エイリアン

@rabbit090

第1話 

*真っ暗だ。

 こんな暗闇が広がっているというのなら、僕はもういいや。

 

 「コンコンコン。」

 誰か来た、だから僕は慌ててその場を離れ、平静を装っていた。

 「誰ェ?どうぞ!」

 執拗にノックをするから、きっとゴンタの奴でも来たのかな、と思っていたら違った。来たのは、

 「返事が遅いよ、入るよ。」

 と言われてドキリとしてしまう程のお偉方、村長だった。

 「すみません、そんなつもりじゃなかったんですけど、寝てしまっていて。」

 取り繕って、笑ったけれど、これは全くの嘘でたらめなのだった。

 

 僕の部屋には、昔からずっと変わらず、この真っ暗な暗がりが広がり続け、存在している。試しに友人になあ、とそれを見せて聞いたけれど、見えないって、言うんだ。

 誰かになりたいとか、何かになりたいとか、どんどん大人になっていく彼らを、横目に見ながらいつも、僕はこの真っ暗に、存在そのものを吸い取られているような気分にさせられる。

 「いる?」

 「いらない。」

 僕らの世界はいたって平和だ、だって争うこともなく、怖いものもなく、(僕にはあの真っ暗以外に怖いものがほとんどない。)幸せだった。

 ほんの、少し前の世界では僕らの世界は汚らしく苦しく、大変な時があったのだという。それに比べれば今はとても平和で、僕ももちろんそれに頷く。

 「うさぎだから、耳が邪魔ね。」

 「そう?そんなこともないけれど。」

 僕の耳は彼女にとってはそう思われても仕方がない、彼女は象であり、耳なんて垂れ下がって下にだらりと垂れているのだから。

 「でも、ここにいるとみんな落ち着くって、言うよね。」

 「そうかな、でもそうかも。僕もここが何か良いって、お父さんが建ててくれた家なんだけど、とても、とてもとても良くて。」

 僕は、そう言って笑う。

 何か、悲しみとか苦しみとか激情とか、そういうものが一切なくなってしまえばいいって、思っていた。

 世界ってなんで、こんなに複雑なのだろう。手に掴めない全てのものがそこにはあって、苦しい。けれど、僕らの世界はいたって平和なのだから悩むことなどない。

 だからいつも通り笑いながら、目を閉じる。

 

 「問題があるのなら、言いなさい。」

 村長は、偉ぶっているけれど根はとても優しく、僕のような孤立しているウサギにも分け隔てなく笑顔を見せてくれている、優しい人間なのであった。

 「はい、ですが大丈夫です。食事も満足に取れているし、とても幸せです。」

 そう言うと、村長は笑いながら家を出た。

 朗らかなその顔で、彼はいつも人々を幸せにしている。

*穏やかな一日が続くような気持になって、僕はあるはずの暗闇に目を向けることをやめた。


 「ウサギって、何で耳が長いの?」

 「さあ、分からないよ。」

 「俺なんかさ、こんなに短くてぴょんと立っているんだから、可愛いもんだろ?」

 ああ、そうだねと言って欲しいのだろうか、犬の佐吉はこちらを見つめながら笑っていた。いつもいつもこいつは、誰かを励まそうと懸命になっていて、僕もあの暗がりをつい見つめ続けてしまって落ち込んでいた時に、助けてもらった覚えがある。

 あの暗がりは、何か生きているすべてのものから生命のようなものを奪っていっているように感じられる。

 「でも、僕も特に不便は感じないから、別にいいんじゃないか?」

 「ああ、俺はさ。足も短いし、だからお前みたいな立派な耳が欲しいって思っていたんだ。」

 「はは、何だよそれ。」

 「ホントだよな。」

 佐吉はいつも朗らかで、安定している。僕はその無垢さに吸い取られそうになっていて、それだけで幸せにはなれないような気持ちになっている。

 何ていうか、佐吉みたいな人は幸せになるべきであって、僕のようなウサギは黙っているのが良いというか、とにかくこの動物の世界には何かを思う、という気持ちが通底して存在している。

 それによって何を感じるのかは、まあ人それぞれなんだけどさ。

 「じゃあ、今度来いよ。待ってるから。」

 「ああ。」

 そう言って佐吉は去った。

 僕はただ、取り残されて考える。

 今度の村のお祭り、参加しても問題がないのだろうか、って。

 考えると不安になってしまい、僕は急いで家に向かった。その足取りは重く、ズトリズトリと引きずるような感じでもあった。

 

