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 彼は就職、と確かに言った。驚いた。働くこと、確かにそうだし、私もそうしなければいけないのだけれど。


「ああ、答えになってないな。少なくとも今のところはないよ、何もない。中学校卒業して……というか、卒業させられてから、何もしていないからね。両親は呆れ果てて何も言ってこない。毎月、年金みたいに少なくない金が部屋の前に置いてある。俺はそれを使い切らないように注意して、毎月過ごしている。何も楽しいことなんてなくて、ただ生きているだけ。携帯電話だって持っているけれど(そう言って彼は鞄の中からスマートフォンを取り出す)、連絡はない。誰からもない。じゃあなんでこんなものを持っているんだろう? 見栄か、あるいはこう言うものを持っていれば自分でさえも何かと繋がっていると思い込めるからか……どうだろうな、何を話しているんだろうな。また脱線しちゃったよ。どうかな、これが人生経験豊富な人間の答えだろうか?」


「私はそうだと思ったよ。だって私は普通、それで終わるもん」


「そうか、良かった。それは君にとって望んでいた答えだっただろうか?」


 私は頷いた。それを見た彼は満足そうに視線を逸らして、変わらず海に見とれる時間に戻った。本当は会話なんてしたくなかったのかもしれない。悪いことをした。もうすぐ彼にとって憧れていた場所のはずなんだ。それを邪魔していいはずがない。


「話してくれてありがとう」


 彼に聞こえないように小さい声で言ったのだけれど、聞こえていたみたいだった。


「本当は俺も何かを話したいのかもしれない。ついでにもう少し話してもいいかい?」


「うん」


「実は俺はあんまり電車って乗ったことなくてね。あんまり、じゃなくて全く、だな。だから今日こうやって切符を買えたことでさえ奇跡みたいなものなんだよ。窓からは時々海が見えるだろう、それを見るとこう考えちゃうんだ。……もし、俺がここで、この場所で生まれて育っていたら、きっと違った人生だったのかもしれないってね。失われたであろう人生を空想していると、自分の存在が霞んでくる。霞むなんて生やさしいもんじゃないな、霧散するだ。こんな想像なんて全然、良い趣味ではないとは思うよ。でも、そうやって、手に入らなかったことに、救いのかけらを求めるのはきっと悪いことじゃないと思うんだ。こんな行為無意味だよ。無意味だってことは知っているさ。だってどう頑張っても手に入ることはないんだから。隣の芝生は青い、隣なんてレベルじゃないんだ。地下十階と地上三千階くらい離れている。それに、俺はもうどこにも行けないってことも知っている。でもね、止まらないんだ」


 私はそのセリフをどこかで聞いたことがあった。もちろん全部じゃない。それに近いこと。思い出すしてみる……悠二だ。彼の言葉だ。私が大学に入った時に、同じ写真サークルに新入生として入ってきたのが悠二だった。


 最初はなんとも思わなかったんだけれど、何度か一緒に写真を取りに行く中で、彼のことが気になり始めた。良い人だって感じたこともないし、格好良い人でもない(と私は思っていたのだけれど、知り合いの何人かは彼は格好良い人と言っていた)。


 でも、そういうところになぜか、妙に惹かれたんだ。二年前の私が今、目の前に現れたらきっと、今の私から的確なアドバイスができるけれど、その私は絶対に、今の私の話なんて聞かないだろうな。

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