第2話 山道をゆく

 バルモア山脈の中腹あたりまで差しかかった頃――。

 イブナの容体が、目に見えて悪化した。

 もとより、魔力の回復薬に、乱魔の病を治す効果はない。

 気休め程度に、症状を抑え込んでいたに過ぎなかった。

 それでもここまでやって来られたのは”暁の魔将”の執念がなせるわざだったのだろう。 

 けど、それもいよいよ限界のようだった。


 人跡未踏の山脈ながら、ここまではさほど険しい山道ではなかった。

 沢沿いの岩場を俺たちは進んでいた。

 足がかりとなる箇所も少なくなく、獣道も縦横にのびていた。

 道なき道を行くための訓練を積んだ元勇者隊の俺にとって、苦になるような傾斜ではなかった。

 本調子であれば、イブナにとってもそうだったはずだ。


 だが、イブナは息を荒げ、少しずつ遅れはじめた。

 気づくと、声を張らなければ届かないほども低いところに、彼女の姿があった。

 懸命に足を動かそうとしているが、立っているのもつらそうだった。


 俺は、イブナのいる地点まで引き返す。


「しっかりしろ、イブナ」


 沢沿いから少しはずれて林の中に入れば、腰をおろせるだけの平地があった。

 そこで、小休止を取ることとし、背中から荷をおろす。

 イブナの身の回り以外の荷はすべて俺が持っていた。


「残る一本だ。飲んでくれ」


 小瓶に入った魔力の回復薬を手渡す。

 イブナは意識をもうろうとさせながらも、一息に飲み干した。

 魔力の回復薬は、重ねて飲んでも乱魔の病に対して効果は薄いようだ。

 このところ、回復薬を口にしても、変化があるようには見えなかった。

 それでも、何もしないよりましだろう。


「すまない、お陰でだいぶ楽になった」


 イブナはそう言って、空の瓶を捨て再び歩き出そうとする。

 無理をしているのは明らかだった。


「いや、もう少し休息してから出発だ」


 イブナを制し、俺は自ら腰を下ろしてみせる。


「いらん……!」


 イブナの表情に苛立ちと焦りの色が見えた。


「ことは一刻を争う。わたしのことはかまわず、先に進め」


 俺はイブナの顔をじっと見た。

 睨み合うようにして、視線をからませる。

 彼女は、苛立っていた。その多くは、自分自身に対する苛立ちだろう。


「……分かった」


 俺は吐息とともに、首を小さく縦に振った。


「グリフォンのことは俺に任せろ。おまえは先に、俺の隠れ家へと戻ってくれ」

「なにッ!?」


 瞬間、イブナの全身がこわばった。

 殺気と呼べるほどの気配が、俺の全身に突き刺さる。


「妹のことだ。ひと任せなどできるか」

「しかし……」

「かまわないから先に行け。必ずわたしも追いつく」


 イブナは射殺さんばかりの目で俺を睨む。

 そうしながらも息は乱れ、頭が左右にふらつくのを自分でも止められないようだった。

 虚勢を張っているのは明らかだ。


「なら、共に行こう。いずれにせよ、もう少し休んでからだ」

「……くっ」


 自分が足を引っ張っている。

 その事実に、イブナは歯噛みしていた。


 俺はあえて茫洋ぼうようとした仕草で、携行食をつまみ、煮沸しゃふつした水に口をつける。

 遠くからは天を貫くばかりの威容に見えたバルモア山脈だが、意外と緑の多い山道だった。

 今のところ、グリフォンは影も形も見えないが、獣たちの気配は絶えずあった。


 肉食のグリフォンが生息するだけに、生態系は豊かなのだろう。

 山道から見下ろすと、すでに地上は遠く、ブルガオル平原が遠くに開けて見えた。

 この悠然とした景色を目にすると、人間と魔王軍の戦いなど、遠い世界のできごととも思えてくる。


「さあ、もういいだろう!? 行くぞ」

「もう少しだ。俺たちはこのあとグリフォンを狩らねばならない。山歩きで力を使い果たしてしまっては意味がない」


 イブナの状態は危険だった。

 病自体以上に、気の焦りから自分の体調と向き合えていない。

 妹がすでに死亡しているのではないか、という不安も彼女をさいなんでいるように感じられる。

 勇者隊の作戦遂行中、戦を前にした気のはやりから、心身のバランスを崩したものを何人も見てきた。そうなった者は、例外なく戦の中で命を落とした。

 今のイブナからは、そうした”死兆”が感じられた。


「まさか、我ら魔族から悪鬼あっきのごとく恐れられていたヒト族の英雄マハトが、こんなに甘い男だったとはな」


 イブナはそう吐き捨て、腰を浮かせた。

 動こうとしない俺を置き、さらに上を目指そうとしているみたいだった。

 だが、その動作には力が入っておらず、幼子おさなごよりも危うい。

 このまま歩かせても、グリフォンと戦うまでもなく絶命してしまいそうに見えた。


「……ならお望みどおり、悪鬼のようにいこうか」

「なんだと?」


 いぶかるイブナに無造作に近づき、その足を払った。

 尻もちをつくのを逃れようと、イブナが俺の腕に手を伸ばす。

 それを逆に引き寄せ、投げる。

 イブナはしたたかに地面に背を打ちつけた。

 斜面を転がりそうになるその身体をつかみ、無理やり立たせる。


「がっ……はっ……」


 肺を詰まらせ、苦しげにあえいだ。


「なんだ、そのザマは? それが俺たちからあかい死神と恐れられた“暁の魔将”か?」


 俺に胸ぐらをつかまれながら、イブナは殺気のこもった目で俺を見る。


「今のおまえはグリフォンどころか、野犬一匹殺せそうにないな」

「このッ……!」


 イブナが拳をつくり殴りかかろうとするが、それより早く俺はその頬を張った。

 よろけ、くずおれそうになるその身体を再び、つかむ。

 額が付きそうなほどの至近距離で睨みつけた。


「俺はハディードの街で同胞に殺されかけたとき、限界のその先を見た。魔力も体力もすべて尽き、全身に傷を負っていたが、それでも生き延びるために動き続けた。おまえも妹を神殿から助け出したとき、そうだったんじゃないか?」


 イブナの目が見開いた。


「俺やおまえがこうして命をつないだのも、何かを為すためだと思う。けれど、今のおまえは病ごときに呑まれている。そんなやつに妹の命なんて救えるのか?」

「…………」


 イブナは睨みつけたままだが、もう抵抗しようとしなかった。

 俺はつかんでいた手を放した。


「死ぬ気でついてこい。もしまた遅れるようなら――グリフォンは俺一人で狩る」


 返答はなかった。

 だが、イブナの瞳に生気が戻った。

 死域しいきは脱した。そう見えた。


 だから俺は彼女に背を向け、山道を再び歩き始めた。

 全速力ではないが、もうイブナが付いてきているか、振り返って確認するのは止めにした。


「……やはり甘い男だな、おまえは」


 俺の背に、そんな言葉が投げかけられる。

 もう先ほどまでのような、弱々しい声音ではなかった。


「いいか、マハト。この一件が片付いたら、わたしと立ち合え。今受けた屈辱を倍にして返そう。なぜわたしが人間たちから恐れられたか、身をもって味わわせてやる」

「そいつは、首を差し出されるよりよっぽどいいな」


 俺は背を向けたまま、肩をすくめた。

 そして、彼女の妹、シャンナを救ったのち、必ずイブナと立ち合うことを約束した。

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