 「はあ…。」

 「ただいま。」

 「………。」

 誰もいないのは分かっている、けれどたまに聞こえてしまう。誰のってことは分からないけれど、ぼんやりとしているとつい、つい。

 「お帰り、重湖じゅうこ。」

 「もう、その名前やめてよ。重湖だなんて、村の人にはしげで通ってるんだから、さ。」

 「分かったよ、でも私は重湖と呼ぶけどね。」

 「はあ、知ってる。」

 いくら言っても彼女は、僕のことを重湖だと呼びたがる。それの何がいけないのかはよく分からない、けれどずっしりと重いことばかりがあって、もっと素直にならなくてはと心を砕く。

 「でさ、お祭り今度あるって言ってたよね。行くの?」

 「うん、まあ行く。」

 「良かった、それは良かったよ。重湖にはそういう部分が必要でしょ?私分かっているから。」

*彼女は、実在していない。分かっている、けれど僕は誰よりもこの人に、心を開いてしまっている。

 素直だと利用されるという人がいるけれど、僕はそうは思わない。素直であったって何だって、結局決めるのは僕なんだから、さ。

 「君は?僕の話ばかり聞いていて、暇じゃないの?」

 「そんなの、仕方ないわ。私の存在は誰にも知られていないから。知ってるでしょ?みんなが、気付かないってこと。」

 「まあ、ね。見せても見えないなんて、驚いたよ。」

 そう、彼女は確かにいる、のに僕以外の人間には見えない。

 ああ、語弊があったのかな、でも訂正はしないんだ。だって、僕らはみんな、人間だった。今は姿かたちが動物になっているけれど、確かにはっきりと、人間の形をしていた。

 しかし、覚えている人は一人もいない。誰一人、記憶を持っていないのだ。

 「君は美しいんだ、きっとみんなもそう思うよ。」

 「あら、ありがとう。でも私は自分の姿が鏡にすら映らないから、分からないし何も言えない。」

 「それは僕だって一緒だよ、だって鏡に映る自分なんて、毛むくじゃらの小動物なんだ、これは全然、自分じゃないんだし、全く、そう。」

 僕らは、黙っていることしかできない。

 この世界の不気味さを一人、知っている。いや、正確には二人なんだけど、でもさ。

 そういうことを考え始めると怖くなって、すぐに眠りについてしまう。

 夜は怖い、だから避けてすぐに、うすぼんやりと暗い早朝を迎えに行く。

 

 お祭りはかなり早い時間から始まっている。

 ここの所、夜に気候が悪く穏やかではなくて、明るい時間に全てを済ましてしまおう、という算段なのだった。

 「来たのか。」

 「ああ、オシャレなんてしてないけど、みんな楽しそうだね。」

 「そうだよ、祭りはみんなを幸せにする。なあ、どう思う?」

 「そうだね、何ていうか、娯楽が少ないからなあ。」

 「何だよそれ、楽しいことなんていっぱいあるだろ?何?

