6話 真魂回録


──ここ、何処……?


正太郎の意識は、混濁した赤と黒の中へと沈んでいく。

自由など利かない。灯りもない。泥で出来た濁流に、ひたすら流されていく。

べとつき、全身にまとわりついて、洗濯機がぐるぐる回転する中をもみくちゃにされる。自分の外殻となる体の輪郭など消えて、意識だけがどうにか形を保っている。

前後左右も、上下も、時間の感覚すらも、血の泥に掻き混ぜられ溶けていく。

激流は嵐の如く、様々な人の怨嗟の声が渦巻き、全身を貫く。

抗う事は出来ない。耳を塞ぐことは出来ない。息を止めることも出来ない。


──うるさい!ここは、うるさすぎる!誰もいないの?

  シンは?皆どこに行ったの?僕はどこに行くの?

  この煩い渦潮の中に消えるしかないの──!?


恐怖の錯覚を覚えかけた頃、誰かが正太郎の手を取った。

途端、忘れかけていた体の形を思い出して、正太郎は自分の小さな手を視認する。

大きな傷だらけの手が、乱暴にぐいっと正太郎を釣り上げた。

縦一本線の傷が刻まれた、空洞に琥珀色の炎を宿した左目が、挑発的に笑う。


「よお正太郎。この世の終わりみたいなツラしやがって、辛気臭いぜ」

「天道!……あれ、シンは?」

「いるだろ、そこに」

「え……うわっ!?ち、小さいッ!?」


きょろりと見回せど、シンの姿はない。

否、いた。乳児ほどの大きさにまで縮んでしまった幼いシンが、正太郎の右腕の中で大人しく抱かれている。

こんな小さなものをずっと抱き込んでいたなんて、何故たった今まで気づかなかったのだろう。

轟々と渦巻く赤と黒の渦潮の中、天道はすました顔で正太郎を片腕に抱く。


「大方、お前の魂を守るために力を殆ど使い切っちまったんだろ。

 しっかり掴んでおけよ、まさに風前の灯火だぜ」

「う、うん。っていうか、ここ何処?」

「なんだ、真魂回録スピリッツ・レコードを知らないのか。モグリめ」

「何のモグリだよ!」


正太郎は天道の腕にしがみつきながら、改めて周囲を観察する。

一見して無秩序にも見える空間だが、よくよく目を凝らせば、景色の全容を朧気ながらに視認することが出来た。

無数の赤黒いタールめいた濁流が、螺旋状に渦を巻き、ひたすら回転している。滴る血は二人の眼下へと落ちていったり、逆に遡上して血の渦に合流したりと目まぐるしい。

肉の腐ったような臭いや血や、土や苦味にも似た、様々な悪臭がそこかしこに広がり、鼻がもげてしまいそうだ。


「走馬灯って知ってるか」

「ひ、人が死ぬ直前に、過去を見るっていうアレでしょ」


正太郎は胸のむかつきを自制しながら返す。

知っているも何も、真矢との戦いの時に、身を以て体験した現象だ。

「なんだ、只の無知って訳でもなさそうだ」と憎まれ口を一つ叩き、天道は続ける。


「走馬灯は人間が死ぬ直前、自分の記憶の全てを再生して、己が生存するための手段を脳が模索するからだ、とか何とかって話があるらしいけどよ。

 実際の所、記憶というものは脳が保管庫、魂が鍵と再生機器としての役割を果たしてんだ。

人は記憶を再生する時、自分でも知らずに魂という鍵を起動して、記憶を回想する。

死ぬ直前ってのは、最も魂っていう内臓器官が刺激されて、体外に出そうになる瞬間でもある。だから走馬灯を見るのさ」

「それとその、スピなんたらってのが、何の関係があるのさ」

真魂回録スピリッツ・レコード!耳かっぽじってよぉく聞きやがれ。

 そもそも、魂ってのは肉体の中にありながら、内臓だ。

 お前にも分かりやすく言えば、シャボン玉の宇宙みたいなもんだ」

「シャボン玉の宇宙?」

「そうさ。普段はシャボンの液体みたく体に紛れ込んでいるが、息をふきかけてやればぷくーっと膨らんで、どんどん大きくなる。

 この息ってのが、他の魂や記憶、感情、自我だ。

 記憶や感情が豊かであるほど、自我が強ければ強いほど、そして他の魂を取り込むほど、このシャボン玉の宇宙はでかくなって、エネルギーを半永久的に生み出す一つの異世界となる。

