◆3

 この時、アデルはふと思いついた。その勢いのままフロントに願い出る。


「――バーズ・ホテルに滞在中のミスター・グレンに電話を繋いでくださらない?」


 マンチェスターに来てから、アデルがマシューに電話をしたことはなかったかもしれない。もう気を持たせたくはないのだが、確かめたいことがあった。


「畏まりました」


 フロント係の女性がダイヤルを回してくれる。ジー、ジー、と電話特有の音がする中、アデルは待った。

 呼び出すのに時間がかかるかと思えば、マシューは比較的早く出てくれた。


『アデル! またそのホテルで殺人が起こったというのは本当かいっ?』

「そうなの。ねえ、マット、いきなりだけれど、あなたと同じホテルにはまだミスター・ミラーはいらっしゃるのかしら?」


 事件の話ではなく、クレメンス・ミラーの話題で、マシューは拍子抜けしたかもしれない。

 アデルが不安がって自分に来てほしいと電話をしたのだと思ったはずだ。


『クレメンス? ああ、忙しい身なのにまだマンチェスターに留まっているよ。用事があるんだってさ』


 まだマンチェスターに滞在している。それならやはり、アデルがあの時に見たのはクレメンス・ミラーだったのだろうか。

 しかし、デリックが殺された日、なんのためにここへ来ていたのか。用事とは一体なんだろう。


「その用事ってなんなのかしら?」

『さあ? あんまり話したがらないし、よくわからないけど。そういえば僕がやたらとランバート・ホテルに通っていることについて訊ねられたよ』

「どうして? ミスター・ミラーがランバート・ホテルの何を気にするの?」

『それが、はっきりとは言わないから。知りたいことがあるみたいなんだけど、それがなんなのかを他人に知られたくないみたいな……。まあ、女性のファンが多いからさ、昔の恋人とか、そんなのが浮上するだけで人気に影響するのかも』


