第2話 美しき歌声

 その動画を、春生は開いてみた。

 彼女の自宅だろうか。生活感のある背景とともに、その人が映る。

 ミーティングのときとは、雰囲気が大きく異なる。

 服装や、メイクのテイストが違うためだろう。動画で見たときの方が、童顔で、あたたかみがあるように感じられる。動画化するまでの過程で、補正がかけられているのかもしれない。

「アンニョン、こんにちはー」

 ピアノとマイクを前にしたにこやかな彼女を、その左側から映すという画角で、控えめな挨拶と、そしてイントロが始まる。

 彼女の端整な横顔、軽快なピアノの音色。

 その歌声。

 春生はかれたように彼女の横顔に見入り、その声に聞き入った。

 美しい。

 透明感のある歌声が、ピアノによる穏やかな伴奏に乗って、春生の耳の細胞一つひとつにしみわたり、心を塗り替えていくかのようだ。

 衝撃的だった。

 顔がかっと熱くなり、胸がざわめいた。

 なぜか、動画を見ているだけで、動悸どうきが止まらない。

 だが同時に、春生は幸福でもあった。

 彼女が、彼女の好きな歌を歌っている。

 春生にとって、それは確実に、良い気分だった。

 その日、春生は夜中まで、あさるようにして彼女の動画に目を通した。

 翌日、シャトー社の今後の進め方に関するオンライン会議の冒頭、藤井がしきりと彼女の歌唱力について絶賛した。

「ユジュさん、めちゃくちゃ上手ですよ。ほんとに素敵で、かわいらしくて」

「そう……」

「相沢さん、見てないんですか?」

「うん……まぁね」

 春生は嘘をついた。

 彼女のことが気になって、昨日は深夜まで何時間も動画を見ていたなどと、どうして言えるだろう。

 藤井は春生の嘘があまりにも下手であることに失望したのか、意地悪な表情で追及した。

「おかしいですね。顧客のことはいつもしっかりリサーチする相沢さんが、キーパーソンに関して調査をおこたるなんて」

「まぁ、ちょっと、忙しくて」

「じゃあ、チャンネルのURL送るので、ちゃんと見ておいてくださいね。仕事ですよ」

 作戦会議の最後、藤井が妙なことを聞いた。

「相沢さん、次回以降の商談は、私の出席は不要で大丈夫ですか?」

「ん、どうして?」

 インサイドセールスの顧客接点は、初回商談の完了までと決まっている。この時点でフィールドセールスに完全に引継ぎがされ、基本的には単独で商談を進めることになる。契約が成立するとカスタマーサクセス担当者が入ってユーザーオンボーディング(サービスを提供する企業からユーザーへのティーチングプロセス)を行い、リリース以降はセールスもお役御免になる。

 それが、通常の流れだ。

「ユジュさんが相手だと、相沢さん緊張してるようだったので。一人で大丈夫ですか?」

「別に緊張してないし、一人で対応できるよ」

「ふーん、そうですか」

 そっけない言葉のわりに、藤井はにやにやしながら画面越しに春生を見ている。

 (まいったな……)

 仕事に関してはそうでもないと自負しているが、春生にはちょっと鈍いところもある。

 藤井のような鋭い女性の目から見れば、彼の心の動きなど、手に取るように分かってしまうのかもしれない。

 結局、藤井は次回以降の商談に参加しないこととなった。

 (いつも通り、いつも通りやるだけだ)

 春生は平常心を自身に言い聞かせたが、一週間後に設定した商談が近づくにつれ、緊張と期待が高まってゆくのを自覚せざるをえなかった。

 その間も、毎日、夜は彼女の動画を見て過ごす時間が多かった。


 次の商談、シャトー社側の参加者は彼女だけだった。

 つまり、ふたりだけの会議ということになる。

 彼女はこの日、自宅からの接続らしい。シンプルな白のTシャツ一枚だけで、前回と違ってカジュアルなよそおいだ。

 単に商談にのぞむのとは質の違う胸の高鳴りが、春生を緊張させる。

 自然とこわばる顔の筋肉を無理に緩めるが、かえってひきつったような不自然な笑いになった。

 動揺してしまっている。

「ハルキさん、今日もよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 ぎこちない雰囲気を和らげるため、アイスブレイクの意味で動画の件に触れてみる。

