怜④

 6-1

 亨があまりにも動こうとしない。彼はそれほど海に心惹かれているのだろうか。私には、ちょっと理解しかねる。


 バッグからスマートフォンを取り出して近くのホテルを探す。通知が目に入らなかったかというと嘘だ。でも見ないふりをした。ブラウザを開いてホテルを探す。


 サーフィンのメッカらしいから、宿はあるだろうと思った。でも、リゾートホテルになっちゃうのかな。ところで、サーファーは皆、ホテルに泊まるのだろうか。


 あの大きいサーフボードを抱えながら、フロントで名簿に名前を書くのかな? そんなことを頭の隅で考えながら検索をすると、思った以上に宿はあった。へえ、観光地なんだね。


 お金がないわけじゃないけれど、あまりにも高いのは論外だ。今月はまだ始まったばかりだし、月初に金を使いすぎると後が辛い。バイト代が入るまで時間があるからね。


 彼の希望通りの、なんだっけ、コテージ? も一応探してみたけれど、シーズンオフだからか見つからなかった。夏ならありそうだけど……。彼だって家出してきたって言っているくらいだから、もちろん金なんてないだろう。


 財布にはそんなにお金、入っていないけれど、最悪クレジットカードがあるから。今日一泊くらいはなんとでもなるだろう。一番近くの観光ホテルに宿を取った。想像以上に安価だった。


「ホテル、とったよ。今の時期は空いているみたいだから助かったよ」


「ああ……」


 相変わらず反応が鈍い。本当のところ、私は今から帰っても良いのだけれど、帰ったらきっと後悔しそうな気がしたんだ。彼は、これから少し変わりそうな気がしたから。


「まだ海見てる?」


「もう少し。あと二本だけ煙草を吸ったら行こう。今日は疲れた。早く寝たい」


 疲れた、と言っているが煙草吸うくらいの元気はあるんだ。海。最初は新鮮だったけれど、私はもういいかな、という感情。よく亨は飽きずに見ていられるものだ。


 サーフィンをしている人たち、全身ウェットスーツに色褪せた原色なボードで波に乗っている。海の家を滑るって、空を飛んでいる感覚なのかな。海に入る気はしないからできないけれど、空を飛ぶのは良いかも。そんな瞬間は、くだらないこと、忘れられるんじゃないかな。


「ねぇ一本頂戴」


 亨はスッと私に向けて振ってくれる。一本取ってくわえると、彼が火をつけてくれた。


「この煙草は見ての通りフィルターがない。そういう煙草を吸うときは、こうやって唇を内側にするんだ。フィルターがないから、そのまま吸うと葉っぱが口に入る。それを防止するためのこれ」


「こう?」


「そう。そっとくわえて、ゆっくりと吸うんだよ。例えるなら、ストローで空気を吸うときみたいに、煙が舌先で冷たいと感じるように吸うんだ」


 試しにやってみるけれどとても難しかったし、葉が唇につく。それに煙はとても苦い。こんなの絶対においしいとは思えない。


「随分と詳しいね」


「好きなことだからね」


 三回煙を吸って、彼の灰皿に入れてもらった。享とは燃え方が違う気がする。私のは吸い過ぎなのか、早く燃えてしまった。これが『好き』の差なんだろうな。私はそこまではできないだろうな。


 することがなくなったから、写真撮ろうかなと思ったけれどカメラを持ってくるのを忘れた。私の『好き』なんて、その程度なもの。じゃあスマートフォンを使えばいい、と思うかもしれないけれど、どうもこれで写真を撮る気はしない。


 シェア、っていうけれど他人の経験を画面だけで見ることなんて、そんなの意味なんてあるのかな。だったらなにもしない方がいい。絶対。


 そんなことを考えていたら、亨が靴と靴下を脱いで砂浜を歩いて海に入っていった。私は思わずスマートフォンを取り出して彼を撮ってしまう。行動と考えが違う、これが私。


「つめてぇ。つめてえよ水が。海だよ」


 そりゃそうでしょう、冬だよ?


「そりゃそうだよ。冬だよ?」


「さみいけどさ、いいぜぇ。最高だよ……。足の裏で砂が引いていく。この感じ、最高だよ。寒いのに海に入るサーファーの気持ちがわかる」


 サーファーの気持ちねぇ……。今いるところは砂浜だから、それとは少し違うような気がするけれど。


「怜も来たら? というか、来てみてよ。言葉じゃ説明できっこないよ」


「寒いのは好きじゃないからいい」


 寒いのはすきじゃない、と今私は言った。寒いのは、好きじゃない。……私は、ずっと前から冬が好きだと思い込んでいたところがある。多分、小学生とか中学生くらいの頃から。


 寒いから厚着するのはちょっとアレだけれど、寒いから汗もかかないし、水分を引っ切り無しに取る必要もない。特に自分の匂いとかに敏感な中学生の時は、そんなことを言って夏のことを嫌いになっていた。


 人の集まった夏の教室の匂いと、制汗スプレーとスポーツドリンクの混じった匂いが混ざったあの空間の影響もあるかもしれない。中身のある中学校生活を送っていたのかなんて、まるで覚えていないけれど、男子中学生みたいに波打ち際で遊ぶ亨をみて、ふとそんなことを思い出した。


 きっと、中学校の初夏に行った臨海学校を思い出したから。そんなこと、そういえばあったな。卒業アルバムでも見ればもっとはっきりといろんなことを思い出すと思う。


 いつもいつも、全く関係ない時に、どうでもいいことが思い浮かぶ。そしてそれが、自分にとって思い出したくないような恥ずかしいことだったりする。


 だって臨海学校のときって私生理で大変だったんだ。まだ始まってない子もいたし、説明が難しくて……。だから、思い出したくなかったんだろうな。


 でも、きっと、そういうふうにできているんだろうね。記憶って。そういうものを積み重ねて、人間ができているのだとしたら、そういうひとつひとつだって今の、これからの経験にはなるのかもしれない。それを否定しても何にもならない。だって事実だから。


 事実はひとつしかないというわけではないと思うけれど、それが正しいかそうではないかというのは自分で選んでもいいことだと思っている。そうじゃないと救いがない。

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