アイス売りのおじさん

月浦影ノ介

アイス売りのおじさん




 都内在住の片山さんという、三十代後半の男性から伺った話である。


 


 ───これは僕が小学六年生のときの出来事で、もう二十年以上も前の話になります。あまりに奇妙な話なので、信じて貰えるかどうか分かりませんが・・・・・。


 アイス売りのおじさんってご存知ですか?

 ええ、自転車の荷台に専用のクーラーボックスを積んで、棒状のアイスキャンデーを売って歩く・・・・・そうそう、昭和の三十年代ぐらいまでいたそうですよね。


 そのおじさんが僕の住む町にやって来たのは、僕が小学六年生のときで、確か夏休みが始まる少し前だったと思います。

 当時、僕は家族と一緒に小さな二階建てのアパートに住んでいました。そのアパート前が、狭い県道を一本挟んで空き地になっていましてね。

 ある暑い日曜の夕暮れ時でした。チリンチリンと高く鈴を鳴らす音がして、何だろうと思って窓から外を覗いてみると、アパート前の空き地に見たことのないおじさんが立っていたんです。


 白い開襟シャツを着て、頭には麦わら帽子を被り、その横にはスタンドを立てた古ぼけた自転車が置いてある。荷台に大きめの黄色い箱を載せて、同じく黄色の昇り旗を立てて、そこには赤く染め抜いた文字でアイスキャンデーと書かれてありました。

 そして片手に銀色のハンドベルを持って、それを盛んに振っている。さっき聞こえた涼しげな音色は、そのハンドベルによるものだったんです。

 

 僕はアイス売りのおじさんなんて見たのは、それが初めてでした。

 今から二十数年前の平成の時代ですから、アイス売りのおじさんなんて皆とっくに廃業しています。僕もテレビとか雑誌ぐらいでしか見たことがない。

 なんだか昭和の時代から突然タイムスリップして来たみたいなおじさんに、物珍しさもあって近所の子供たちがわらわらと集まって来ました。

 僕には二歳下の弟がいるんですが、その弟がそれを見てアイスキャンデーが欲しいと言い出しまして、母親から貰った小遣いを握り締め、二人でおじさんの所までアイスキャンデーを買いに行ったんです。


 おじさんの周りには、すでに近所の子供たちが輪を作って取り巻いている。その一人一人に、おじさんは自転車の荷台に積んだ黄色い箱からアイスキャンデーを取り出して、お小遣いと引き換えに手渡していました。

 その様子を見ながら近付いた僕は、思わずギョッとして足を止めました。


 何故ならそのアイス売りのおじさんは、「ひょっとこ」のお面を被っていたからなんです。

 ええ、あの「ひょっとこ」のお面ですよ。よくお祭りの露天で売ってるような、頭に鉢巻きをして、尖らせた口が妙な方向に捻じ曲がっているあの「ひょっとこ」。


 近くに行くまで気付きませんでした。なんでこのおじさんは、ひょっとこのお面なんか被ってるんだ?と疑問に思いましたが、たぶん子供たちの興味を引くためだろうと勝手に解釈して、それからアイスキャンデーを弟の分と二本頼んだんです。

 値段は確か五十円ぐらいだったと思います。ええ、当時としてもかなり安いですよね。こんな値段で商売になるのかなぁ?と、子供ながらに首を捻ったのを憶えています。


 弟や近所の子供たちは、ひょっとこのお面を被った奇妙なアイス売りのおじさんにあれやこれやと話し掛け、おじさんもそれに愛想良く応えていました。

 そのときふと僕は、アパートの門のところに誰かが立っているのに気付きました。

 

 それは翔一くんといって、僕と同じアパートに住む男の子でした。歳はその当時十歳で、弟と同級生です。

 その子がアパートの門の陰に隠れるようにして、羨ましそうな目でこっちをじっと見ている。


 翔一くんは可哀想な子でした。同年代の子供たちと比べても身体が小さく、痩せっぽっちで、いつも同じ服を着ている。それが少し薄汚れていて、しかも臭うんです。

 そのせいで周囲の子供たちからは、いつも仲間外れにされていました。


 翔一くんは母子家庭でした。母親は三十代ぐらいの水商売風の派手な人で、ヤクザの愛人だという噂があり、ときどき部屋に風体の良くない男が出入りしていました。その男が翔一くんの父親かどうかは分かりません。

 翔一くんはよく顔に青痣を作っていました。たぶん母親か男に殴られたのだと思います。虐待の噂は以前からありました。翔一くんの身体が同学年の子たちと比べて小さく痩せているのも、食事をろくに与えて貰っていないせいだろうと言われていました。

