終章「暁鴉は宵に帰らず」

第三十話「妖刀使いと異端の魔女」

                 ◇ 


 日の光も届かない深い森。

 その一本道に、足を引きずりながら進む姿がある。

 黒衣に身を包んだ、赤毛の魔女だった。

 過酷な道を進んできたのだろう。その手足は血と泥に穢れ、黒々と染まっている。擦り切れた衣服にしても同じ事だった。破れた箇所からは生々しい傷跡が覗き、背中には矢が二本も突き立っている。

 もはや瀕死といってもいい、重傷だった。


「……次死んだら、今度こそ終わりか」


 漫然と呟きながら、リーゼロッテは胸元に視線を落とす。心臓を貫く石の杭、鼓動に合わせて微弱な緑光を放つそれは、トロアンで相対したあの魔神が胸に突き刺していた《生命の楔》そのものである。しかしこの楔がもたらす不死性にも、限界があるらしい。生き返るにつれ、明らかに治癒の速度が遅くなってきている。手持ちの黒魂晶はすでに空、傷を癒す為の魔力も、もはや彼女には残されていない。言った通り、次に死ぬ時が彼女の最期となるだろう。


 彼女が楔を胸に打ち込んだ日から、五年。

 世間はすっかり様変わりしていた。


 妖刀使いと異端の魔女の暗躍によって主要人物を失った《魔女宗》は大きく弱体化、只人と混血の魔術師達による《改革派》の台頭によってロイエス教会は勢力を二分にした。やがて改革派の指導者の手よって《魔女》の実在が知れ渡ると、民衆の主導による《魔女狩り》が激化、同時に圧政を敷く権力への不満が爆発し、その標的は高位聖職者や貴族達へと向けられた。

 激しい革命の炎が、大州全土の国々を覆った。

 善人も悪人も、魔女も只人も、分け隔てなく、大勢の人々が死んだ。

 たった五年の間に、シャルマーニュの人口の四分の一が失われたという。

 三百年前に、黒死病が蔓延して以来の大惨事だった。


(……あれが、あたしの望んだモノか)


 何度も繰り返した自問をまた繰り返す。正しい世界。差別のない社会。善人が善行に報われ、悪人は悪行の報いを受ける――そんなものは所詮、馬鹿な餓鬼の幻想に過ぎなかったと嗤う。《魔女》が滅びた後でさえ、彼らは《魔女》を探すだろう。もしかすれば《魔女宗》が支配する世界の方が平和だったのかもしれない。ならば結局自分のした事は、世界に混乱をもたらしただけではないか。かつて彼が嘆いていたように――より多くの人を、殺しただけではないか。


「――ふ、ふふ」


 だけど、もう。あの頃みたいに胸は痛くならなかった。

 そもそもこれが、あたしの本性だから。善人ぶった悪人。善人に憧れた悪人。――本音を言えば、今の世の中がおかしくてたまらない。魔女は嫌いだけど、あいつらに踊らされる奴らも嫌いだったから。馬鹿な連中。自分でモノを考えられるきっかけが出来ただけ、マシと思え。


「はは、ははは」


 ああ。やっぱりあたしは魔女だ。

 身も心も、本当に。ただの魔女になってしまった。

 狂ったように笑いながら、やがてリーゼロッテは足を止めた。歩き疲れた迷子のように、地べたに蹲る。呼吸が荒く、視界が暗く霞んでくる。死の足音が、刻一刻と近づいてくるのがわかった。


「アイラ。……ねえ、どこ? どこに居るの」


 ずっと連れ添ってきた、白猫の姿を探す。いつも自分の傍に居て、居なくなったかと思えば、ふっと現れて。泣きじゃくる少女を慰めてくれた彼女のことを。


「出てきてよ。……あたしを独りに、しないでよ」


 現れるはずもなかった。

 だって彼女は、もう。自分を庇って死んでしまったから。

 本当は《魔女宗》の一員で。《支配の魔眼》を持つあたしを監視して、いつか利用するつもりだったとか。気づけば情が湧いて、裏切る気も失せてしまったとか――、そんなの全部、全部、どうだっていい。あいつが居ない現実に耐えられない。あいつみたいな奴に、あたしは幸せになってほしかったのに。


