◆4

 やはり、まだロンドンへ帰ってはいけないと釘を刺された。

 アデルには自殺にしか思えないのに、警察は他殺の可能性も視野に入れて調査しなくてはならないらしい。ノーマではなくアデルが狙われたという線でも調べを進めている。


 もやもやと、湿りっぽいイングランドの空模様ほどにアデルの心は晴れなかった。そして、突如降り出した雨のように差し込む冷たさに身を震わせる。


 その後、アデルはフロントに呼び出され、両親からの電話に出る。父は激昂しているらしく、声がキンキンとうるさかった。


『警察に圧力をかけて、すぐにでもロンドンへ帰れるように手筈を整えてやる! お前たちは何も心配しなくていい!』

「姉さんもいるし、私なら平気よ。きっとすぐに解放されるでしょうし、心配はしていないわ。お父様もお仕事が忙しいんですもの。ご無理はなさらないで」


 忙しい父が急にマンチェスターまで来れるとは思わない。父と弟を置いて母だけ来るということもない。父がこのホテルにこれ以上苦情を申し立てないかが心配だったので、来なくていいと思った。


 父はホテルと言うよりも、アデルをここへ呼んだマシューが気に入らないようで、ツラツラと欠点をあげつらい出したので、アデルはそっと受話器を置いた。


 それから、迷わずラウンジへ向かう。丁度いい、昼前のイレブンジスティーの時間だ。

 ニコニコと笑顔で席に着くと、仕事中のジーンは笑顔を向けたが、明らかに苛立っている。何故だか笑顔なのにそれが読み取れたのだ。


「お客様、何をお求めでしょうか」

「ええと、あなたかしら?」


 率直に言いすぎた。ジーンがカトラリーを握る手に青筋が浮いている。


「ちょ、ちょっと話を聴いてほしくって。今、警察の方と話してきたところなの」


 慌ててつけ足すと、ジーンは冷ややかに目を細めたが、暴言の代わりに息をつくだけに留めてくれた。

 仕事中なので何もしないというわけにはいかないらしく、ジーンはアデルの前にカトラリーを並べながら言った。


「話ならあんたの姉さんにしたらいいだろ」


 ジーンでなくとも、まずそれを言っただろう。この地でアデルの一番の味方は、姉のマルグリットであるはずだと。


「……姉さんは心配性だから、狙われたのが私かもしれないなんてとても言えないわ」


 もっともらしく言ってみたけれど、それは建前だ。姉とは今、冷静に話ができる気がしない。

 ――本当に、姉はアデルの味方なのだろうか。


 一抹の不安を、ジーンの奥深い目が射抜く。


「なんだ、あんたを狙ったのは姉さんだとでも?」


 恐ろしくて考えたくなかったことを、ジーンは容易く口にしてしまう。

 アデルが硬直してしまってから、ジーンはようやく失言に気づいてくれた。いくつも備えられた三段式ケーキスタンドのところへ行き、数種類のデザートを取り分けて戻ってくる。


 ヨークシャーカードタルト、パブロヴァ、アップルシャルロット、手軽につまめるメルティングモメント、マカルーン――そんなに食べたら太りそうな量だが、それらが美味しそうなのも事実だ。


「なんでそう思う? 落ち着いて話してみろ」


 テーブルを夢のように整えながらジーンは言う。

 馬鹿なことを考えていると突っぱねるのではなく、客観的な視線だった。カップにミルクを注ぎ入れ、ミルクティーを差し出す。


 ひと口飲んでまろやかな優しさにほっと心が和んだ。ジーンの淹れるお茶は、本人以上に優しく、飲むと心が解れていく。やっぱり、ジーンは魔法使いだろうか。

 自然と、うちに秘め続けていたはずの言葉が零れた。


「小さい頃から私と比較されて、姉さんはきっと面白くなかったんじゃないかしら。どうしたって小さい方がちやほやされるものでしょうけど……。身内はまだしも、他人は露骨よ。全然似ていないって笑うの。姉さんは、私といて嫌な思いをする方が多かったわ」


 見た目の愛らしさから可愛がられていたアデルにはわからない苦労があったのではないかと、時折見せる暗い表情から思う。

 アデルは自分が姉の立場だったら、絶対にアデルのことが好きではなかった。いなくなればいいのに、と密やかに願ったことだろう。


 これを言うだけでも喉が苦しくなったのに、ジーンはその告白からさらに奥へと切り込んでいく。


「でも、それだけで家族を殺したいなんて思うわけないだろ。あんたが考える決定的な出来事はなんだ?」


 それを言われてアデルはハッと顔を上げた。ジーンは怒っている様子でもない。淡々としている。他人事だからか。


 そうかもしれない。

 ジーンには関わりのないことだから冷静に受け止められるのだ。


 そして、そんな彼に話を振ったのはアデルである。もののついでだというような気分で、アデルはミルクティーを飲み干した。


「姉さん、婚約したのよ。相手は実業家。それでね、家族になるのだから私も顔を合わせたのだけれど、その時、婚約者のデリックは終始私に見惚れていたの。さすがに気まずかったわ。あの時の姉さんの顔は忘れない」


