◆4

 アデルはジーンのことをじっと見つめた。そうしたら、ジーンは面倒くさそうに目を逸らした。

 せっかく二人で出かけて、こうして公園のベンチに仲良く座っている。話している内容に色気の欠片もないとしても、これはデートだ。


 アデルは改めて、ジーンとの距離を詰めた。すると、ジーンは横にずれて距離を保った。アデルはめげずに再び詰める。ジーンはさらに横へ――は行けなかった。ベンチはそんなに長くないのだから。

 ずり落ちそうになって諦めて留まったジーンに寄りかかり、アデルはフフ、と笑った。


 本当に、アデルにこんな態度を取るのはジーンだけで、何から何まで新鮮に感じられる。他の誰かに今日の出来事を語った場合、〈恋は盲目〉とはよく言ったものだと返されるとしても。


 アデルがしなだれかかると、ジーンは思いきりそっぽを向いて迷惑そうだった。それでも、二人で寄り添っているだけでとても幸せな心地がするのだ。

 それこそ、心に羽が生えたみたいに。


 ジーンに寄り添ったまま顔を見上げると、膝で頬杖をついた体勢のまま、優しい、うっとりとした目をしていた。

 もしかして、ジーンもアデルと同じ気持ちなのかとときめいたのも束の間。


 ジーンの視線の先には、初老の男性がリードをつけて散歩するコッカー・スパニエルがいた。垂れた耳が、犬が小走りするたびに、タフ、タフ、と揺れるのをただじっと見つめている。


 隣にこんな美女が寄り添っているのに、彼に喜びを与えたのは犬なのか。その事実に愕然としたけれど、アデルは前向きに考えた。ジーンのことをまたひとつ知った、と。


「ジーンって、犬が好きなの?」


 アデルが声に出すと、ジーンは驚いたようだった。


「なんで?」


 なんでと言われても、見たままだ。嫌いならあんな優しい顔で見ていない。


「なんでって、嫌いなの? 好きでしょ?」

「……好きだけど」


 渋々認めた。何故そんなに渋々なのかはわからない。

 好みを知られたことが弱みに繋がるとでも言いたいのだろうか。もしかすると、ジーンならそうなのかもしれない。


 先ほどの三択からもわかるように、ジーンが性質を読まれてアデルに誘導されることを恐れるのなら、アデルにはそんなつもりもない。

 小難しいやり方はせず、いつでも直球勝負だ。


「そうねぇ。ジーンについてひとつ知ったから、今度は私のことをもうひとつ知ってもらおうかしら?」

「……何を?」


 とても身構えられた。

 それをアデルは笑ってみせる。


「ええと、私は歌が好きだったの。小さい頃は歌が上手だって褒められるのが何より嬉しかったわ」


 それに対し、ジーンは何も言わない。それでも、ちゃんと聞いていてくれると思えた。


「でも、段々、私よりも上手な子がたくさんいるって気がついたの。私がたくさん褒められるのは、私が可愛いかったからなのよ」


 ジーンは真顔だった。また傲慢なことをと言い出したと突っ込まれるかと思えば、そのまま静かに聞いている。余計な言葉を差し挟まないのは、アデルが何を言いたいのかわからないからかもしれない。


 アデルは空を見上げ、手に入らないものをねだる子供のようにして手を伸ばした。


「私が褒められていたのは歌じゃなかったの。町角で、お世辞にも可愛いとは言えない、くたびれた服を着た女の子が楽しそうに歌っているのを聞いて、自分は騙せないって思ったわ。私の歌は、精々が下手じゃないっていうところ」


 家は裕福で、家族は優しい。容姿にも恵まれている。

 だからといって、何もかもが手に入るわけではない。


 見るからに貧しそうな少女の方が、アデルよりも豊かな表現で歌えた。小手先のことではなく、気持ちの入り方が違っていた。歌うことが彼女の幸せなのだと嫌でも伝わった。

 それが、アデルが味わった初めての敗北で挫折だった。


「負けを認めたら、もう人前で歌うのが怖くなってしまって、自分から歌うことはなかったの。それなのに、今になって歌いたい気分」


 あの女の子は、歌を愛していた。その想いがアデルには足りなかった。

 今、ジーンといて幸せな気分になれたから、それを歌に込めたくなった。恋をしているアデルは、あの時の女の子ほどに幸せに歌える気がする。


 恋って素晴らしいなとアデルは思うけれど、ジーンは打てば響くというタイプではない。ふぅん、と相変わらず素っ気なく返された。


 これでもアデルなりの幼少期の傷痕である。家族にもアデルが歌わなくなった理由は告げていない。気まぐれに、気分が乗らないとしか言わなかった。これを語ったのは初めてだ。


 ジーンにはなんでも語りたくなってしまう。もっと自分のことを知ってほしいから。

 それもジーンには迷惑なことだろうか。


 アデルは急に、浮かれていた気持ちが萎んでいくのを感じた。マシューを独りよがりだと思うのと同じくらい、アデルも独りよがりなのだ。

 しょんぼりと項垂れていると、ジーンは小さくうなずいた。


「誰にだって苦い経験はいくらでもある」


 この時のジーンの表情は、今までに見たどんな時よりも優しかった。その顔を見たら、不意に目が潤んだほどに。


「誰にだって? ジーンにも苦い経験はある?」

「ある」

「どんな?」

「良かれと思ってしたことが裏目に出るなんてしょっちゅうだった」


 世間をどこか斜に見ていて、なんでも躱していそうなジーンにもそんな時期があったらしい。それによって段々と今のような性格になったのだろうか。

 とはいえ、幼少期の素直なジーンというのも想像できないのだが。


「そうなの? でも、そんな経験もあって今があるわけでしょう? ジーンがランバート・ホテルに勤め出して、それで私は出会えたんだから、世の中、悪いことばかりじゃないわ」


 ジーンの隣で、目を見つめた。少しくらいはジーンに響いただろうかと思えば、呆れたように返された。


「あんたって、なんでそんなにポジティブなんだろうな?」

「そうでもないと思うけど?」


 笑って寄りかかっても、ジーンはアデルを押し戻さなかった。その代わり、喜んでもいないと言いたげにぼやかれた。


「あんたの周りにいた男たちと僕のリアクションが違うから物珍しいのかもしれないけどな、いつまでこの調子なんだ?」

「いつって、そんなのわからないわ。物珍しいって、びっくりはしたけれど、それだけじゃないの。あなたのことが好きだって言ったじゃない。好きになった以上、気持ちのままに動くだけよ」

「…………」


 理解しがたいという顔をされた。けれど、あのスイートルームに呼びつけた日ほどの嫌悪感を示されたわけではない。

 こうして押し戻さずに寄り添わせてくれている。少しずつ前進しているのだ。


「犬が……」


 ジーンがポツリとつぶやく。


「え? 犬?」


 アデルが顔を上げると、ジーンはアデルを見ずに独り言のように続ける。


「通りかかった犬が急に懐いたとして、その犬になんで僕に懐くんだって訊ねるくらい馬鹿なことを訊いたのかもしれない」

「その犬、きっと可愛いんでしょうね?」

「スパニエルよりテリアっぽい」


 アデルの生涯で犬扱いされたのも初めての経験である。

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