 これが真魂回録スピリッツ・レコード。俺たちが力を発揮して戦えるのも、この概念から力を引き出せるお陰だ。

魂や肉体を持たない連中が生きた人間なんかを狙うのも、魂、ひいては真魂回録スピリッツ・レコードを栄養源としてほしがるからだ」

「く、詳しいんだね」

「この道の専門家だからな、俺様は」


ふふん、と天道は得意げに鼻を鳴らす。


「吸血鬼は特に、人間の魂を取り込んで自分の魂を拡張……ま、要は強化させる能力に長けている。

 だがな、連中はそもそも魂を取り込む力ががあるだけに、こうやって他人を魂の中に招きやすい。

その習性を利用して、俺たちは吉備津山ムツの真魂回録スピリッツ・レコードにまんまと侵入したわけだ」

「でも、そんなことして何するの?」

「吸血鬼は制約が多ければ多いほど、強い力を発揮したり、特殊能力を得るんだ。

 一番でかい制約、縛りは真名──「生前の本当の名前」だ。

 名前がないヤツは、最初に自分に付けた名前を真名にする。吸血鬼達は脆い魂を守るために、弱点である真名は絶対隠す。

 それを暴かれると、連中は驚く程従順になるんだ。首輪をつけられた犬みてぇにな」

「じゃあ、その真名を探すために……」

「この記憶の渦に突っ込んで、ヤツの正体を暴く!ちょいと乱暴だがな」


ごくり、と正太郎は生唾を飲み、遙か眼下に広がる暗闇を見つめた。

天道の話を信じるなら、途方もなく果てのない奈落の底に落っこちながら、真名とやらを探さなければいけないらしい。

轟く怨嗟の声は、それだけ吉備津山ムツが喰らってきた魂たちの、溶けかけた声なのだろう。

ここは吉備津山ムツの、飽くなき貪食を体現した胃袋でもあるのだ。


「僕ら、現実に帰ってこれる?」

「保証はねえ。こうしている間にも、俺たちの魂だって取り込まれ始めてる。

 時間との勝負だぜ。しくじったら仲良くこいつの胃袋の中だ」

「後から言う、それ!?僕ら下手したら溶かさて死んじゃうんだよ!」

「あの場でゆっくり手足もぎとられて、むしゃむしゃ食われる人生を送るのとどっちがマシだ?ぐだぐだ言ってねえで、刀握った時点で死ぬ覚悟も決めやがれ!」

「ぐうう……もう、こうなったらやってやる!

 その代わり!あの約束、忘れないでよね!」

「あん?」

「僕が吉備津山ムツに勝ったら、色々教えるって話!」

「はん。記憶力は良い方みたいだな。

 いいぜ、男の約束に二言はねえ!」


に、っと天道は相変わらず不敵に笑い、「そんじゃあ征くぜ!」と宙を蹴る。

再び浮遊感が二人を襲い、正太郎は必死に天道の腕にしがみつきながら、腕の中のシンを力強く抱いた。

無数の血は、垂直に落下し続ける滝の流れにも似ていた。

今度は只流されるのではなく、螺旋状に渦巻く血の上に乗り、飲み込まれぬよう踏ん張る。


「目を使え!俺たちの目は幽世あっちがわの連中にとって門になる。

 だがその性質を利用すれば、俺たちの目の力で「門」を創り出すことだって出来る!

 吉備津山ムツの魂、その根幹に繋がる門を創るんだ!」

「ど、どうやって!」

「意識を集中させろ、周りの雑音に耳を貸すな!

 魂の世界の入り口になりうる亀裂があるはずだ、そこを探せ!

 その亀裂を起点にして、正面突破する!」

「っ、分かった!」


恐怖を押し殺し、青く燃える目で、正太郎は遙か下に広がる暗闇を睨んだ。

右目に意識を集中させ、亀裂を探す。

直後、闇しかなかった空間に、うっすらと放射状の光の筋が見えた。

直感的に正太郎は「あれだ」という確信を得て、光の筋へと指さす。


「天道、あそこだ!」

「っし、良くやった!掴まれ、突っ切るぞ!」


天道は両足の力を込め、力の限り亀裂へと突貫する。

右手が胸元のネックレスを掴むと、飾りの宝石が黄金色に輝く槍へと変じる。

一瞬で狙いを見定め、天道は咆哮を上げ、槍を投擲。

すると槍の先端が光の筋へと吸い込まれたかと思えば、亀裂を砕き、巨大な穴となる。

どうどうと、穴の方へ血の濁流が吸い込まれていく。

流れに乗って、二人は吉備津山ムツの魂の世界へと誘われていった──



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