第17話 街

 外が少し暖かくなる頃。花屋アウターは大掃除に追われていた。春からの繁忙期を迎えるためだ。エレンは背の高い脚立の上で、店の窓を拭いている。

「綺麗に見えるけど、案外汚れているものだね」

 真新しい雑巾は、かなり黒くなっている。隅にたまったホコリも拾いながら、掃除を進める。

「ありがとう、エレン。今年は高いところ、どうしようって思ってたの。すごく助かる」

「ふふ、お安いご用だよ。ついでだから、切れかけの電球も替えとくかい?」

「お願いしようかしら。あ、でも新しい電球がないかも」

 レインは、何ヶ所か棚を開けたり閉めたりした後、首を横に振った。

「うん、やっぱりない。買いに行かなきゃ」

「俺が行ってこようか?前に行った店だよね」

 レインに拾われてから一月ほど。エレンが近辺の店を把握するには、充分な時間が経った。電球などの消耗品は、同じ通りの五軒先の店だ。

「おや、作業中だったかね」

「あ、ローシュ。おはよう」

 ちょうどその時、ローシュが現れた。手には紙袋を抱えている。

「レインに頼まれた本が、届いたのでね。持ってきたよ」

「わあ、ほんと?ありがとう」

 レインは袋を受け取り、中身を確認する。分厚い本は、虫の絵が描かれている。

「なんだい、それ?」

「図鑑だよ。これはいろんな国の虫が載っているものだけれど、魚や花もあるの。花には虫がつきものだから。綺麗でしょう?」

 植物にとって虫は共生仲間でもあり、外敵でもある。花を扱う仕事をする上で、虫についても詳しい方がいい。何よりレインは、図鑑に載っている絵が好きだった。これ以外にも、レインの部屋には様々な本が置かれている。

「ワタシとしても、勉強や芸術に興味があるのであれば、喜んで支援したいからね。欲しい本があれば、遠慮なく言ってくれたまえ」

 字の読めないエレンにとって、本も芸術も縁遠いものだ。エレンは興味深げに図鑑を見ている。

「ふむ。エレンには言っていなかったが。ワタシは美術館を経営していてね。興味があれば、行ってみるかね?」

「美術館?」

 これもエレンにとって縁遠いものだ。そんなものが、この街にあることすら知らなかった。

「ローシュの美術館、すごいんだよ!絵はもちろんだけど、お皿とか服とか、とにかく色々あるの」

 レインの目は輝いている。美術館は彼にとってお気に入りの場所のようだ。

「ねぇ、エレン。せっかくだから、一緒に行ってみない?」

「俺とかい?うーん、詳しくなくても行っていいのかい?」

「もちろんだとも。ああ、でも。キミの今の格好だと、少々問題がある」

 エレンが今来ているのは、レインの母のものだった服である。彼に丁度良いサイズの服がこれしかなかったからだ。普段着ならともかく、美術館に行くには不恰好だ。

「この後、時間はあるかい?せっかくだ、エレンの服を仕立てておこう。これから着る機会もあるだろう」

「いいのかい?」

「かまわないとも。実のところ、ずっと仮の服を着せていることが、気になっていたのでね」

「ふふ、ありがとう。新しい服なんて、初めて着るよ」

 エレンが今ままで着ていたのは、死体から剥ぎ取ったものだった。比較的綺麗なものを探してはいたが、自分のために作られた服を着たことはない。

「じゃあ、窓拭きが終わったら出かけよう。帰りに、電球も忘れずにね」

 こうして三人は、急遽おでかけすることになった。

 

「エレン、この色はどうかしら。綺麗な紫なのだけれど」

「えーっと、まだ見るのかい?」

 仕立て屋に入ってしばらく。レインは楽しそうに、エレンの服に使う布を選んでいた。

「ふむ、エレンには少し派手かもしれないね。髪の色と相性が悪い」

 ローシュはというと、こちらも真剣に布を選んでいる。綺麗なものが、より輝く組み合わせを探求することは、ローシュの天職ともいえた。

「なら、これは?ハウンドトゥース柄なのだけど、茶色が落ち着いていていいと思うの」

「ふむ、これと共色の無地を合わせたらどうだろう」

「俺にはさっぱりだ。二人に任せるよ」

 エレンはだんだん疲れ始めていた。布が終わったら、服型の話が始まった。エレンは、店の隅にある椅子に座る。当の本人を置いてレインもローシュも楽しげだ。ただの孤児に着せる服に、こんなに時間がかかるとは思っていなかった。二人は、本当に家族として自分を迎えるつもりなのだろうか?エレンはここ数日の出来事を振り返りながら、盛り上がる二人を眺めていた。

