善の超越的理念性の暴力と権威の抑圧神話体系の暴力の脱昇華

 善の理念の声の超越的シニフィアンと権威主義の力関係の自認が悪の暴力の声の同意のシニフィアンになってしまう種別性の選択的差別を構成する歴史的脱自の垂直-水平構造をトポロジーのシニフィアンの階層収納の意味剥奪的な遡及的アルゴリズムに脱昇華すること。言葉が存在の住まいとして居住可能になる国家的民族性であるという共同体の超越性のシニフィアンが文化的な善の差異の享楽を書かれざる超自我のコードとして通過儀礼の抑圧として流通するのを正確にリスト化可能なループ構造の条件として論理化すること。




〔以下の二者択一のうち一方が必ず真実でなければならない。第一の選択肢は、破落戸ごろつきどもが自分以外の誰かの権威を借りて行動していた。したがってこの場合、自分が法やコードあるいは内則に拘束されていないと考える中間階層以上の人々がいることになる。もう一つの選択肢は、破落戸どもが自分自身の権威を恃みに行動していた。したがってこの場合、彼らは上官に抗う反逆の徒、脱走兵、戦場での裏切り者に等しい。だからこそ、物欲しげに人は訊ねる。軍事裁判には、彼らを集団から取り除いて撃ち殺す対策がないのかどうか、と。〕


 問題は、アブグレイブの拷問がここで挙げられている二つの選択のということにある。アブグレイブの拷問を個別の兵士の単なる悪行に切り縮めることができず、また直接命じられた行為ではないことは言うまでもない。だがこの拷問は、他方で、悍ましい「コード・レッド」の規則のある種特殊な解釈ヴァージョンによって正統性を与えられているのである。この拷問が〔結果として〕「上官に抗う反逆の徒、脱走兵、戦場での裏切り者」の行為だったという主張は、クー・クラックス・クランが行った黒人への私刑リンチが西欧キリスト教文明を裏切った者たちの所業であって、この文明自体の悍ましい暗部でないとか、カトリックの司祭たちによる幼児虐待がカトリシズムを「裏切った者」たちの悪行であるといった主張と同様、無意味である。アブグレイブは第三世界の人びとに対するアメリカ人の傲岸の単なる一例ではないのだ。イラク人捕虜は、屈辱的な拷問に屈するなかで、じつはアメリカ文化へののであり、個人的尊厳、民主主義、自由といった公的価値に必要とされる補完物を形成するアメリカ文化の悍ましい暗部を経験したのである。___スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール 毛沢東 革命とテロル』



 社会問題という事件の属する歴史的種別性が、「私の」闘争のための法の名づけを行うという権利を、人権的な発話性のシニフィアンに置換された形式の暴力として、「差別」の主体を排除することを「暴力でない」文化のコードとして実行する民主主義のディスクール。もし核攻撃が文化的な創造と同時に物語を制度的に維持する善の理念の超越的シニフィアンを武器の金融性として生み出すものでもあるとしたら、それを超える想像力は必然的に「戦争犯罪」として始原の発話性が力学的な悪の暴力として構成される。歴史が「あらかじめ」定まったディスクールとして措定されているのなら、金融創造以外の歴史的トポロジーはすべて「修正主義」的な闘争だから。これは占領以前には日本は「西洋的な」歴史のディスクールが発見されていなかった(中国的な天命と王権交代の革命を防ぐための暦しかなかった)のを英雄伝的な歴史小説記述と組み合わせることでのみ歴史の抑圧の実在が物語られることになっていたからである。そしておそらく「英雄」という概念は日本と中国では異なっており、またなおさら西洋的な「個人」とは異質なものである。神話的なシニフィアンだけではこの実質は均されてしまう。だから「日本国」憲法が勅令で発布される時点では歴史は単なる天皇遊行の神話的記述に過ぎないが、「平和憲法」が建てられる時点になると遡及的に歴史が天皇の象徴的な連続性として機能するようにことになったということである。これは人間の記憶が歴史の抑圧を神話的に忘却していたと言うことではなくて、存在の次元での忘却が戦争の暴力の拒絶という形でのみ公法性として明示的な修正性を啓蒙的に人権化しているという意味にほかならない。だから抹消されたシニフィアンの痕跡だけが「客観的な」技術性の保管から神話として取り出されてくるのである。日本文化の「生態圏の多様性」なるものを確保すべきとか言う言説が出てくるのは、この知識のシニフィアンの多と環境構造の意味論が混同あるいは濫用されているからである。だからそのシニフィアンの復元を構築的に召喚しようとすると、戦前の回帰のようなシニフィアンの命法を時間的に遡るノスタルジーであるかのように錯覚されるのである。



