第6話 魔獣の血

 起き上がれないまま、地に両手をかざす。

 俺が生んだのは、突風の初級魔術だった。

 反動で俺の身体が飛び、さらに地を転げる。

 直後、グリフォンの突進が脇をかすめた。


 身体が動かないときの緊急脱出手段だった。

 ろくに受け身も取れず、自身の放った魔術に翻弄される。

 風圧に骨がきしみ、さらに出血がひどくなった。

 それでも、よろけながら、なんとか立ち上がった。


 肺が詰まり、呼吸が苦しい。脳に空気が足らない。

 焼けるような痛みと、手足の感覚が失せていく寒気が同時に襲いくる。

 自分が気を失っていないのが、不思議なくらいだった。

 

 動けるとしても、あと一、二度よけかわせるかどうかがせいぜいだろう。

 かすみそうになる目を凝らし、次のグリフォンの動きを注視する。

 

 ――接近してくるか、真空の刃を生むか。


 グリフォンの瞳が、俺をひたと見据える。

 獲物を見定めた捕食者の目だった。

 次で決める。そんな意志が感じられる気がした。

 そして、頭部を低くかまえ、狙いを定める。


 ――来る!


 そう頭では分かっていた。

 だが、身体が思うように動かない。

 だから、回避を捨てた。剣をかまえることもできない。

 接触の刹那に、すべての気力をふるい、ただ一撃のみを放つ。

 そう決意した。

 それが今の俺にできるすべてだった。


 永劫とも思える一瞬が過ぎ、メスのグリフォンの姿が再度目前に迫ったそのとき――、

 甲高い鳴き声を上げ、その巨体がのけぞった。


 何が起こったのか、すぐには分からなかった。

 視覚より先にバチバチ、と空気が爆ぜるような音で気づく。

 グリフォンの全身が電撃に覆われていた。


「イブナ!」


 驚き、横を見る。

 そこには――、

 口から血をしたたらせながら立つ、イブナの姿があった。

 吐血したのか、と一瞬思ったが、すぐにそれが思い違いであると悟る。

 彼女のすぐ横には、俺がねたグリフォンの首が転がっていた。首から溢れる血を大地が吸っていた。

 そして、彼女の瞳は、生気に満ちている。

 

 ――暁の魔将。


 その二つ名が脳裏に浮かぶ。

 すすったグリフォンの血を口の端から滴らせてたたずむ彼女の姿は――


 妖しく、力強く――そして、美しい。


 魔族とも思えない、衰弱し、儚いとすら見えた女の面影は消えていた。

 かつて人類との戦いの最前線に立ち、戦乱の中、誰よりも多くの首を挙げ、血を流してきた戦士の姿が、そこにはあった。


「待たせたな、マハト。あとは任せろ」


 そのたくましい声を聞き、俺は気力の限界を迎えた。

 崩れ落ちるように座り込む。

 気絶することだけは避けたが、そこから先の光景は、なかば夢のようにしてしか、覚えていなかった。


「はあッ!」


 裂帛の声とともに、イブナの姿が疾風はやてとなった。

 刺突が繰り出される。グリフォンですら逃れられない速さだ。

 無数の突きが、閃光となり、巨躯をうがつ。

 たまらずに、グリフォンは宙へと舞った。

 それを見透かしていたように、イブナの手のひらはすでに空へと向いていた。

 魔力の網……いや、鎖と呼ぶべきか。

 強固な魔の力がグリフォンの全身をからめとり、それ以上羽ばたくことを許さない。

 地に引きずり降ろされる。

 

 だが、魔獣の強靭さも伊達ではない。

 逃れられないと悟るや、イブナに向かい猛攻を仕掛けた。

 激しい攻防が繰り広げられる。

 グリフォンの爪を、くちばしを、軽やかに跳んでよけるイブナの姿は、巨躯の周囲を自在に駆ける、舞のようにも見えた。

 巨体の死角になるよう絶えず動き、懐に飛び込み、刺突を放つ。

 増えていく傷に、少しずつグリフォンの動きが鈍くなり――、


「とどめだ!」


 渾身の突きがその首を射抜いた。

 重い音を立て、グリフォンは倒れ伏した。

 致命傷であろうことは、傍で見ていてもわかった。

 全身の痛みも忘れてしまうほど、鮮やかな戦い方だった。

 ハディードの町で対峙した紫苑のジュエドも強敵だったが、イブナの戦い方はそれ以上に優雅とすら思えるものだった。

 

「マハト、生きてるか!?」


 グリフォンを仕留めてすぐ、イブナがこちらへ駆けてくる。

 そんな言葉を掛けられるくらい、俺の状態はひどいものなのだろうか。


「さすがだな、イブナ……」


 こちらへと向かってくる姿に、そう賞賛の言葉を投げかけた。

 あるいはそのつもりになっただけで、声は出ていなかったのかもしれない。

 イブナが何度も俺の名を呼んでいる。

 それに応えようと思いながらも……。

 俺の意識は、暗い闇の淵へと沈んでいった。


 ***


 暖かい。

 柔らかな陽光が傷の痛みを溶かし、流し去っていく。

 死の淵から俺を救いあげる。

 まるで、赤子に戻り、母親の腕に抱かれているような安堵感に包まれる。

 そんな幻想とともに目が覚めた。


「気が付いたか、マハト」

「……イブナ?」


 すぐ間近にイブナの顔があった。

 その向こうには天に向かって伸びる木々と空。

 どうやら俺は、寝転がり、イブナの顔を至近距離から見上げているようだった。


 そして、彼女の両手が俺の胸に触れていることに気づく。

 淡い光がその手のひらから生まれていた。

 暖かく、優しい光だった。


「……回復の術まで使えるのか、おまえは?」


 俺の問いかけにイブナは柔らかく微笑み、うなずいた。


「おまえたち人間の用いる神聖術とやらとは原理が違うがな」


 その声を聞きながら、上体を起こそうとし……想像以上の痛みに顔をしかめた。

 血が喉にからみつくような感覚に、咳込むのを止められない。


「まだ動くな。じっとしてろ」


 イブナが回復の手を止め、俺を制する。

 それで初めて、自分が彼女の膝に頭を乗せていることに気づく。

 気恥ずかしさと情けなさはあったが、身体を動かすのは苦痛だった。


 観念し、もうしばらく……俺はこの心地良さに身を委ねた。

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