「そうだ。今日はおばさんが来てるんだ」


食事はいつも、叔母の飛鳥あすかが用意することになっている。

だが、実のところ、正太郎はまだ飛鳥と対面したことがない。

叔母に抱く印象としては、霞のようなイメージに近い。

陽も昇らぬうちから食事を作り、洗濯と掃除を済ませ、正太郎が起きる頃にはもう居なくなっている。

公太郎が言うには、飛鳥はとても多忙らしく、どうにもタイミングが合わないらしい。

今日がもしかしたら、飛鳥と対面できるチャンスかもしれない。

ちょっとした期待に胸を膨らませ、興奮気味に飛び込むようにダイニングのドアを開けた。


「おはようございます……あれっ」


ダイニングキッチンの流し台にあたる場所に、若い女が一人いる。

真っ赤なポニーテールが小鳥の尾のようにぴょこぴょこ動き、少女の足並みにワンテンポずれて揺れる。

鼻歌を歌いながら、少女は朝食を作っているようだった。

正太郎には気づいていない。

隣接しているリビングのソファには、もう一人、くたびれた妙齢の女性が寝転がっている。

よれよれで点々とした染みが目立つ白衣をブランケット代わりに被り、だらしなく口を開けて、どうやら熟睡しているようだ。

前髪で顔は隠れているが、体のラインは女性的だ。


……どっちが飛鳥さんだろう。

声をかけようかと迷っていると、まるで気配を察したかのように、白衣の女は機械仕掛けの人形のように起き上がった。

綺麗な女だ。歳は母より少し上くらいだろうか。

正太郎は食い入るように女を見つめた。

斜めに切りそろえた黒髪に、吊り上がった切れ長の目。美女は決まって釣り目なのよね、と垂れ目だった母の言葉を思い出す。

母の大好きなアメジスト色をした目が、ぼんやりと虚空を見つめている。


「……………………飛鳥くん、私は何分寝ていた?」


女の言葉で、赤髪の少女が振り返る。ブルーの瞳がキラリと輝いて、女をキッと見た。


「三時間十五分ほどです、今鵺先生。朝食の用意ができています」

「ああ、有難い。少年、君も食べなさい」


今鵺と呼ばれた女は、我が物顔で席につく。

少女はというと、てきぱきと全員分の食事と食器を並べ、正太郎と向き合う。

齢は十代の半ばを過ぎた頃か。スレンダーでしなやかな体型は、雪野のタンチョウヅルを想起させる。

明るい真っ赤な髪色に反して、こちらを見る目は凍てつく氷を彫ったみたいだ。


「はじめまして、正太郎さん。飛鳥あすかと申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

「あ、どうも、正太郎です……」


他人行儀な挨拶と共に深いお辞儀。つられて頭を下げる。

今鵺博士はさっさとベーコンエッグに手を付け始めていた。山盛りのベーコンがつるりつるりと消えてなくなっていく。

シンは正太郎の真後ろから「うまそうだな」と呟き、つんつんと目玉焼きの黄身の部分を指がすり抜ける。

やめろ、と言いたいが、急に何もないところで声を荒げたら不審がるだろう。

ぐっとこらえ、今鵺が下を向いた隙に、シンの手をバシンッと叩いておいた。


「正太郎さんも早く召し上がってください。

冷めてしまっては美味しくありませんから」


はあ、と正太郎は生返事する。

この奇妙な女二人達に、正太郎はどう応じるべきか判断しかねていた。そもそも今鵺に至っては何者なのかすら図れない。


正太郎は大人しく、今鵺の向かい側に座り、フォークを手にとった。

飛鳥は再びキッチンに入り、後片付けを始める。

一方で今鵺は、狐色に焼けたトーストにバターを塗りたくり、半分に切り分けると、片方に半熟の目玉焼きとベーコンを一切れにキャベツを乗せ、更にはケチャップをかけてもう片方のパンを乗せ、サンドイッチにして豪快に口に詰める。