 力学的な悪の暴力はなぜ対話を拒絶するのか。答えは一つしかない。善の超越的シニフィアンの発話はからだ。だから善の理念が暴力を拒絶するかどうかは人間の尊厳が声の原質として再構成可能な倫理的属性を分有しているかどうかにしか関わらず、それが制度的な抑圧に対して拮抗的な立場を持つかどうかには無関心なのである。いいかえれば個人的な中傷や悪意が特定の身体的な内面の尊厳に屈辱を与えるかどうかには無自覚だが、サイバースペースで個人の尊厳とは無関係な共同体の法規定を問うような力関係が入力された場合には、それを悪意の声として告発することが倫理実践としての善を安全に保証することに繋がるということ。だから同意と契約の相互関係の言論性においては「原則的に自由」だが、それと言葉と文化を結びつける性的な力学的措定を表現するタイプの機能性は暴力に加担する同意-承認と同一視されるので、それは実効的に排除されなければならない。あたかも人間を「評価する」ことが暴力という実体の属性を伴わないかのように。しかしこのことは労働力の「実際の職業的地位」として暴力の宣言を免れ得る位置にいることが善のを「公正」に審査することに繋がる。つまり書かれたものの全称性を声のシニフィアンの否定で打ち消すことで、力動性をファルスのにコードの測度の対話として解消してしまうということが。


 カント的な格率が、善に対してそれが(個人的に)実行可能かどうかは関りを持たないという時、それが情動的な理由によっているのか、力学的な知識の無知によっているのかが科学的な発展という課題の設立から等閑に処されていること。ヘーゲルの倫理的実質は完全に国家間同士の争いとしてそれが「神々の権能」のように表現されるということから、単に武器の人殺しの属性を量的単位の人間性の比準として理念的に表しているだけだという国際的な合意の無力を生み出すという帰結として、世界史が継続されるという幕間を一旦除外して、あくまでカント的な実質だけを考察してみよう。つまりアルゴリズム的な記述はカント的な格率とどう異なるのか、あるいはカント的な見解を「修正」しなければならない羽目に陥っているのか、である。カントが「単に」間違っているというのでは、なぜ人権や理念性を超越的な暴力として「差別に反対」することが現実の抑圧として実行可能なのかを無視してしまうから。ところで私の立場をはじめに説明しておくと、私はラカンの言う通り、カントが情動的な限界を超えて、善の倫理性を可能性として提出したことは完全に正しいと思っているが、それが「道徳的善」であるというのは十分な分節化ではないと考えている。したがって、カントが善の理念の超越性を暗黙に道徳的な理性と同一視していることが享楽を悪として参照するような力関係の因果的原因だと考える現象性が間違いだと思っているのである(享楽が悪としての情動性を持たないというのではなく、その見かけに留まっているということ)。カントが身体的原動力として措定する唯一の感性的原因が苦痛であるということは明らかに問題である。それは快楽が肉体的表象に限定されることによってのみ、善の原動力として普遍的に否定されているということだからだ。



 声の純粋な実質が解散として取り戻されるという団体的結集の力-拘束関係の原型はここにあるように思われる。理念に力としての快楽が宿っているのではなくて、義務を行使する肉体的な表象に快楽としての実践理性が存在していると言っているからだ。言い換えれば権力の行使の幸福と善の理念の幸福に対する肉体的な彼岸のあり得なさが否定として反復される構造が権威主義的な抑圧に反対するための対話のシニフィアンなのではないだろうか。私はここで権力が政治権力の抑圧的な行使にだけ幸福が特権的に約束されると言っているわけではなく、おそらくは穏健な治世に対して一定の抑止力を行使するようなやり方でも万民的な幸福は可能だと考えるが、だからといってそれがカント的な善の倫理的可能性を満たすか否かと問われたら答えはNOである。この矛盾が倫理的勇気と徳を暴力に対して否定的に腐敗を構成する手段として再現-代理されているのではないだろうか。アルゴリズムが声のシニフィアンを補完するやり方は言葉を存在の住まいとして建てる方法と同じではなく、また声が尊厳の苦痛として痕跡化されているような身体的表象なのでもなく、シニフィアンとは別のシニフィアンを代表象するような名称規定としてのみ意味が作用するような発話の性の裏切りにあるのだから、これが共同性のコードを法として暗示的にできないのは本質的だということになる。つまりアルゴリズムが身体に介入する機械的な操作が道徳的に影響を与えるのではなく、快楽の存在論的立場に対する声のシニフィアンの位置が書き換え可能な引用符としての意味しか持たなくなる作用が、理性の実践規定に対して快楽を顕示してしまう苦痛の対象として露わになるということである。



