第23話 コーティング

「ただいま」

「お邪魔しまーす……」


 定休日だって聞いていたから前みたいに誰もいないのかと思っていたけど、今日はどうやらそうじゃないみたい。


 あ、そうか。オーブンとかコンロを使いたい時は大人にいてもらわなくちゃだめなんだった。


「いらっしゃい天美あまみさん。久しぶりだね」


 このお父さんが翔斗くんとちがうところは、わたしに対して礼儀正しくて紳士的なところかもな、と思いながらぺこりとお辞儀を返した。


「ケーキ作りたいから厨房借りていい?」


 わわ、あまりにいきなり言うからわたしのほうがドキドキした。お父さんは一瞬「は?」という怖い顔をしたけど、ちらとわたしの方を見て「2時間以内ね」と言ってくれた。ふう。


「なに作んの」


 お父さんから見て手前にいる翔斗くんではなく、遠い方のわたしに訊ねた。ドッキン、と心臓が跳ねる。


「えと……ザッハトルテを」


 すると一瞬その目を見開いてからすぐに呆れた顔になって手前の息子くんを見下ろした。


「は。懲りないね、おまえ」

「うっさいな」


 お父さんはその後「ご自由にどうぞ。なんかあったら言ってね」とわたしにだけ微笑んで自分の仕事に戻っていった。


 ちらとその作業台を見ると、たまご色の生地を4センチくらいのドーム型にどんどん絞り出しているところだった。わからないけど、シュー生地、かな? すごい早わざなのに、どれも同じ大きさに美しく揃っている。プロの仕事だ……って思わず見とれてしまった。


 それにしてもお父さんの言葉が妙に引っかかる。


「懲りない……って?」


 訊ねたけど翔斗くんは「さっさとやろーぜ」と材料を並べて手を洗い始めた。むう。やっぱり今日もどこかピリピリした雰囲気なんだよね、この親子は。


 これぞ『一触即発』というような空気に少しビクビクしながらとにかくわたしも手を洗うことにした。



 さて。ザッハトルテのチョコレート生地の材料は。


 チョコレート

 バター

 グラニュー糖

 卵黄

 そしてメレンゲ。


 メレンゲは卵白をお砂糖と一緒に真っ白に泡立てて作る。マカロンにも使った材料だよね。


 前にここでフィナンシェ作りをした時は、勝手にオーブンを使って翔斗くんのお父さんにすんごく叱られたんだった。


 ちょっぴり苦い思い出だけど、あの日からすっかり本格的なお菓子作りに魅せられたわたしは家でもいろいろなお菓子を作ってみるようになった。クッキー、スポンジケーキ、ロールケーキ。専用の型を買ってもらってシフォンケーキにも挑戦したんだよ。あれは……ちょっと失敗だったけど。でもいいの。また挑戦するし、失敗も勉強だもん。


 だから今日も作ったことのないケーキだけど、不安よりもわくわくの方が大きかった。


「……よし」


 チョコレートの生地を丸い型に流し入れて、翔斗くんと頷き合った。あとは焼けるのを待つだけ。


 オーブンに入れるのは約束通りお父さんにお願いして、わたしたちは使った器具の片付け、そしてジャムとコーティングチョコの準備にかかることにした。……んだけど。


「ん。翔斗くん、どうかした?」


 訊ねるけど、答えはない。見ると今日学校で印刷してきたレシピと自分のものらしいレシピ帳を照らし合わせて難しい顔をしていた。


 そっと覗いてみる。熱心に指で辿っていたのは、コーティングの材料のところ。分量は微妙に差があるものの、どちらのレシピも書かれている材料は同じだった。


 チョコレート。そして生クリーム。


 その時、ふ、とわたしの頭の中をなにかがかすめたような気がした。


 あれ、なんだろう。うん?


 なんとか『かすめたもの』を取り戻そうとしているわたしの横で、翔斗くんがやっと声を出した。「こっからなんだよ」


「……へ」


 言うとふたつのレシピを掲げるように持ち上げてまた難しい顔をする。


「やっぱジャム……なのかな」


「ジャム?」


 翔斗くんは掲げていたレシピを降ろしてこちらを向き、「そう」と頷く。


「理想形があってさ」


「え……」


「ならないんだ。どうしても」


 キョトン、と相手を見ながら、ふとお父さんの言葉を思い出す。──懲りないね。


「もしかして翔斗くん、ザッハトルテもう何度も作ってるの?」


 すると翔斗くんは少しだけバツが悪そうに目を逸らして白状した。「まあ……3回目」


「おまえとなら、なんかわかるかもって」


 翔斗くんの好物のケーキ、ザッハトルテ。それはある日ケーキ屋さんで偶然出会ったものだそう。その美味しさに感動して、このケーキを自分でも作れるようになりたい、と思ったんだって。だけどレシピ通りに作ってみても、ちがう。何度やってみても同じようにできなかったそうで。


「生地はいいんだよ。問題はコーティング。これがちがうんだ。だから今日はレシピも変えてみたんだけど……材料はやっぱ同じみたいで。だからジャムのちがいなのかなって」


「最初から言ってくれればよかったのに」

「やだよ。カッコわるいじゃん」


 むう。どうせバレるのに。カッコつけだなあ。


「おまえ図書館でいろいろ調べたって言ったよな。なんか書いてなかった?」


 なんか……と言われましても。


 ザッハトルテ。

 ザッハは考案した人の名前。トルテはドイツ語でケーキの意味。だけど発祥はドイツじゃなくってオーストリア。


 とかそんな感じだったよね。チョコレートの生地でアプリコットジャムをサンド、あとコーティングは……。


 ──フォンダン


 そうだ、さっきかすめたのはそれだ!

『フォンダン』。結局それがなんなのかわからないままだったんだ。


 レシピにある〈コーティング〉の材料はチョコレートと生クリーム……?


「……ねえ、チョコレートと生クリームを合わせたものって『フォンダン』っていうの?」


「え」


 翔斗くんがキョトンとした顔をこちらに向けた。


「それはガナ……「それはガナッシュ。フォンダンは高濃度のシロップを微細結晶化した白いペースト状のもんだよ」


「な……父さんっ」


 ふおおおっ! 一触即発っ!


「勝手に話に入ってくんなよ「大正解だよ、天美さん。ザッハトルテのコーティングはチョコレート入りのフォンダン『ザッハグラズール』が本場の味」


 目を丸くして固まったのはわたしよりも翔斗くんの方だった。






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