 気の毒ですが、関わり合いになればどんな面倒事に巻き込まれるか分かりません。だから僕たちは皆、翔一くんを可哀想に思いながらも、遠巻きにして目を逸らし、見ない振りをしていたのです。


 アイス売りのおじさんに群がっていた子供たちも、やがて一人二人と帰って行きました。僕も弟を連れてアパートへ戻ります。翔一くんの傍らを、彼をまるでそこにいないかのように無視して通り過ぎ、階段に差し掛かったときです。

 ふと振り返ると、アイス売りのおじさんが腰をかがめ、翔一くんに向かって手招きしていました。

 翔一くんはおずおずと躊躇っているようでしたが、おじさんが繰り返し手招きするのに引き寄せられるように、やがてふらふらとおじさんに近付いて行きました。

 そして二言三言、何か会話をしたかと思うと、おじさんは黄色い箱からアイスキャンデーを一本取り出し、翔一くんに差し出したのです。お金を受け取った様子はないから、おじさんがきっとタダであげたのでしょう。

 翔一くんのみすぼらしい様子を見て、何となく境遇を察したのかも知れません。優しいおじさんだな、子供好きなのかな? 

 そのときはただ、そんな風に思っただけでした。



 アイス売りのおじさんは、それから毎週日曜の夕暮れ時になると、アパート前の空き地に現れるようになりました。

 相変わらずひょっとこのお面を被って、群がる子供たちにアイスキャンデーを売り、彼らが帰ったあと、アパートの門の陰に隠れるように立っている翔一くんを手招きして、アイスキャンデーをそっと一本、タダで渡してあげるのです。

 翔一くんはおじさんに懐いているようでした。黄昏が迫る誰もいない空き地で、ひょっとこのお面を被り、まるで影法師のように佇むおじさんを見上げながら、翔一くんはいつも何事かを話続けていました。

 

 アパートの階段からその姿を見かけるたび、僕は何故か不穏な気持ちが胸に押し寄せるのを感じていたのです。



 それは夏休みももうすぐ終わろうという、八月最後の日曜日のことでした。

 夕暮れが近付いて、いつものようにチリンチリンとハンドベルを鳴らす音がする。毎週、日曜になると現れる、あのアイス売りのおじさんです。

 僕と弟は母から貰った五十円玉を握り締め、アパートの階段を降りて行きます。おじさんの周りには、もう近所の子供たちが群がっていました。

 僕と弟はおじさんに五十円玉を渡し、アイスキャンデーを受け取ります。弟は他の子供たちと同じように、おじさんに話し掛けました。それに対しておじさんは愛想良く、何事か応えています。

 ひょっとこのお面を被っているので、素顔はまったく分かりません。

 それでもおじさんには、子供の警戒心を解くような妙な親しみやすさがありました。

 僕はおじさんと会話をした記憶はあまりないのですが、それでもおじさんに対して妙な信頼を抱いていました。それは一つには、翔一くんに対するおじさんの親切を見ていたためかも知れません。


 やがて子供たちは散り散りに帰って行き、僕と弟もアパートへ向かいました。

 その途中、アパートの門のところに隠れるようにして、翔一くんが立っているのに気付きました。

 翔一くんのほっぺには、殴られたような青痣がありました。僕は慌てて目を逸らしました。

 その前日の夜、女の人がヒステリックに怒鳴る声と、何かを叩くような物音、そして子供の泣き声が、僕の住む部屋にも聞こえていたからです。

 それは一階に住む、翔一くんの部屋から聞こえているようでした。

 僕はそっと両親を伺いましたが、母は台所で夕飯の後片付けに忙しく、父は新聞を片手にテレビの音量を上げ、どちらも知らんぷりをしているのが分かりました。関わり合いになるのを避けていたのです。

 弟が不安そうな顔で僕を見ましたが、僕もまた宿題に集中する振りをして無視を決め込みました。

 そのことをまざまざと思い出し、その罪悪感から翔一くんの顔をまともに見られなかったのです。


 僕たちの傍らを通り過ぎ、翔一くんはアイス売りのおじさんのところへ駆けて行きました。そっと背後を窺うと、夕暮れの迫る空き地で、二つの影法師がひっそりと寄り添うようでした。

 前を向き直り、アパートの階段に足を掛けようとしたとき、ふいに「おじさんと一緒に来るかい?」という低い声が聞こえました。

 僕は「え?」と思わず振り返りました。空き地には相変わらず、おじさんと翔一くんの姿がありましたが、距離があるのでその声がここまで届くはずがありません。

 空耳だろうか? 怪訝に思いながらも僕はアパートの階段を上り、自分の部屋に向かいました。

 ドアを開け、ふと振り返った空き地に佇む二つの影法師。それが翔一くんを見た最後の姿でした。

 

 