?疲れてんのか。」

 「ううん、平気。それより行こうぜ、もう始まってるんだし。」

 「そうだな。」

 そう言って、佐吉は先に走り出した。僕は後からこっそりと、つけるように足を進める。

 そして、心の中だけででひっそりと、思う。

 「僕には、本当はもっといっぱいの楽しいことがあって、こんな。学校の中の制約された時間のような、そんな退屈な場所ではなかった。」

 記憶とは、恐ろしいものなのかもしれない。一度知ってしまうと、抜け出せない。あの幸福をまたって、口にしてしまうから。


*「あれ、村長は?」

 「ああ、今日は体調が悪いんだって。村長、鹿だろ?だからさあ、弱っちいし体壊しやすいんだって。まあ年齢もあるし仕方ないよな。」

 「なるほどね。」

 そうか、なぜかいつも元気な村長ばかり見ていたから、少しだけ、ゾッとするような不安が胸をかすめた。

 彼が一番楽しみにしていたのだろうし、このお祭りを欠席することが一番考えられない人物だったんだし、ホント、平気なのかな。

 「まあ、だから俺たちで楽しもうぜ。な?」

 「そうだよね、村長の分も。今度いっぱい話をしよう、そしたら喜んでくれるはず。」

 「ああ。」

 僕らは、いたって平和だったのだ。

 この世界に存在することとは何か、なんて考えたことは無かった。

 そもそも、考える必要なんて、ほとんど無かった。けれど、大人になると抱えなくてはならない問題がはっきりと浮かび上がってきて、それに対処するためには知識がいる。

 だから僕は、外の世界へと向かうことになったのだ。


**

 暑い、この焦げるような暑さが今、僕の意識を限りなくはっきりとさせている。

 ずっと住んでいた場所には、こんな温度は存在しなかった。しかし、

 「いらっしゃい、何にする?」

 派手な衣装をまとった女は、手をこまねいてずっしりとした貫禄を崩さずに、僕に向かって尋ねた。

 「そうだね、じゃあそのフルーツを一つもらうよ。」

 「分かった、はい。」

 「ありがとう。」

 「こちらこそ。」

 こういう、些細なやりとりに僕は救われて、少しだけ顔の筋肉がほぐれる瞬間を迎える。

 今、この場所に来てから僕には、味方などいない。

 だって、ここは僕らの世界ではないし、しかし僕は見つけなくてはならなかった。誰かに、僕らの世界を救う方法を、尋ねるしかなかったのだ。

 「ところで、この辺に誰か、本が好き、というような人っていない?」

 僕はさりげなさを装って、できる限り気楽に聞こえるように努めていた。

 「そうだなあ、うーん。」

 その人は、少しだけ考えるような素振りを見せていて、僕は期待を滲ませる。

 けど、「ごめん、分かんない。」

 そう言って何もない、この繰り返し。

 いつもいつも、もう何軒も聞いて回っているというのに、一向に書籍の一冊すら持っていない人ばかりだったから、僕はまいっていた。

 「はあ…。」

 ため息をつきながら今日行けるのはここまでだと悟り、しばらく滞在している、町の近郊にある穴倉に、身を隠すことにした。

*「………。」

 ダメだ、目を開けていられない。どろりとした眠気がぼくの元へと忍び寄る。ここで寝てはいけないのに、もう、全く。

 力が尽きてしまい、その場にへたり込んだ。

 しかし幸い、かろうじて微かな余力と意識だけを保つことはできていた。

 ぼんやりと、長い時間を過ごしていた。まだ、回復するまでには時間がかかりそうだった。

 通り過ぎる人々は、僕のことなど見ることすらしていなかった。

 僕が、こうしているのは。

 僕が今、この人間しかいない世界に、人間としてやってきているのは、それは。


 「あなた、大丈夫?」

 うっかりしていた、僕はしてはいけない失態を犯してしまっていた。僕は、ここの人間に見せてはならない姿がある。僕は、やっぱり僕はいっときは人間に成れていても、真夜中になるとウサギに戻ってしまう。

 だから、その瞬間だけは誰にも見られてはいけなくて、しまった、しまった、どうしよう。

 声からして女性だけど、でもやけに野太いなと思いながら目を上げた。

 「あ、目が合った。ねえ、平気なの?倒れてたけど、みんな見て見ぬふりなのかしら。あ、ねえ。ちょっと待ってて。食べ物と、飲み物だけ買ってきてあげるわよ。」

 「え、いや。」

 僕は断ろうとしたんだけど、言葉が上手くつむげなくてつい、頷いてしまった。だって、実際にお腹は空いていて、あまり意識が上手く働いていないのは分かっていたから。

 「うーん…。」

 二日酔いの朝みたいな、でもその人が帰ってくるまでは本当に動くこともできなさそうで、ただ縮こまっているしかなかった。

 「どうぞ。」

 また意識がぼうっとしているタイミングで、彼女は戻ってきた。

 「ほら、早く摂取しなさい。本当につらそうなんだから。」

 「あ、ああ。ありがとうございます。」

 何か、笑ってしまう程その人は素直だった。そういう素直さが誰かを救うことを、僕は今身にしみて感じている。素直であればある程、何だか許されているような。勝手なことばかり、そんなことを思ってしまっていたんだけど、何だかただ単に栄養が足りていなかったのかもしれない。

