第37話 真夜中の洗濯

 遼子がクリスマスの飾り付けを手伝ってくれて、見栄えが随分良くなった。子どもたちも遼子に絵を描いてもらったりして、しばらく一緒に過ごしてくれた。ランチを買いに行ってた近藤礼央が戻ってきたタイミングで、何か言いたそうな南友梨に「少し席を外すから」とことづけて、ランチを外で取るために二人で出た。

「奏太とランチ食べるなんて…何年・・振りかなぁ」

何十年・・・ぶりになるよ」

「…そう…ね」

「駅前に美味しいお寿司があるからご馳走するよ」

「…奏太。手を繋いでもいい?」

 手を繋ぐのも何十年ぶりになる。遼子の手は冷たかった。でもこの手を繋ぐのに、こんなに時間がかかってしまったことの悲しさと、それでもまた触れらたことの幸せと複雑な気持ちで混乱していた。

「あの頃だったら…多分、泣いてた」

「奏太が?」

「うん。…僕がもっと早く遼子に会いに行ってたら…って後悔しているところ」

「…じゃあ、今日は奏太の部屋で泊まろうかな」

「え? 片付けないと、ちょっと散らかって…」

 遼子が柔らかく笑って、「冗談よ」と言う。今、実家に戻っているらしい。

「ご両親は元気?」

「うん。おかげさまで。二人とも少し小さくなったけど。お母さん、まだ奏太に会いたいって言う時あるの」

「…じゃあ、会いにいこうかな」と言って、挨拶しに行かなければいけないと考えていた。

「本当? 喜ぶと思うわ」

「遼子…」

 挨拶の前に、プロポーズをしていないことに気がつく。こんな住宅地の道路で、プロポーズをしていいのか迷った。それに遼子は別に結婚ついては何も言っていない。気持ちを確かめた方がいいのか、いや、気持ちは分かっている…はず。そんなことを考えて、思わず立ち止まってしまった。

「奏太?」

「あの…ちょっと、お店に先に入っててもらえないかな?」

 指輪も用意していないからせめて花束だけでも買おうかと思った。駅前に花屋があったはずだ。

「え?」

「少し用事を思い出したから。いや、やっぱり後にしようかな」

 かなり挙動不審になった。よく考えたら小さな座敷とカウンターお寿司屋でプロポーズなんて、しかもランチの時間は混むのにそんなことできない。

「忙しいなら、そのまま帰るけど…」

「ううん。そうじゃなくて」と言いながら、歩き始める。

「どうしたの?」

「どうしたらいい?」

 遼子は心配そうに僕を見た。

「何が? あ…お金ないの?」

「え?」

 思いがけない言葉に僕の頭はフリーズしたけれど、遼子は本気で心配している。

「お金…確かにないけど…。借金もあるけど…。もちろん返済可能予定だし…時間はかかるけど…でも」

 僕の言葉に真剣に耳を傾けて、何度も頷いている。

「ランチのお寿司くらいはご馳走できるので…お願いがあります」

「何? 何でも言って」

 繋いだ手を僕はもう一つの手で包んだ。

「一緒に…ずっと一緒にいてくれませんか」

 遼子は心配していた顔が固まって、二、三回瞬きすると目が大きく開いた。

「今、何も持ってなくて、こんなこと、こんな場所で言うのも…どうかと考えたけど。もう離れたくないから。それにお母さんに会うっていうのは結婚のご挨拶をしに行こうかなと思って言ったことだから」

 随分、年を重ねて、少しは成長したと思っていたのに、遼子と一緒にいると相変わらず、僕はうまく格好つけられない。それなのに、遼子は僕の涼子の手を握っている手にそっと口づけをしてくれた。

「もちろんです」

 相変わらず綺麗な声だった。僕は遼子がいなかった長い時間をこの瞬間でどこかに吹き飛ばしたような晴れ晴れとした気分になった。


 お寿司を食べた後に、僕は花屋で花束を作ってもらい、それから駅で別れた。結構な大きさの花束を嬉しそうに抱えた遼子を見送って、家に戻る。僕が戻るや否や、南友梨が駆けつけた。

