-9- 抱擁は優しく

 気がつけば私はピアノ椅子に、ラオレは木椅子に腰を預けていて、二人で『炎舞』を静かに聴いている。昔懐かしい、熱量のあるポップでありながら艶やかさのあるサウンド・メイク。


 ラオレは真剣な眼差しでレコードプレイヤーを見つめながら曲を聴いている。かつての私の歌声を。


「この声が、アンドロイドに心を?」

「そういうことになるわね」

「……なるほど」


 ラオレは納得がいった、といった様子で顎に手を当てている。彼はやがて顔を上げ、私を見つめて静かに微笑んだ。


「素敵な声ですね」

「……やめて」


 その呟きは、ラオレには聞こえなかったようだった。私は恥ずかしさと苦しさで思わず目をそらすしかなかった。


「いい曲ですね。確かにこれを聞けば、無機質で静かなアンドロイドでも目が覚めそうだ」


 彼はそう言ってレコードプレイヤーを止めると、私の方を見た。私は呆然としながらもなんとか笑顔を作り、彼の言葉に答える。


「あの、ラオレ」

「はい」


 ラオレの純粋な眼差しは、私には眩しすぎた。彼の瞳は、私の心の深淵まで見通しているようだった。


「ちょっと、聞いてくれる?」


 私は唾を飲んで、彼を見据えた。


「私は、フレア・アルメリアは、世界中の人間、世界中のアンドロイドに愛されて、偽りの愛を振り撒いてきた。そういう自分の姿に耐えきれなくて、100年以上前にこの街にやって来た」


 ラオレは黙って頷く。


「私はフレアという人格を封印するために、凍結措置を施した。それでも、フレアをきっかけに出会った人たちのことは覚えていたかったから、記憶は消さなかったの」


 私は拳を握っている。強く。


「つまりね、私の中には、まだフレアがいる。彼女もまた、私の経験だから。今は凍結されているけれど、もし私の中のフレアの意識がもう一度目覚めたら……」


 想像するとぞっとして、私の肩は震えた。思わず息を吞むと、その拍子に小さくせき込んでしまった。慌てて左手を口元へ持っていき、うつむく。


 すると突然、何かが私の左手に触れる感触に驚いてしまった。


「……ら、ラオレ?」


 ラオレの右手が私の左手を掴んでいた。


「大丈夫ですか」


 彼の真剣で優しい眼差し、彼の右手から伝わってくる温かな体温。私は動揺して彼から離れようとした。しかし、彼の優しくてごつごつとした手によってぐいっと引かれて、私の機械の体は成す術なく彼の体にがたりと打ち付けられる。


 彼はそのまま私の背中に手を回し、私をそっと優しく抱きしめた。


「わ、わっ」


 ラオレは私を包み込、真っ直ぐに私を見下ろす。その目はいつものように穏やかだが、少しだけ熱を帯びているように見えた。


「すいません。強引で」

「どうして」

「さあ、俺にもなぜだか。でも、どうしても今、あなたを抱きしめないといけない気がして」


 嫌なら離れてください、とつぶやくように言うラオレ。私はただただ困惑していて、胸のモーターが異音を出すほど緊張して、何もできなかった。男性に触れられるのは数十年ぶりで、とにかくパニックだった。


 彼の抱擁は優しく、胸板は厚い。私はおそるおそる彼の胸にそっと耳を寄せて、鼓動を感じてみる。久々に感じる人間の鼓動。少し早い彼の鼓動が、自分のもののように感じられるほど、私たちは密着している。


 彼の左手が動き、そのまま私の右肩にそっと触れる。


「アリス。俺はあなたの何ですか」

「え……」

「俺にとってあなたは、大事な存在で、特別な人です。アンドロイドがどうとかそんな話も飛び越えて、大事なんです」

「え、ええっ」


 何言ってるの……? いけない、びっくりしすぎて体が硬直しちゃってる。彼の匂いがする。男性の匂いと、シャワーの後の石鹸のかおり。


「でも、恋とも愛とも違う感情です」


 私は顔を上げた。ついさっき彼について考えていたことが彼の口から出てきて、びっくりした。私も同じ気持ちだ。恋愛感情じゃない、ただひたすらに「大事」という感情。


 驚いている私をよそに、彼は続ける。


「あなたには感謝していて、尊敬していて……そういう存在です。例えばその、マリエッタがあなたを慕う理由がわかる気がする、みたいな」

「……うん」


 ラオレの声は低い。ヴィルセンも声が低かったけれど、彼の声は晩年のあの人よりも若々しくて、力強い。まあ、そりゃ、そうよね。


「もしフレアが目覚めたとしても、あなたはあなたです。俺にとってのアリス・フランシェリアは、ここにいるあなただ」

「……ラオレ……」

「大丈夫ですから、もうそんな顔しないでください。不安なら、話してください。俺が、できるだけ支えますから」


 ラオレは急に強く私を抱きしめてきた。


「い、いたい」

「あ、すみません」

「わかったから、少し、離れて……」

「離れません」

「わがまま言わないの。く、くるしい! もう、女性は優しく扱わないと」

「……す、すいません」


 ラオレは両腕を広げて半歩下がる。


 やっとの思いで彼から解放された私は、彼から少し離れて、髪を手櫛てぐしで整えた。ふうと息を吐いて窓の外を見つめると、小ぶりな雨が降っているようだった。


「雨、明日には止むかしら」

「どうでしょうね」

「そういえばあなた、私を慰めるのはいいけど」

「はい」

「仕事しないの?」

「……ありますか、仕事」

「私の職場に来る? アルバイト、募集してたかしら」

「この前、今は夏休みって聞きましたけど」

「そう。秋になったら再開するから、今度紹介するわね」


 沈黙が流れる。それがなんだか可笑しくて、笑いが込み上げて来た。それはラオレも同じだったようで、私たちはふふっと笑い合う。


「あ、それで、質問の答えは」

「え?」

「だからその、さっきの」


 話を逸らそうとしたのに。


「私にとってあなたは何か、って?」

「はい。お聞きしても」


 私は顎に手を当てた。彼の存在は私にとって何なのだろう。私も正直、よくわかっていないのよね。もちろん大事な友人ではあるし、彼のこと嫌いじゃないけれど。でもだからって、ただのルームメイトとは思っていない。私はきっと……。


 ……。

 よし。


「答えだけど」

「はい」

「極論で言うとね」

「ええ、どうぞ」

「あなたが死ぬと、私は悲しい」


 ラオレの柔らかかった口元が、少しだけきつく締まったように見えた。


「それくらいには、大事よ。あなたにはこれからも生きていて欲しい」

「……はい」

「そして、あなたの人生の活路に、私もいられたらって思うわ」


 ラオレは鼻で息を吸って、すうと吐きながらうんうんと頷いた。


「聞けてよかったです。フレアのことも、あなたの気持ちも」

「き、気持ちって……そんな大したことじゃないわよ」

「これで隠し事はなし、ですね」

「……そうね。ほら、さっさと寝ましょ。もうこんな時間」


 時計の針は午前一時ごろを指している。夜更かしは体に悪い。特に人間にとっては。


「そうですね。夜中にすみません」


 微笑みながら謝る彼の顔を見ると、不意にさっきの抱擁を思い出してしまう。恥ずかしくなって、私は思わず腕を組んで目を逸らす。練習室の窓に打ちつける雨の音が、私たちの静かな夜を彩っているようだった。

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