3-2
向かい合ったソファに座っている人間が、俺に話しかけている。まったく気が付かなかった。それは俺がぼんやりしていたからって訳じゃない。
パッケージを振る→パッケージから飛び出た煙草を一本取り出す→トントン叩いて葉を詰める→唇を内側にし、そっとくわえて火をつける→煙を吸って吐き出す……って一連の流れに集中しすぎていて気が付かなかったってだけだ。
考えてみるとこれって結構やばいよな。その時に後ろから殴られたら何も気が付かないまま死ぬだろうな。答えるかどうか迷っていたが、ここで会ったのも何かの縁なんだろう。
「全く。全然駄目さ。お宅は?」
彼女は俺がパチンコをやっていると勘違いしている。まさか俺がここにいる理由が煙草を吸うためだけだなんて、普通は考えもしないだろう。コンビニでトイレだけ借りるのとは訳が違う。でもこのまま話を続けることにした。説明するよりこの会話を続けた方が楽だろう、そう思った。大きな間違いだったけどな。
「あしちも全くダメ。もう三万もスったよ。この店であしちは、もう百万くらい注ぎ込んでいるんじゃないかな。でもね、二百万は受け取っていると思うんだ。だから結果的には儲けているよ。どう、すごい?」
そう言ってその女はファファファアア、と笑った。この笑いがここでは流行っているのかもしれない。なんてったって、俺は山梨から出たことがない男だからな。ここがまだ山梨だったらどうしよう。
女が口を開けると、下の歯が数本なくなっているのが見えた。それは育ちの悪さか、あるいは歯を磨かなかったからなのか。煙草の吸いすぎって可能性もあるな。俺もいつかはこうなるのかな。
「俺は一円も使っていない。強いて言うなら煙草とライター代くらいだな」
これは真実である。パチンコなんてやったことはおろか、店に入るのだって初めてだ。なんかの漫画で読んで、ここなら煙草が吸えるだろうと思っただけだから嘘を言っているわけではない。
「へええ、すごいじゃん!! じゃあ勝てそうな台をあしちに見繕ってよ。あしちはもう自力じゃ勝てる気がしないんだよ」
「ああ、そう。じゃあちょっとフロア行こうよ。俺に任せなよ」
とは言ったものの、そんなのわかるはずがない。分かったら俺はすごいってことになる。知らないものを知っていると言うことだから。しかしもうこの女とは二度と会うこともないのだから、適当に言ってあとは逃げれば良い。足の指先に力を入れて、ダッシュする準備だけはしておこう。ダッシュはBボタンだぜ、亨君。
喫煙ルームを出ると、玉が何かに当たる音なのかパチパチととにかく煩い。想像していたよりもずっと煩い。入った時よりも耳に届く音が大きくなっている。状況になれて耳が良くなったんだ。時々そういうことがあるんだ。こんなところは一刻も早く出ていくべきなんだ。
しかし、こんな状況でも頼みを断るのは悪いと思ってしまった。だって俺が頼まれているんだぜ!? 俺は正直今までの人生、ろくなことをしてこなかった。学校だってまともに行ってない。小学校だけだ。中学校はろくに行かなくなった。これから先だって……。
そうだな、例えば就職して家を出て、アパートの家賃や水道代を払っている自分を想像できやしないんだ。それが良いこととか、悪いこととかじゃなくて、自分の未来が根本的に見えない。
だからこそ俺は、読まされた本の中で唯一面白いと思った舞台の海に行って、そこで死のうと思った。死ぬことだってきっとたいしたことじゃない。煙草に火を付けること、そして飯屋で食べた後に『ごちそうさま』って店員に言うことの方が絶対に難しい。
俺は煙草を吸う時、火をつけるタイミングを十五回は失敗する。そして飯を食った後いつも言おうと思っても忘れてしまう。だからこそ、最後の選択肢である死ぬことだけは失敗するわけにはいかないんだよ。俺が最後にできることなんだと信じているわけだ。
「ねねね、どの台? それがいいかなぁ?」
俺がそんなことを考えているとは露知らず、女は呑気にそう言う。彼女は本気で俺に出る台を選んで貰いたいみたいだ。声のトーンが、さっきまでと明らかに違っている。それを聞いて俺はちょっとやばいなと思った。こういうことに本気の奴って、俺が言うつまらない冗談が通じないものなんだ。
今から何も知りませんって言うわけにもいかない。だから勘を信じるしかない。死ぬ前にちょっとだけ、幸運をくれよ、神様の野郎。あんたには貸しはあっても、借りは一切ないはずだぜ。幸運の貯金だって一度もおろしてないしな。
「そうだな、ちょっと見てたんだけど、そうだな、迷うな。この店、判断が難しいな」
それっぽいことを言っていれば、深く考えない奴はだませる。いや、雰囲気派はむしろ騙して欲しいとさえ思っている。しかし、ディープに考える奴には絶対に通用しない。今隣にいる女がそうだ。彼女は尖っている、俺なんか一刺しであの世行きだ。
「あしちはねぇ……あの台! あの台良いと思うんだけど、どう? オニイサン」
「どれ?」
「あれあれ、あの一番手前の奴」
「通路のどっち側? 右側? 左側?」
「右側と左側ってどっちがどっち? 右と右側は違う? 左と左側が違うみたいに? あしちが煙草を持つ方? あしちはどっちで煙草もつっけ?」
「鉛筆を持つのが右。一般的には。君はどっち?」
「持ったことない。あしちは何も勉強なんてしてこなかったよ。幼稚園行っただけ。自分の名前も漢字で書けない。右も左もわからない。それって結局同じってことでしょ?」
そういう人間だってきっといる。彼女の言っていることは多少オーバーかもしれないが、全部が嘘だとは思えなかった。上手に嘘をつくコツは、嘘に少しでいいから本当のことを入れることだって誰かから聞いたことがある。
彼女がそんなことを知っているとは思えないけれど、それでもそこに入っている物には妙に真実味を感じた。それがあるからこそ、彼女のギャンブルのことだって本気に感じたのかもしれない。
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