その食べ方には思わず面食らったが、美女が夢中でほおばる姿を前にして、美味しそうというイメージに引っ張られた。


正太郎もゆっくりした動作でバターをトーストの表面に塗り、ぎこちない動作で二つに分け、キャベツやベーコン、目玉焼きを落とさないよう乗せていき、ケチャップをかける。

そうして、少し赤色がはみでた不細工なサンドイッチを手で掴み、口いっぱいに開けて頬張った。


「熱っ!」『あちちっ!?』


正太郎が悲鳴をあげた瞬間、シンも自分の口を押さえていた。

ここ数日暮らしていて分かったことだが、シンはどうやら正太郎と感覚の一部をランダムに共有することがあるようだ。

今の反応はおそらく、口の中の熱と痛みを共有したのだろう。

この幽霊は、共に暮らす時間が長くなるほど、謎が深まっていくばかり。


「はふ、はふはふっ、あふっ……」

『意地汚いぞ、正太郎。だが旨いな』


咄嗟に食いちぎり、慌てて口元を抑えて飲み込んだ。

味わう暇もなかったが、ベーコンの香ばしさと肉汁、黄身の味がケチャップの甘辛さと一緒に舌に絡んで、噎せ込みつつも喉に下した。

今鵺は「んはっ」と笑い声をあげ、水をあおる正太郎を眺める。


「良い食べっぷりだね、少年」

「あ、ありがとうございます」


馬鹿にされたようで少し悔しかったが、生意気な態度をとったせいでいじめられてはかなわない。

しばし無言の時間が続いた。今鵺はマイペースに新聞を眺めながら食事をつづけ、特に話すこともなく正太郎は朝ごはんをつつく。

新聞の一面記事に、殺人の文字が並んでいた。また父の仕業なのではないかと邪推して、きゅっと心臓の辺りが締め付けられる。

なぜ父は人を殺すのだろう。シンならばあるいは、答えを教えてくれるだろうか。

公太郎が来る様子はないままに、今鵺と正太郎の皿は綺麗に片づけられた。飛鳥は眉一つ動かさず二人分の皿を下げ、代わりに珈琲とジュースを差し出す。


「兄を起こしてきます」


飛鳥は手元のトレイに一人分の食事を乗せ、音もなく部屋から出ていく。

珈琲を音もなく啜りながら、視線を正太郎に寄越し、今鵺は微笑む。


「自己紹介がまだだったな。私は今鵺射羽いまぬえいるば、君の叔父上の仕事仲間だ」

「今鵺、さん。ええと、大山正太郎といいます」

「知っているよ。君とは昔会っているんでね。まあ、その様子だと記憶にないようだが」

「えっ……」


しまった。完全に初対面だと思っていたので、完全に油断していた。

急いで記憶を遡るものの、思い出すことができない。

こんな浮世離れした美女を忘れることなど、果たしてできるのか。物心つく前ならありうるだろうが。

その様子に構う事なく、今鵺射羽は身の上をつらつら語る。

今鵺射羽は、二年ほど前に新みらいヶ丘に引っ越してきた。市内にある大学の哲学科教授と再婚し、正太郎と同い年の子供が二人いるのだそうだ。

この町から電車で三駅離れた、三締目町に住んでいる。

家庭教師や公太郎の仕事の手伝いをしながら、様々な研究に携わっているとのことだった。


「研究分野は主にバイオニクスおよびバイオサイエンス、遺伝子工学等々……ま、いわゆる人間や生物の体を対象とした研究さ」

「研究……」

「君の目のことも聞いているよ。とても興味深い現象だね。

 実を言うと、叔父上には君の目のことでカウンセリングや分析を頼まれていてね。

 しばらく、君と付き合うことになるだろうな。私のことは、イルバ先生で構わないよ」

「いるば、先生」


紫の瞳は、体のことならば何でもお見通しとばかりにぎょろぎょろと正太郎を観察する。

彼女に見透かされると、皮膚をすり抜けて内臓や頭で考えていることも見抜かれてしまいそうだと、内心慄いていた。

けれど別に、意地悪を言うでもなく、彼女は新聞を丁寧に畳んで、ちぎって折り紙などをし始める。

まもなく丁寧な折鶴が出来て、それをつんっと正太郎の方に押しやった。


「今日は予定があるかい?少年」

「え?いえ、なにも……」

「なら、私の家に招待してもいいかい。会わせたい人がいるんでね」


またも生返事をし、正太郎はそっとシンに目配せする。

返事をする前に、廊下から足音を伴って、公太郎が顔を出す。

いつものラフなシャツとスラックスといった格好ではない。喪服のようなスーツ姿に、ブリーフケースを携えて、正太郎に「おはよう」と硬い声を放つ。


「おはよう、おじさん。お仕事ですか?」

「ちょっと急ぎの用でね。今鵺先生、後で署で落ち合いましょう」

「分かった。この子をウチに連れて行っても?」

「構いませんよ。飛鳥、家を任せたよ」

「承りました、兄さん」


署?正太郎は眉を顰めた。警察署のことだろうか。

先日起きたショッピングモールの件だとしたら、とっくに解決したものだと思っていたが。それとも別件だろうか。

好奇心が刺激されるが、質問できるような雰囲気ではなさそうだ。

普段の温厚な彼とは結びつかない、刺すような気配を漂わせ、彼は急ぎ足に家を出ていく。

「慌ただしいな」とシンがぽつりと漏らす横で、今鵺はゆるりと立ち上がって支度を始めた。



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