『リズ。……私の事を許してくれる?』


 最後の会話が、走馬灯のように彼女の脳裏をよぎる。


『……そう。なら私も、私の事を許すわ。だからあなたも、自分の事を許してあげて。あなたは、幸せになっていいの。そんな風に、自分を責めないでいいの』


 細く白い手が、そっと少女の頬に触れた。


『いきなさい。私の可愛い子。――ほら。もういい大人でしょう。そんなふうに泣いちゃだめ。あなた眼つきは悪いけど、――笑えばとっても、可愛いんだから』


 それが、アイラの最期の言葉だった。


「……馬鹿。あんたが居なきゃ、笑えないのに」


 幸せになんか、なれないのに。

 リーゼロッテが呟いたその時、地面を揺るがす振動と共に、バキバキと木が倒れる音が響く。そして、目の前の一本道に、角の生えた巨人が現れた。


「……え?」


 びっしりと体毛を生やした肉体は単眼巨人サイクロプスのものではない。人食い鬼オーガ。それはその名の通り人間の肉、特に柔らかい女の肉を好む習性を持つ怪物だ。


「……はは」


 居るんだ。本当に、こういうのって。彼女は呑気に、そんな事を思う。考えてみれば、この森はヴァン・ディ・エール領に近い場所だ。人外のものが住み着く魔境の地。迷宮から這い出てきた古代の怪物が潜んでいても何も、不思議ではない。


「……? ■■■■!! ■■■■!」


 人食い鬼は道の真ん中で蹲る魔女の存在に気づくと、興奮していきり立ち、低い吠え声をあげながら両腕で胸を叩いた。そして涎を垂らしながら、魔女の元へとのそりのそりと近づいてくる。


 リーゼロッテはもう、一歩も動けなかった。

 醜い怪物に犯されて、生きながらに肉を喰われる。

 そんな現実を、ただ受け入れる気でいた。

 だってそれは、魔女の自分に相応しい末路だから。

 ゆっくりと眼を閉じる。意識は遠く、記憶の向こうへ。

 

 最初に死んだ、あの日の事を思い出す。

 死にゆく自分を抱きながら、涙を流す彼の表情。

 あれはじつに、傑作だった。

 あの時に死んでおけば、本当に幸福な生涯だっただろうと思う。


(……カグラギ)


 もう会えない人の事を想う。結局あの日から、リーゼロッテは彼に一度も会う事はなかった。会ってはいけないと心に決め、姿を隠して逃げ続けた。だけれど、一度は会っておくべきだったと後悔する。

 彼もまた、アイラと同じように。遠くへ行ってしまったから。

 首都パルティアで、《妖刀使い》の公開処刑が行われたのはもう一年前のことだ。公開処刑の布告を見た時にはもう遅く、リーゼロッテが街に辿り着いた頃には、広場に見せしめにされた黒焦げの死体だけがあった。別人である可能性を疑ったが、それから《妖刀使い》の噂はきっかり途絶え、何処を探しても異装の男を見かけたという噂は見つからない。一年という時間は、彼女から希望を奪い去るに十分だった。彼がした事と、今の世の中の惨状見れば、彼が一体どんな思いを抱いていたのかなど容易に想像ができる。――耐えきれるわけがない。ちょうど今の自分のように、自死を選ぶのも自然の事と受け入れられた。


 ならば自分も、せめて彼のように。相応しい最期を受け入れよう。

 そして、リーゼロッテは堅く閉じていた眼を開けた。


「――、」


 幻覚が見えた。もしくは、死後の夢でも見ているのだろうと思った。

 誰が居るはずもない、深い森の一本道。真っ二つに崩れ落ちる怪物の向こう。


 そこに――異装の男が立っている。


「……ずいぶん探したぞ、異端の魔女」


 懐かしい声に、涙が出そうになる。

 必死で顔を背けながら、リーゼロッテは答えた。


「……この詐欺師。何で、生きてんのよ」

「……それはこっちの台詞だな」


 折れたカタナの血を払いながら、カグラギは平然と答える。 


「それで? 今更なんの用。それともあたしの事、殺しにきてくれたわけ?」

「さあな。……もし仮に、そうだとして」


 折れたカタナを突き付けながら、カグラギは言う。


「何か、言い残す事はあるか」

「……言い残すこと? は。そんなの。腐るほどあるわよ」


 顔をあげながら、リーゼロッテは口元を歪ませる。


「……何で、あんなことしたの。あの時、あれだけ言ったじゃない。向き合うなって、逃げろって。あたしは、アンタに、もう苦しんでほしくなかったのに。だからずっと、頑張ってたのに。それなのにアンタは、人の気も、知らないでっ……」


