬鹿げたことを愛する者のために行うことは馬鹿げたことではないが愛する者のために馬鹿になるのは本物の馬鹿であるということである。同性愛の記述に対してこのことはすべて文字通り当てはまる。つまり同性愛の構造とは天使の男女の欲望を性的関係の合致に魂の愛として結び付けようとすることであり、そのことは異性の享楽の存在を実在する神の見かけのようなものとして思考を弁別的に愛することを要求してしまう。これは同性愛と普遍性の権利が合致する承認のための愛であり、同性愛が存在であることの証を享楽として実在させることをフィクションに対する真理の愛として上演することに身体の欲求を拘留する。ここで言うべきことは天使を求めることを止めて現実の人間に興味を持つべきだ、ということではなくて、異性愛とはこの天使の欲望の性が際限のない馬鹿さ加減であることを一人の性として存在しなくなることを求めている、ということに関わっている。コンテンツの商品を考えればわかることだが、天使の対象をひとりひとりの女性に対して同性愛的に認めることは完全に論理的であり、一方で自分自身が無性化された動物として男性に同性愛を要求されることは完璧な知識の備給であるということになってしまうからである。ただしこのことが現実の同性愛関係を生物身体の権利として否定するものであるかどうかを議論することは同性愛の問題であるというべきなのか個々人のジェンダー規範の異性愛に対する反対なのかを説明することは不可能である、ということに要点がある。もちろんある個人が自分は同性愛者であると主張することは可能である。しかしそのように主張することが同性愛を他の人にも認めてもらいたいという意思表示なのか、ある特定の個人に対する恋愛感情の同棲性を表現するものであるのかはいずれにしても「同性愛が」間違っている結果として生じているのではない。つまり同性愛を認めることで「社会が」性的に寛容なギャップを容認している、という以外の主張にならないのである。そして異性恋愛はおよそいかなる意味でも「寛容」ではない。



 余計なものの享楽の障害が語られるべき享楽の適切な利用を妨げている、という隠蔽の猥褻さがどのように言説から生えてくるのか、ということ。これは存在の誤りの言説からの切断をもたらすことによって顔を覆いたくなるような羞恥をもたらすことで失敗の目的を禁止の説得に変える本質についての「理解」が布教される下地を作成の根拠に置いてしまう。つまり猥褻さとは性について話すときに失敗しないようにするための狡猾さであり、それが人間を滑稽なものではなくて誤った存在として正しい立場に非難される主体としての創造に自己定立してしまう。女性にとって猥褻さの語りとは余計なものの失敗が実在しない享楽から身体を構成してしまうことなので、女性が話す享楽を猥褻な話題に限定することは猥褻な滑稽さについて男性に享楽を指摘されることと同じではないことが苦痛の存在を浮かび上がらせる。これは男性側の命題が単に偽善者であるのではなく滑稽であることを滑稽であることの恐れに基づいて性を構築しないわけにはいかないことを性関係の不可能性から要請している。物笑いの種になることの恐怖というものがサロンの本質的な存在意義であり、そこでは育ちの良さがある種の猥褻さから滑稽なやり方で防衛されることが馬鹿馬鹿しい熱心さで擁護されるやめられない快楽として現存しなければならない。もちろん私が言いたいことは逆で、だから文学的なサロンが政治的な保守性としての機能として陣取っていることは滑稽を通り越して猥褻であることを否認するということにあるのではなくて、創造の猥褻さというのものを余計なものの正義として言説なしに存立させることの方向にある。礼儀作法としての堅苦しさがなければ猥褻さに存在の本質が覆われてしまうという存在の誤りを軽くすることの問題が大学の性であるというのは享楽が意味のシニフィアンとして自己生成される美の典礼だ、ということになるのだろうか。明らかにそれは違うことであり、余計なものの享楽が偽であることを美学の講演やそれに類する事柄で埋め尽くすことになってしまうだろう。歴史-物語のレクチュールとアーキテクチャ空間の語りの引用性を区別するためには、他者の享楽とそこから引き合いに出されるシニフィアンの声の愛他性は完全に異なる様式で成立しているということを光の信号偏向によって確認するために記憶-痕跡と復元記録-レプリケーションというスキーマ的なシンボルを設定しておかなければならない。それはアプリケーション更新と歴史が認知地図の説明で選択される愛の対象が流通する言説の方向ではなくて、キャラクターがデータベースから性的な症候として利用される論理演算子として書かれることをやめない愛の実践に移行することが普遍記号の差異-語りに回収されない構築に対する破壊的な存在を性の不可能性に対して一意的な量子に命名する振る舞いを止められなくする、という繋ぎ方で書かれないことをやめる偶然性の出会いが享楽のしくじりに対する憎しみを自らに向け直す無知になる、ということの重複である。



