第19話 新たな世界

 ──なんで調べようと思わなかった?


 言葉が刺さって、抜けなくて、朝一番から気持ちはどん底だった。


 翔斗くんの言い分は一見理不尽だけど、わたしにとったらそれは逃れようのない正論だった。


 だってわたしは──


 ──パティシエになりたい。


 彼に、そう宣言してるんだから。


 なのにどうして、知りたいとすら思わなかったんだろう。勝手に自分にはむりなことって決めつけて、翔斗くんとの間に見えない線を引いていた。翔斗くんは特別だからって。わたしは一般庶民だもんって。


 でも実際は、そんなことない。家がケーキ屋さんじゃなきゃ挑戦できない、なんてことはない。少なくとも『調べる』だけなら小5だったら誰にでもできる。


 でもしなかった。


 『わたしだって』


 その気持ちがひとつもなかった。


 だから翔斗くんは怒ったんだ。失望したんだ。買い被りなんかじゃない。わたしのお菓子への気持ちが足りなかったんだ。


 考えるほど、じんわり涙が湧いた。それは下まぶたでなんとか支えられていたけど、瞬きをしたらボロボロと頬を流れ落ちて服に滲んだ。一度流れて道ができたら、もう止まらなくなって。どんどん、どんどん、続いて流れた。


 気づかないうちに、声を上げてわんわん泣いていた。


 翔斗くんをがっかりさせた。

 今日、どんな気持ちでマカロンを持ってきたんだろう。どんな気持ちでフタを開けたんだろう。きっと褒められたかったんじゃない。だけど今朝のわたしには、「すごい」って褒める言葉しか浮かばなかった。知らなかったから。勉強していなかったから。


 ──もういいわ。おれがバカだった。


 せっかくできた友達に、あんな言葉を言わせてしまった。


 泣いて、泣いて、ゴミ箱をティッシュで白く埋めて、やっと涙が止まるとわたしはそろりと立ち上がって部屋の本棚から1冊のレシピ本を抜き取った。


 それはいつかの、ホットケーキミックスで作る簡単スイーツの本。これを知ったらさらに怒らせてしまうだろうけど、今わたしが持っている『お菓子の本』はこれひとつだけ。


 もくじを開いて端から調べる。けど〈マカロン〉の文字はそこにはなかった。



 顔を洗うついでにシャワーも浴びて着替えて全身スッキリしたら、気持ちもすっかり切り替わっていた。


 まだ間に合う。自転車だってそうだもん。マカロンだって。


 支度を済ませて玄関を出ると、真夏の炎天下、麦わら帽子の水色リボンを揺らしながら図書館まで走った。


 顔、体、全身がドクンドクンと脈を打つような感覚。暑い。暑くて苦しくて、もうだめだー、って思う頃に、そこに到着した。


 入口をくぐると、途端に冷房の効いた静かな空気に包まれた。本がたくさんある場所特有の、懐かしいような、落ち着く匂い。静かだけど無音ではない、独特の心地良さがそこにはある。


 いつも翔斗くんと一緒に来る『調理・製菓』の本棚の前。今日はひとりきりで立った。いくつか選んで取り出して、持って席につく。


 意を決してページを開くと、わたしの前に、新たな世界が広がった。



 翌朝、いつもの時間になっても翔斗くんは迎えに来なかった。だけどショックじゃない。こうなることは予想してたから。「そうだよね」とつぶやいて、わたしはひとりで自転車を押しながら公園を目指す。


 朝早くの公園は、穏やか。空気も、光も、そよ風も、虫の声も。まだ夜のツユの中にあるみたいに、みずみずしくて、美しい。


 『コツ』なんて、結局よくわかんない。だけど、ペダルに片足を乗せて、思い出す。


 ──漕ぐ! 漕ぐ! もっと漕ぐ!


 ぐっ、と前へ。踏み出す。


 マカロンはフランスのお菓子。名前の由来はイタリア語。ツヤのある表面、『ピエ』と呼ばれるふちが出るのが特徴で、混ぜ具合、焼き加減、水分量などの微妙なちがいによって出来が変わる。


 ──ガシャアーン!

「ったたた……」


 失敗例は、表面がひび割れたり、でこぼこしたり、ざらついたり。高さやピエがうまく出ないことも。主な材料は、アーモンドパウダーと砂糖と卵白。小麦粉は使わない。だからホットケーキミックスのレシピ本に載ってるはずなかったんだ。


「もう1回っ」


 再びペダルに片足を乗せて、ぐっ、と前へ踏み出す。進み始めたら、あとは勢いに身を乗せてどんどん漕ぐ。ふらついても、慌てず、踏んで、踏んで、漕いで、漕いで。漕いで。


「あ……わ……っ!」


 の、乗れた? 乗れてる? わたし、乗れてる!?


 ──キキッ


「ひゃ……わあ……」

 はじめてコケずに止まれた。


 乗れた。


 乗れた。乗れた。乗れた。


 乗れた!?


 信じられなくて、少しの間自転車にまたがって立ったまま呆然とした。


 一度乗れたら、もうわかる。一度知ったらもう忘れないのと同じように。何度もやるうちに、それはすっかり身についてゆく。


 乗れる。わたし。もう乗れる。


 嬉しくて、楽しくて、暑さも忘れてずっと漕いでいた。すごい。乗れる。すごい。もっと乗りたい。もっと遠くに。


 そういえはマカロンを調べていたら、印象的な記事があった。それは、マカロンを贈る意味についてのことで────


 ぐら、と視界が揺れて慌てて地面に足を着いた。


 え、なに? と思う間もなく、強い吐き気に襲われる。きもちわるい……。は、吐きそうかも!?


「日陰! 早く! ほら、こっち!」


 え、なんで!?

 翔斗くんが、わたしの手を引いていた。



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