 僕は笑っていたし、その、よく見れば男なのかもしれない、女装をしたような彼女を前にしたら、僕は子供の頃に戻ったようだった。

 彼女が買ってきてくれたお茶とおにぎり、大したことは無いのかもしれない、しかし嫌においしく感じられた。

 「どう、食べれる?」

 「うまいです。」

 「そう良かった。てかあなたさ、こんなとこに寝てたけど、訳アリ?」

 「え?」

 僕が聞き返したのは、彼女がその風貌とは相反して困った様相を呈していたからだ。

*そしてお腹が満たったら、ああ、そうだった、僕は今ウサギにはなっていない、良かった、と安堵のため息をついた。

 けど、周りを見回してみても空は暗い。

 夜になれば必ず、僕はウサギになっている、なのになぜ?今は人間なのだろうか、そんなことを思っていると。

 「時間かかっちゃったでしょ?」

 「え?いや。」

 「実はね、私目が上手く見えなくて。日常生活には問題ないんだけど、人のことが上手く識別できなくて、さあ。」

 「あ…。」

 あ、そうか。

 僕は今、自分の体を見回す。ああ、ウサギだ。僕は今ウサギの姿になっていて、彼女はそれに気づいていない。まさか、最初は人間の姿だったのかもしれないけれど、いつの間にか変わっていたのだろう。

 というか、言ってしまえば感覚としては僕の中ではいつも、あの動物の世界にいた時でさえ自分は人間だったのだから、ただ見えている姿が変わってしまうというだけで、変化はない。

 だから気付けないし、だから用心しなくてはいけない。

 「いや、全然。世話してもらって、すごく助かったよ。しかも君が大変なんだってこと知らないで、勝手なこと言ってごめん。」

 「はは、いいのいつものことだから。」

 「………。」

 僕も彼女も黙る。

 何だって、世界ってこう不器用なんだろう。

 僕はそんなことを呪いながらその親切な彼女に別れを告げた。

 というか、彼女の方が「ごめん用事があって。」と急いで行ってしまった。

 しかし今日は、少しだけ世界が違った色に映っていて、急いで穴倉へと駆け戻った。

 

 僕らは、知らなかった。

 壊れ始めているということに、気付かなかった。

 ぐにゃりと歪んだ地形、時間の感覚さえぐちゃぐちゃで、吐き気を催すことすら許されなかった。

 佐吉が急いで僕のところまでやってきて、「村長が。」とだけ言った。

 僕はその時にはもう歩くことすら困難で、どうやら佐吉も一緒だったんだけど、機敏性のある彼は、僕を背負って走ってくれた。

 一応、僕には医療に対する知識があって、手当てができる。

 しかし、連れられて行った先で見た村長は、手遅れだった。というか、見たこともない病状、なぜ臥せっているのかもわからないし、ただ体が動かないのだという。しかし脈はある、生きている。

 こんな状態の連中がたくさんいて、僕はもうお手上げだったし、そもそも僕らも自分自身の体調の変化に苦慮していて、佐吉と、「何だよ、これ。」と言い合うだけで精いっぱいだった。

 しかし、僕は何もできずに家に戻った時に、気付いたのだ。

 真っ暗だった暗闇の中に、白い何かがあるということに、それは何か、何て分からなかったけれど、いつも彼女がいるそこには、ただの暗闇しか広がっていなかった。訳が分からないし、でも僕は。

 そもそも人間だった僕がなぜ、動物として生きているのかなんて分からなかったし、世界はそういうものなのだと受け入れていた。

 理由なんて無い、ただ。

 「………。」

 僕はこの世界のいろんな人に助けられ、だから。

 そんな風に自分の気持ちを固めていき、前に進む。

 

 気付いたら、僕は人間になっていた。


*やっと戻れた本来の姿、ではなくそもそも僕はもっとイケメンだったし、なんてくだらないことを呟く。

 けれど確かに、手も足も、そして周りをうろつく全てすら、人間だった。

 僕は、気がついたら動物の世界にいて、でも違和感はなく自然と世界に馴染んでいた。

 それはそもそも、佐吉も村長も、僕の知る分には確かに人間だったのだし、目に映る姿形だけ、みな変わっていた。

 「はあ…。」

 呼吸が苦しい、やっと戻れたというのに、体が上手く機能していない。

 何も分からない、事実なんて僕の中ではとうに消え失せていて、ただそのもどかしさを体を掻きむしることで耐えた。

 そして、やっと立ち上がることができ、歩き出す。今となっては動物の世界の方が偽物だったとしても信じてしまえるのかもしれないが、僕はちゃんと分かっている。

 あの世界は偽物などではない、たしかに存在し、今壊れようとしている。

 そして、そこに住む人々には成す術かない、だから僕が頑張って、なんとかしなくては。

 

