お隣付き合い

夏生 夕

第1話

都会というとご近所付き合いが薄いように思っていた。このイメージは概ね当たっていて、隣人は一人暮らしなのか、何歳くらいなのか、そもそもどんな顔なのかすら分かっていなかった。唯一ゴミ出しの時にすれ違って会釈する程度で。


「あ、せんせー。これも消費期限過ぎてるじゃないすか。忘れるんだから付箋に書いて貼っときなって言ったのに。」


だから今、他人の冷蔵庫を漁っている状況を不思議に思う。

発端は昨日の夕食時だった。

俺の家の左隣であるこの部屋から聞いたことのない音と悲鳴が聞こえた。ひっそり、と言えば聞こえはいいが、普段は居るのか居ないのか分からないほど静かな隣人から発せられた潰れたような声。

幸い俺の部屋に集合していた、これまた右隣に住むお兄さんと顔を見合せた後は弾かれたようにすっ飛んできたのだ。

勢いよく駆け込んで中を覗くと、先生の姿が見えない。その代わり居間の右奥に本の山がこんもりと出来ている。かろうじてそこから生えた右手が力無く振られていた。


「先生、何してんすか。」


「あ、の、図書館…ハガキが、あの、本を…」


危機的状況に語彙力を無くしたこの先生とは、小説家である。

ようやく助け出して聞けば、図書館から本の返却期限が(とうの以前に)過ぎていると葉書が届いたが、肝心の本が見当たらないという。ここでも無いあそこでも無いと探し回るうちに棚の上を無理に覗こうとした挙げ句に足場もろとも崩れたらしい。いかにも先生、と言った流れだ。



冷蔵庫を改める俺の背中側では、居間を2人の男が右往左往している。まさに昨日の事件現場だ。

所狭しと積まれた本の隙間をぬい、先生とお兄さんとが荷物を整頓しているが、煩雑な光景はあまり変わっていないように見える。

もともと本棚が崩れようが残っていようが床面積は大して変わっていないように思えた。それくらい先生の家は書籍に溢れ、まるで整頓がされていなかった。



「もう引っ越してきてから一年以上経ちますよね、この辺りの段ボール箱、まだ開けてないんですか?」


羽織っていたパーカーを脱いで腕捲りをしたお兄さんが目を見張った。俺の右隣に住むこのお兄さんは俺からするとプロの社会人である。そんな人から見たら、開けていない荷物が家に残っているというのは些か信じられないのかもしれない。でもすいません、俺んちにもあります。


「すみません・・・、結構、勢いで引っ越したので、使わない物までとりあえず詰め込んで持ってきていて・・・。」


分かる、分かるよ先生。

部屋をぐるりと見回し、事態が好転していないことを自覚した先生はもう一度「すみません、」と呟いた。


「いえ、別に謝らなくても・・・。」


ぎこちなさすぎないか?

それも当然か。俺たちは友人関係じゃない。ご近所さん、だ。



二人とは一年ほど前、同じ日に初めて会話した。先生は出会った瞬間から謝っていた。

実家から送られてきた大量の米をさばくために両隣へおすそ分けにをしにピンポンしたのだが、どういう話の流れかその日の食卓をともに囲むことになった。

全ては先生のアシスタントの提案というか強引なお願いのせいだ。引き受けた俺のせいでもあるけど。


「野々宮さん、いつも来ていらっしゃる編集の方には聞けないんですか?」


アシスタントじゃなくて編集さんだった。むしろアシストを飛び越えてメンテナンスに近いように俺には見えている。

放置するとおざなりになる先生の食事を最低限に保つ一環で俺たちを巻き込み、定期的に集合する「見張り」役を取りつけたのは彼女だった。

オカンか。


「いえさすがに、借りた本のすべては伝えていませんし、ましてやどこに仕舞っているかまでは知らないと思います。」


そりゃそうでしょ。

「そりゃそうですよね。」


お兄さんが自嘲気味に笑った。掘っても掘っても本、の空間に少しやられてきているらしい。

なんせこの中からたった一冊を探し出そうとしているのだから。

手伝いたいが、ただでさえ書籍に占領された居間に大人2人がいれば既にいっぱいだ。仕方なく台所周りを整頓している。先生に曜日は関係無さそうだが、せっかくの土曜日に何をしているんだか。