 その時、店のドアベルが音を立てた。別の来客のようだ。何気なくそちらを見たエレンは、その客に見覚えがあることに気づく。最後に受けた仕事の、依頼主だ。

「ん?お前は」

 エレンはすぐに目を逸らしたが、すぐに気づかれてしまった。濁った瞳が、エレンを無遠慮に見つめる。

「金を取りに来ないから、てっきり死んだのかと思っていたが」

「ふふ、死んでいた方が良かったかい?」

 ばれてしまっては仕方がない。エレンは依頼主に言葉を返す。男は品のない笑みを浮かべながら、エレンの髪に手を伸ばす。

「まさか。お前は、私のお気に入りの一人なのでね。どうだ、久しぶりに私の家に来ないかい。歓迎するよ」

 その言葉とは裏腹に、濁った目に光はない。エレンは、男の言う歓迎の意味を知っている。

「残念だけど、俺にはもう飼い主がいるんでね。じゃなきゃ、こんなとこにいるわけがないだろう?お断りするよ」

 エレンは男の手を振り払う。断られると思っていなかったのだろう、男の顔がみるみるうちに怒りへと変わっていく。

「ほう、いつからそんな口を叩けるようになったのかね」

「ふふ、いつからだろうね?」

 二人の間に、険悪な空気が流れる。

「エレン、おまたせ!二択まで決まったから、見てくれる?──あれ、お話中だったかしら」

 最悪なタイミングで、レインが戻ってきた。状況の分かっていないレインは、服を持ったまま不思議そうな顔をしている。

「ああ、レイン。気にしないで、選べばいいの?」

 エレンは男を視界から外し、レインに笑いかける。こんな男を、一秒でも視界に入れたくはなかった。何より、レインに見せられたものではない。

「ははは!何、お前の飼い主はその子どもなのか?随分可愛らしいじゃないか」

「そうだよ。貴方より、ずっと俺を大事にしてくれる、素敵なね。レイン、ローシュのとこ行こう」

 よほど気に入らなかったのだろう。男は突如エレンの腕を掴む。流石にエレンも、痛みに顔をしかめた。

「お前ごときが、私に口答えするな!」

「エレン!」

「そこまで」

 仕立て屋内が、シンと静かになる。店内にいた全員が、声の主──ローシュを見た。

「ふむ、何か揉め事かね。スタートレイル社の次男坊君」

 ローシュの口から出たその言葉に、男の顔が驚きに歪む。

「何故私のことを」

「なに、キミの父親はワタシの顧客だからね。息子の顔くらい、覚えているとも」

 その言葉に、先程まで赤かった男の顔が、今度は青くなっていく。

「な、な。貴方は、まさかアルデバラン会長!何故こんなところに」

「無論、服を仕立てに来たまでだ。今回はワタシではなく、そこの彼だがね」

 ローシュが指す先には、にこりと笑うエレン。状況がわからずポカンとしているレイン。男の顔は、ますます青くなるばかりだ。この国を代表する資産家、ローシュ。彼が保護する子どもに、手を出したことになるのだ、無理もない。

 男は腰が抜けかけの体で、慌てて店を出ていった。

「ふむ、挨拶もなしとは。礼儀を学ばなかったらしい」

「ふふ、そうかもね。ローシュ、ありがとう。おかげで助かったよ」

 エレンはほっと息をつく。彼にとって揉め事は慣れたものだが、知らず知らずのうちに緊張していたらしい。

「エレン、腕は痛くない?大丈夫?」

「ん?ああ、平気だよ。怖い思いをさせたね、ごめんねレイン」

 この小さなレインに何もなくてよかったと、エレンは胸を撫で下ろす。自分一人なら思わなかったこと。エレンは自分の心境の変化に内心驚いていた。レインのことを大切にしたいという思いが、エレンには芽生えていた。

「さて、気を取り直して。服選びを再開するとしよう」

「ええと、何か選べばいいんだっけ」

「うん、これとこれどっちがいいかしら」

 エレンの服を選び終わったのは、それから三十分ほど経った後だった。

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