 「これか…。」

 僕は見つけていた。

 あの世界に戻るための手がかり、いや事実を。

 なぜか感覚的に分かっている、僕にだけ見える実在、あの、暗闇と光。

 きっと吸い寄せられたら二度と戻れない。

 だから僕は、何とかあの世界の人達を救う、何かを見つけなくてはいけない。

 壊れてしまう前に、早く。


 しばらくして、だいぶ馴染んでいることに気付く。

 今はある場所に来ている。

 そこには、天文学や物理学、とにかく多次元について考え得る書物が溢れている。

 「こんにちは。」

 お久しぶり、とは言えない。 

 だって今の僕は僕ではないから、でも。

 「ああ、こんにちは。どうされました?」

 穏やかに笑う、この人は僕の恩師であり、間違いなく母校であるこの大学の恩師であった。

 て、2回も恩師という言葉を浮かべてしまう程、好きだった。

 生きていく上で、勉強だけが自分の存在を際立たせてくれている、と思い込んでいた僕に、その知識を使って世界と繋がっていく方法を教えてくれた人だから。

 「ご噂で伺っています。実は調べたいことがあって、お話を伺いたくて。」

 「ああ、君なのか。大学の事務所で聞いてる。そうか。」

 そう言って、またあの穏やかな笑顔で笑う。

 僕はそれに、懐かしさと恥ずかしさで、はにかむことしかできなくて、もどかしい。

 「はい、それで実は多次元について、知りたいことがあって。」

 「…きみは、まやかしだとは思わないのか?普通の感覚だったらそう思うはず。」

*「あの、僕はそういうこと、偏見を持たないようにしなきゃって思ってて、先入観何て無意味だって知ってるから。」

 「そうか。そうか、でも。」

 「はい…。」

 「君が言おうとしていることは、多次元ではなく、別の世界、ということなのでは?」

 「え?」

 「実は大学の職員から聞いていてね。君が知りたがってることは、別の世界の実在について、が正しいと言えるだろう。」

 「…はい。」

 確かにそうだ、僕が知りたいことは、、そう。ありえないような話だけど、ありえる。僕は誰かを救うために、知恵を欲している。

 焦っていた、だから物事の認識すら切迫していたのかもしれない。

 「そうなんだね。じゃあ、ちょっとお茶でもしないか?」

 「はい。」

 教授は、そう言って立ち上がり茶を入れた。教授が好むこのお茶は、彼が生まれ育った土地でよく飲まれるものだという。けれど僕は苦くて、おいしさの分からないこのお茶が苦手だった、けど。

 「どうぞ。」

 「ありがとうございます。」

 ええいと思い、一気に飲み干してしまおうと意気込む。それ程苦く、正直に言ってしまうとまずい。

 「あれ?」

 「はは、あれって?」

 「おいしい。」

 「何だよ、まずいとでも思ったのか?」

 教授は笑っていた、そりゃそうだ、いきなり苦々しい顔で出したお茶を飲まれたら、誰だった困惑する。

 「は…。」

 でも、確かに香りはあのお茶のもので、でも味が全く違う。何だ?これって、一体。

 「いや実はね、これ飲ませるとみんなまずいって言うんだよ。まあ確かにね、苦いけど。でもこの前帰郷した時、ああ、そこのお茶なんだけど、飲み方を教えてもらって。土地の人はそのままでもおいしいと思うんだけど、でも外部の人に飲ませるときにはミルクを少しだけ入れて、あとは何もしない。」

