第36話 強くて美しい人

 僕は毎朝、遼子の絵を見て話しかけている。そうすると、なんとなく気持ちが落ち着いてくるからだ。返事を期待しているわけではないけど、ただなんとなく頭が整理されることもある。

「今朝一人、僕のところから学校に戻って行った子がいた。でも新しい子が来たよ。待ってくれてる子も…あと二人いてね。あんまり大勢を受け入れる体制じゃないから、困ったな」

 最後の方は声に出してしまっていたようで、入ってきた南友梨に指摘された。

「独り言を言うようになったら、おしまいですよ。そしてまた絵を見てますね。私の推しのアクスタ、置きましょうか?」

「アクスタ? なにそれ?」

「新田さん、アクスタわからないんですか?」

「うん。知らないです」

 がっくり肩を落として出ていった。でもその前にアクスタが何か教えてほしい。そう思っていると、またすぐに戻ってきた。

「そうです。言いたいことありました。ここが、この雑誌に載ってたんです」

 西川晶子の出版社が出している女性誌だった。

「ほら、見てください。私も小さく載ってます。あ、もちろん、新田さんもですけど」

 嬉しそうに見開きページを見せてくる。僕は自分の顔なんて、ゾッとするので、その記事を見ないようにしていた。

「あ、それと今週末、藍さんに紹介されて、会うんです。楽しみです」

「よかったです。素敵な人だと思いますよ」

「すぐに結婚しちゃうかもしれません」と声を高くして僕に言う。

 高田藍の旦那さんの会社の後輩で選りすぐりの男性を選んだと言っていたから、きっとうまく行くはずだ。

「仕事は続けてくださいね」

「産休はください」

「はい。もちろんです。スッタフを増やそうかと思ってます」

「え?」

「英語もできるハーフの男の子がこの間、面接に来てくれて。昼から夜のシフトで働いてもらおうかと思ってます。多分、採用するので仲良くしてください。イケメンでしたよ」

 南友梨は困ったような顔をした。

「いつ来ますか? その人を好きになってから、藍さんの紹介だと困ります」

 至って真面目な顔でそんなことを言うので笑いたいのを堪えて僕は「今日の昼に一度、体験で入ってくれるので、会えますよ」と言った。

「今日?」と素っ頓狂な声を出して、南友梨は出て行った。

 アクスタの意味を聞くのを忘れていたが、本当におかしくて、一人で笑ってしまった。

「娘がいる気分だ」と遼子の絵に呟いた。


 昼から来てくれた男の子は近藤礼央こんどうレオと言った。南友梨と同じ歳で、とても丁寧に物事をするタイプらしく、南友梨が少し苛立っていた。確かに、絵本もきちんと高さが合うように並べている。

「ねぎを植えるから」と南友梨が言うと、みみずが怖くて土は掘れないと言う。

 でも子どもたちの間でも虫が苦手な子がいるので、近藤礼央が塗り絵を一緒にしたりしている。塗り絵は恐ろしいくらいはみ出ずに綺麗に塗ってくれる。だから僕はお互いができないことをカバーできるからよかったんじゃないかと思っていた。そして性格も穏やかだし、子どもたちも近藤礼央が好きなようで、すぐに馴染んだ。それも南友梨は面白くなさそうだった。

 様子を見ていた僕は南友梨を呼んだ。

「南さん、好きになりそうですか?」

「彼ですか? きっとなりません」

「じゃあ、心置きなく紹介も行けますし、採用ですね」

「…。ちょっと悔しいです。私には心をなかなか開いてくれない子も、すぐに馴染んでて…」

「それは南さんが今まで彼らの心を開こうとしていた努力があったからです。子どもは基本的に好奇心が旺盛ですから、ちょっと扉が開きかけたらそんなもんです。だからあなたが今まで頑張ってきた証拠だと思いますよ」

「私の?」

「そう。南さんのおかげです。だから胸張っていいんです」

 そう言うと、すぐに顔が明るくなって、また子どもたちのところへ戻って行った。そして近藤礼央にもいろんなアドバイスをしているようだった。サンルームから冬の光が差し込んで、子どもに囲まれている二人は本当に綺麗だった。彼らの若いと言うだけで、ただそこにある美しさに目を細める。自分達にもそういう時間があったはずなのに、と過ぎてしまった時間を初めて後悔した。


 十二月にもうすぐ入るので、クリスマスの飾り付けをみんなで作っていた。画用紙で、サンタクロースを切り抜いたり、松ぼっくりにリボンをくっつけたりしてなんとなくそれっぽく見えるものを一人一人作る。今日は朝から来てくれている近藤礼央も一緒に創作してくれた。彼はとても器用にいろんな形を切り抜いていく。その横で南友梨は折り紙を切ってカラフルなチェーンを作っている。それができると僕に玄関を飾ってください、と持ってくる。外に出ると、日差しがあるせいかそこまで寒くない。僕はセロテープと微妙な長さのチェーンを持って、玄関のポーチの下でどうやって貼ろうか悩む。試しに短いチェーンをドアに貼ってみたが、今ひとつ、ピンと来ない。こういうことは近藤礼央の方が向いてるかも、と思い、交代してもらおうと家の中に入ろうとした時、