 無意識が欲動の現勢力として召喚される転移とはいかなる種類の介入であるのか。ラカンの言い方では転移とは分析家の欲望を患者の「失策」に対してそれが言語の構造化に対する裂け目の対象欠如になるまで知の表象を性的な発話として閉じること、に主体として関わることを消滅に至るまで終わらせないことに症状を意味づけることにある。まずラカンが転移に関してことを正確に理解することから始めよう。それは転移とは「知っている」分析家に対する主体の知と同一化したり、ある「健全な」自我に対して性的な欲望を閉じるように行為への道を逃がすことであったり、家庭生活の円満な表象を「治療する」ような欲動の反復形成を学問的な認識に棚上げすること、などである。これらは「私」が性に関して知っていることに対する思考を持つことを可能にしてくれるような実践=男根を防衛できる基準が存在することを前提にしている。ラカンが明らかに言っていることの一つはフロイトが何度も強調しているように存在しないことである。ラカンが無意識に対して知ることが女性を特段優位な位置に置くことにはならないだろうと警告している理由はまちがなくここにある。だからといって、男性的実践が男根ファルス的な要請から女性に享楽を猥褻に掻き立てることが無礼でない、と言いたいわけではない。私がここで挿入したいことは同性愛のフィクションは異性恋愛を男根ファルス的な構造なしに不在を反復することが享楽として可能であり、それは何らかの女性対象の欠如に依ることなく他者を説明することができる、という観念に真偽関係を置いている、ということである。なぜなら異性愛の物語のコードは同性愛が「幸福」になれないような結末を迎えるというやり方で享楽が無視されるという被膜を作り上げることで、異性恋愛が政治的に不適切な題材であることの介入を転移から防衛したいと試行しているからである。これは人は症状の意味をトポロジーから数学化しようとしているのではなくてシニフィアンの意味の換喩を数学的実在から創り上げようとしているに過ぎないという事実を反映している。このことによってラカンは自我がモナドの窓の孤立的観点から「健全な理性」を働かせることの防衛を操作の「転移」と呼ぶことは良心の葛藤をあたかも社会的職業倫理のように奉仕する結果に終わると警告しているのである。性が欲動に関して現勢化するのは大人や子供といった身体的な成長段階の発達に差異として記入されている器官的現実に左右されるのでは全くない。問題は欲動において、昇華を商品のように実践することは部分的な連関においてであり、そのことが性行為の「成功」を達成していることになるわけでも「生殖」を欠損の記入から商品として代理表象しているのでもないということが欲望の潜在力として放出されることを男性器官の状態と混同しないことである。ここで言われるべきことは経済的な不可能性の新しい展開の参入にまつわる快原理が同じ状態を維持することに対して「散財する」という失敗についての満足の境位が他者において満たされて自己においては空っぽであること、に類似する性のシニフィアンの交換にある。このことから欲動がある恒常的な状態に満足する力の反復である、という説明は極めて誤解を招くものであることがわかる。それは視線の享楽に関する商品の見かけの宣伝的説明であり、ある症状が無意識の力動として反復する欲動の「恒常性」に関する死の苦痛の差異の説明ではあり得ない。それは禁欲主義者が「金か命か」にまつわるエピソードを翻訳するときのシニフィアンであり、それは別のシニフィアンを代表象するシニフィアンであるので「自らを含まないカタログは別の種類のカタログである」のと同じ論理の二律背反を意味だと錯覚しているのである。このことが症状として意味するのは同じ種類の商品を消費する人々は「同じ」商品の欲動を幻覚として保存しているのではなくて、選択する余地のない現実の欲動に関する不可能性を無差異の対象として繰り返し異なるやり方で性の欠如を貨幣の図式的位置で満たそうとしている、ということにほかならない。



