第2話 シャンナの目覚め

 いつの間にか、まどろんでいた。

 戦いの傷が癒える間もないなかでの、強行軍だった。

 身体が、休めるときに休むべきだと判断したのだろう。

 戦続きの日々の中にあったときは、そのわずかな合間にでも睡眠を取れるというのは、大事な能力の一つだった。


「シャンナ、わたしだ! 分かるか?」


 イブナのその声に、一気に意識を引き戻された。

 薄目を開け、壁に背を預けたまま、彼女たちのほうに目をやる。

 なんとなく、姉妹の再会に水を差してはいけない、という気がした。


「……お姉様?」


 か細く、消え入りそうな声。

 イブナのものではなかった。

 透きとおるように澄んだ、淡雪あわゆきを思わせる声音だった。


「そうだ。わたしだ、シャンナ! ああ、気分はどうだ? まだ痛むか?」


 イブナの声は上ずっている。

 今にも泣き出しそうなほどだった。

 傍で聞いている俺の胸をすら、つまらせる響きがあった。

 イブナの妹、シャンナはくるまっていたマントから抜け出し、上体を起こそうとしていた。

 洞穴にかかげた薄明りの作る影が、小さく揺れた。


「ばか、まだ起き上がるな。じっとしてろ」


 狼狽するイブナに対して、シャンナの声音は落ち着いた、穏やかなものだった。


「今はとても気分が良いんです。……いつぶりか分からないくらい。きっとお姉様のお陰なんでしょうね」


 そのときになって、俺はシャンナの顔を初めてまともに見た。

 柔らかく微笑む彼女の姿は、ここが洞穴の中であることを忘れてしまうくらい、もの静かな印象だった。


 正直、あまり姉には似ていない。

 イブナの濃紺のうこんの髪に対して、小川のせせらぎを思わせるような薄い水色の髪の持ち主だ。

 浅緑の肌はイブナよりも色素が薄く、瞳の色は銀に近い灰色だった。

 研ぎ澄まされた銀の剣を思わせるイブナの稜線りょうせんに対し、彼女の輪郭は柔らかく、それ以上に幼く見える。半身を毛布に包んだ格好だが、おそらくイブナの胸のあたりまでも背はないだろう。

