5-4

 ああそうか、俺には心配してくれるような人間なんていないんだ。


 そうだよな、俺が心配する人間だっていないんだから。波は相変わらず寄せては返すを繰り返している。ここに着いた時よりも太陽は傾いており、夕方に向かっているのだろうということは頭で理解しているが、動く気にならないし、怜に向かって話しかけることもできない。さっきので精一杯だ。


 彼女も今は海を見ている。基本的にこちらが話をしなければ、彼女も何も言ってこないから、俺はこうやって自分の中にいる誰かと対話を繰り返すことができる。それができただけでも、ここまできた価値はあった。


 親かから金を盗んで……そうだ、俺は親の財布から金を盗んだんだ。数万円、四、五万円だったか。その金がなければきっと、自転車にのってここまでくる羽目になっていただろう。自転車だって家にはない。だから盗むか、買うかをしなければならなかったはずだ。


 その時だって金が必要で、俺はいうまでもなく金なんてなくて……。結局は全部金なんだ。金がなければ食うものさえ買うことはできなくて、食えなければ当たり前に死ぬ。本当にそれだけなんだ。財布を取り出して開いて勘定すると、あと四万ほど残っていた。


 まともなホテルが一泊五千円だとしても一週間は泊まれないだろう。そう考えると本当に虚しい。どこまで行っても俺を暗い気持ちにさせる。


「海はずっと、こうやって繰り返しているんだねえ、虚しくならないのかな」


 怜はぽつんと、そう言った。


「海が何も考えないとしても、だからこそ俺はそれが羨ましいのかもしれない」


「羨ましい?」


「正直、先のことは考えたくないんだ。たとえそれが、ほんの一分先のことだとしてもさ。今日だってこれからどう動くかを今は考えたくないんだ」


「でも、考えるときは来るよ、必ず。だって夜までずっと、いや、明日の朝までか。それまでずっと、ここに座っているわけにはいかないから」


 怜の言ったことを考えてみる。そうだろうか? 必ず、考える時が来るのだろうか? ここに座っていたって良いじゃないか。俺はそう思っちゃうんだよ。


 どこかに終わりがあったとして、自分でそれを選んだとして、そこに着くまでに本当に何も考えないで、あるいは考えたとしても自分のことだけを考え続けるということは可能なのではないだろうか?


 人はそんな人生、何が楽しいのか? と疑問に思うかもしれないが、どんな人生だって方向さえ決まっていれば楽しいものなのだろう。そんな気がする。俺の人生、楽しかったよな? そうだろう、俺? なあ、答えてくれよ。お前しか俺の問いに答えてくれる人はいないんだよ。


「今日は疲れたから、どこかホテルでも探すよ。本当は、ロッジとかコテージみたいなところがいいんだけれどさ。今は冬だし、ホテルしかないだろうと思うんだ」


 俺の発言を、怜は聞いていたのか、いなかったのか、突然『火を貸して』、と言ってきたのでポケットからライターを取り出して渡した。驚いたことに彼女は俺の渡した煙草をペンケースから取り出して吸い出した。


 正確には、火をつける時に一度吸って吐いただけで、あとは煙を風に乗せていただけだったけれど、それでも。


「私も一緒にいてもいい?」


 俺も煙草に火をつけた。


「いいよ、怜さえよければ」


「でもね、申し訳ないけれどセックスはできないんだ」


 俺は心の底から込み上げてくる笑みを我慢することができなかった。だから大声で笑ってしまった。


「どうしたの?」


 会話の途中に大声で笑い出せば、そしてそれが場にそぐわないとわかっていればこそ、こういう疑問は当たり前だ。もし逆の立場ならば俺だってそういうだろう。でも、だからこそ俺はこの場で笑いを堪えることができなかったのだ。


「変な気を使わせて申し訳ないね。実は俺は、セックスには本当に興味がないんだよ。でも必要ないと信じ出した途端に、向こうからいつだって寄ってくるんだ。性行為っていうのは生殖行為な訳だろ? 俺は、残念ながら生きること、そして生きていくことに興味がないんだ。だからそういうことに、本当に、興味なんてないんだよ。だからそういう意味なら安心して欲しいんだ」


 そうなのだ。今こうやって自分の口から声に出して、誰かに聞いてもらって、それを認めることができたんだ。死にたいのか、それとも結果として死にたいのかは分からない。


 でも、ただ一つ、目の前にある煙草みたいに、燃えて灰になれたら楽だろうな、とかそんな意味のわからないことだけが頭に浮かんだ。こんなの、全然怜が求めている回答じゃないはずなのにな。

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