 「はい…。」

 そうだ、確かにそうだ。僕は気づかなかった。だけだ、苦いと思って視覚を鈍くさせていたから、ミルクが入っていることに、気付けなかった。

 「うまいだろ?」

 「おいしいです。」

 そして、一服を挟んだ後、僕は知ることになる。

 あの世界は、実在しているという、事実に、出会ってしまうのだ。


 体が重たい。

 昨日は酒を飲み過ぎた。

 ごそごそとベッドから這い出て、水を飲む。

 今までは穴倉に住んでいたけれど、もうその必要はなくなった。僕はウサギになることもないし、見られても全然平気になってしまったから。

 ここは、教授が提供してくれた部屋で、大体は学生が住んでいる。

*朝からシャワーを浴びるなんて、道徳的に許されることではないような錯覚を持っていたのに、今は毎日寝汗を流し、着替える。

 ウサギから人間になれたが、姿かたちが違う。姿かたちが違っていれば自分が自分ではないような気がするのかと思っていたが、慣れ、というものは僕を鈍感にさせている。

 もう、この姿が人間であった頃の姿と同一であるような自覚を持たせ、違和感なのど持たなくなってしまっていた。

 本当は、何も分かってなどいなかった。

 教授は、全てを知っていた。

 いや、全てという言葉が正しいのかは分からない。

 しかし、僕らが体験していたおかしな現実を、理論立てて一つ一つ説明してくれ、そして僕が教え子であると認めてくれた。というか、彼は最初から分かっていたそうだ、その話し方、しぐさ。そして自分のことをよく知っているんだろう、と勘繰っていた。そして、唐突に僕がいなくなったことさえ、論理的の説明できてしまっていた。

 僕は、事実に触れた。

 そして、決めた。

 壊れるあの世界に、戻る、ということを。

 僕は戻る、壊れると分かっていても、立つことすら難しくても、僕は戻って、彼女に会わなくては。

 急ぎ足が加速していく、寝て起きてから、しばらく期間を経てから、もっと教授と話してから、としばらくだらけた生活を送っていたが、それでもやっぱり、僕は決意していた。

 「すい。」

 透明度の高い彼女の名前は、誰かがつけたものではない。彼女の実在はしかし誰よりも確かで、厳かだった。

 言い替えれば神のような存在、人間が存在し続ける限り消えることがない、その存在を、僕は救わなくてはいけなかった。

 だから、靴を履き大学へと急ぐ。

 準備に時間がかかってしまったが、最後なんだからこれくらい、と自分を納得させていた。

 「行くか。」


 広がるランチスペースに、席がいくつも置かれ、しかし学生はまばらにしか座っていない。今は、大学に赴いて何かをする、という経験があまりない。あまりないけど、僕のように図書館に籠って本を読みふけるというたぐいの人間もいるのだろう、そういう人たちがぼんやりと昼休憩をそこで過ごしている場所なのだが、今はまだ朝で、少し早く来たグループなんかがしゃべっていて、目の端にちらりと存在が映り、僕はなぜだか猛烈に悲しくなっていた。

 この世界には帰ってこられないということ、そして。

 「やあ、来たのか。」

 ノックをして部屋を訪ねる。もう、学生ではない僕がここへの通過をパスされているのは、教授が便宜を図ってくれているからだ。

 「はい、おはようございます。」

*「私が伝えたことを、信じている。というか、信じられないはずがないよな、君なら。」

 「…はい、そうですね。」

 教授の目は何かを訴えていた。しかし、僕はそれを見ないようにしたくて、目をそらした。

 もちろん、分かっているけど。

 知ってしまったからには戻れない、あの世界が壊れていくことを、無視するわけにはいかない。

 「本当に、危険なんだ。戻ってはいけない、だから引き止めたい。」

 はっきりとそう言われて、僕は口ごもってしまう。教え子を、あそこに送ることはダメなんだと、僕だって自分がその立場だったらきっと同じことを言うのだろう、けれど。

 「でも、友達がいるんです。知り合いがいるんです、ずっと生活を共にしてきました。でも、でも。彼らは気づかないんです。それは、」

 「ああ、そうだね。それはとても悲しいことで、君にとってはもどかしいことでもあるんだよね。」

 「そうなんです。僕は、世界が切り取られたことに気付いていました。僕だけが、人間だったはずなのに、動物の姿になってしまったという事実を、認識しています。だからって、彼らを置いていくことはできません。あの世界は、危険です。無くなってしまった記憶がなくても、教授は分かっていますよね?」

