◆2

 ジーンは他のテーブルについており、穏やかな笑みを浮かべていた。アデルには向けてくれない微笑である。


 アデルはというと、他のフットマンが来てくれたので、説明もおざなりに聞き流し、時間をかけて紅茶を飲みながらジーンが解放されるのを待った。

 それはもう、絡めとるほど執拗な視線を送り、青筋を立てたジーンがようやく来てくれたのでほっとした。


「ああ、やっと来てくれたわね」

「あんたは僕の評判をどうしたいんだ?」


 女性客に手を出したとでも噂されるのを恐れているのだろうか。なんだ、そんなことかとアデルは微笑んだ。


「ロンドンにもホテルはたくさんあるわ。私のお父様なら伝手もたくさんあるから心配しないで」


 職場を変えてもジーンなら卒なくこなせるだろう。そんなにこのホテルに執着しているふうでもない。

 ロンドンの方がジーンには合っているし、その方がすぐ会いに行けると勝手に考える。


 しかし、アデルのその短絡的な発言が気に入らなかったのか、ジーンは笑顔で怒った。


「こんな変な客に絡まれるんだから、次は違う職にしようか」

「あらそう? 大変なのね」

「…………」


 と、こんなやり取りをしている場合ではなかった。アデルは仕入れた情報をジーンの耳に入れようと思っただけなのだ。


「あのね、ノーマの恋人のジョエルがいたから少しお話したのよ」

「ジョエル? ジョエル・フレイザーか」


 ファミリーネームまでは知らないが、多分それだろう。


「すごくショックを受けているみたい。ひどい顔をしていたわ。彼、ノーマが自殺したのは自分と喧嘩したせいだって思いつめていたの。ジョエルは犯人じゃないと思うわ」


 すると、ジーンは伏し目がちになり、思案している様子だった。


「ジョエルは、コッツウォルズ北部、チッピング・カムデンにある肉屋の次男だ。虫も殺せないようなやつで、家畜が屠殺されるところを見てから、大人になったら手伝わされないように絶対に家を出るんだって決めてたらしい。しばらくロンドンで働いて、でも窃盗の濡れ衣を着せられて辞めざるを得なくてここに流れ着いたとか」


 興味がないふりをしていながらも、やはりジーンは他人に詳しい。記憶力がいいのもあるのだろうけれど、細かいことをよく覚えている。


「窃盗なんて。それでよくここで雇ってもらえたわね」


 あの気弱なジョエルが盗みを働くとは思わない。実際、濡れ衣だったのだろう。


「雇い主がちゃんと無実だってわかってくれてたんだろうな。それでもホテルの信用問題だから、表向きはジョエルのせいにして丸く収めたんじゃないのか? 紹介状もちゃんとあったらしいし」

「嫌な話ねぇ」

「どうせ客の勘違いかなんかだったんだろう。その客も騒ぎ立てた手前、今さら恥をさらせなくなったってところじゃないか?」

「……この前の、うちの姉さんみたいじゃない」


 思わずつぶやいた。姉もイヤリングを失くしたと騒いだのだ。騒いだのはアデルであって、姉は見当たらないと言っただけではあるが。


「あんたの姉さんは素直に勘違いを認めたじゃないか。ホテルじゃ、あんなのは日常茶飯事だ」


 よく客の持ち物がなくなるようだ。そのうちのいくらかはただの紛失で、窃盗の可能性はほんの少しなのだろうけれど。


 ジョエルが巻き込まれた事件の場合は、犯人もおらず、騒動を収める手段としてトカゲの尻尾切りを行ったのだ。余程の上客だったに違いない。どこの組織にもこうしたことはあるのだろう。


「ジョエルの事情は今度の事件に関わってくるのかしら?」

「関係なさそうだけどな」

「そうねぇ」


 アデルもそう思う。まだまだ情報が足りないようだ。


「ねえ、ジーン。他に気になる人はいる? 私、何かの役に立てるかしら?」


 すると、ジーンは目を細めた。


「あんたは僕に何をさせたいんだ?」


 怒っているように見えるけれど、それほどでもない。怒ったふりをしてるだけに見えたから、アデルは続けた。


「犯人を見つけてほしいって言ったでしょう?」

「だから、それは警察の仕事だ」

「そうだけど、手伝ってもいいじゃない?」


 ジーンならできそうな気がするのだ。ホテル勤めよりそういう調査が向いているのではないだろうか。

 アデルがしつこいせいか、ジーンはムッとしていた。


「そういうのは首を突っ込むと、ろくなことにならないんだ」

「それって、首を突っ込んだことがある人の言い分よね?」


 それを言うと、ジーンはさらに顔をしかめた。さすがに殺人事件ではないにしても、ジーンは事件に巻き込まれてそれを解決しようとしたことがあるのだろうか。そのせいで逆恨みされたなんてことも過去にはあったのかもしれない。

 だからこそ、アデルの頼みを突っぱねるのか。


 ジーンはここで突っ立っているだけではまずいと思ったのか、無言で紅茶を淹れ始めた。アデルにその新しい紅茶を差し出す。このスモーキーフレーバーは――。


 アデルはオリエンタルなシノワズリのカップを口元に近づけ、ゴホッと香りにむせた。

 この独特の香りは、好みが分かれる。砂糖でもミルクでもごまかせない。アデルはこの強烈なフレーバーが苦手だった。


 それでも、せっかくジーンがアデルのために淹れてくれた紅茶だから、と懸命にチビチビと飲んだ。そうしたら、ジーンは急に笑顔を振りまいてくれた。


正山小種ラプサンスーチョン。福建省武夷山周辺で採れる茶葉に松の木で燻して香りづけした燻製茶だ。あんたの味覚はお子様だから、多分駄目だと思った」


 駄目だと思ったのに淹れてくれたのは、これを機に燻製茶の素晴らしさに目覚めるといいと、そういうことだろうか。それとも、次に来たらこれで撃退できると考えているのか。


「そ、そ、そんなことなくってよ。美味しかったわ」


 上流階級の紳士が好むラプサンスーチョンは、アデルの家でもよく飲まれている。薄めに淹れるのが良いとされ、客人が来た時にもよく出されるのだ。


 高級品だろうと、飲み干した今も匂いが鼻について離れない。なんとなく涙目のアデルに、ジーンはへぇ、と言って笑った。意地悪だ。


 こんなに変わった人なのに、何故か惹かれてしまう。そうか、このラプサンスーチョンも同じで、いつかこの癖を味わい深く感じる時が来るのか。

 個性があるっていいな、とアデルはなるべく好意的に受け止めるのだった。

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