 頭を垂れ、泣き崩れるリーゼロッテの前に跪きながら、カグラギは穏やかに言う。


「知ってたさ。だからこうして、会いに来た」

「……何それ。全然、意味わかんない」


 カグラギは苦笑する。


「……お前、自分で言った事も忘れてしまったのか?」

「……え?」

「……幸せになれって、言っただろ。あの時」


 言葉の意味が分からない。しかし、彼女はすぐに思い出せた。

 あの時、あの広場で死ぬ直前に。確かに彼女は、そんな台詞を彼に囁いた。 


「……お前が生きていると知った時。俺は、あれから自分の幸せが何なのか考えた。まず一番に思ったのは、お前に会いたいということだった。それから会うためには、どうすればいいのか。ずっと、その方法を考えていた」


 呆然と、リーゼロッテは彼の顔を見上げた。


「お前は、二度と俺に会わないつもりだったんだろう。そしてお前は、俺が魔女狩りに関わらないようにする為に、独りで《魔女宗》と戦い続ける。――だから俺も戦うしかなかった。魔女狩りを終わらせるまで、お前と離れて、戦い続けるしか」


 しばしリーゼロッテは沈黙して、言葉の意味を理解すると、

 顔を真っ赤に染め上げた。 


「ちょ、っと。待ってよ。じゃ、じゃあ、アンタは、……あたしに会うために。ずっと、戦い続けてたってこと?」

「……そういうことだ」


 彼がそう答えると、リーゼロッテはまた顔を赤くして、慌てて平静を取り戻す。


「……それなら、尚更なにしてんのよ。あたしの事なんか、別にどうだってよかったでしょ。その為に何百人も殺すとか正気の沙汰じゃない。……それに、大体、」


 躊躇いながらも、リーゼロッテは恐る恐る口にする。


「アガタって女はどうしたのよ。アンタは、そいつをずっと探してたんでしょ」

「アガタなら大丈夫だ。この間二人目の子供を産んで、夫と元気に暮らしてる」

「そう。こ、子供……ん? 夫? ちょ、っと待って?」

「なんだ」

「アガタって、……アンタの、何?」

「従姉だ。俺に残った、唯一の肉親だ」


 リーゼロッテは真顔になる。やがてすると、ぼそりと呟いた。


「……言え」


 よく聞き取れなかった。カグラギが顔を近づけると、


「なら最初にそう言えぇええええええええ!」


 物凄い勢いで頬に張り手が飛んできた。よろめいて尻もちをつくと、続けざまに、リーゼロッテは勢いのない拳と罵詈雑言を振りかけてくる。


「馬鹿! 最低! このアホ! 根暗! 言葉っ足らずのクソ野郎! ふぇっ……!?」


 振り下ろす拳を制すると、カグラギはリーゼロッテを無理やり抱きしめた。


「ちょっ……いきなり何すんのよバカ! 変態! 放して!」

 