「動画、拝見しました。とても素敵だと、弊社のほかのメンバーもみんな言ってましたよ」

 あえて主体を自分からずらしたのは、春生の気恥ずかしさのせいだった。

 それでも、彼女は頬をほんのりと赤らめながら、無邪気な笑顔を浮かべた。

「イヒヒ、恥ずかしいけど、うれしいです。ハルキさんも、ファンになってくれますか?」

「もちろん、僕もファンですよ」

「ありがとうございます」

「ソンさんは、ご自宅で動画を撮られてるんですか?」

「はい、自分の家です。楽器できる部屋を借りて、演奏してます。リビングにピアノを置いて、撮影します。ここは仕事の部屋なので、狭くて散らかってます」

 誰もが振り返らずにいられないほどの美人でありながら、うふふ、と照れ臭そうに肩をすくめる動作が愛らしい。

「ソンさんは、リモートでの勤務がメインなんですか?」

「はい、ほとんど家にいます。ハルキさんもですか?」

「そうですね、僕も週に一度、出社するだけで、あとはひきこもりニートしてます」

「アハハ、ニートよくないですね。週末はデートしたりしないんですか?」

「デートしてくれるような人、いませんよ」

 春生は、自分のその発言に対する彼女の反応を見ることを恐れるように、尋ねた。

「ソンさんは、週末はどのように過ごされてるんですか?」

「わたし、服を見ることが多いです。でも、いつも一人です。わたしも、恋人いないですから」

 彼女のことが気になるなら、せっかくの機会、もう少し掘り下げて話をすべきだったろう。例えば、どのような人が好きなのかとか、気になる人はいないのかとか、日本人も恋愛対象になるのかとか、話の広げようはあるものだ。ワインが好きという情報を利用して、軽く誘いをかけて反応を見るのもいい。

 だが、春生は肝心かんじんなところで手を引っ込めてしまった。愛想笑いを返しただけで、仕事の話に入ってしまったのだ。

 春生は今年29歳で、それなりにいい歳だが、恋愛経験はあまり多くないし、何より男としての自分にあまり自信がない。自信を持てる要素もなかった。

 一方、彼女はどこからどう見ても高嶺たかねの花だ。自分につかみとれるはずもない、本気になったところで適当にあしらわれて傷つくのがおちだ、という先入観もある。

 遠くからながめているのがいいんだ、それだけでいいんだ、と自分に言い聞かせる春生だった。

 お世辞にも、恋愛が上手にできるタイプではない。つまり、臆病さばかりが先に立って、想いを伝えることができず、行動を起こすこともできない。

 そうした自分がなおさら恥ずかしくもあった。自分に自信を持てない人間の、ありがちな悪循環だ。

 だが、仕事はそれなりにできる。

 この日も、春生の提案はよく彼女の賛同や共感をよく得られて、前向きな言葉を引き出すことに成功した。社内でも検討を進めるが、導入した場合のイメージはよくできたし、予算以外の面でボトルネックはなさそうとのことだった。

「ハルキさん、今日も色々教えていただいて、ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそお役に立てれば幸いです」

「またメールします」

 春生の説明や提案を聞く彼女の表情はいつも真剣で、ぱっちりと大きな目がときに冷たく感じられることもあるが、会話の際はそこにあたたかい微笑が加わって、意外なほど豊かな愛嬌が生まれる。

 このあたりの変化のある表情が、春生の心をとらえて離さない。

 ちょうどその日の夜、彼女の新しい動画が公開された。過去をさかのぼっても、彼女は1週間に1本か2本のペースで、日本の歌謡曲をカバーしている。

 この日に取り上げられたのは、『あなたのポートレート』という曲だ。新旧を問わず、春生は日本のポップスにうといために、この曲に限らず、彼女の上げている曲の半分以上は知らない。ただ、彼女が歌うとどの曲も命が吹き込まれたようにいきいきとして、春生の心を初恋にめざめた乙女のようにときめかせる。

 彼女が歌うあいだ、動画の下段には丸っこいフォントで、歌詞とは別にその曲に対する思いが韓国語、英語、日本語でつづられる。

 その内容はこうだ。


 わたしの、本当に本当に大好きな曲です。

 留学のあとで韓国に戻ってから、わたしはとてもつらいことがありました。

 そのとき、この曲を知って、いっぱい泣きました。

 かわいくて、ドラマチックで、まっすぐな曲です。

 それから、日本の曲をたくさん聞くようになりました。

 わたしは今、日本に住んでいます。

 わたしの大好きな曲を、たくさんの人に知ってもらいたいです。


 (とてもつらいこと……)

 それは、なんだろう。

 今の春生には、想像さえもできない。彼女のことを、なにも知らないからだ。

 もっと、彼女を知りたい。

 歌が進むにつれ、春生はあることに気づいた。

 彼女の瞳に、今にもこぼれ落ちそうなほどに、涙がたまっている。

 よほど大切な思い出が、この曲にはあるのだろう。

 そう彼女の気持ちを察すると、思いがけなくも、彼の目からぽろりとしずくが流れた。

 感動したり、共感して、涙が出るなど、何年ぶりだろう。

 彼はすでに、自分自身でさえ戸惑い、たじろぐほどに強い想いを、彼女に対して持ち始めていた。

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