8-2

 彼は自分のベッドに戻ってしまった。デジタル時計は四時を示していた。ここまできたら、ここから朝日を見たいと思った。今の時期、何時に太陽が昇るのか知らない。でもこうやって自分のことを考えながら待つのだって悪くない。


 一度立ち上がって彼の近くに行くと、彼はさっきまで起きていたと言うのが嘘みたいに寝息を立てていた。その表情、確かに碌でもないことばかりしてきたのだろうな、という感じの顔だった。


 あどけなさの仲に酷薄さが混じっていた。それだって社会経験なのかもしれないけれど、金は稼げないし食ってはいけない経験。そんな経験じゃいずれは飢え死にしてしまう。だって食べていかないと人は死ぬから。


 そこまで思ったところで、そうだ彼はもう死ぬって言っていたんだってことを思い出した。灰皿と煙草、そしてライターを借りて窓際まで持っていって、窓を少しだけ開けて煙草を吸う。


 相変わらず全然美味しくないし、口の中がざらざらになるし、こんなものを定期的に吸う人間の気持ちはまるでわからなかったけれど、それでも悪い気はしなかった。こうやって煙にすることで気分が紛れることもある。


 世の中的には煙草は無くなる運命にあるのだろうけれど、そうやって全てを悪にしてしまうことが本当にいいことなのかどうか、私にはわからない。三度だけ吸った煙草は灰皿の中で燃えていき、やがて消えた。


 一式を彼の近くに戻す。きっと朝起きれはまず煙草を吸うと思うから、そうなったときに少しでも近くにあれば彼にとっては良いことだろうと思った。窓は開けたままでそのままずっと椅子に座って、さっき亨と話したこと、あるいは自問自答したことに対して、何かを考えていたような気がするけれど、気がつくと太陽が昇っていて、朝になった。


 朝食のないプラン、亨はチェックアウトの時間ギリギリまで眠らせておいて、私はシャワーを浴びたり顔を洗ったりしてそれまでの時間を過ごした。



「昨日と顔が少し、違うような気がする」


「化粧道具がないから、すっぴんなんだ」


「ああ……いや、怜じゃなくて俺のこと」


「なんだ」


 ホテルを出たのは十時過ぎ、相変わらずやることがないから昨日の海岸でまた海を見ることにした。亨はずっと煙草を吸い続けていて、彼の携帯灰皿はもうこれ以上入れられないくらいになっていたけれど、それでも諦めずに吸い続けていた。


 一時間くらいそうしていただろうか、私がそろそろ帰ろうかと言おうとした時、私たちの後ろに誰かが立っているのに気がついた。


「何が見えんだ、ここでぇ。ずっと見てるみてぇだけんど」


 昨日のお爺さんだった。昨日と違うのは頭に捻ったタオルを巻いていて胸ポケットからは煙草が覗いていた。その姿は、朝早く起きてさっきまで漁に行っていたと言わんばかりだった。


「昨日の……」


「そうだ、今日も会えるとは思わんかった」


 亨はおじいさんのことを一瞬だけ見たけれど、少しだけお辞儀をしてまた海を眺めることに集中してしまった。


「彼、海が好きなんです。だからずっと眺めていても飽きないみたい」


「そうかぁ、じゃあうちに来るか? うまいもんでもごちそうするべぇさ」


 話が繋がらない気がするけれど、亨が立ち上がったので一緒に行くことにした。私には信じられなかったけれど、彼はお爺さんの家に行くつもりらしい。……私は迷った。


 でも、家を見て駄目なら直ぐに理由つけて帰れば良いとも思った。おじいさんの家はそこから少し歩いたところにある古い家屋だった。庭が大きくて、大きな車庫兼荷物置き場がある。車庫には軽トラック、いかにも田舎って感じの。


 私がそこを眺めていたら、そこには漁の道具が置いてあると言って玄関の鍵を開けた。私たちも彼の後をついていく。広い家に見えたけれど、玄関を見る限りどうやら彼は一人で住んでいるみたいだ。


「一人なんですか?」


 私が思ったことを亨は何も気にせずに聞いた。しかしお爺さんは答えなかった。答えなかったと言うよりも聞こえなかったと言った方が正しいんだろう。


「聞こえなかったみたいね」


 亨の方を向いて小声で言った。別に小さくする必要なんてなかったのかもしれないけれど、念の為。


「適当に、座ってくれぇ」


 居間のテーブルは綺麗に片付いていて、何もなかった。テレビもないし新聞もない。本やパソコンが置いてあるわけでもない。一体何をして過ごしているのだろうか。私は多分、何かがないと何をして良いのかわからなくなると思う。


「何もないけれど、普段何をしているんですか?」


 亨がまた変なことを聞いたけれど、彼にとってはこう言うことも聞くべきことなんだろうと思った。彼が育った環境や周りの人、そう言うものが積み重なって人間ができるのだとしたら、それを選ぶことをできないのは不幸と呼べるのかもしれない。実は私だってそうなのかもしれないのに。


「何も、しとらんよ。朝、昼、夕方と海を見に行くだけだぁ。海はいつも表情が違うんだ、ずっと海に出て生きてきた俺が言うんだからまあ間違いない。風を見れば今日や明日の天気だってわかるくらい、俺は海とともに生きてきたんだ。歳をとったからってハイサヨナラ、なんてできるわけがない。あんたも海が好きなんだろう? だったら俺の気持ちもわかるだろうぉ」

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