◆3

 ジーンのところにばかり入り浸るわけにもいかず――ジーンに言わせれば十分入り浸っている――アデルは姉のいる304号室に向かった。


 アデルだけスイートルームで、姉はこの部屋のままだ。人が亡くなった部屋の隣にいるから、神経の細い姉はいつまでも回復できないのかもしれない。部屋を移してもらうべきだ。

 姉の部屋の前に立つと扉をノックした。


「姉さん、入ってもいいかしら?」


 それにしても、あのラプサンスーチョンのせいでまだ鼻が利かない。もう飲み終わった紅茶にいつまでも主張されている。なんて威力だろうか。

ジーンも嫌がらせ目的なのか、かなり濃く淹れたようだ。


「ええ、どうぞ」


 か細い声が返る。中に入ると、姉はベッドにこそいなかったが、椅子の背もたれにぐったりと背中を預けていた。顔色はもしかすると昨日よりも悪いかもしれない。

 昨日、アデルが騒いだせいで心労がかさんだのだとしたら、どうしようか。


 テーブルの上には冷めた紅茶――まさかのラプサンスーチョンだった――と〈マンチェスター・ガーディアン〉紙。一八二一年にここマンチェスターで創刊された歴史ある新聞だ。きっと、今回の事件のことにも触れられているのだろう。


「姉さん、顔色が悪いわ」


 アデルがそう言ってベッドに座ると、姉は苦笑した。


「こんな時なのに、ごめんなさいね」

「私なら平気よ。昨日のあれも悪戯で、毒なんて入ってなかったみたいだし」


 姉はほぅ、と軽く息をついた。


「ええ、警察の方が教えてくださったわ。でも、今後何があるかわからないから」

「それね、私は最初から狙われてなかったみたい。ジーンがそう言うんだから、多分そうなんだと思うのよ」


 それを言うと、姉は重たげな頭をゆっくりと持ち上げた。


「ジーンって?」


 そうだ、姉にはまだ詳しく話していなかった。姉は具合が悪いせいでラウンジに足を運ぶのではなく、部屋に紅茶を運んでもらっているようだから、ジーンとはそれほど顔を合わせていない。

 アデルはなるべく落ち着いた声になるように心がけながら話した。


「ジーン・ロイド。あのラウンジにいるフットマンよ。ほら、姉さんのイヤリングがないって言ってた時に助言してくれたでしょ?」

「ああ、あのプラチナブロンドの」

「そうよ」


 さすがに具合の悪い姉を相手に、そのジーンに恋をしてしまったとまでは言わない。それに人が死んでいるのだから、浮つくのもよくない。

 とはいえ、顔は正直だったかもしれない。ゆるんでいないとは言い難かった。


「ジーンは頭がいいし、なんでもよく気がつくの。狙われていたのは私なくて、最初からあのメイド、ノーマ・ガードナーだったんじゃないかって。捜査を攪乱するために私が狙われていると見せかけたかっただけだろうって」


 話の内容が内容だったせいか、姉は目を瞬かせた。


「彼女、人から恨まれるようには見えなかったけれど?」


 もともと、ノーマは姉の部屋の担当だったのだ。少しくらいは言葉も交わしただろう。

 アデルから見ても、ノーマはどんくさい女の子でしかなかった。


「逆恨みってこともあるし、そのところはよくわからないわ」


 この時、姉は体調不良のせいもあってか、なんとも薄暗い表情をしていた。


「そうね。……人って、他人にはその人のすべてなんてわからないもの」


 姉らしくない言葉だと思いつつも、本当はそれも違うのかもしれないと思い直した。

 いつでも周りを気遣い、言葉に気をつけてきた姉だからこそ、体調が優れない今、ほんの少しの本音が漏れる。


 そんな姉になんと言葉をかければいいのか、アデルには思いつかなかった。傷つけたくなかったのだ。

 姉は一度目を閉じ、それからゆっくりとまぶたを持ち上げた。


「お父様からお電話があって、デリックがこちらへ向かうと申し出てくれたと仰るの」


 最愛の婚約者のはずが、姉は少しも嬉しそうには見えない。頼りにしているようには感じ取れなかった。

 やはり、以前の出来事が禍根を残しているのか、姉はデリックを信じきれていないのかもしれない。こんなことで結婚してやっていけるのかと心配してしまう。


「……デリックが。でも、来てもらっても、ねぇ」


 デリックは実業家であって、探偵ではない。彼を向かわせるくらいならば探偵を雇った方がよかったのではないのか。

 いや、父は事件のことではなく、娘たちを思い遣ってデリックを向かわせたのだ。父の気持ちはありがたく受け取らねばならないだろうか。


「忙しい人だから、すぐに帰るでしょう」


 苦笑する姉は、まるで自嘲しているように見えた。私の心配をしてここに来るわけではないとでも考えている。

 それが手に取るようにわかって、アデルもまた残されて冷えきった紅茶ほどには虚しい気分だった。




 この後、またマシューがやってきた。フロントまで呼び出され、アデルは愛想笑いも忘れた。


「あら、どうしたの? 何か用?」


 雑な扱いに、手早く済ませようとしていることが伝わっただろうか。マシューは切ない目をした。


「僕は今、クレメンスと一緒のホテルに泊まっていて、とても有意義な時間を過ごしている。またとないスキルアップの時で、このホテルに替えるのは難しいんだ。本当は何を差し置いても恐ろしい目に遭っている君のそばにいなくちゃならないのに。でも、こうして毎日顔は出すから、どうか許してくれないか……」


 人気絶頂で多忙なクレメンス・ミラーがまだマンチェスターに留まっているらしい。

 〈クレメンス〉と、世界的な大スターを親しげに呼ぶけれど、どれほどの仲だというのだろう。きっとマシューが一方的に慕ってつきまとっているだけだと、アデルはなんとなく思った。


「何度も言うけれど、私は大丈夫なの。あなたは仕事に専念していていいのよ」


 そばにいてほしいのはジーンだけだ。

 マシューがいつまでも目を覚まさないのは、今までのアデルの対応が悪かったせいで、これも自業自得なのかと思うと複雑だ。


「アデル……」


 どうしても、自分に都合のいいようにしか受け取らない。

 自分を気遣ってくれている、と思い込んだ。キュン、と胸をときめかせるみたいな表情で見つめられても困る。


「……じゃあ、そういうことで」


 この時、さっさと戻ろうとしたアデルの肩をマシューが素早く抱き寄せ、髪にキスをした。

 こんなことは今まで何度もあったけれど、金輪際二度となくていい。アデルは弾かれたようにマシューを突き飛ばした。


 しかし、公衆の面前だから照れているとしか受け取られない。マシューは根っから自己愛が強く、楽天家である。しみじみそれを感じた。


「アデル、愛している」


 そういうのはもういい。他の人からは要らない。


 アデルは無言で、その愛から逃げるように去ったが、アデルが遠ざかるなりマシューはホテルの従業員に何か口うるさく言っていた。

 相変わらず通路が狭いとか、端っこを歩けとか。


 急に偉そうになる辺りがなんだかな、とアデルは到着したエレベーターの中で深々と溜息をついた。

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