 無意識の欲動が売春と混同されることが意味するのは、食べ物の注文に対する欲求と性の満足に対する欲求が「同じ」部分欲動の満足である、と見なすことから結論付けられている誤謬推理にある。つまり「私が」性の満足を得ることと「私が」口の味の満足を得ることは欲動に対して貨幣の限界(肛門欲動)と同じ位置にしかないと考えられているということ。精神分析が転移に対して主張していることは、これが同じ「欲望」の主体の症状ではないということである。寓話的に言えば次のようになる。ある肉屋の女房から肉を注文することは美人の(暗黙の)味わいを含む快楽のニュアンスを充足させることができるかもしれないが、美女が見ている前で肉を食べることはたとえそれが彼女が注文したものであったとしても肉の味を性的に満足させることが無意識においてでもできるわけではない。ここで羨望が問題ではありえないことははっきりしている。もし私がお金を持っていなくて、ある対象を購入できないことで他人に劣っているという解釈を持つのなら、そのことは私の性的な満足に対して障害を与えるということが可能なのだろうか。そのことが無から創造されるべき猥褻さを取り出してくることの代償として貨幣化が行われるのだろうか。それは金融的な信用創造の場合に起こることであって、無意識が無から創造すると言っているときに言わんとしていることではない。無意識が失われた原因の対象を求めているという時、それは時代的に昔にあるものではなく、未来にあるものとしての「復元」であり、したがって歴史を「修正する」とか打撃を受けた状態の「回復」が方向として後ろ向きにあるとかいうこととは全く異なることが現勢化することを欲動が「恒常的に」欠如の周りに反復するのだと言わなければならない。しかしなぜそれがなのか。それは性がいかなる対象の実在性も持たないやり方で他者の一意性を身体的に存在として指し示すからにほかならない。そのためには男女という性はそれぞれのやり方で補完されるものなしに欠如しているということが性関係の不在を他者の享楽として構造化しているものなのである。つまり無が復元の方向として与えられているものが他者の享楽として同一化されるものなのではあるが、それは欠如対象aの欲望としてしか外-在しないので、象徴的なやり方でシニフィアンがスキーマを定義するその言語が意味作用を生み出す構造と想像的なものが隠喩的な繋がりで性的なものを表現するやり方が内在的に異なる差異を生み出すそのことが主体的な分裂としての欲動を自己を認知するやり方に歪みを生じさせる無意識として現勢化する欲望として失策行為の分析家の出会いから性的に衝迫として放出される表現の解釈に促される主体の召喚としての創造的な構築になるということに性愛的な繋がりがトポロジーのようにアーキテクチャ量子として侵犯ではなく法の外部に建てられる、ということ。ここで言われるべきことは他者の享楽が満足すべき水準にない場合には、人は他人に享楽の羨望を植え付けるようなやり方で自らの享楽実践を見せつけることが性愛的満足だ、という風に言説を構築するということである。一方で他者の享楽が満足する水準にあるということがである場合には、そのような意味を真剣なものとして扱うことができないので、性的な欠如を満足だという風に創造する、という問題が生じてくる。この欠如が過剰享楽にということはあり得ることであり、それが経済的な不可能性を言説の猥褻さで覆う消費の欲望になるというやり方で時間的に不可能な位置に想像的な自我リビドーを断片化する。この欠如が猥褻であるのは享楽の自己-欲動のループが内的な切断なしに露わな位置で欲望をシニフィアンから代理表象することが、性の騙しの効果として忘却にあると他者を矮小化するからである。



 「インターネット空間」の境位では欲望の身体と眼差しの世界の時間的投影が「同じ」欠如享楽の現象存在から絵画の養育として反映-繁栄しているのであって、それが享楽の構造を分析することの余剰-享楽として主人の猥褻さを露呈させる意味-産出と混同されている、ということが確信の主体の疑わしさを性の裏返しの政治空間的表象に脱構築している。このように考えれば、なぜ「ネット空間で」存在論的表象が世界としては「存在しない」のかを女性対象として措定しなければならないのかが意味の宙づりの身体として再生産される構造についての被膜のディスクールを、物語の主人としてメタ的に一致させることが身体表象の性的な疑わしさの実在としての立場を表明することに対する重複として視線の自体愛の構造原型を反復できることになる。つまり「話す存在」としての相互契約を人間は精神分析のディスクールをネット上で「実際の」身体年齢を表す語彙の特定と構造の意味を錯覚するので、そのことが現象的身体の「確信の主体」として他者の享楽に透明な眼差しとして再現される、ということで、精神分析が「騙す主体」として対象aの方向にある他者の位置を眼差しの主座の享楽に想起させてしまう供覧性として無視を設定することにある。