 存在に対する苦痛と肉体的表象に関する苦痛とは何で区別されるのだろうか。そもそも存在に対する苦痛とは何を指しているのか。苦痛が肉体に還元されないこと、肉体としての限度を苦痛が上回っているということ、つまり肉体としての世界では苦痛は閉じることができないということ、である。だから肉体的表象の苦痛とは完全に世界とフィードバック可能な痛みの検証として存在意義があるということになる。これは恐怖の本質ではないだろうか。確かに肉体的な痛みだけでも苦痛の感じることのできる限度が存在する。だからそれを脳は抑制するために「自然に」意識と肉体を分離させるのだ、と。ただしそれは明らかに人為的に起こされるものである。もし麻酔を使って痛みを緩和したとして、それが永久になくなってしまうのなら、それが治療や麻痺とどう違うのかを科学的な医療実践は潜在的には常に説明することができるのでなければならない。問題になっているのがこの「潜在的には常に」である。これはカント的な倫理では明らかに情動的な本質に属している。もちろん科学と倫理は別のものであるからして、それを単純に同一視することはできないが、もし道徳的な実践に支障が出るほどの苦痛が存在するときに、それが「科学的に検証できない」という説明で引き下がることは明らかに存在に対する苦痛を肉体的な原因に帰す見かけを構成してしまう。言い換えると苦痛を肉体的な痛みの症候に還元することの実践が科学的配慮だと誤認されてしまう構造が、言論の尊厳を守るための苦痛の配慮と同じ「情動性の認知」だとして説明される構造が存在している。なぜなら労働実践と商品の快楽が「分離」しているのはという道徳的要請が倫理的実質の声を規定しているからである。


 存在の理念としての快楽の力学と快楽の肉体の商品的理念としての労働力規定は明らかに別のものである。そうでなければ肉体と労働力身体は同じであるのだから、快楽の対象が道徳的に要請されているかどうかは各人の種別性で選択可能なと見かけの容姿が類似している、ということになってしまう。これは実体の属性と存在の性質は類似的な数性の原理でのみ確実な表象としてのを意識できるという方法と混同されかねない。つまりメタ認知がトポロジーの構造の蓋をするような描写と同じ選択原理で存在を派生させてしまっている。これの何が間違っているのかを正確に考えていくことは哲学的な構築として「絶対に」重要である。それは「私は実在を信じる」というのと「私が信じているものは存在である」を等閑視してしまうからだ。まずメタ認知は存在にまつわる言説ではないということから始めよう。ここで対比されているのは仮想化ネットワークの言説流通と一般的な世論形成の言論流通の差異を個人的な認識の度合いで表現することのできる心理的モデルが存在する、という認知の理論のことである。例えば1+1=2であるというモデルがあるとして、それと数+数=加算というモデルがあったとする。この場合、前者は後者に包括される概念としての意味があり、したがって、後者は前者が意味していることよりもより広範な意味作用をシニフィアンの論理として割り振ることができるという風に了解される。だからといってこれに感情と感情が加算されればそれはプラスの効果になるはずだ、とかいう原則が経験から与えられても、それは有意義なモデルであるということにはならない。それは単に一般的な原則としてそうであると言われているだけに過ぎず、それが検証されるのはそれが間違いだからではなくて、モデルに対する実在の論理的置換を信用の形式として取らなければならないという約束を意味するのでなければならないことを言っているだけだからだ。これを「私は信じる」という発話として建ててしまったら、名前の現前と名称の指定的意味を宣伝の真偽内容として決定的にはき違えることになる。



