5話 ユビキタスにて


梟も鳴かぬような、真っ暗な夜。

三注連町の河川敷を、足をひきずりながら歩く男が一人。

吉備津山ムツである。


「血、血だ……血を喰わねえと……」


ぜいぜいと荒い息を漏らし、されど足音の一切はなく、氷の上を歩くかのような足取り。

不気味なほどに静まり返り、木々も息を止めぴくりとも梢を鳴らさない。

街灯はチカ、チカと覚束なく辺りを照らす。

だが、ムツを照らせども、影が落ちることはない。

此岸に身を置き損ねた魔性は──吸血鬼擬きであれば尚更──、知覚されない限り実体化のかなわない存在である。

影がないことは、生前の自身の在り様を置き去りにした、朧げな生物であることの証左。

ムツの荒い息を聞く者もいない。ボロ雑巾のような姿を目にする者もいない。


「クソがよぉ~ッ……あのクソガキ、オレ様を散々嬲ってくれやがってッ……!

 今に見てろ、あのっとい首からじゅるじゅる啜って、ケツにテメエの腕を突っ込んでガタガタ歯鳴らしてヒイヒイ言わせてやるからなァ~ッ……!」


怨嗟を漏らしつつ、吉備津山ムツの足は住宅街へと向かっていく。

昼間の戦いで、ムツの体はかなり消耗しきっていた。

飢餓感に苛まれ、血に飢えていた。

胃の辺りがぎゅうぎゅうと凄まじい音を鳴らし、裂けた口からは涎がとめどなく溢れ出る。

腹が減る、それだけで気が狂いそうになる程の焦燥と苦痛に支配される。

自我を保つだけで精一杯で、今すぐにでも誰かの首に齧りつき、皮だけになるまで吸い尽くしたい。

吸血衝動は、通常の空腹の二十倍以上の渇望と苦痛をもたらし、暴力性を加速させる。


「誰でもいい……血、血を……まずは回復せんと。

 それからあのガキ共を探し出して、手足をちょこっとずつ千切って食い散らかしてやる。フヒッ、イヒヒ、ヒヒヒヒッ……ギッ!?」


ムツの足が、ある道路へと差し掛かった瞬間、彼は前のめりに倒れこんだ。

右足に燃えるような激痛が走り、咄嗟に足元を見やる。

……鎖だ。銀の鎖が蛇の如く、脚部に纏わりつき、白煙を上げて皮膚を焼いている。

鎖の先に続く暗がりから、足音。夜を伴い、何者かが津山へと近づく。

暗闇を凝視し、津山の瞳に憎悪の炎が燃え上がる。


「やあ、随分探したよ。かくれんぼが上手なようだね。

 尤も、僕の匂いを尾けて店に来たのが間違いだったな。

 さんざ証拠を残してくれたおかげで、君の位置を特定できたよ」


影そのものが人の形を形成し、それはやがて大山公太郎の姿となる。

その肌は爬虫類を思わせる鱗で覆われ、鋭利な棘が背筋や腕、胸部や脚部に至るまでびっしりと生えていた。

自身の頭身ほどもある杖を持ち、眼鏡の奥から津山を見据えている。

その背後には女──今鵺射羽を伴い、対峙する。


「テメエッ!こないだのッ!」

「犯人は現場に戻る、ってね。随分と君は三注連の地に縁が深いようだ。ここの生まれかい」

「だから何やねん、ウダウダ喋るだけなら、その頭ァフッ飛ばすぞ……!」

「やれるものならやってみるといい。君にそれだけの力が残っていれば話は別だが」 


公太郎は涼やかな顔で告げた。

刹那、ムツの姿が異形に変じる。

皮膚が膨張し、蜘蛛を彷彿とさせる、びっしりと剛毛の生えた鋭利な異形の腕が生えた。

変異したムツを見て、射羽は顔を顰め「牛鬼か。変異が早いな」と呟く。

その六つの手に刃を握るや、風を切って肉薄し跳躍。

振り上げた黒い刃が公太郎の首を薙ぎ払──うことはなく、巨大な杖が槍へと変じ、難なく受け止める。


「でえっ!?」

「随分単調な動きだ。誰ぞに嬲られたかい」


赤と藍色の火花が激しく散る。

すかさずもう一刀振り下ろされる。これも杖で受けきる。

一度払われ、三振目。やはり杖で弾かれる。五、六、と鍔迫り合いが続く。

脂汗が浮かぶムツに対し、公太郎の顔色は変わらず。

何度も打ちつけられる斬撃をものともせず、槍杖を持つ公太郎の膂力が、ムツを易々と払いのける。


「ギャアッ!?」

「やんちゃが過ぎたね、吸血鬼。生憎、遊びに付き合っている暇はないんだ」


ムツは投げ出され、地面に叩きつけられた。

公太郎の眼鏡が街灯に照らされ、白く反射する。

ガラスレンズ越しの視線は、絶対零度もかくやの冷たさを放ち、ムツを貫く。

脊髄に走るような殺気に気圧され、無意識のうちに津山の足が半歩、後退していた。


「僕の逆鱗に触れたね。"あの子"に手を出したことが間違いだった。

 潔く僕だけを標的にすればよかったものを、家まで襲撃して、あの子を怖がらせて。

 分かってる?僕はね、怒ってるんだよ。吸血鬼」

「(──やっべ、これ敗北される!)」


傲慢なムツとて、改めて認識する。

最初に戦った時とはわけが違う。相手の格が違いすぎる。自分では──勝てない。

とあらば、ムツはプライドをかなぐり捨て、すぐさま生存の手段を行使する。

刀は血と化して溶け落ち、ムツの体がバラッと黒い霧となり散る。


「うわっ!?」

「勝負はお預けや、クソ魔術師!全快したらたっぷり親子共々嬲ったるわ!」


霧から生ずるは大量の虫、虫、虫。

津山を構築していた虫の大群が一斉に押し寄せ、公太郎たちに襲いかかる。

顔といわず腕といわずへばりつき、噛みつき、毒針を穿つ。


「くそっ、忌々しい……!」

「射羽、僕の後ろへッ!雹よハガルッ!」


杖を振るうや、先端にはめ込まれた宝石が藍色に輝く。

途端に杖の先から氷の礫が射出され、次々虫たちを撃ち落とし、肌に纏わりつく虫たちに雹が直撃すると、シャーベットよろしく凍りつき、次々と落下する。

体じゅうにまとわりついた虫達を全て払い落とす頃には、ムツの気配は消えていた。

不気味な静けさが支配するなか、まるで呼吸を取り戻すかのように、木々が風にあおられた。


「……自分を構成する半分を虫に変換して、核だけ逃がしたか。

 すばしこい上に生き汚いな」

「追うか?そう遠くへは逃げていないはず」

「いや、ここは退こう。彼岸側に逃げられては、僕らも迂闊に手が出せない」


それに、と公太郎は足元の凍りついた虫を踏み潰し、嘆息一つ。

周囲は大量の虫の死骸が転がり、道路は無惨な有様。

杖ひとつ振るうと、凍りついた虫達は一瞬にして炎で燃やされ、消失する。

射羽が己に視線を向ければ、双方ともに、虫に服の大部分を食いちぎられていた。


「まず、君の手当が先決。吸血鬼の虫から受ける毒は侮れない。

 後、そんなセクシーな恰好でうろつかせたら、君の旦那さんに怒られるからね」



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