 その日、翔一くんがいなくなりました。

 夜になっても息子が帰って来ないということで、翔一くんの母親がアパートの全室を訪ねて歩いていました。その後、警察が呼ばれましたが、翔一くんの行方は分かりません。

 翔一くんの母親は、すっかり憔悴しているようでした。そんなに翔一くんが大切なら、なぜ普段からもっと優しくしなかったのだろう。まだ子供だった僕はそう不思議に思いましたが、人の親になった今なら少し分かる気がします。

 きっと彼女は我が子を虐待するほど疎ましく思いながら、しかしその一方で依存していたのでしょう・・・・・。


 それから一週間ほど経って、翔一くんの母親が亡くなりました。

 アパートの階段で足を滑らせて転げ落ち、首の骨を折ったのです。前日の夜、勤め先のスナックでずいぶんお酒を飲んだようで、朝になって発見されたときにはもう手遅れでした。


 翔一くんの行方はそれっきりになりました。

 あのアイス売りのおじさんの姿も、翔一くんの行方不明と機を同じくして見かけなくなりました。

 普通に考えれば、あのおじさんが翔一くんを連れ去ったのだと思われるでしょう。

 翔一くんも実の親に虐待され続けるより、優しそうなおじさんに付いて行くことを選んだのかも知れません。

 いずれにせよ、翔一くんとアイス売りのおじさんは、二度と僕たちの前に姿を現すことはなかったのです。

 


 ・・・・・これだけでも奇妙な話だと思うでしょう?

 でも、本当に奇妙なのはここからなんです。


 つい先日のことです。僕は久しぶりに弟に会いに行きました。結婚してこの近くのマンションに住んでいるのですが、二人目の子供が小学校に入学したお祝いに家を訪ねたんです。


 リビングで話をしていると、付けっぱなしにしていたテレビに古い映像が映りました。

 昭和の初め頃の街の風景を撮影したものらしく、雑然とした街角の様子や行き交う人々の姿がモノクロ画面に映し出されています。

 そのなかに自転車を押して歩くアイス売りの男性の姿がありました。

 そのときふと、僕はあの子供のときに見たアイス売りのおじさんを思い出したんです。


 それで弟にその話をしたんですが、弟はキョトンとしていました。どうやらアイス売りのおじさんのことを忘れているようでした。

 ひょっとこのお面を被った奇妙なおじさんなので印象に残っているはずなんですが、もう二十数年前の事なら憶えていなくても仕方ない。

 それで僕は翔一くんのことも話ました。おそらくはアイス売りのおじさんに連れ去られたであろう翔一くんは、僕にとって忘れがたい子供時代の思い出なのです。

 しかし弟から返って来た答えは、意外なものでした。


 「・・・・・翔一くんって、誰だ?」


 弟は当時十歳だったとはいえ、同じアパートに住んでいた同級生を忘れるものでしょうか? しかもあんなに気の毒な身の上だった翔一くんをです。

 僕は繰り返しその当時のことを話しましたが、しかし弟はまったく思い出せない様子でした。


 翌日、僕は母に電話を掛けました。父はすでに亡くなっていて、母は市営のアパートで一人暮らしをしているのですが、記憶力はたいそう良い方なのできっと憶えているはずだと思ったのです。


 しかしその母も弟と同じでした。アイス売りのおじさんはおろか、あの翔一くんのことをまるで憶えていないのです。

 僕はその後、地元の友達にも数人連絡を取って、当時のことを尋ねてみましたが、答えはどれも同じで、アイス売りのおじさんのことも翔一くんのことも、何も憶えていないという返事でした。

 

 まるでアイス売りのおじさんも翔一くんも、最初から存在していなかったかのように・・・・・。



 ・・・・・これはひょっとしたら、すべて僕の妄想なのでしょうか?

 しかし、そんなはずはありません。僕は確かにあった事実として、当時のことをよく憶えている。

 しかしそれなら何故、自分だけがそれを憶えていて、周囲の皆が忘れてしまっているのか、その理由が皆目見当も付かないのです。


 ・・・・・あのアイス売りのおじさんは一体、何者だったのでしょう?


 果たして本当に人間だったのだろうか?とさえ思ってしまいます。


 ときどき、ふと思い出します。

 

 こんなことを言うと、頭がおかしくなったのかと思われるかも知れませんが、まぁ聞いてください。

 

 ───翔一くんは今でも、当時の十歳の姿のまま、あのアイス売りのおじさんと一緒に、どこかの街角を歩いているのではないか。


 むろんそんなはずはありません。でもあの夕暮れの空き地に佇む、翔一くんとアイス売りのおじさんの影法師のような姿を思い出すたび、僕にはどうしてもそう思えてならないのです。




               (了)



 


 



 


 

 


 

 


 

 


 

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