 「分かってる、分かってるから嫌なんだ。彼らを救う方法は、無い。それが、事実だから。」

 「はい、でも彼らはもともとはこの世界の人間で、僕もろとも偶然の異変によって切り取られて、それで。」

 「あの世界の一部になった。」

 「そうです、だから行くしかないんです。」


**

 「戻ったよ。」

 床に伏している佐吉にそう声をかけた。

 佐吉は、もう反応すら難しいようで、ただ伏せることしかできないようだった。

 しかし、「ああ、良かった。おかえり。」僕の目を見てそう言ってくれた。

 安心してくれたのだ、僕を心配してくれていたのだ、そう思うと心が痛くなった。一番つらいのは、佐吉を含めた彼らの方だ。

 そういう僕は、今はまだ平気でいられる。

 ことわりを知ってしまったから。たった一人でも、会いに行かなくてはならない。

 あの女に、いや彼女に。憎むべき相手ではないのだ、それは分かっている。彼女にはただ力があって、それが無意識に作動してしまって、世界はこうなった。

 

 「やあ…。」

 明るさを込めたはずの声は、くぐもっていた。彼女はいつも通り、あの部屋にただいる、という状態ではもうなくなっていた。

 この世界の中で、どんどん巨大な存在となり、しかし佐吉たちにはまだ見えないのだという。

 分からない、ということがこんなにも怖いものなのだと、僕は恐れおののいている。僕には、彼女が、すいが悪者には見えない。けれどこの世界は確実に彼女の意思で存在し、そして消えようとしている。

*「何どうしたの?暗いじゃない。重湖、しばらく見かけなかったけど、なんかあったの?」

 「いや、別に大丈夫。それより、君は平気なの?ずっと一人だっただろ?それなのに、もう歩き回っているんだね。」

 「うん、そうなの。何か重湖にしか見えなかったはずなのに、私今すごく体が軽くて、外を動き回れるし、物も食べられるし、生きてるって感じがする。」

 「そうか、それは良かったね。」

 「そう、でもね。外は地獄絵図で、みんな臥せっている。ねえ、重湖。何で私に教えてくれなかったの?何で?」

 「それは…。」

 彼女は、困ったような顔で僕を見た、そんな目で見られても答えられることは無い。

 だって、だって。

 「なんて、冗談。」

 「え?」

 「私分かってるの、いや分かっちゃったの。」

 「何を?」

 僕は自分が焦っていることに気付いた。しかし、止まらないし、止めることはできない。

 「ここで、私は異質なんだって。」

 「………。」

 「黙らないでよ、重湖。」

 彼女は笑いながらそう言った。悲しく寂しく、一人ぼっちなのは君なのだと、僕は憂いた。

 「うん。」

 「そうよ、反応してくれないと私が困るもの。でね、私って、おかしかったのね。この世界で誰の目にも触れられず、たった一人。でも形だけは人間になっていて、だけど、私…。」

 「君は、水だろう?」

 「そう、そうよ。」

 「そうだ、そしてこの世界の神様でもある。」

 水は、驚いて目を見開き、そしてふき出した。

 「神様、か。まあそうかもね。言い方を変えれば。でも本当は、」

 「本当は、エイリアン。だろ?」

 「…なんだ知ってるんだ。恥ずかしいなあ。」

 「恥ずかしくなんかない、君はただ君として、まっとうなことをしただけなんだ。それが悪いだなんて、僕は言えない。でも、助けたいんだ。佐吉も、村長も、大事な人だから。」

 「うん、私だって誰かを害したいわけじゃないの、でもね。」

 「分かってる、もう君の意思は不在、なんだろ?」

 「…そうなの、ごめんね。」

 「だから、止める方法はもうないから、でも何とかしたいんだ。協力してくれないか?」

 「…私でいいんだったら、役立たずだけど、別に。」

 「そうか、じゃあお願いするから、なあ、そんなに困った顔しないでいろよ。」

 「え?」

 思ったよりも、純度が高く、相手をすることだけで、力を吸い取られるようだった。このエネルギーの塊のような女は、今この世界のカギを握っている。自分では気づいていないんだ、だから僕が教えてやる。こいつに、ぶっ壊されてたまるかと、僕は心の中で息巻いた。

