第6話 誓約書
ボストンテリアに向かう先を告げれば、案内されたのは、王城の中でも東に位置した場所で執務などを行う場所らしい。今までいたところは王城の中でも王族の住まいに近しい場所で西側にあると言われた。
複雑な廊下を迷いなく進むボストンテリアの大きな背中を見つめれば、彼は長い足で颯爽と廊下を突き進んでいく。
けれど、歩調はどちらかといえばゆっくりで美生に合わせてくれているのだと実感する。
優しい彼になんとなく甘えているのは分かっているけれど、やはり勝手に連れてこられたのだという意識は拭えない。別に彼が悪いわけではないけれど、どうしても被害者意識が抜けず、多少の我が儘なら叶えられて当然ではないかと思ってしまう。
もやもやしたままついていけば、彼は一つの扉の前で立ち止まった。
「宰相補佐官殿、今少しよいだろうか」
「はぁ? 来客の予定はないぞ、忙しいんだ!」
一声かけただけで、勢いよく返事が返ってきたので美生はためらいなく扉を開けた。
「な、なんだ?!」
正面には低いテーブルにちょこんと座るダックスフントがいた。
たくさんの書類の前には食べ物が並んでいて、どうやら食事をしていたようだった。
食べながら仕事をしていたのかどうかは判断がつかなかったが、美生にはどうでもいい。
「ちょっと、相談があるのよ」
「なんだ無礼な!ああ、先程の淫乱トリンじゃないか。勝手に入ってくるな。今日は余計な時間を使ったせいでなんにも仕事が進んでないんだ!貴様にはわからないだろうがワシは忙しい。とても偉いんだからな」
「あーはいはい。結構なことよ。私にとっては等しくお客様だけど。今は単なる金蔓だからね」
「はあ?!金蔓だと。おい、将軍、これは一体どういうことだ」
「将軍職は本日付けで返上することにした」
「はあ? いや、貴様の職などどうでもいい。このトリンは一体何を言いに来たんだ」
ちなみに彼はこの国の宰相補佐官であるらしく、地位はかなり高いらしい。ついでに貴族の地位にもいるので、かなりのお金持ちだとのことだった。
それは本当にいい金蔓である。クズの辺境伯へ嫁ぐように提案した小悪党であるし、お金をもらうことに美生の良心はまったく痛まない。
「ちょっと内密の話をしたいのよ」
「ワシにはない!」
「ふーん、いいわよ。そうしたら、私は王太子のところに行くけれど」
「殿下のところに?」
ダックスフントはつぶらな瞳を見開いて、そうしてあからさまに舌打ちした。
「嫌な匂いがする。殿下にいまさら会ったところで、追い返されるのがオチだ。辺境伯にも嫁ぐように誓約までかけたというのに、その自信が不気味だな。一体、何を企んでいるんだ?」
さすが匂いで感情が読めると言われるだけのことはある。
美生は、にっこりと自信たっぷりに笑って見せた。考えていることまではわからないようだが、快不快など感情程度ならわかるのだろう。
「そりゃあやることは一つだけよ。会ったら、王太子を誘惑してやるわ」
「はあ?! いや、あの頑固な殿下が辺境伯の愛人にすると言ったトリンなど相手にするはずがない。お言葉を撤回するわけがないからな」
「それはわからないわよ。なぜなら、こちらに素敵な例があるじゃない?」
美生は隣に立つボストンテリアの首に腕を回して、するりと彼の頬を撫でて見せる。
「将軍も堅物なのでしょう? けれど、こうして仕事を辞めてまで私についてきてくれるの。なにせ、私は魅力的な誰とでも番になれるトリンだから――」
「なぜ一緒にいるのかと思えば、そういうことか! 目を覚ませ、将軍!!」
はっとしたようにダックスフントが叫んだが、ボストンテリアは静かに瞬きを繰り返すだけだ。
「何を言ったところで無駄よ。魅力的な番の匂いには逆らえないのでしょう。だから、私に王太子に近づいてほしくないのなら、ちょっと取引をしない?」
「ぐぬぬ……取引だと?」
「お店を開くためのお金が必要なの。くれるなら、私は王太子には二度と近づかないし、ツガイになることもないわ」
「なんだと? ツガイなんてとんでもないぞ!しかも金?!」
「お店の開店資金をくれればいいだけなのだから、安いものでしょう」
「店だと? こんなところで何を売るつもりか知らないが、トリン風情が生意気な!」
ダックスフントはギリギリと歯軋りしながら、うなり声を上げた。
「そんなに気に入ったというのか? 本当に? いや、だが、その様子は……」
ダックスフントは唸りながらボストンテリアをチラチラと眺めている。ボストンテリアは無表情だけれど、何かしらの匂いを出しているということだろうか。医者も将軍がすっかり参っているし浮ついていると言っていたので、その状態が続いているのかもしれない。
美生にはわからないし、自分に自信があるわけでもないけれど効果があるのなら使うだけである。
「その気がないなら、王太子を誘惑するわよ。折角、お金さえ出してくれれば、黙って辺境伯のところへ行ってあげようっていってるのに、頭が堅いわね」
「確かに、あの堅物でツガイなどに興味のなかった将軍が軍を辞めるなどと……そんなに魅力的なら殿下が懐柔されてしまうかもしれん……だが、金か……」
「自分の身内が王太子のツガイになれば、儲けがかなりでるんじゃないの。どれだけケチなの?」
悩んでいる様子のダックスフントに呆れれば、ボストンテリアが首を横に振った。
「王都で店を構えるのには、それなりの資金がいる。確かにすぐに返事はできないだろう」
だがよくよく考えられて対策を立てられるのは困るのだ。勢いで押しきって、さっさと城を出ていきたいという思惑もある。
店を購入するための資金だけでなく、物を揃えたり人を雇ったりする分の金も欲しいので細かくいくらと決められるのも都合が悪い。
「店が決まればすぐに城を出ていくわよ。長居して無駄に王太子に気に入られて一緒に出ていくなんて言われても不味いでしょう?」
「確かにそうだな」
畳み掛ければ、ダックスフントは渋々頷いた。
一通りの混乱が過ぎ去ったダックスフントは脱力して椅子に深く腰掛け、短い手足を投げ出している。
「じゃあ早速お金を――」
「まずは誓約書が先だ。魔法がかかっているから、破ることはできない」
「また魔法のかかった誓約書なの?」
そんな二重三重にかけられるのはいい気がしないし、できるものなのか。
不思議になってボストンテリアを見やれば、彼は大きく頷いた。
「相手の行動を縛るうえでも交わしておく方が懸命だ。誓約があれば簡単には破ることができない」
「貴方がそういうのなら」
了承すれば、すぐにダックスフントは一枚の紙を出してきた。分厚い紙は見慣れない紋様が刻まれている。布の次は紙らしい。
「魔方陣はサラナート、二重書き込み禁止だ。文句はあるまい?」
「なにそれ?」
用紙の説明をされているようだが、何を言われているのか一つも理解できなかった。
思わず問えばダックスフントが地団駄を踏む。
「この無能めっ」
「上級の誓約書ということだ。違反すれば相応の罰がくだる。ちなみに殿下のときより一段劣る。あちらは最上級だ」
「ふーん? まぁ、こちらとしては開店資金さえせしめれば問題ないわけだから」
「ではこちらは王太子と番わぬこと、それと辺境伯に嫁ぐことだ」
ダックスフントが告げたとたんに、魔方陣がカッと光を放ったのだった。
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