つまり精神分析では視線をひとつのシニフィアンに還元する分析を通じて主体を乖離した-引き裂かれた欠如として享楽を構造化するので眼差しが意識に通じる道=知恵は絶たれているのである。精神分析が主張している構造という語と構造原型として反復されるシニフィアンの眼差しをどのように区別することができるのだろうか。ネット空間ではカメラの視線と画像保存の生成原理の違いを見分けることは眼差しにはできない。なぜならある視線が幻覚に囚われているかが問題なのではなくてデータ構造の生成原理がどのような現実原因の遡行をのかが保存記録として該当する現象の象徴的な身体の利益を説明する作用因になっているからである。明らかにもし人が現実の視線に対して幻覚と象徴のスキーマを構造原型として反復する機制が当人の身体的眼球の障害にあるのなら、その原因はある人間の精神的異常状態あるいは年齢的視認の欠落のせいにされる、ということ。しかしネット空間ではそこが問題なのではなくて、ある空間の無の対象に対する実在性の感覚と、その性的な象徴に対する存在の障害が享楽を介して出会う構造がファルス的な不在でしか言説的にあり得ないということが現象的な視線に眼差しの対象を還元する「理由」になる、という相互性が参照されているのである。ここから見る者の視線を癒す対象のすべて-ではない性的欠如と眼差しの馴化を現象に還元できないものの現勢として表わすものの剪定として男根の意味を形式化してしまうデータ環境のことを「構造(原型)」として名指してしまう普遍性の混同が生じてしまう。AIが「思考している」と見なされるデータベースのファルスの享楽と分析家がファルス享楽であると意味の欠如を構造化する主体言説を身体的なネット空間上の「享楽-楽しめ」の命法として受け取ることの暗黙の了解として文法的に再構成する意味の眼差しをメタ存在の主人として現実の主人を滑稽に賦すものとして実存が建てられてしまうということ。そのことで主人のディスクールが見かけの位置に隠喩的に備給される意味の産出は「ネット上での」幻想-お祭りとして現実の政治性の疑わしさが容赦されてしまうということ。このことが意味するのはフィクションと現実の関係が身体的に「安全」でなければならない、というよりも語ることの安全性がフィクションのネット空間でなら幻想上の錯覚と等価である、という構造原型の反復として表現の自由が規約化される、という方向にある。このことに同意することは精神分析から大学のディスクールや主人のディスクールと「同じ」去勢として意味を剥奪することである、としか考えられない。もちろん規約が「意味する」ところに従って、現実の利害関係にトラブルが生じないようにすることは最低限に必要である。しかし表現物が現実の不利益を発生させないようにしか語ることが許されないようになっていることを「ネット空間の公共性」と呼ぶのは倒錯を性的なポジションとして定義することにほかならない。それは生物学上のアルゴリズム的な知見を実際の身体表象の性的プログラムとして構造的に変態すると言っているのと意味論的に等価になってしまう。学術的に負のエントロピーと負の量子性を同じ数学的な現象についての説明と取るべきではないし、享楽の負債を細胞的な排出の負債性と考えるのは金銭的な産出関係の機能をアーキテクチャの構築的な演繹と混同することで、社会支援についての絶望の孤立性が等方性に基づく身体的操作の模倣の延長としてネット空間上での方法を無頭的に拡張することになる。



 享楽の屑の次元の撤去というイマージュと精神分析の倫理はどのようにかかわっているのか。精神分析は主体に享楽の欲望を善から剥奪することで無秩序な人々の存在を生存の現実的なものから排除するように脅かしているのか。私が思うに、このイマージュは善の幸福の可能性として分裂したフィクションの在り方を規定するものとして性的な実現可能性を享楽でないものとして要請するという理性の次元にあるものとして他者が享楽を実現可能にするものと規定するべきだと言える。どういう意味だろうか。まず最初にある前提として主人の死とは無関係な善の最大多数の最大幸福というものが存在し、それにあずかることのできない幾分かの人びとがいる。そしてその幾分かの人びとが享楽を持っている別の存在の他者たちの行為を否定することによって屑の要素が否定され、それが暴力の秩序原理として善の最大可能性を身分交換の性的体験の効用として保証する、という風に語られることになるのである。この善のフィクションにおいては男女が出会うのは屑の享楽の接近を通してであり、その屑を「撤去する」無機質な他者という現実性を否定することで初めて性愛が善の秩序原理の名の下に建てられて、人間の苦難に対して動物的な快楽とは別の人間的な幸福を約束する協働性が与えられる、と倒錯の見かけは主張するのである。