姥ヶ池

海石榴

1話完結 昔、浅草に鬼婆がいた

 徳川家康が江戸に入府した頃の話である。

 浅草寺付近は、見渡すばかりの荒れ地がひろがっていた。

 その荒れ地に隅田川へとつながる大きな池があった。

 池のほとりには、一軒のあばら家があり、老婆と美しい孫娘が暮らしていた。

 その辺りでは、日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家で宿を借りるしかなかった。


 そして今宵も一人の旅人が訪れ、老婆に頭を下げた。

「申し訳ございませぬが、一夜の宿をお借りできませぬか」

 老婆が一本も歯のない口を開けて、もごもごと言う。

「旅のお方の難渋を見て見ぬふりもできませぬ。こんなあばら家でよろしければ、お泊りくだされ」

 旅人はやれやれと安堵し、老婆に案内された部屋で石枕に頭を置いて眠りについた。

 

 深夜丑三ツ。

 疲れ果てて、眠りこける旅人の枕元に老婆が足音もなく現れた。

 老婆は手に持った大きな石を慣れた手つきで振りかざし、旅人の頭に勢いよく打ちつけた。

 ゴツッという鈍い音がして、頭蓋が砕け、脳漿が飛び散った。

 老婆がニタリと笑い、遺骸からいつものように金品を奪い取った。


 一方、一緒に暮らす孫娘は、そんな老婆の所業がたまらなくおぞましく、何度もやめておくれと懇願するように諫めた。

 老婆が口ぎたなく言い返す。

「へんっ。お前が川でとってくる小魚や、芹菜だけで暮らせるもんか。それとも、男に身体を売って稼ぐかい」


 ある夕暮れのこと。

 戸口で羞じらうような控えめな声がした。

「もうし。できれば今宵お泊めくだされ。軒下でも構いませぬゆえ」

 それは、目をみはるほど美しい少年であった。

 老婆が親切そうに、何度もうなずきながら言う。

「困ったときは、お互いさまじゃでのう。よい、よい。泊まりなされ」

 奇しくも、その少年は千人目の旅人であった。

 

 老婆は少年が寝てしまうのを待って、いつものように大きな石を頭蓋に打ちつけ、わずかばかりの路銀をあさるため、こそこそと死骸を改めた。

 直後、老婆は驚愕し、その目は異常なほど引きつった。

 少年であるはずの遺骸の胸に、ふくらみがあるのだ。

 それは、自分の孫娘であった。

 頭蓋が割れ、鮮血に染まった孫娘が、もの言わぬ死体としてそこに横たわっていた。


 老婆は慟哭しつつも、すべてを悟った。

 孫娘は老婆の罪業を哀れみ、自分の境遇を嘆いた末に、自分を旅人と見せかけて殺されることを選んだのだ。美しい少年の身代わりになって――。

 もはや生きてはおれぬ。自分自身があまりにもおぞましい。

 老婆は家の前の池に入水し、自ら命を絶った。

 以後、その池はうばヶ池と呼ばれた。

 

 浅草寺二天門を東へ行くと、花川戸公園があり、そこに現在も姥ヶ池の名残りとしての小さな人工池(明治24年埋め立て)がある。また、浅草寺の支院である妙音院に、この奇譚に登場する「石枕」が今も所蔵されている。ただし非公開である。

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姥ヶ池 海石榴 @umi-zakuro7132

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