 ではトポロジーとは何なのか。それは認知的な意味では二通り以上の解釈が取れてしまうような実在性とは無関係な客体的構造の表現規定である。これは騙し絵のトリックとして知られる例によってよく説明される(説明されると言っているだけで、それが実在として意味している、ということではない)。一方である特定の文学作品などに対して各人がそれぞれ多様な解釈を有することが可能である、という意味合いではトポロジーにはならない(トポロジーを扱った作品が存在しないということではない)。また科学的に光は波と粒子との二つの性質を兼ねているという風に認識が進展してきた場合に光の位相に関する空間の認知はトポロジーだが、光はトポロジカルな実体という風には了解されないということでもある。もし光の性質を人間にとっての心理的モデルとして特定可能なメタ認知だという風に言説として建ててしまうのなら、なぜ人間の視認的な光学モデルは完全に実在的に設計可能なのか全くわからないことになるだろう。だからといって我々は光が進む方向についての放射の知識を完全に予測可能な未来として確率的でないやり方で表現できる、ということにはならない。誕生の解釈に対して我々が具体的に私としてのトポロジーを取っている条件はであるが、明らかにそうであるからこそ、性を性差の視認的な光線と混同しないために神のトポロジーが「存在」として前-歴史的に建てられてきたのだといっても完全には間違いではない。だが性的な物語を個人が眼差しの対象として象徴的な構造に組み込まれる形で個別的な発話が抑圧を設定するというのは存在論的事実である。だからこそ商品の身体の見かけと肉体的な容姿の露わさがトポロジー空間の認知性で解釈としての存在が分岐するときには声のシニフィアンの代表象に善の超越性の名指しを限定しなければならないという欲望の代償が抑圧として理念化してくるのである。なぜなら声の引用が可能な対象の侵犯が親階層の子であるときのメタ認知は現象的ではありえず必ず歴史的空間性のトポロジーの可能性に開かれた実際の犯罪についての記憶と重複的に金融的な配慮を想起された原質として構成するからである。



 商品化されたキャラクターとしての性的な声と犯罪被害者のシニフィアンにならない記憶の声が性的なトポロジーを構造化することに対して超越的な理念性は道徳的配慮を積み重ねることしかできないということが、数学的な配慮に関する性の歴史的な進展の表現を無効にすることで、差別の種別性を私の名づけから象徴的に防衛する、という出産の条件が実際の皇族の暴力の否定に量子的な位相として接続されているということ。天皇のシニフィアンが戦争犯罪を指示したにもかかわらず、人間としての天皇は声の性的なシニフィアンを戦争の否定として利用するという二重性から、憲法の人権にあらかじめ組み込まれた指示対象としての立場を超越的な理念として有していること。だから潜在的-遡及的に天皇に戦争責任は天皇の声のシニフィアンは憲法の象徴として歴史を修正主義に対して定言命法化することができるが、一方でシニフィアンの意味作用を象徴的に構築する力動性は戦争犯罪の性的侵犯の軍事性として現地住民の肉体に「記録」されることになる。というのもシニフィアンの痕跡は抑圧としてしか記憶されず、その指示命令系統は個人的な症候の病として収集される出来事としてのステータスしか反映しないから。設定状況を個別的に変動してから全体として保存するか、変動されたという領域の記録ごと保存の記述を生成するか、ということ。ここで命令する側に法的な責任があるということはシニフィアンにとっては無意識のディスクールとしてしか抑圧の代表象を主体化しないということを考える必要がある。ある人間が法的な真理の命法を単に業務命令として受け取って、それを実践する場合の肉体的表象は、その部隊の身体的症候性として抑圧し、その力動的作用をシニフィアンに痕跡づけられるように実行したことを、命令した側の原則的な発話にせずに、その命令系統を「不当に」無視した結果として生じたものであり、指示した側に責任はないが、全体として、それが部隊の生死を分ける場面での行動で単に名目的な状況的否認を守るためにのみ、自らの命令を規則的に発足するという読み合いが官僚的なルールの体面を傷つけるものにまで発展するということ。結局、私が言いたいことは、天皇が戦争責任を取らなかったことにあるのではなくて、天皇は戦争責任を取るまでもなく懐柔される見かけの位置にしかいないことが憲法によって保障されたことにあると言える。これは確かに天皇個人が悪いとか無責任とかいう判断には還元されない。しかしその天皇という象徴に統合される「国民性」とは何なのか。



