第2話

 私は、美月が泣いているところを見たことがなかった。

 私が見たことがないのだから、ほかの誰も彼女が泣く姿を見たことがないのだろう。


 彼女は辛いことがあってもなにも思わずにいれるほど無感動な人間ではないし、決して辛いことがなにもないような順風満帆な人生を送ってきたわけでもない。


 例え泣きそうになったとしても、きっと彼女は無理やりにでも感情に蓋をして、決して人に涙を見せようとはしなかったのだ。


 だが、そんな彼女を懸命に支え、繋ぎ止めていたハズの感情の器はいまや酷く頼りなくボロボロで、溢れ出す涙を抑えることができなくなってしまっていて、彼女はこれまで誰にも見せたことのないような表情を私に見せてくれていた。


 私は肩代わりでもするように、すすり泣く彼女の背中をあやす様にさすりながら、時折「大丈夫」とか「ずっと離れない」だとか囁いて、あたかも悲しむ彼女を慰めるように深く抱きしめた。


 ……笑えてくる。ばかばかしい。


 彼女を傷つけたのは私だ。ならば、私のしているこれがそんな優しい抱擁であるハズがない。

 そう、これは、美月はもう私のものなのだという醜い所有権の主張だ。


 彼女を抱く腕に更にぎゅっと力を込めた。


 すると密着した腕の中からは彼女のやわらかさや甘い香りと共に、抑えきれない震えや涙がハッキリと伝わってきて、私の心は──確かな喜びに震えていた。

 彼女から感じるこの悲しみや苦しみは、彼女が私に抱いている執着心と直結するものだ。

 私は彼女を傷つけることで、それをハッキリと認識することができて……安心していた。


 美月には、私しかいない。


 私は、喜んでいる。これは間違いのないこだ。

 そしてこれは正しいことのハズで、正常な感情であって、道理が通っている。

 ずっと欲しかったものを手に入れ、ずっとしたかったことをしているのだから、当然私は喜ぶべきだ。


 だから──喜ぶのは、良い。だが、私は……同時に、否定できないくらいに深く傷ついてしまっていた。

 こんなものはおかしい。私は、ほんの少しだって傷つくべきではない。私が傷ついていいハズがない。


 私は、彼女を傷つけることもわかっていて、理解した上で、それでも卑怯な手段で私のものにしたのだ。

 そんなことをしておいて……自分のしたことで、勝手に傷つくだなんて。どうかしている。

 私には傷つく権利も、後悔する資格もないのだ。


 溢れ落ちる彼女の涙が枯れ果てるまで、無理やりに得た権利を行使するように。

 私は、私のものになった美月を強く強く抱きしめ続けた。



 美月と手を繋いで並んで歩く。

 美月が私のものになった成果にも見えるこの光景は、けれどもそれほど特別なことじゃない。


 流石に毎日というわけではなかったけど、美月は元々距離感が近い上にスキンシップも激しい方で、彼女はことあるごとに私と手を繋ぎたがった。


 だから私が彼女を拒むことさえしなければ私はいつでも彼女と手を繋ぐことができたし、実際、ときたまこうして手を繋いで歩くことがあった。


 いつもと違うのは……美月が普段の元気っぷりが嘘みたいに俯いてしまっていて、暗い表情を浮かべていることと、それでも私の手のひらに痕がついてしまいそうなくらいに強く握られていることだ。


 ぎゅうと握りしめられた手のひらから、非力な彼女のどこにこんな力があったのかと思うほどの痛みを感じる。

 この痛みもまた、美月の私へと抱く執着心を伝えてくれる類のもので、彼女から与えられる執着心は私の中の渇いた部分に浸透し、潤してくれて、どうしようもないくらいに心地良い。


 もっと、もっと強く握っていて欲しい。

 混じり合うように、決して離れないくらいに強く。ずっとずっと握っていて欲しい。


 しかし当然、私の願いとは裏腹に、いつかは必ず彼女と私を繋ぐこの手のひらが離れる時がやってくる。


 今回の場合、それは私の家の前になる。


 私と美月の家は学校からだいたい同じ方角にあり、私の家の方がより学校に近い。

 なので二人で帰り道を歩けるのは学校からさほど距離もない私の家の前までで、いつもここで私達は解散することになる。


 私は、もう少し遠くの……せめて、美月の家よりは遠くの家に住んでいなかったことに、今日も後悔させられていた。


 しかしそこで、もう一つ普段と違うことがあった。


──美月が繋いだ手を離さない。


「美月……?」


 声をかけると、美月がまるで叱られることがわかっている子供のようにぴくっと反応した。

 しかしそれでも私と美月を繋ぐ手は小さな隙間すらないくらいに強く繋がったまま離れない。

 それどころか、美月はひときわ強く私の手を握りしめた。


 いつだって、だいたい美月の感情はわかりやすい。たとえ顔を伏せて、俯き黙ってしまっていたとしてもそれが覆されることはなかった。

 今だって、繋がった手のひらからは彼女の強い感情が伝わってきていた。

 彼女は自らの感情の濁流に飲み込まれながらも、溺れることのないよう必死にもがいていた。


「京花ちゃん……いなくならないで」


 そしてついには、彼女の感情は言の葉となって吐き出されたのだった。



 

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