 傷ついた面持ちにうっすらと涙を湛え、それでも無言だった。デリックにもアデルにも何も言わない。


 姉はきっと、婚約を受け入れてくれたこの人ならば、ちゃんと自分を一番に見てくれると信じたはずなのだ。

 デリックはごく普通の感覚の持ち主で悪意はないのだろうけれど、隣に女性がいて、他の女性に見惚れるというのは怒られても仕方のないことである。


 こんなことには慣れていて、いつもなら苦笑するだけの姉も、相手が自分の婚約者ともなれば話は別である。それから口数が少なくなり、普通に話してくれるようになったのは、それからしばらくしてだった。


 アデルがいる限り他の誰を選んでもこんな目に遭うのだと、姉は虚ろな気分になったのではないのか。


 ジーンは、アデルのこの告白を静かに聞いていて、区切りの良いところで新たな紅茶を淹れてくれた。コトコトと、クィーン・アン・スタイルのティーポットから紅茶が注がれる音は耳に心地よい。


 そういうのはあんたの自惚れだと、ジーンはまた毒を吐くかに思えた。

 けれど、そうではなかった。


「まあ、あんたの姉さんがその時に傷ついたのは本当かもな。でも、僕が今朝話した限りだと、妹を心配してるふうだった。あれが演技でなければな」


 馬鹿なことを言っていると叱られはしなかった。それだけで十分嬉しかった。

 どうしてアデルはこのフットマンに、誰にも言えずに抱えていたことを打ち明けているのだろう。それは、非日常的な事件が起こったせいばかりではないような気がした。


「ねえ――」


 何を言おうとしたのか、アデルは口を開きかけた。この時、アデルがジーンを見つめる目は、どんなものだっただろう。今まで誰にも向けたことがないようなものだった気がするのだ。

 ただ、この時のアデルの言葉を遮ったのは、聞き知った声だった。


「アデル!」


 思わず舌打ちをしてやりたいような気分でアデルが振り向くと、いつもの澄ました顔が嘘のように、汗を掻いて取り乱したマシューがいた。茶色の艶やかな髪はセットが崩れ、額にかかっている。着ているスーツは汚れてこそいないが、マシューにゆとりがないせいか、どこかパッとしない。


「あら、そんなに慌ててどうしたの?」


 アデルの方が落ち着いて切り返す。昨日、楽屋に顔を出さないで帰ったことを問い質しに来たのでなければいいが。


 マシューはテーブルの上に置いていたアデルの手を強くつかんだ。その勢いに驚いていると、マシューは心底ほっとした様子で息をついた。


「ああ、よかった。君が事件に巻き込まれたと聞いて、矢も楯もたまらず飛び出してきたんだ」


 重たい熱量がその言葉の中には溢れていた。少し前のアデルなら、嫣然と微笑み返して焦らすように手を抜いたことだろう。心配されるのも当然、愛されるのもこちらから頼んだわけではないとばかりに。