 「日本人」がシニフィアンの名目的な代表象の声にのみ身体的な反映を倫理性として扱うことができるというのなら、日本に住んでいる人間がシニフィアンの命法と命令の責任規定を区別できないなどということがあり得ようか。そうでなければシニフィアンの構造的な倫理と名指されている行為を法的に侵犯される形式でとっても、まったく責任にはならないし、また実際の命令規則に背きながらも現実の仕事や任務をうまくやり通すことができるという能力の証明に支障があるとは思われない。言い換えると善の命法の発話性は見かけの裏切りの名の下にあるという構造を身振りの体系として完全に認識しているが、だから政治的ディスクールのようにそれが命法のシニフィアンと一致させなければならない事態になると行為の倫理的原則と理念的な意識が完全に合致してしまい、文字通りの命令をやり遂げるという手段でしか、それを外面に身振りとしてやり過ごすことができなくなる、ということ。自己非難の蔑視が政治的表現では相対化の礼儀なのに、それを共同性の善の自己露呈と同じ位置で解釈して、単に、歴史に対する自己卑下を行っているという経済的判断と同じ位相でトポロジーの犯罪を否認してしまうことが、同じ超越的な理念性を持つ言論の自由な発話を守るという権利と混同されている。というのも政治的ディスクールで声の超越性を守るというのは単に全体主義であって、それを権威主義者に投影するというのでは自己認識の欠如を非難声明の嘲笑に階級的に置き換えることでしかないからだ。これは戦争犯罪ではそれを自己非難として認めることがその責任を賠償請求の理念性として引き受けることと同じ権利言及が国内の治安秩序を経済的に防衛することのトポロジー的反映になっているという意味である。国内で自己非難を「外国人」から受け取るというのは寛容な処置だが「自国人」から受け取るのは共同体の法の違反だ、といっているわけだから、ますます自己非難が犯罪の同意と解釈される危険性は高まっていくことになる。



 では政治的ディスクールとゲームの公共性を混同するという声明はどうなのか。それはポストポリティカルな戯れという個別的な利害の参照領域として政治から隔離しておくべきではないのか。この問題はもし政治的ディスクールがある特定の共同性を書かれざる声の追放領域として文化領域の選択的な関心を引いている場合には「剥き出しの生」に還元された象徴的に死んでいる人間が「普遍的人権の理想的な担い手」としてあらゆる社会性の実体的記述から排除された人間存在一般に(つまり私の独在性)に還元されるその時に人権の意味が崩壊するということに関わっている。これがゲームの公共性を単に社会的実在性から切り離して楽しむための実践に還元することができない理由である。もしゲームを単にその位置にまで後退させるとしたら、ゲームについて話されることは存在しなくなり、結果的にゲーム的な手続きのシニフィアンだけが差異としての身体存在を政治的言語を使って学術的に承認し合うという地獄のような世界(現代)になる。つまりゲームと政治性は混同されてはならないがゲームが公共的であるためには政治的ディスクールのように話されなければならないのであって、政治的な発話を差異の言及として解消してはならないし、またその差別性が構造的な暴力の権利だ、という言い方を本人が実際にそう思っている在り方として説明しているわけではないということを受け入れる必要がある。なぜならゲームの命法がシニフィアンの規則として話されていることとゲームのルールが善の理念として守られているわけではないということは、ゲームに参加している主体の声のシニフィアンと別の構造化されたトポロジーの位相を参照して名づけを行っているからである。したがってゲームが現実に介入する方法とはゲームの享楽の見かけを現実の社会的規則に受け入れられないやり方で実践することではなくて、享楽の見かけの実践が社会的なシニフィアンの痕跡化に忠実なやり方でしか身振りの模倣を実践できていないことをメタ認知の解釈ではなく存在論的な演技の位置に構造化することにある。こういうのでなければ私が裏では実はこう言っているが、ゲームではこのような表層的意識でしか参加していないという非難を、私がシニフィアンの見かけの差異ではなくて、シニフィアンの見かけを無視した本音しか言っていないことの遡及的な欺瞞性として痕跡を排出することになるだろう。それは現実の社会的な禁止の規則を強化するような暴発をシニフィアンのゲーム的な命法として差別の通過儀礼を他人の発話のように実践することになる。