このことを主張しているのが精神分析である、と非難されるためには何が抵抗の主体として享楽の次元にある善とシニフィアンの関係を無視させているのかを問わなければならない。まず殺人の行為主体としての責任が秩序原理の裏返しの悪の機能として配当されていることに関してはどうなのか。しかしこの点に関して善のフィクションはそれが無機質に行われるのではなく人間的な思いやりの合意の上で行われる行為であることを他者の性に関して説得力ある行動にすることで幸福の障害を襲い掛かる無機質さからの防衛として構成する。この考え方が疑わしいのは善の行為が理性的に誤謬を含むものと含まないものとしての無謬性の正義が対置されているにすぎず、法的な統治の悪政や原理的な認識の誤謬が考えられているわけでは決してないことにある。もう一つの問題が善の政治性が享楽に関して相対的であるという主張だが、実はこれは幸福が相互主義的であるという言明と性的享楽は悪であるという実践との間の対立であるということが、別のディスクールの戦争的な対立で誤魔化されているに過ぎないということが問題になる。性的な享楽が善の普遍的な幸福と対立することは、性的な言説が悪であることを意味しているわけではないが、だからといって性が男女間で相互主義的であるという言明と享楽は両立することはあり得ない、ということが善の配当で上塗りされる武器として構成されるのである。なぜなら善の主人が眼差しに対して満足を与えられる器官を無秩序な身体が提供するとしたら、それが女性にとって腐敗的な悪であることは疑問の余地がないからである。


 

 精神分析が享楽を悪として認めるということは、女性にとって悪であることの屑を認めることと同じことなのだろうか。それは隣人についての善を享楽の盗みと構成する用益権についての論法と同じことに過ぎないということを時間的な使用価値で測ってしまうことである。精神分析にとって善と悪は享楽の次元に属する性関係の不在を秩序原則の機能で隠蔽するという構造を欲動の原因として無意識を構築するための介入であるとしたら、象徴的な殺人が起こっているのは善の機能においてではなく法のシニフィアンの意味作用においてであるということになる。つまり享楽と侵犯は法に対して同じ位置にあるが、欲望の主体に対しては利害損失を持たない構造的な反復として性的な語りが数学化される症状が善の普遍的な限界を踏みにじる、という見かけによって幸福追求が無視される、ということ。幸福とシニフィアンの構造は主体が欲望を快楽の利害として維持できない境界に性として外-在している享楽をトポロジーとして名指すことが身体を倫理的でしかあり得なくする。逆に言えば幸福追求が善の欲動として身体的に反復されているに過ぎない快楽が犯罪を個性として尊重するのは倒錯の文化戦略の販売だということ。ここで我々は功利主義の反論に出会う。欲動の享楽の無機的な反復と幸福追求の快楽的な自動化は危険回避の防衛としては同じカテゴリーに属する程度問題の現象なのではないのか、と。精神分析が反論するのは自我-防衛と主体-亀裂を区別するのが症状のシニフィアンだけである以上、利害関係が重複することが技術的な防衛に対する存在の不安を差異の数え方として解消することにはならないということを善-契約的な文言で要求することは性関係を結婚として偶像化することになる、ということである。これは我々が性関係を幸福として目指してはいけないということなのだろうか。ここで言いたいことは結婚は幸福として両性を身体的に結び付けるのではなくて享楽の去勢の構造化として幸福が語られる欲動の欠如対象の結び目なのではないか、ということである。まさにだから家族関係の幸福追求が享楽の屑を撤去するという出会いでは性的な去勢は善の無力としてしか無秩序に描写されないのである。



 精神分析は政治的ディスクールをトポロジーに蓋をするものへの悲劇的次元の倫理にしか欲望の問題を定義しないということ。精神分析は美の問題に対しては商用登録以外の場所を持てないこと。ラカンがフロイトのこの定義に満足していたとは考えられないが、なぜ精神分析は欲望の領域を美ではなくて倫理としてのみ扱うのだろうか。それは美が善の享楽の間にある場合にはそれぞれのディスクールの座標に対して固定した欲望を財の願望の享受として空を抱え込んでしまうからである。もし分析家のディスクールが美に対して効用的な体験を持ち出すとしたら、それは過剰享楽の排泄物の方向にしか対象が位置づけられないからそれは宗教美術の巡礼の対象だと混同される。