 しかし、今のアデルはというと、とっさにマシューの手を振り払っていた。結構な力が籠っていたので、思いきり振り払った形になる。

 マシューはヴァイオリニストで、指は大事な商売道具だ。こんな雑な扱いをしてはいけないのだが、つい――。


「警察がついているし、私は平気よ。あなた、公演の後で疲れているでしょう? ほら、気にしないで」


 早口でそれだけ言った。

 それをマシューは、自分の理解の及ぶ限りで解釈したようだ。


「市警が何をしてくれるって? 君の不安をすべて取り除けるとは思わないよ。僕は愛しい君を守りたいんだ」


 こういうことを言われて喜んでいた過去の自分がなんとなく恥ずかしい。今、ジーンがどんな目をしてアデルたちを眺めているのか、ちょっと怖くてそちらを向けない。


「お気遣いなく。本当に平気」


 いつものように、〈マット〉と愛称で親しげに呼びかけても来ないアデルに、マシューは整った顔を曇らせた。


「アデル、怒っているのかい?」

「え? どうして?」


 マシューに対して何を怒ることがあっただろう。むしろ、今の今まで存在を思い出さなかったくらいだ。

 もし、マシューがメイドのノーマに手を出していて、ノーマが腹いせにアデルの部屋で自殺したというのでなければ、怒る理由もない。


 首をかしげたアデルに、マシューはわざとらしくため息をついてみせる。


「僕がマンチェスターまで来てほしいと頼んだから、君はこんな目に遭ったんだ。責任を感じてしまうのは当然だろう?」


 そういえば、そうだった。マシューに呼ばれなければここには来ていない。

 けれど、それを恨む気持ちは微塵もない。事件には巻き込まれたけれど、むしろ感謝したい。

 それは今、ずっと抱えていた姉とのことをジーンに吐き出せたからだろう。


「あら、気にしないで。マンチェスターは素晴らしいところだわ。悲しいことはあったけれど、私、来てよかったと思っているのよ」


 産業革命の中核として栄えた工業都市マンチェスター。

 最盛期を過ぎて人口減少に歯止めがかからず、衰退していく都市だとしても、ここにはアデルにとって素晴らしい出会いがあった。


 上品に見えて怖かったり、怖いと思ったら優しかったり。ジーンはあまり周りにいないタイプの人だから、やることなすことすべてに予測がつかない。だからか、言動にドキドキしてしまう。


 マシューを始めとするボーイフレンドたちには感じたことのない胸の鼓動だった。なんでこんなよくわからない人に、と思うけれど、もう少し一緒にいたい。ジーンのことを知りたいと思う自分がいる。


「アデル……。君はなんて優しいんだ」


 それが自分に対するフォローだと勘違いしたマシューが感じ入っていた。

 しかし、アデルはそんなマシューではなく、隣で笑いを堪えているようなジーンを見ていた。


「とにかく、私のことはいいからあまり騒がないで。それから、今はティーの途中だから邪魔しないで」


 どこまでも本気で言っている。それなのに、素っ気ない態度も自分の気を引きたいがための駆け引きだと取られてしまうのは、これまでのアデルの行いが悪かったせいである。


 冷めたらポイ。

 アデルはそういう女なのだが、マシューはハンサムで芸術家だから、〈ポイ〉された経験がないので気づかない。


 自分もこのホテルに替えると言い出したマシューをどうにか追い払うと、アデルはいつの間にか別のテーブルに行ってしまっていたジーンを見つめ、目で呼び寄せようと頑張った。

 ジーンは、笑顔で青筋を立てながら戻ってきてくれた。


「なんだ、まだ話があるのか? 僕は見ての通り忙しい」


 お前の相手は疲れるとばかりに言われたが、アデルはめげなかった。


「ええ、大事な話があるわ」

「……殺される心当たり? さっきの男か」


 情熱的なマシューは、アデルが手に入らないとなれば殺しにかかるとでも言いたいのだろうか。さすがにそんなことは考えていない。


「違うわよ。そうじゃなくって」


 そこでアデルはすっかりぬるくなった紅茶をひと口飲み、ジーンを見上げてにっこりと微笑んだ。


「私、あなたのことが好きになってしまったみたい」


 この時のジーンは、この世の終わりかというくらい嫌な顔をした。

 ――このたったひと言をアデルから引き出すために、どれだけの男性が腐心してきたことだろう。

 だというのに、ジーンは結局、アデルの愛の告白をサラリと笑顔で躱した。


「僕は、あんたみたいな女は好きじゃない」


 最初に放たれた衝撃的な台詞が蘇る。

 いいや、〈傲慢〉という箇所が取れただけ柔らかい。


 ジーンは口が悪いだけだ。言葉はきついけれど、そんなことを言いつつも気にかけてくれている。悪かったと言ってアデルの好物を買ってきてくれた。


 その甘くて夢見るようにかぐわしい薔薇のチョコレートが恋心を呼び覚ましたなんてロマンチックだ。


「好きじゃないっていうのは、嫌いでもないと受け取っていいかしら?」


 諦めずに言うと、ジーンは真顔になった。

 アデルもまた、マシューと同じくらいには恋に破れた経験がないのである。頑張ればどうにかなると思っていた。


 その努力を今までしてきたことはないのだけれど、好きな人を振り向かせるための努力というのは、響きだけで素敵だ。考えただけでワクワクした。


 しかし、当のジーンは笑ってすらいない。


「僕は忙しい。そういう話なら壁に向かってしてくれ」


 それだけ言うと、さっさと行ってしまった。あれは照れていると受け取っておこう。


 とりあえずアデルは、ジーンが運んできてくれたデザートをひとつずつ味わって食べた。紅茶がなくなったのでフットマンを呼んだら、ジーンが拒否したのか、別のフットマンが来た。


 嬉しそうに給仕してくれたが、アデルはがっかりだった。

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