ユビキタス二階、正太郎の寝室にて。


「おはようございます、正太郎さん」

「んむ……飛鳥さ、うわああああああっ!?」


耳元で聞こえる声に、正太郎の意識が引っ張られる。

重たい瞼をこじ開けた途端、眼前いっぱいに飛鳥の顔があった。

跳ね起きようとする小さい体を、飛鳥の白い手がむんずと押さえつける。

首だけ辛うじて動かすと、ベッド脇にあるサイドテーブルには、湯気を立たせた桶とタオル。

その隣にはコップと歯ブラシセット。


「あの、飛鳥さん。これは一体」

「朝起きたらまず、お顔を洗わなくては。

 拭いて差し上げますので、顔をこちらにどうぞ。その後は歯を磨きますね」

「ちょちょちょ、ちょっと待って!僕、一人でも顔洗えるし、歯磨きだって出来るってば!」


正太郎は慌ててぐい!と飛鳥を押しのけた。

しかし飛鳥の両手はしっかりと、正太郎の腕を掴んだままだ。

首を傾げる、能面のような飛鳥の表情からは、考えを読み取る事などできない。


「ですが今は非常時です。あのような不審者が家に侵入してきたというのに、目を離してなどいられません」

「だからってそこまでしなくていいよ!お風呂場はすぐ真下じゃないか!」

「ですが数秒目を離しただけで、幼稚園児は10メートル先の道路で車に轢かれる事例も……」

「僕は!もう!小学校5年生になるんですッ!普通に恥ずかしいってば!」


顔を真っ赤にして、正太郎はこんこんと反論し続けた。

結局、「歯磨きは自分でする」という話し合いに落ち着き(「私の歯磨きはベテランの歯科衛生士にも負けませんのに……」と飛鳥は大変不満そうだった)、朝食を摂る。

──僕ってもしかして、飛鳥さんからしたら幼稚園児並みに危なっかしいのか?

不安になるのは致し方ない。現に昨日、襲撃があったばかりだ。

だが飛鳥は過保護すぎだ。

正太郎にも、自尊心というものがある。


『いやあ、中々に苛烈な女だ。

 昨日も夜半じゅう、ずっと寝ているお前を監視していたぞ。寝ずの番でな』

「え、ええっ!?なんで教えてくれなかったの!」

『寝かしつけようとしたんだがな、聞く耳持たずだった。

 おぬしを起こそうとすると、殊更怒るし……』

「……シンも飛鳥おばさんは怖いんだね」

『怖いのではない、あのような気の強い女の扱い方が分からんだけだ』


シンはぶすくれながら反論した。

吸血鬼を相手に大立ち回り出来るような巨躯の幽霊が、まだ年若い少女相手に狼狽える様は、どこか不思議で滑稽でもある。

不意に、先日戦った吸血鬼……吉備津山ムツのことを思い出す。


──手前の臭いは覚えてるんだからなアックソがァアア!

──八つ裂きにしてやるって決めてんだよォオ!


公太郎達は、ムツを知っている筈だ。

単に狙われているのか、恨みを買ったのか。

あの尋常じゃない声色や襲い方から察するに、後者だろうか。

浅はからぬ因縁がある、それは確かだ。

一向に戻ってこない公太郎の身が心配だった。飛鳥も口にこそしないが、自宅に帰らない公太郎のことを、正太郎以上に案じているはずだ。


「(天道って奴にぼこぼこにされたから、当分は表に出て来なさそうな気もするけど……おじさんだってきっと、弱いわけじゃないし……)」


それでも不安だ。

射羽に教わった、魔術師の話がちらつく。

彼らは魔術を用いて、怪奇現象や怪物と対決する。

もしも公太郎が、同じように、ムツを退治することが目的で対峙しているのだとしたら……。

今こうしている間にも、ひどい目に遭わされていたらどうしよう。

抵抗出来ないように斬りつけられ、痛めつけられて、虫を全身に這わされたりして、首から血を啜られて……などと、怖い想像が嫌でも浮かんでしまう。

うんうん唸っていると、シンが顰め面で正太郎の顔を覗き込んでいた。


『おぬし、顔に似合わずえげつない妄想をするんじゃのう……』

「えっ、な、何の話?」

『言いにくいんじゃがの、おぬしが考えている事は時折、己の中にも同じ想像が流れてくるんじゃ』


それを聞いた刹那、正太郎の思考がフリーズする。

なら、シンが現れるようになってから今日まで、色々頭で考えていたことは、シンに筒抜けだったというわけで。

一気に、全身の血が顔に集まっていく感覚が襲う。

林檎のように真っ赤になりながら、正太郎はソファのクッションを投げつけた。


「そっ……それ、早く言ってよ!シンのエッチ!」

『うわっ!癇癪でものを投げるな!』

「ごめん!でも人の心勝手に覗かないでッ!」

『そっちが勝手に見せおるんじゃわいっ。人を破廉恥扱いするな!』


きゃんきゃん口喧嘩する二人をよそに、インターホンが鳴り響く。

反射的に身構え、出入り口を見やる。

だが彼らの不安をよそに、扉が開き、にこやかな双子達が飛び込んできた。

その背後には、巨躯の男がいる。

くしゃくしゃの黒く白髪交じりの髪に、痩せこけた頬。

落ち窪んだ三白眼に、スーツ姿。その背丈は、2mもありそうだ。

年は四十路ほどだろうか。双子と手を繋ぎ、狭苦しそうに部屋に入ってくる。


「おはよう、しょうちゃん!」

「おはよう、しょうちゃん!」

「おはよう。えっと」


正太郎は男を見上げる。父親だろうか。それにしては、まるで双子に似ていない。

男は正太郎と視線が合うように屈むと、ぺこりと礼儀正しく頭を下げた。


「どうも、正太郎くん。幹人みきひとと申します。二人の父です。

 射羽から事情は聞いています」

「あ、どうも」

「近頃、不審者だの人が死ぬ事件だのと、物騒ですからね。

 二人が正太郎くんと遊びたい、というので、お迎えにあがりました」

「今日はねー、おとしゃん、休みなんらって!

 公園こーいぇんいって、ボールなぎぇとか、かけっこしよ!」

「お弁当も作ってきたんだよーっ!」

「うん、行……きた、いところ、だけど……」


そろ、っと伺うように、飛鳥の顔を伺う。

あれだけ過保護な飛鳥が外出を許してくれるだろうか。

案の定、外に出ると聞いた途端、能面だった表情に不安と若干の怒りが滲む。


「昨日の騒ぎのこと、もうお忘れですか。

 大人が一緒だからって、外に出るのは感心しません」

「……だ、だよね……」

「遊ぶなら、うちの中か、せめて庭までにしなさい。いいですね」

「あ……わ、分かり、ました。ありがとうございます」

「いえ。目の届くところで遊んでくださいね」


飛鳥はぷい、っと視線をそらすと、黙々と掃除を始める。

双子たちは目を合わせると、その意図を汲んだ。

にこっと笑って「おじゃましまーす!」と意気揚々と正太郎を連れ、中庭に飛び出していく。

きゃあきゃあ騒ぐ三人を眺めながら、幹人は手に持ったバスケットを近くのテーブルに置いた。

そうして「父さんも混ぜてください」と気持ち、明るめの声をあげながら、子供らの輪にまざっていくのであった。




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