「あの、さっきの人が新田さんの忘れられない人ですか?」

 僕が答える前に、後から来た近藤礼央が南友梨に話しかけた。

「新田さんのプライベートだから。でも顔見たらわかるでしょ? すごく嬉しそうだし」

 まさかそんなことを近藤礼央に言われるとは思ってなかった。南友梨も驚いて近藤礼央の顔を見る。

「あんなに綺麗な人、そりゃ、忘れられないでしょ。さ、戻って続きしよ。リース作るって子どもたち待ってるから」

 そう言って、南友梨を連れて行った。二人の後ろ姿を見て、その後、鏡で自分の顔を見た。そんなに分かるほど笑っていたんだろうか、と首を傾げる。その後、三時に来た高田藍からも「何かいいことあったの? 珍しい」と言われた。夕方の授業でも「先生、今日は楽しそうだね」と子どもたちにまで言われた。そんなに意識してないつもりなのに、無意識で出てるのだろうか。帰りがけの高田藍に遼子が来てくれたことと、結婚することを伝えた。

「え? だからなの? 今日は三センチ地面から浮いてたけど?」

「三センチ? 一メートルは浮いてると思ってた」と言うつまらない冗談に高田藍は顔を顰めた。

「何にせよ、おめでとう。これで私の心配が一つ減ったわね」

「心配?」

「お友達だから、一人でいる新田くんのこと心配してたのよ」

「…ごめん。ありがとう」

 お友達ネタは一生言われ続けるんだろうと、この時、覚悟した。

「でも…あなたも彼女もあり得ないくらい一途で驚いたし、ちょっと感動したわ」

「僕は一途だったかは…」

「でも結局、彼女じゃなきゃダメだったんでしょ?」

 図星を刺されて、僕は笑って誤魔化した。

「新田くんは顔はそこまで男前じゃないけど…ちょっと気になる存在だったのよね。だから私も話しかけたんだけど…。彼女は気づいてたのね。あなたの良さを。あの時から」

「良さ?」

「そう。…妥協しないところとか。本当にやりたくないことは絶対しないもんね。ゼミ合宿も来なかったし」

「あれは家の事情で行けなかったんだよ」

「牛乳配達だっけ? 私、苦学生なんて信じられなかったわ」

「お嬢様だもんな」

「そう。だから私は完全に興味があっただけで、新田くんの良さなんて何にもわかってなかったけど…。今なら少しは分かるかな」

「…お礼を言うべきなのかな? ところで南さんはどうなってるの?」

「聞いてないの? あまりの高スペックに南さんが引いちゃって、でも紹介した彼は彼女を気に入ったみたいだから、まだデートはしてるみたいよ」

「高スペックだったんだ」

「そりゃ、選りすぐりを探してたんだもん。顔良し、高身長、人当たりよし、もちろん収入も良しでね…。でも近藤君…あの子…南さんのこと好きなのかも…。ちょっとそんな気がしたんだけど」

「え? そうなの?」

「まぁ、気がしただけだから」

 高田藍の顔が、相変わらず鈍いわね、という表情をしていた。高田藍の携帯がなり、画面をチラッと確認して、僕に言った。

「今日は主人が迎えに来てくれて、みんなで外食するから。また明日」と言って、本を読んでいた待っていた自分の娘に声をかけて去って行った。

 

 アパートに戻ると、千佳に久しぶりに電話をかけた。そして遼子と会ったことを伝えた。

「そうなの。…あの子、本当に美人なのに残念な趣味をしてるわね。もっといい人たくさん会えたでしょうにね」

 千佳の毒舌も今日は全く気にならなかった。

「私に一年に一回、メールをずっとくれてたの。別にあんたのことを聞く訳でもなく…。ただ、今はどこにいて、元気に暮らしてるとか、私のことも心配してくれるだけのメールだけどね。でも、きっとあんたのこと心配してたと思うから、聞かれてないけど、奏太は生きてますってだけ毎回付け足しておいたわ」

