着座と起立

そうざ

Sitting and Standing

 振り返ってみれば、私は屋内作業ばかりして来た。

 高校卒業後は、浪人生になったものの予備校にも通わず、アルバイトに明け暮れていた。日がな一日、工場内でビデオカメラの部品と睨めっこし、電動ドライバーで決められた位置に螺子を打ち込む作業で、毎日八時間近く立ち仕事をしていた。今の私にはとても足腰が持たない気がする。

 その後、前々から興味があったウェブデザイン関連のアルバイトに就き、正社員になって今に至る。

 職場で作業をする日は、通勤や帰宅は勿論、昼食やら会議やらで離席するタイミングがあるが、最近は在宅ワークが増えていて、そうなると朝から晩まで座り仕事である。


 ばりばりばりっ。

「こらぁあ」

 だだだだだーっ。

 振り返った私の一喝に、ゲーミングチェアの背凭れに爪を立てていた愛猫“イチンプ”が脱兎の如く走り去る。

 背凭れはまるで集中砲火を浴びた外壁のようだ。当初は瑕一つに悲鳴を上げていたものだが、早々に諦めた。猫を飼う者の宿命である。

 ばりばりばりっ。

「ったく」

 だだだだだーっ。

 二度目は仕方なく相手をする。逃走先はバレている。餌の皿の前だ。

 果たしてイチンプは尻尾を前足に絡めて座っていた。からんからんっとドライフードを与えると、直ぐ皿に顔を埋めた。

 机に取って返し、作業を再開。

 通勤日は留守宅のイチンプが脳裏を過る事もあり、在宅ワークの方が気が楽かと思っていたのだが、これでは一々気が散って敵わない。

 ばりばりばりっ。

「食べたばかりでしょ~っ」

 視線を合わせ、にゃあと一鳴き。動物は生まれながらに目で訴える術を心得ている。

 私が立ち上がると、またキッチンへ一目散である。皿にはまだ餌が残っている。

 どういう訳か、私が側で見守っていないと食べ続けない。一々仕事が中断される。

 机の側に皿を置けば良いかとも考えたが、何度か誤って足で餌をぶちまけた事があり、そもそも餌の匂いが苦手なので断念した。

 少しだけ餌を足してやると、イチンプは再び食い付いた。様子を窺っていると、程なく顔を上げて足に擦り寄って来た。

 訴えたい事は解っている。今度は缶詰めを開けてウェットフードを与えた。さっきとは食い付きが違う。家庭料理も良いけれど偶には気張って外食を、という感覚だろうか。

 パソコンに戻ると、ひゅおんっと私とパソコンとの間にイチンプが現れた。鼻の前に肛門である。

「邪魔~っ」

 モニターに33333333333333と表示され始め、一瞬ウィルスにやられたと焦る。

「踏んでる、キーボード踏んでるからっ」

 抱き抱えて床に下ろしたが、また机上に跳躍する。結局、私の腕を枕に寛いでしまった。それでも落ち付いてくれたらあり難い。

 それにしても、本当に餌が欲しかったのかなと疑いたくなる。

「ふぅ……」

 やがて腕が痺れ出したのでそっとずらすと、イチンプはそれを合図に目が爛々となり、にゃーっと頭突き攻撃。無視してモニターを見ていると頬を一噛み。

いったい!」

 叱ろうとすると、しゅたっと床に下りてキッチンに向かった。

「一人で好きなだけ食べてぇ」

 ばりばりばりっ。

 今度は壁に爪を立てている。

「それは駄目っ、賃貸っ」

 ペット可の物件でも原状回復費用は掛かる。慌てて駆け付けると、あちらも慌てて皿にがっつく。溜め息しか出ない。

 その後はチェアに腰掛けた私と背凭れとの間を陣取り、完全に寛いだ。が、私は背凭れを使う事が出来ず、自然と背筋を伸ばして作業を続ける羽目になった。


 それからというもの、立ち仕事対応の安価な可動式デスクを購入し、一定時間は立って作業をするスタイルに変えた。イチンプは、足に戯れ付く事はあっても嫌がらせのような爪研ぎはしなくなった。


 私が不意に当時の事を思い出したのは、偶々やっていた健康番組が『座り過ぎは良くない』というテーマだったからだ。

 三十分に一回くらいは立ち上がって動いた方が良いらしい。長時間の着座は筋肉の代謝や血行を低下さえ、死亡リスクを上げるという。

 私は、遺影のイチンプに語り掛けた――もしかして、意図的に私を立ったり座ったりさせたのかな――。

 イチンプは猫の平均寿命を全うした。私もそれくらいは健康で居たいと思う。

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