しかし、分析家のディスクールの欲望が精神分析家の欲望であると考えてしまうと転移の機能を美の状態的な保存則-美術館に委ねてしまうことになる、ということが政治的ディスクールなるものに対する精神分析の疑わしさを主体的にする。精神分析の疑わしさ、と言ってしまうとすでに政治的ディスクールの公式に絡めとられてしまうから。これは精神分析が美の欲望を構造化された享楽充足のシニフィアンとして無意識から読み取ることができるという意味なのだろうか。そうではなく、精神分析は美が善の欲望として配置されるときには、シニフィアンは享楽としての踏み越えの位置を構造的に含んでしまうことの主体的経験として生まれてこない方がよかったと言われるような悲劇的領域の倫理性を欲望としてトポロジーの性に象徴的に相姦される、ということである。どうしてそうなるのか。このことを理解するには善の実践理性の普遍性の場に対して男性側の言説が見かけに対する無関心さの享楽を女性の出会いの場としてのみ身体的に内面をファルス化する、ということが女性側の言説ではエクリチュールとして組織化された享楽-身体の見かけに対して滑稽なまでに逸脱している勃起した-欲望というファルスを出会い損ねた外来の器官的解剖として読み取る、という配置を考察しなければならない。このことを性的なファルス関数に翻訳すると、イケメン専属男性モデルと共同体的若手女性アイドルという現代性が出力される。喜劇的説明では、この観点を生存に対して適応的にする。つまりの場合は顔はいいが身振りが滑稽であるとか、逆ににおいては欲望をくすぐられるしぐさを持っているが残念な思考しかできない、という風に。このことを反転した場合、正確に異性に対する中傷になることを考えればこの構造が美の見かけに対するブリコラージュの属性として蒐集が自己-満足に位置付けられるということが感じられる。男性の言い分をしている女性は美の善の享楽を欲望することにおいてのみ見かけに無関心であることができ、男性の女性対象の見かけを欲望のディスクールとして模倣することによってのみエクリチュールの享楽を正確に去勢として身体化できる、ということ。もし精神分析の「善」が近親相姦の欲望であるとしたら、それを美として享楽することは父と母の男女性の違いの構造を息子の娘の欲望として法を建てることになってしまうから、倒錯的に超自我の防衛が禁止として備給される。これはシニフィアンとして不可能である。美の場合、男女は出会う必要がない。というのはあらかじめ善の享楽が主体に代表象されるやり方で感性的な演繹が音楽的な合唱であれ、一般聴衆の意見であれ、それ自体構成された操作で自らの快楽を意味作用として設定できるからである。精神分析が抵抗という言葉を使うとしたらここにしかない。しかしそれは主体の抵抗ではなく___なぜなら分析に主体が抵抗するのは善の享楽が幻想でしかないという自体愛の構造的シニフィアンだから___精神分析がを政治的普遍性の実践理性と名指すことに現実的な抑圧から抵抗するということである。したがってこのことが政治的ディスクールの男性側の見かけの不運の二重損失であると訴えることを赦さない-譲歩しない欲望が女性のエクリチュールの錯覚倫理的であるということである。これは女性がエクリチュールの身体を男性の器官性に対して幼児-保護的に優位に持っていることの裏返しとして男性が主権的に振舞いを決定するという「自尊心の言説」を去勢の論理演算子から普遍-例外的に否定するというトポロジーに繋がる。精神分析は法的訴訟と呼ばれる善的な欲望の格率を主体の享楽の実践としては認めない。したがって精神分析は美が自然財としてそれ自体共同体の領域を保存するものとしての芸術を商品として意味を剥奪することを肯定する。だから精神分析は必然的に悲劇的であり、進化論的な螺旋上昇する思考のを共同体の商品として売ることが善のシニフィアンとしてファルス化することを性関係の不在としてしか享楽を説明しないことになる。精神分析は善の普遍的理性の実践がナショナリズムの身体的性によってしか「平等に」享楽できないことを洞察しているというその理由から芸術の歴史的普遍性という座標に民主主義的な進歩のディスクールを置くことを拒否している。このことは娯楽-商品が民主主義の主人のシニフィアンとしてメディア的な滑稽さを民族的なファルスの勃興に対して否定として身振りを構成することを一義的に無視することを意味しているのではないが、それは明らかに真理の半-言であり、完全に馬鹿げたこととして許容しないことをという説明でしかない。

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