 それと、イブナの顔には無かった、一角獣を思わせるような小さな角が生えている。


 何よりの違いがその瞳だ。

 乱魔の病に冒されてもなお、燃え立つような闘志を宿していたイブナの目に対して、シャンナのそれは、どこかまどろんでいるような、はかなげな光があった。

 病み上がりということを考慮にいれても、戦士のそれとはかけ離れたたたずまいだ。


 事前にイブナから聞いていたとおり、いやそれ以上に、俺の知る魔族のイメージから大きくかけ離れた雰囲気をまとっている。

 まるで、深窓の令嬢のようだ。

 彼女が、魔王をも凌駕りょうがする魔力の持ち主だとは、一見して信じられるものではなかった。


 だが一方で、イブナとも違う、何か底の知れない深みも感じられる気がした。

 その正体がなんなのかは分からないが、絶大な魔力というのも、その一端なのかもしれない。


「そうか。ともかく休め。食欲はあるのか? といって大した用意はないが……。もう少し待ってもらえたら、森で何か見つけてくる」


 イブナはよほど感情がたかぶっているのか、矢継ぎ早に言う。

 その姿に、俺は一瞬、亡き姉を重ねて胸がうずいた。


 シャンナは今にも泣きだしそうなイブナの顔から、気恥ずかしげに目を逸らした。

 周囲を見渡し――、俺と目が合った。

 きょとんと小首をかしげる。

 二人の邪魔をしては悪いが、無視するわけにもいかなかった。


「俺はマハトという」


 我ながら間抜けな名乗りだった。

 無垢な令嬢を思わせる彼女の姿に、毒気を抜かれてしまった格好だ。


「あ、なぜヒト族の男がここにいるのか疑問だと思うが安心しろ。こいつはな――」


 イブナも慌てて口を開く。

 しかし、シャンナは小さく首を横に振って、目を細めた。

 姉の言葉をやんわりと遮る。


「マハトさん、でしたね。何があったのかは、分かっているつもりです」


 なぜ、とはきかなかった。

 彼女の瞳は、すべてを見透かすような不思議な光を宿していた。

 まるで、預言者の神託を聞くみたいな心地になる。


「ずっと身体が不自由なせいでしょうか。遠く離れたところに起きたことでも、夢うつつの中で感じられるんです。特に姉の身に起こったことは」

「そうか……」


 この少女がそう言うならそのとおりなのだろう、と自然に信じられた。

 彼女は、自身でも制御できないほどの、圧倒的な魔力の持ち主なのだ。

 本人も無意識に発動された、この洞穴を隠すほどの幻術を見れば、疑問の余地はない。


 それに、家族の絆というものを、俺も信じたかった。

 離れた場所にいても、通じ合うものは確かにある。

 イブナも、シャンナが生きているということを、確信と言えるほど強く感じていた。

 この姉妹の結びつきなら、奇跡の一つや二つくらい簡単に起こせてしまう気がした。


 シャンナは、変わらぬ物静かな口調で言う。


「改めまして、シャンナと申します。まさか、ヒト族の義兄あにを持つこととなるとは思っていませんでしたが……」

「はっ?」

「ふつつかな姉ですが、どうぞ幸せにしてあげてくださいね。わたしも義妹いもうととして、心より祝福します」

「まてまてまてまて!」


 イブナが、今までに聞いたことのない早口で割り込んできた。


「キサマは何一つ事情を分かっていない!」


 シャンナはむしろ心外だ、とばかりに姉を見返していた。


「えっ? まさか、姉様。まだ契ってもないのですか?」

「ち、ちぎっ!?」

「男女二人で一緒にいて、いったい今まで何をやっていたのです?」

「キサマが死にかけてるから、必死で治そうとしてたんだろうが!? なんだ、その言い草は!」


 俺は何も口を挟まず、ただそのやり取りを唖然と見ていた。

 たぶん、ぽかんとした顔をしていたと思う。


 イブナは憤慨した表情のまま、こっちを向いた。

 なんとなく、もし彼女が人間であれば顔が真っ赤になっていた気がする。


「マハト、言っただろう!? こいつはずっと寝てたせいで妄想癖もうそうへきがひどいんだ。こいつの言ってることは全部忘れろ!」

「まあ姉様。マハトお義兄にい様に、本人のいないとこで何を吹き込んだのですか?」

「黙れ! その"お義兄にい様"というのも今すぐやめろ!」

「ちょっ、姉様、ふごごご……」


 イブナはシャンナを羽交い絞めにして、口をふさいでいた。


「ごほっ、ごほっ。ちょっと、何をするんですか!? 安静にしろと言ったのは姉様ですよ!」

「やかましい。キサマなど今すぐ森に捨ててやろうか!?」

「まあ、なんてひどい!?」


 突如始まった姉妹喧嘩というか、じゃれ合いに、俺はますます口をぽかんと開けた……。

 いつまでも止まないそれを見ているうちに……。

 込み上げてくる衝動をこらえきれず、俺は噴き出した。


「くっ、あははははは」


 ひとたび口から出ると、笑いが収まらない。

 姉妹が手を止めて、奇異なものを見るように俺に目を向けている。

 それでも、笑いやまなかった。


 いったい、いつぶりだろう。

 こんなふうに、心の底から笑い声を上げたのは。

 人々から追われる身になってから――いや、それよりはるか前から大声で笑った記憶が久しくなかった。

 戦乱の中に身を投じるようになってから、本気で笑うということを忘れていた気がする。


 今、イブナたちの姿に、それを思い出せた。

 笑ってもいいんだ、と思えた。

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