ロープ

真花

ロープ

 決められた時間まで扉の前で待機する。エレベーターの出入り口を背に、八畳程の部屋にはその扉だけがある。窓はなく、蛍光灯の光が満遍なく照らし、はじめの影は限りなく小さい。小さいが、足を上げてみれば確かに影はあって、懐中時計を見るのと交互に足で影を作る。音がしないようにそっと下ろす。

 ちょっと早いですが、と言って扉を開けたらどうだろう。創は考えて、首を振る。二度とここに来られなくなる。ルールは守らなくてはならない。破っていいのは一回だけだ。それまでの全てを捨てて、向こう側に手を伸ばすその時だけだ。今はそうじゃない。創は静かに息を吐く。心臓が早足になっている音が聞こえる。

 懐中時計を持つ手も拍動に合わせて小さく揺れている。そのリズムと、秒針のリズムがずれている。心拍三回で二秒。何度測っても同じだった。蛍光灯の半分がじわりと消えた。エレベーター側だけがついている。影が生える。両手を広げたら、影も同じポーズを取った。蛍光灯がさらに消灯する。影と周囲とのコントラストが弱くなる。残った蛍光灯の光が薄くなる。影の境界線が滲む。時計を見ても時間を読めない。もう一つ息をついて、創はその時を待つ。

 目が慣れて、部屋の中を見回すと朧に捉えることが出来る。ドアと壁とエレベーター。エレベーターを呼ぶボタンは変わらずに光っていて、今の空間の中では抜群に明るかった。創はエレベーターのボタンから目を逸らし、ドアを向く。鼓動がもう少し早くなっていた。

 ドアをノックする音がする。二回、丁寧なノックだ。創は約束通り、三回ノックを返す。向けられた音と同じだけやさしく。

 ドアが開く。

「どうぞ」

 真っ白なワンピースを着た七緒ななおがいて、その後ろに空があった。歩き出す七緒について外に出ると、前も横も上も、空で、その全てがオレンジに染まっている。吸い込む空気が空の一部で、僕達は空の中にいる。創はそう思いながら七緒を追う。大きな白いソファ、全身を預けられる大きさのソファがあって、七緒は右側に仰向けに寝る。

「こっちにどうぞ」

 示された七緒の横、手を伸ばしても触れない位置に、創も横になる。その時、映った七緒とソファは、空の色を反射して金色に近いオレンジをしていた。風が鼻梁を撫でるように吹いた。創は首だけを回して七緒を見る。七緒はアクセサリーを一切付けていない。首までのショートカットが揺れて、さっきと同じ風かも知れない。視線に気付いたのか、七緒が体ごと創に向く。

「新作、読みました」

「ありがとうございます」

 七緒は目を細める。創は心臓をギュッと掴まれたように感じる。――この屋上には二人以外誰もいない。ソファだけでなく床も真っ白だから、七緒さんが浮き出ているように見える。ここでは僕以外の言葉は全て七緒さんの言葉だ。創の頭の中に切れ端のような観念が散る。七緒が細めた目を緩ませる。

「とっても面白かったです」

 創は述べられた言葉を一文字ずつ飲み込んでゆく。

「よかったです」

「あの作品は、つまり現世の比喩と言うことですよね?」

「……作品の内容については、言わぬが花と考えています」

「それは、秘すれば花、も含んでいますか?」

「その通りです」

 七緒は綻ぶように笑う。創はほっとして、ほどけるように笑う。オレンジに照らされた七緒が暖かく見える。僕はどうだろうか、と創は考える。同じ光が映してもきっと同じにはならない。左手を光に当てる。何も掴めなくて、ゆっくり下ろす。七緒が真似をする。その姿はオレンジの光を手のひらで捉えているように見える。七緒がその格好のまま、唇を動かす。

「今日は、しりとりをしましょう」

 創は、しりとり、と頭の中で反芻する。久しぶりに聞いた単語だ。

「分かりました。何か特殊なルールはありますか?」

「特にないです。最初はしりとりの『り』。創さんからですよ」

 言ってから七緒は仰向けになる。横顔の稜線が切り取っているのは空だけじゃない。創は自分だけ見続けることがアンフェアだと感じ上を向く。視界いっぱいの空、浮かぶ丸い雲が半分だけオレンジ色に染まっている。光に押されるようにゆっくりと流れている。