 振りほどこうとするが、離れない。物凄い力で、締め付けられる。


「……本当に、探したんだからな」


 ふと、彼の姿を見ると。彼もまた彼女と同じように、血と泥に汚れて、今にも死んでしまいそうなくらい、ボロボロだった。

 それで彼女は、何も言えなくなってしまう。


「リーゼロッテ」

「……な、何よ」

「俺はお前を幸せにしたい。どうすればいい」

「ひゅっ……!?」


 飛んできた台詞に、リーゼロッテは口をぱくぱく開ける。


「ど、ど、どうって。そんなの、わかんないわよ」

「俺の幸せにはお前が必要だ」

「っ、……だ、だからなんなの!」


 カグラギは立ち上がると、そっと彼女に手を差し伸べる。 


「俺と逃げよう。リーゼロッテ。その為に、俺はここに来た」


 茫然と、魔女は涙を流した。


「……逃げる? はは。世の中をあんなに無茶苦茶にしておきながら、……何の責任も取らないで、逃げようっての? 自分だけ、幸せになろうっての」


 そうだ、と。カグラギは朗らかに笑う。


「俺も、お前も。自分の欲望のままに生きてきた悪人だろう。なのに何で、今更善人ぶる必要がある? 悪人は悪人らしく、罪など背負わず、逃げてしまえばいい」


 酷い台詞だった。本当に、酷い。これが、自分の罪について悩み、ああまで塞ぎこんでいた青年の末路なのか。酷すぎて、彼女の口に笑いが込み上げてくる。


「は、はは――」


 だけれど先に、涙が零れた。

 だってそれは、彼女が彼に望んでいた事だったから。

 彼はついに、重荷を捨てたのだ。青い理想を、少年性を捨て。自分自身の為だけに生きることを選んだ。そして彼女と、同じ場所まで降りてきてくれた。何も変わらないと。見上げるなと。俺は英雄じゃない。善人でもない。ただお前と同じ、薄汚れた独りの人間なのだと。


「……ひどい悪党になったね、カグラギ。もしかして、魔女にでも誑かされた?」

「……ああ。ひどい泣き虫の、赤毛の魔女に。心を全部、奪われてしまった」

「……そっか。なら、仕方ないよね」


 にひ、と。悪辣な笑みを浮かべながら。

 リーゼロッテは差し伸べられた手を掴む。

 

「あんたは酷い人殺しだけど。……あたしは、魔女だから」

 

 橄欖の瞳が、彼を見つめる。


「世界中が許さなくたって、あたしはあんたを許してあげる」


 そして魔女は、もう一度。彼に口づけをした。

 彼も今度は、彼女を強く抱き締めて離さなかった。


 それで、終わりだった。

 彼と彼女の、ひどく遠回りな青春の物語は。


 これから先にはひと時の安息と、

 きっと、見る価値もない結末だけがある。


「……カカカ。正義に焦がれたガキ共が、最期はただの悪党になり下がるたぁね」


 ふと聞き慣れた声がして、彼が視線を投げると、

 道の真ん中に三本足の鴉の姿があった。


「げ。最悪……」

「そんな嫌そうな顔すんなよ嬢ちゃん。こっちだってわざわざ水差しにきたわけじゃねえんだ。お前ら二人に遺言を預かっててな。俺様はそれを伝えにきただけ」

「遺言? ……まさか、ピエールのか?」

「ああ。……もし逃げんなら、東に行けとよ。それからできるだけ同じ所に留まるなって話だ。それと」


 グエンはそこで言葉を切り、胸の赤眼を開きながら言う。


「計画は成功だとさ。何十年、いや、何百年先になるかは分からねえが。お前らが引き起こしたこの騒動が、これからの歴史のきっかけになる。――《魔女狩り》はなくなるんだ。そのうち、《魔女》なんて言葉も、ただの古い歴史の一部になる」


 鴉の口調はどこか柔らかく、

 開いた三つ目は、遥か遠くの未来の景色を眺めているようだった。


「グエン。お前は――」


 彼が何か言いかけると、鴉はいつものようにカカ、と嗤う。


「まぁ、ともかく。俺様も暇じゃないんでね。お前らと会うのは、これが最後だ」

「……そうか」


 死ねない鴉。最初に会った時から、彼は退屈だと嘯いていた。だからきっと、これからも。彼は退屈を紛らわせるために、次の止まり木を探すのだろう。


「じゃあな、グエン」

「ああ。楽しかったぜ、カグラギ」


 明けの空に飛び立っていく鴉を、二人は見送った。

 双月が昇る空の下、誰の姿も薄れてゆく。深い森の中に、血の朱色だけ残して。


 それから幾許かの時が過ぎ、

 あの惨烈な争いの記憶を持つ者は地上から居なくなった。

 妖刀使いと異端の魔女の物語は、

 かつて起きた悲劇の寓話として民草に語り継がれる。

 

 そこに、彼らの名前は記されていない。

 

 せいとはきままに。ちりえゆく朝靄あさもやゆめ

 あけからすよいかえらず、ただあおはかな日々ひび面影おもかげうたう。


                               〈了〉


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妖刀使いと異端の魔女 羽黒川流 @hagurogawa51515

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