-4- 若き日の望楼(ぼうろう)
私の家の二階にはピアノの練習室がある。防音壁に囲まれたその部屋には、グランドピアノや譜面、ヴィルセンが遺したレコードプレイヤーとレコードがある。
かつての夫であった彼のことを何となく思い出しながら、当時好きだったレコードに針を下ろす。タエコオオヌキの、『pure acoustic』というレコードだ。
異国の匂いを感じさせるアルバムで、ヴィルセンが外国から取り寄せたレコードだ。私たちはこのアーティストをとても気に入って、繰り返し何度も聴いては胸を震わせていた。
ピアノ椅子から立ち上がり、部屋の窓を開ける。夜風が入り込んで髪をなびかせると、聞き覚えのある曲が流れ出してくる。これは『若き日の
過ぎ去ってしまった記憶の景色へと思いを馳せ、それとは裏腹な時の流れの残酷さを優しくも鮮明に描いたこの曲。若かりし頃のヴィルセンは顎に手を当てて、コーヒーを片手に聴いていたのが脳裏に浮かぶ。
――アリス、おいで
そして、しわの増えた笑顔と白髪が似合うようになった彼は、しわがれた声で私を呼んだ。病に侵された彼の体は弱り果てていたけど、この練習室にはどうしても思い入れがあるらしくて、よく病院を抜け出してはここにやってきていた。
彼は私の名前をたくさん呼んだ。何度も、何度も。亡くなる寸前まで、私のことを忘れないでいたいと言っていた。彼の命の灯火が消えかけた時に発した、あの優しい声は今でも忘れていない。私は彼に抱きつくようにして、そっと顔を近づける。彼がゆっくりと口を開いて、か細い声でこう言った。
――アリス、君に出会えて、僕は幸せだった
彼の弱い心臓の音は優しく力強かった。私は彼の痩せた胸に耳を当て、弱り果てた体を優しく抱きしめる。そこに鼓動はなく、温もりが少しずつ消えていく感触があるだけだった。思い出すと、どうしようもない気持ちになるけれど。
……っ。
「……アリス?」
え。
ばっと振り向くと、開かれたドアのそばにラオレが立っていた。その姿が若いヴィルセンの姿と重なって、私は彼が帰って来たのかと思って頭が混乱した。私の意識はすっかり記憶の中に取り残されていて、現実のラオレをラオレと見分けられなかったみたい。レコードはすでに止まっており、窓から入る夜風の冷たさが感じられた。
「ど、どうしたんですか」
気づけば私は、空中を腕で抱きしめるようにしている。私は慌てて伸びる振りをした。下手な誤魔化しだったと思う。記憶と現実の区別がつかなくなるなんて、今日はどうしちゃったのかしら。
「なんでもないわ。それより、音もなく入って来るなんて。マナー違反ではなくて?」
「ノックしましたよ。随分大きい音なんですね、レコードって」
この練習室には大きなスピーカーが設置されている。大きな音で音楽に浸るにはもってこいの部屋。防音壁のおかげで音はあまり漏れないはずだけど、もう何十年も使っているせいで効果が薄れてきているのかしら。
「それで、何か用?」
「ああ、マリエッタが猫の写真を見せてくれるみたいで。アリスもどうかと思って」
「そ、そう」
猫は苦手なんだけど。
私が淀んでいると、ラオレは頭を掻いて困ったような表情をしている。少しの間を置いてラオレは言った。
「……マリエッタの話、最初は楽しかったんですけど」
「うん」
「止まらなくて。まだ続いてるんですよ……もう夜なのに。止めるにも止められなくて、寝室に物を取りに行くふりをしてここに来ました」
「なあんだあ、そういうこと」
「助けてください」
ラオレは苦笑した。そうならそうと素直に言えばいいのに。私は窓を閉めて、さっそくマリエッタの元へ戻ることにした。
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