「『臨界』」

 空に放った声が溶ける。まるで光に分解されたみたいだ。七緒の声が返って来る。

「いきなり終わりそうな。それとも、始まるのでしょうか」

「境目は、いつもそうじゃないでしょうか?」

「その境目は最初から見えるときと、気付かないときとがありますよね。……『稲妻』」

 創は七緒を見る。手を伸ばすことを空想して、でも伸ばせない。その手で天を衝く。七緒の気配が少し強くなった。

「撃たれたことがありますか? 稲妻に」

「それは秘密です。創さんは?」

「僕はあります。一度だけ」

「どんな方ですか?」

 七緒の声が華やぐ。創は手を下ろす。ソファにバウンドして鈍い音がする。

「それは秘密です」

 七緒は、キュッと黙る。創に稲妻に撃たれた日の感覚が蘇る。その日の心臓と今日の心臓が重なって、鼓動の音が聞こえる。創は耳の内側を心臓に傾けながら耳の外側で七緒を聴く。

 七緒が沈黙を水に溶かすように声を出す。

「カウンターパンチですね」

 声には花びらのような笑みが乗っていた。くすぐられるように創も微笑む。

「『マーメイド』」

「不老不死には憧れますか?」

「大切な人も一緒なら。そうでないなら怖くとも死にます」

「私も同じですね。……『ドロ団子』」

 照らす光に少しずつススのような闇が混じり始めた。光によって支えられていた空が緩慢に落ちて来る。風が撫でて行った、寒くはない。創は空を嗅ぐ。

「おままごとなら、僕はお父さん役よりも犬がいいです」

「じゃあ私は猫になります」

「犬は繋がれて、猫が訪ねて来るんですね」

「きっと外の世界であったことを話すんです。犬はそれを待ち遠しく思っています」

「今日は何を話してくれるの?」

「にゃん。馬が駆ける姿の話だよ」

「馬なんて知らないよ」

「大きなね、動物なの。まるで風のように走るの。ダーって」

 何頭もの馬が群れになって走っている。群衆の最前列にちょこんと座った七緒猫が、迫力に身を乗り出している。走り去る馬。ああこの話をしなきゃ、七緒猫は創犬のところに向かう。創の頭の中でストーリーが流れて、すぐ横にいる七緒に猫が一致する。

「すごいね。いつかは見たいよ」

「きっと見られるよ」

 七緒の声が落ち着いて、収まる。静かになったことを見届けてから創は再び始める。

「続き。『極意』」

 七緒がころりと体を転がして創の方を向く。

「ありますか? 作品を創る極意」

「ないですよ。でも強いて言うなれば、ずっと前に進み続ける、くらいです」

「なんかカッコいいですね」

 言われて七緒の顔を見る。創も体を七緒に向ける。目と目が合って、二人とも逸らさない。もし七緒も手を伸ばしたら、二人とも伸ばしたなら手は触れる。でも手は伸びて来ない。

「そうですか?」

「習得して終わりじゃない、永遠に努力をすることが極意だなんて」

「パサパサした現実ですよ」

 七緒が笑う。欠けた陽光が全部七緒の中にしゃがんでいたかのように。

「それでも。……『石畳』」

「『みぞれ』」

「『レインコート』」

「『遠眼鏡』」

「『猫』」

 七緒が言った拍子に二人とも笑う。創が「見付けましたね、七緒猫」と言うと、七緒が「見付かりました」と返す。それを受けて創が改まる。

「石畳の上を歩いていたらみぞれが降って来て、レインコートを着た。遠眼鏡で覗くとそこには七緒猫がちょこんと座っていた。きっと馬を見た帰り道です」

「でもクライマックスは創犬と喋るところですよ」

 手を伸ばしてもいいのかも知れない。だが、もし違ったら終わってしまう。創は仰向けに倒れる。空からオレンジは殆ど抜けていた。青を煮詰めたような闇がその大部分を覆い、今日の最後の陽光はまるで悲鳴を上げてその分だけが光っていた。七緒の顔を見ることが出来ない。七緒も仰向けになった気配がした。

「創さん、しりとりを終わらせましょう」

 創は息をつく。その息には胸の中に膨らんだものが多分に混じっていた。

「『こころ』」

 七緒は少しだけ黙る。

「『ロープ』」

「『プラン』」

 二人とも黙る。……そんなプランは今のところない。

 闇が降る。だが、地上には、ここには永遠に届かない。七緒の声。

「今日はここまでです」

 二人はソファから起き上がり、扉の前に並ぶ。七緒が扉を開ける。

「では」

 七緒が会釈する。さっきまでソファで見ていた顔とどこかが違う。顔の成分に心が足りていないように見える。きっと自分も同じなのだろう。創は思いながら返事をする。

 

(了)

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