ダメだ、何かを見失いかけている。空気を変えよう。


「でも先生、棚ぶっ壊れたの昨日で良かったっすね。飯の約束が無かったら俺の部屋誰もいなかったし。」


本に埋もれた先生の発見が遅れていたらと想像する。どうせ朝昼は食べてなかったんだろうし、仮に睡眠時間もまた削っていたのだとしたら、力尽きてそのまま眠ってしまったかもしれない。

編集さんでなくても、先生の生活には危なっかしいところがある。


「すぐ来てくれてありがとう。しょうが焼き美味しかったよ。」


そこじゃないけどね。

目元のクマが少し薄くなった気がする。


「その上探し物も手伝ってもらってごめんね。」


「いや俺が言い出したんで!」


夕食を片付けた後すぐ捜索に取り掛かろうとする先生を全力で止め、今日再び集合することにした。

寝不足で作業しても埒が明かないと思ったし、何よりまた引っくり返られたら駆けつけた甲斐がない。お兄さんも巻き込んだのは申し訳なかったけど。


それに以前から、「小説家のお宅」には興味があったんだ。

いや違うか、「先生のお家」が見てみたかったのかもしれない。想像通り、まるで先生の頭の中みたいにごちゃごちゃしている。

でも俺みたいなのには、なんだかとても。



もういっちょ場を和せようかと思った矢先に玄関で扉の開いた音がした。


「失礼します。先生。

鍵をかけてくださいと言っているでしょう。」


そう言いつつ入ってきてますがね。それに昨日は、このザルな防犯意識のおかげで先生の早期救出に至ったのだ。

噂の担当編集が居間まで上がってきた。いつにも増して荒れ果てた部屋を前に固まっている。先生が言い訳しにすっ飛んで行った。


「ちょうどいいから休憩しましょ。」


誰に言うでもなく呟いた。再び冷蔵庫を開けてドリンクポケットを見る。

と、これは?


「『結晶のつくりかた』?」


「「え?」」


先生と編集さんが同時にこちらを見た。

ペットボトル茶の後ろに差し込まれたそれをつまみ上げる。文庫本より少し大きく、薄めの本だ。さっきはこんなところまで見ていなかったから気付かなかった。

裏面を見ると、この街からはえらく離れた観光市のものらしき図書館の判子が押されている。


「…まさかね?」


そう言いながら振り返るとすぐ真後ろに2人が立っていた。


「…先生。」


「はい。」


「冷やしたって、本から結晶が出来てくるわけじゃないんですよ。」


「いえ、違うんです。いえ、はい、あの、すみま」


両手で顔を覆う先生の後頭部を編集さんがぐっと押し2人で頭を下げた。


「すみません!!」


初対面の日に見た光景とまるきり同じだ。あの時はこの勢いに圧されてしまったが、今日はもう限界だった。居間に取り残されたお兄さんと顔を見合わせ笑ってしまった。

もうほんとに、土曜日に何してんだか。



取材に行った先で時間を持て余して借りたうち、一冊だけ返却し忘れていたらしい。郵便を使って返せるなんて便利な世の中だ。

冷蔵庫にも何やら考え事をしていて、ちょっと置いたつもりだったんだろう。きっと。

先生を見てこう思うのは失礼かもしれないし的外れな気もするけど、でも、この人は話すより何倍も雄弁に物語で書いている。

「不器用」というのは、なんだか温かくて居心地がいい。



「せんせ!」

しっかりした他の2人に聞かれてはまずいから、声を抑える。

「俺も部屋に、開けてない段ボール箱あります。」とコソッと言ったら見たこと無い顔で笑った。

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