 眼差しと季節のディスクールに関与するような演技のトポロジー的実践がシニフィアンの抑圧的な代表象と存在の区別ができない場合に、それを政治的言論が禁止するというのは別のシニフィアンの欲望に対する権利から特定の言説領域に禁止の限界をずらすための実践としてしか機能しない。これは眼差しの認知をメタ的に解読する拡散の議論である。それはディスクールの穴をトポロジーから蓋をして、それを特定の権力関係の隠喩的な排他感情に加算していくための言論を呼び込むための戦術であり、特定の犠牲者の表象がシニフィアンとして特定されるその構造化を社会的な構成に組み込む演出の一環として、「実際の」被害の損失が支払われる行動に当たる。この場合命令の指示系統がどうであったかではなくて名辞的な音節の組み合わせをどのような政治権力の暗号として提起するかだけが問題で、その禁止がどのような出来事の存在から行われたかは力関係の変化を防衛するための言論的布石としての価値しかない。これは何が間違っているのかを示す典型例としての例示性を持っている。なぜなら普遍性の全体化の欠損と例外化の逸脱という性別化の公式が実在性の問題ではなく文字通り享楽から演繹されているからである。政治実践で文脈的な配置のごり押しが意味を持つのは官僚的な形式が特定の党派的な権力感情と結びつくからではなくて、まさにその逆、国民的な排他感情が特定の方向の逸脱を排出すると考えているその不満を、別の経済的領域から承認するための代償として説明するための配慮にしかありえない。したがって問題は政治的配慮と呼ばれるものがなぜ享楽の技術的移入と性的享楽の禁止として文化的に説明されるのかを正確にリスト化する論理演算子が必要であるということである。ここで我々は「なぜこれはダメで、これはいいのか」という罠の配置にいる。日本の政治実践は国内向けの芝居をいくらでも上演できるのだから個人の身振りの解釈が政治的手続きの無知を表現するということにはならない。無知が引き合いに出されるのなら手続きの過剰な複雑さが主題だからである。そうではなくて、ある領域に包摂される文化領域からの移入がなぜ存在論的なトポロジーとして、認知の多義性を解釈として個別化できない原則の介入を享楽の禁止として普遍化してしまうのか、が問われるべき演出である。つまりここには歴史的に痕跡化されたシニフィアンの代表象が再演されている記録性が性的な記憶としての苦痛を引き起こす侵犯的な技術原理が声の超越性として建てられている、ということである。日本にとってそれは占領的配置の環境でしかありえない。だから「外国人」とは「占領の技術化」であり、その平和的な抑圧の代償が「性的な記録の季節性」として独裁的な党派の検閲の禁止から読まれなければならない構造化なのである。


 

 斜線をひかれた間断なき表現規制が、占領の現実を学問的な交付性として否認することから来る個人的自由の見かけの人権性の言説の存在忘却を症候として産出するものであるとしたら、もし人々が個人的な趣味の消費から芸術に対する嗜好を個人的な差異実践の自由として「性的な記録の季節性」を解釈していたとしても、歴史的な症候の再現性の実践においては、その自由を主張することは人権の形式性を侵犯として欲望しているという抑圧の説明と混同されるということ。面白い表現を動機もなく入門的な父の名やファルス関数の限界領域の挑発の無限性から単に個人的自由を占領の代価として領域的に受け取るだけではなぜ時間的な日常性の現実が公法性の侵犯の規則としてのみ表面化するかを象徴的なものや想像的なものを幻想に追放して成長的な金銭的階級制度からしか理解できないことになる。故にこれは労働力を人権的な崇高にする平等性ではなくて、「商品化」としてのみ脱昇華可能な実践であり、歴史的なディスクールが「死んだ父」の「性的商品」として理念的に備給されていることにはならないことを「理解できない」権力のシニフィアンが猥褻な生産性の仮面をかぶっているということである。もちろんが「アメリカ人」が指示する「共産党」という性的な自由の人権と道徳性を「警察機構として」標榜しているとしても、である。なぜなら占領は名称の置換に対して両義性などではなく、自己決定権に一方的にシニフィアンの指示対象を定める規則を身体化するのだから、自由を巡る公的言説の意味論的な形式も「本来の規約的な説明」として公布されているわけでは全くないからだ。つまり適応の原則は非対称であり、人権が「真剣に」考えられさえすれば人権の手続きが無事に機能するだろうということがまさに権力関係として「ばかげている」ことを無視することが批判的実践を党派的な数性に意味づけている。それが「私が」占領という暴力の言説を理解していることの声のシニフィアンの犯罪に「同意している」承認として誤って読まれることで政治対立が性化される独在性の私の名づけの公法性のトポロジーを存在として金銭的な負債の量子にするループ構文の種別性として「暴力の拒絶」が「差別のない」儀礼を含んだ平和になる裏切りの命法があるのである。だから動物圏の知識文化的な価値判断の商品が確率的に性を体内化する生成器官としての味覚の欲望を金銭的代償の超越的視線から人権的尊厳の性差の一方性に対する崩壊として離散的に穿つ半導体のヘテロ接合のバンドギャップ構造を結晶成長の受光素子のように呼び出すことが暴力を身体に黙される性交の意味ではなく存在の懐疑の戻り値の開示にするだろう。

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