「え? そんなこと初めて知った」

「だって言わなかったもん。あんた、そこそこ遊んでたし…。言えないじゃん」

「…遊んでたって…」

 僕は絶句した。僕がどれほど、遼子に思われていたか…胸が詰まった。

「だから、ほんと、私はあんたが鈍いにも程があるなぁって思ったんだけど、遼子ちゃんがあんた以外の他の人を好きになればいいと陰ながら祈ってたわよ」

「教えてくれたらよかったのに」

「人のせいにしないの。探しに行かなかったのはあんたなんだから」

 言い返せないほどの正論を言われて、僕は黙った。

「だから幸せにしてあげなさい。これからずっともう彼女のそばにいてあげて。あんたがふらふらしてた分、愛してあげて」

 どうして探しに行かなかったんだろう。絵を手に入れて、自己満足していた。僕はもう遼子に忘れられていると思っていて、それが本当になることが怖かった。自分の気持ちも知らないふりをして年月を重ねて、彼女の思いも考えようとしなかった。ただ僕は流されるだけ、流れてただけの時間だった。もし僕が彼女を死ぬほど探そうとしていたら、千佳は教えてくれただろう。それに…僕は彼女の実家の電話番号を知っている。でも何もしなかった。

 黙り込んだ僕に「とにかく…おめでとう」と言って、千佳は電話を切った。

 プープーと鳴る電子音だけが繰り返し耳についた。時間を無駄にしたのは僕のせいだ。古いアドレス帳を引っ張り出して、遼子の実家に電話をかけた。

「もしもし?」

 電話に出たのは遼子のお母さんだった。懐かしい声で、でも少し年齢を感じさせられた。

「あの夜分失礼します。新田奏太です。遼子さんいらっしゃいますか」

「あら、奏太くん? 遼子から聞いたわよ。素敵なお花ありがとう。また顔を見せにきてね。ちょっと待っててね」

 慌てた様子で、でも少し声を弾ませて、遼子を呼びに行った。僕にはそんな資格なんてないのに…。そう思って、保留音の繰り返されるメヌエットを聴いていると、遼子が出た。

「もしもし? どうかしたの?」

「あの…ごめん」

「え?」

「僕が…探しに行かなくて」

「…奏太?」

「こんなに時間を無駄にしなくてよかったのに」

 しばらく沈黙した後、遼子がゆっくり言った。

「…本当。許さない」

「…そうだよね。どうにかして償わせて」

 そんなことを言ったところで、失われた時間は戻ってこない。しばらく黙っていると、数字を言われた。

「私の携帯番号。奏太、一度も聞いてくれなかったから」

「あ、本当、今日はどうかしてた。どうしていいのか分からなくて…。もう一度言ってくれる?」

 遼子の携帯番号のメモを取った。

「ありがとう。今度から、こっちに電話するから…。遼子、エンゲージリングも買いに行こう。なるべく大きいの。それから引っ越しもしよう。二人で住める、もう少しマシなとこ探す」

「…嬉しいけど。私は指輪より、奏太と手を繋ぎたい。部屋も小さな部屋でいいの。ただ一緒にいたいの。…だから毎日、あの頃みたいに電話して」

 あの頃、毎日電話して、毎日会っていた。会うのが当たり前で、どこで待ち合わせるか、とか、そんな話だけだったのに、いい思い出になっていたみたいだ。

「分かった。朝、七時半に電話するよ」

「楽しみ。明日からよ? 忘れないでね」

「本当にごめん」

 僕が謝ると、遼子はくすくす笑った。

「もう謝らないで。…また明日、行ってもいい? 大学は来年の四月からだから、まだ時間があるの」

「うん。ぜひ来て」

 そう言って、僕は散らかっていた部屋を片付けて、溜まっていた洗濯物を一気に洗った。アパートの部屋は少しだけマシになった。ベランダの扉を開ける。洗濯物を干しながら、冷たい夜の空気に触れても少しも淋しくなかった。

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