*それから僕らは、僕と教授で考えうる限りの策を、ノートに記したものを検討し、手を打つつもりでいた。

 けれど、どうしよう。

 次第に体が動かない、動かしたくても、とても重くて無理だ。

 眠い、体の重さの次に起こったのは、絶え間ない眠気だった。

 佐吉も、村長も、みんな。同じようになっているからきっと、僕もその内そうなってしまうのだろう。

 ちらりと、水の方を見た。

 彼女は平然とし、顔には曇った表情だけが浮かんでいる。

 ああ、どうしようもない。

 僕の心には諦めが広がり、しかし今この状況になってみて後悔はあまり感じていない。


 やれることはやったし、大丈夫。

 これで駄目だと言うのなら、それは仕方がないことで、ああ、そうだ。

 もう世界に心残りなんかないけれど、たった一人ここに残されるであろう水は、彼女はどうなるのだろう。

 そんなことをぼんやり、考えていた。

 次第に無くなっていく感覚が、あって、僕は。



***

 山がある、湖がある、動物がいる、植物だって豊富だし、空気もうまい。

 しかし、いなくなったのは人間だけだ。

 私はどうやら記憶を失っていて、という表現は人間の感覚に合わせてみただけで、まあ、分かりやすくすればそうなる。

 だけど今、私には記憶があり、力があり、それを効果的に使うことができる。

 私は、完全になった。

 何かを哀れに思っていた頃が、久しかった。

 けれど戻りたいとは思わない、全然。

 戻りたくなんかない、私は、でも空を飛んでいる。元々、飛べた。知らなかっただけだ、私が飛べるってこと、ただ、知らなかっただけ。


 しかし、もう一つは残っている。

 そこは私の手が及ばない場所で、まあ、それは仕方ないよね。

 結局、私はそういう存在だったのだ。

 知ってしまえば容易い、なんてことない事実。

 ああ、もうこれで、終われる気がする。


 **

 あの子は、いなくなってしまった。

 仕方がない、理論的にそれは証明できるのだ、私達には及ばない、法則のもとに動いている世界があるっていうことを。

 悲しくはあるが、彼が選んだことだから、尊重するしかない。

 重湖は、優秀な学生だった、たがら彼が打ち立てて触れていた世界に、飲み込まれてしまった。

 そういうことは、往々にしてある、それが研究という世界だったから。

*しかし、いまだに信じられない。だってなぜ、こんなことが現実になってしまうというのだろう。私たちは、一体何を信じていればいいのか、それすらあいまいになってしまう程、残酷な現実、それを目の前にしにて、一体どうすれば。

 少し気晴らしをしようと思って立ち上がり、いつものわんわんが描かれた安いカップに、少しだけお湯を入れお茶を抽出した。

 ふんわりと立ち上るにおいが、私を今の苦しさからまやかしてくれる。

 「失礼します。」

 「やあどうぞ。」

 ああ、そうだ。ちょうどこの時間だった。彼女が訪ねてくるのはいつもこの時間、だから私はゆったりとお茶菓子でも用意しながら、一日の研究を中断している。

 「教授、来たよ。」

 「はあまったく、君学生だろ?私と20は離れてるんだから、ちょっとは敬語使いなさいって。」

 「いいじゃん、教授もいいって、ほかの先生には怒られるけど、私には意味が分からなくて、な曲なるにはこれが最善手なの。」

 「…分かったよ。」

 この子には、何を言っても通用しない。どこでその偏屈さを手に入れたのか、本当に聞いてみたい程だった。

 しかし、話はそんなことではなく、

 「ねえ。やったよ。私が書いた論文、だいぶ評価されてた。何かこれからの研究に寄与するんだって、良かった。だから、私もこの分野に進もうと思っていたんだけど、違うことに興味がわいちゃったの。私ね。」

 こういう子は、いつも予測ができない方向に動き出す。しかし私には彼女に何かを教え諭すというようなことはできない。

 だから、「そうか、何するんだ?」

 と前向きに話を進めていく。

 そうしたら、「うん、あのね。研究の途中で出会ったんだけど、それがさ。」

 意気揚々と話しだし、私は耳を傾ける。うんうんと頷きながら、ちらりと彼女が放り出した論文に目を這わせる。

 

 そうか、だったら。

 『あり方、この世界の常識と実在の乖離』

 そうだ、彼女のような研究者がいればいずれきっと、分からなかった問題にも立ち向かえるのかもしれない。

 まあ、そんなことはどうでも良くて、私はまた視線を戻し、不満そうな彼女を、なだめるように声をかける。

 

 消えてしまったものは戻らない、それは分かっている。

 けれど、分かっていない。

 取り戻す、というのだろうか。いや、見つけるといった方が正しいのかもしれない。

 私は、とにかく、研究を続けている。


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エイリアン @rabbit090

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