 顔を隠して秘密裏に、彼は一体誰に会いに来たのか。

 メイドのレイチェルは、憧れの彼が目と鼻の先にいたことを知っているのだろうか。

 そこでアデルははた、と考えつく。


 レイチェルは本当にクレメンス・ミラーのファンなのだろうか。

 ファンではなくて恋人だとしたらどうなのだろう。


 クレメンス・ミラーの秘密の恋人がレイチェルだとして、それを同僚のノーマが知ってしまったとしたら、もちろん口止めしただろう。彼の将来に傷をつけたくはないはずだ。


 口止め料を払って、ノーマは納得しただろうか。

 さらに金銭を要求し続け、誰にも相談できずに苦しんだレイチェルが、自殺を装ってノーマを殺した――。


『アデル? 大丈夫かい?』


 そう考えれば辻褄が合う。

 あの日に限ってレイチェルはノーマに仕事を代わってもらった。そしてクレメンス・ミラーのコンサートに出かけた。


 つまり、自分がいない間にノーマが死ぬように仕向けた。どうやったのかまではわからないが、どうにかして。


 レイチェルは客室係のメイドだから、アデルや姉の飲み物に異物を混入することも容易い。レイチェルはアデルの部屋から姉の部屋の担当に変更されたのだ。

 デリックが死んだ時も給仕はレイチェルだったのではなかったか。


 考えれば考えるほど、犯人はレイチェルしかいない。


『アデル? ……可哀想に。すぐに行くから、待っていてくれ!』


 ジーンはレイチェルとクレメンス・ミラーの関係を知らないはずだ。それでも、動機は別として何かに気づいているに違いない。


 デリックもどこかから推理できるだけの情報を引き出した。きっと、レイチェルにそれを匂わせ、殺されたのだ。


『……え? あ、そう。えっ? 本気で? い、いや、僕は……構わないけれど……』


 そういえば、ずっと受話器を握ったままだった。マシューとはどこまで話していたのか忘れたが、もう切ってもいいだろうか。

 チョン、とアデルは受話器を置いた。


 ――レイチェルはどこだろう。今も仕事をしているのか。


 人を殺しておいて、それでも何食わぬ顔で仕事を続けている。アデルにはとてもできそうにない芸当だ。

 氷のように冷たく、機械的な彼女の様子を思い出し、アデルはブルリと体を震わせた。


 そうしていると、父がフロントまでやってきた。


「アデル!」


 いつもはアデルに甘い父だが、今はそんなことも言っていられないらしい。顔が怖い。


「殺人犯がうろついているんだぞ! 一人でフラフラしてはいかん!」

「お父様、その件ならもうすぐ解決しますわ。犯人の目星はついておりますの」

「警察が何か言ったのか? それならさっさと捕まえればいいものを。……まあいい、行くぞ」


 と、アデルの肩を抱き込む。アデルはその腕をやんわりと外した。


「あと二時間ほど待ってくださいませ」

「なんだその二時間というのは?」

「少々事情がありまして」


 アデルが笑ってごまかそうとすると、父は口髭を吹き飛ばしそうな勢いで嘆息した。


「あれか? あのヴァイオリン弾きの若造か?」

「いえ、そうではなくて」

「そうなんだな? 何か約束をしたのだな?」


 ボーイフレンドの件に関してだけ妙に厳しくなる。アデルに相応しい男を見極めているというのだろうけれど、単に寂しいだけではないかとも思う。


「とにかく、二時間。どうかお待ちになって」


 アデルが強い口調で言ったせいか、父は怖い顔をして腕を組み直した。


「そうか。そんなに言うのなら私から彼に断りを入れてやろう。ここに来るのだな?」


 すぐに行くというようなことを言っていた気もするけれど、本当に来るのだろうか。


「二時間待ってくださるのなら、お好きなようにどうぞ」


 アデルが父と言い合いをしていると、従業員たちはチラチラとこちらを見ていた。目立つところで親子喧嘩はやめてほしいといったところか。


 そんなやり取りをしている隙に、正面玄関からマシューがやってきた。

 思った以上に早い。タクシーを飛ばしてやってきてくれたらしい。

 残念ながら呼んでいないのだが。


「アデル!」


 悲愴な顔をして駆け寄ろうとしたマシューは、父に目を留めて怯んだ。

 しかし、そんなことよりも、アデルはマシューの後でロビーに入ってきた青年の姿に目を丸くしていた。


 今日は顔を隠していない。

 ブリティッシュ・トラッドの堂々たる姿だ。


 人気絶頂のピアニスト、クレメンス・ミラー。

 癖のない金髪には乱れもなく、グレーの目がまっすぐに前を見据えていた。


 ホールが騒然となったのも無理からぬことである。

 アデルの父でさえ、マシューを相手に食ってかかるつもりが失せたらしい。口をポカンと開けている。


「あ、あなたは――」


 アデルは何を言えばいいのかわからなかった。

 恋人を守るためにすべてを捨ててやってきたのか。そう思ったら、涙が溢れそうになった。


 レイチェルのしたことは許されない。それでも、彼を守りたかったからこそ犯罪に手を染めたのだ。二人の絆は確かなものである。

 切ないな、とアデルは胸が絞めつけられた。


 しかし、アデルが真相に辿り着いたと気づいていない彼は平然としている。アデルが涙ぐんでいるのは、彼に会えて感激しているのかと勘違いしたマシューの方が慌てていた。


「い、いや、ミスター・ミラーがここへ来たいと仰って……。僕の恋人に会ってみたいと……」


 マシューの発言で涙が引いた。


「私のことではないでしょうね? 私たち、お友達だわ」


 恥をかかせることになったとしても、それだけは聞き捨てならない。アデルが手厳しく返したら、父が少し得意げに見えた。


「え? い、いや、その……」


 マシューはクレメンスになんと言っていたのだろう。チラチラと後ろを振り返っている。

 ただ、クレメンスはそんなマシューに興味がないのか、ホテルをぐるりと見回していた。


 レイチェルを捜しているのだ。アデルはどうしていいか困り、そうだ、ラウンジへ誘おうと思い立った。

 ラウンジならジーンがいる。何かあった時に対処してもらえるかもしれない。


「初めまして、ミスター・ミラー。私はアデル・ダスティンと申します。コンサート、素晴らしかったですわ。よろしければラウンジでお茶でもいかがでしょう? ここの紅茶はロンドンでもお目にかかれないくらい美味しいので」


 さすがにこんな有名人をお茶に誘うのは緊張する。彼なら美人なんて見慣れているだろうから、デレッとはしてくれない。

 そもそも、レイチェルという恋人がいてデレッとしてはいけないのだが。


 クレメンスはアデルの申し出を受け、思った以上に人懐っこく微笑んだ。


「ありがとう、ミス・ダスティン。僕も美味しい紅茶が飲みたいと思っていたところだよ」


 舞台上の彼は研ぎ澄まされていて、近寄りがたい空気を醸し出していたが、音楽と関係のないところでは案外柔らかい。


 父は驚きが勝ちすぎて少し引いていた。マシューが相手なら強気で出ただろうが、スポンサーの多いクレメンスを敵に回したくはないのだろう。


 これで二時間が稼げるかもしれない。アデルはほっとしたが、ひとつ問題がある。


 ジーンに誤解されないかどうかが心配だ。

 マシューはクレメンスが恋敵になったらどうしようかと焦って見えたが、恋敵はそちらではない。

 ラウンジで働いている。

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