第3話

 女の人は歌っていた。

 とても綺麗な歌声。どこの世界の、どこの国の歌なのか知らないけど、とても独特なメロディ。民族調っていうんだろうか。僕は、胸が高鳴るのを感じた。

 

 そういえば、魔女さんが言ってた。


『彼女らは歌が上手だからね』


 マーメイドは歌が上手。そして、僕を誘う女の人も、歌が上手。

 もしかして……


「あなたは、マーメイド?」


 僕は尋ねる。

 女の人は悪戯っぽく微笑んだ。


「正解」


 そして、僕を池の中に引きずり込んだ。


 すでに、池は池じゃなくなってた。

 僕の足が底につかない。池じゃなくて湖だ。

 僕は、息を吸わずに引きずり込まれたものだから、しょっぱい水を飲み込んでしまって、咳き込みたいのに咳こめない。息ができない!


 持っていたカンテラが、池の底へと沈んでいく。遠くなっていくオレンジの明かり。僕は絶望を感じていた。


「ここはね、マークブロの地底湖。海の満ち干きに合わせて、湖が消えたり現れたりするの」


 女の人は無邪気に笑っている。

 その時、僕は気付いた。女の人の足が、魚のようなヒレに変わっていることに。

 だとしたら、本当にこの人はマーメイドだったんだ。


 でも、今更気付いたところで遅い。僕は、マーメイドに溺れさせられる。

 しょっぱくって、苦しい。誰か。助けて。


「全く。だから気をつけろと言ったじゃないか」


 急に、声が聞こえた。


「私が言う通りに呪文を唱えるんだ、いいね」


 魔女さんの声だ。魔女さんは、僕を見守ってくれているんだ。

 僕は、腰ベルトから杖を抜く。僕は魔法使いだ。だからこんなイタズラ、へっちゃらだ!


紺碧こんぺきの海よ、光り輝く泡沫うたかたよ」


紺碧こんぺきの海よ、光り輝く泡沫うたかたよ」


 僕の口から泡が溢れる。泡は弾けて、言の葉を辺りに散りばめる。


「わだつみの暴君となり、具現せよ」


「わだつみの暴君となり、具現せよ!」


 杖の先っぽが光り輝いた。その光は水の中に巨大な姿を作り出す。お腹と背中にヒレがついたパンダ模様のそれは、人魚に向かって歯を見せながら吠えた。

 全身が透き通った青色だったけど、間違いない。あれはシャチだ!


「ひっ……!」


 マーメイドは途端に怯えてしまった。


「さあ、喰らいな」


 魔女さんの言葉と同時に、シャチがマーメイドを飲み込んだ。マーメイドはぎゅっと目を閉じて、体を丸めて怯えた。

 けど、マーメイドを飲み込んだシャチは途端に姿を消した。マーメイドは食べられた感覚がなかったらしい。目を見開いて僕を見る。


 僕はというと、息を止めているのも限界で、両足をバタバタさせながら水面に向かっていった。水面から顔を出して、ぜえぜえ呼吸する。


「上出来じゃないか」


 僕の頭の上には、箒に座って浮いている魔女さんがいた。僕はびっくりして魔女さんに尋ねる。


「来てくれたんですか!」


「くひゅひゅ。鏡を覗いていたら溺れ始めたから、からかってやろうと思ってさ。君は泳ぎも下手なのかい?」


 僕はカチンときて、魔女さんに掴みかかろうと手を伸ばす。だけど魔女さんは、箒を上手く乗りこなして、僕の手をかわしてみせた。


「酷いじゃないの!」


 僕は、声が聞こえた方へ顔を向ける。

 マーメイドが、ぼろぼろ涙を流しながら僕を責めていた。


「ちょっとからかっただけじゃない。なのに、あんなに驚かせるなんて酷いわ!」


 からかっただけ、だって?


「ぼ、僕は溺れかけたんだよ?」


「魔法使いなら、息継ぎの魔法くらい使えるでしょ」


 マーメイドは言う。

 僕は魔女さんを見上げた。そんな魔法があるだなんて、教えてもらってない。

 魔女さんは相変わらず、袖で口を隠して引き笑いをしてる。


「まぁまぁ。私が召喚呪文を教えたのは、わけあってのことだよ。ほら」


 魔女さんがマーメイドを指さす。

 マーメイドは泣いている。さっきのシャチが、かなり怖かったみたいだ。


「マーメイド、君はうちの弟子を溺死させようとした。詫びの品くらい、くれるんだろうね?」


 マーメイドは頬を膨らませている。

 魔女さんが見返りに求めているのは、マーメイドの涙。僕がシャチを召喚するように仕向けたのは、マーメイドを泣かせるためでもあったんだ。


「魔女さん、それは酷いと思います」


 だから、僕はそう言った。魔女さんは目を細める。


「なぜ?」


「怖がらせて泣かせるなんて、さっきのイタズラとおんなじです。あと、それ、僕の世界では恐喝きょうかつっていうんですよ」


「おや、私より弟子の方が分別ついてるじゃないか」


 魔女さんは嬉しそうに微笑んだ。

 やっぱり魔女さんは食えない人ってやつだ。どこからどこまでが本心なのか、全くわからない。


 僕は両手で水をかいて、マーメイドまで近付いた。マーメイドはびくりと肩を震わせる。

 きっと責められると思ったんだろうけど、僕はそんなつもり全くなかった。


「さっきはごめんなさい。怖かったでしょ」


 僕はマーメイドを気にかける言葉を言った。

 マーメイドはきょとんとして、次に顔を真っ赤にした。頬を膨らませて、水の中に顔を半分沈める。

 何か、気に障ることを言ってしまったんだろうか?


「気遣いなんて、けっこうよ!」


 マーメイドはそう言って、湖の中へと真っ直ぐに潜って行ってしまった。

 僕はなんでマーメイドが怒ったかわからなくて、あと、マーメイドの涙を手に入れられなくて、おろおろと湖の中を覗き込んだ。

 そんな僕の額に、硬いものが飛んできてぶつかった。


「いったい!」


 僕は片手で額をおさえて、片手でぶつかったものを拾う。

 コルクで栓をした、ガラスの小瓶だった。中には、水より青くて透き通った液体が入ってる。


「空、お手柄だよ。それこそマーメイドの涙だ」


 魔女さんに言われて、僕はびっくりした。これがマーメイドの涙かと。もしかして、さっきのマーメイドが投げてよこしたんだろうか。


「さっきのマーメイド、何であんな顔してたんだろ」


 僕は呟く。

 すると、魔女さんは珍しく声をあげて大笑いした。


「あっはははっ! それはね、空が思った以上に大人だったから、マーメイドは恥ずかしくなっちゃったのさ」


 僕が大人だって? まだ十一歳の、小学五年生なのに?

 びっくりしすぎて何も言えない僕。魔女さんは、僕の思ったことを見透かして、こう言った。


「大人であることに、年齢なんて関係ない。他人のイタズラを許したり、他人を気遣ったりする心の余裕。それが大人であるための条件なのさ」


 僕にはよくわからない。でも、魔女さんがそう言うならそうなんだろう。


「マーメイドの涙も手に入ったし、そろそろ帰ろうか」


「はい。へ、へくしっ」


 水の冷たさに、僕はたまらずくしゃみする。

 魔女さんはそれを笑って、湖から僕を引き上げた。

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