「もう一つ、重ねたらいいの」と声がした。

 待ち侘びていた声だった。

 僕は自分の耳を疑って、そして振り向くのが怖かった。そのまま動けない。振り返ったら、パチンと弾けて消えてしまいそうだ。そもそも聞いた声も幻聴かもしれない。もしかして近所の親切な人が声をかけてくれたのだ、と自分に言い聞かせて愛想笑いを浮かべて、振り返ろうとした。

「奏太」

 忘れられなかった綺麗な声に、手から折り紙のチェーンが滑り落ちた。

「待って」

 振り返ろうとすると、止められた。

「だいぶ…年をとってしまってるの。だから想像より皺をつけて、それから」

 もう我慢できずに僕は振り返った。その瞬間、遼子が抱きついてきた。

「もう。振り返らないでって言ったのに」

 抱きつかれているから、顔は見えない。でも遼子の匂い、温かさが僕の心を揺さぶった。ずっと欲しかったものが、ずっと欠けていた僕の一部分が僕に触れている。

「会いたかった」

 僕はそう言って、強く抱きしめた。離れていた長い時間を実感する。細い髪の毛に少し銀色の髪が混ざっていた。髪は肩につくくらいの長さで内巻きにカールしている。

「どうして、待っててくれなかったの?」と俯いたまま問われた。

「え?」

「ニューヨークで絵を買ってくれたでしょ? オーナーが日本人の男性が来たって言ったから、絶対、奏太だと思ってた。本当にすぐ戻ったのに…どうして」

「ごめん」

 僕は素直に謝った。でもあの時、付き合っている人がいた、とは言えなかった。

「好きな人…たくさんいたでしょ?」

 一瞬、返事に戸惑ってしまう。

「…いない」

 半分嘘で、半分本当だ。遼子ほど好きになった人は一人もいなかった。僕は前にも軽い嘘をついたような記憶があったな、と遼子を抱きしめながら思い出した。確か付き合った人の人数と期間の嘘だった。

「遼子…顔は見せてくれないの?」

「…おばさんになったけど、いい?」

「僕もおじさんになったよ。見たくない?」

 遼子は体を離して、顔をあげた。もちろんお互いに皺も増えたし、肌のハリつやも失われている。でも遼子の生き方がそうさせたのかもしれない。若さの眩しさと引き換えに、あの頃になかった、美しさが見える。目尻の皺も優しさを写してる。

「綺麗になった」

 若い頃みたいに頬を膨らませることはなかったけれど、小さく笑った。

「奏太も…」とお世辞をくれた。

「どうして来てくれたの?」

「…。ニューヨークで絵を買ってくれたけど、待っててくれなかったから…。きっともう他の人がいるんだと思ってた。…でも病院でたまたま見た雑誌にここが載ってて、サンルームが写真に載ってたから。思い出のサンルームって書いてたから、もう我慢できなくて…すごく会いたくなって」

「病院って…。どこか悪いの?」

「ううん。大丈夫。定期検診みたいなものだから」

 少し何か引っかかったが、僕は遼子に家に入ってもらった。

「奏太が作ったお家?」

「リフォーム工事しただけなんだけど…」

 サンルームにつながる明るい部屋ではまだクリスマスの飾りを作っていた。南友梨が顔を上げて、「新田さん…?」と言った。

「ごめんね。飾り付けは後でするので」

 遼子は横で軽くお辞儀をした。そしてサンルームを見て、「すごく明るくて素敵ね」と言った。子どもたちが作業をしているので、僕は遼子を事務室に案内した。壁には遼子の絵が架けられてある。

「雨の絵…。絶対、奏太だと思ってた」

 壁にかけられた絵を見て、遼子は微笑む。

「これから少しずつ買えたらって思ってる」

「プレゼントするよ。この家のお祝いに」

 僕は遼子に椅子を薦めて、ティーパックの紅茶を淹れた。

「さっき病院って言ってたけど、何の病気?」

「死ぬようなことないから。…膠原病なの。命には関わらないから安心して」

 僕はほっとしたけれど、遼子は紅茶カップを持ち上げるのも慎重にそっと両手で抱えた。

「力が入りにくくて」

「大丈夫?」

「うん。大丈夫よ。あのルノワールもリウマチで、最後は筆を手にくくりつけて、絵を描いたんだから。それに病院で雑誌を見て、ここに来れたから、感謝してるの」

「痛みは?」

「…あるよ。でもいいお薬もあるし、心配しないで」

 僕は久しぶりに会ったというのに、なにを話していいのか分からなかった。病気になっていて、辛い思いもたくさんしているはずなのに、遼子が輝いて見える。

「奏太は…結婚してないって書いてたけど…付き合ってる人はいないの? さっき抱きついちゃったけど…」

 ちょっと困ったような、申し訳なさそうな顔で聞いてくる。

「え? そんなこと書いてたの? …誰とも付き合ってもいないけど」

「この仕事をするのに全力を傾けていたら、結婚できなかったって書いてたけど…」

 西川晶子の『今に見てなさい』と言っていた意味がわかった。

「あの記事…大学の同級生が勝手に書いたんだ。まぁ、結婚はできなかったけど」

「どうして?」

「アメリカでは無職になったとか…、帰国してからは自分ので仕事を立ち上げるのに忙しいのもあったし…。でも何より…どこか僕が真剣になれなかったのが原因かな。僕から別れたのは…遼子だけだった」

 少し傷ついたような顔をしたので、僕は説明した。

「すごく…愛してたから。遼子のことを考えて別れた。でも他の人は申し訳ないけど、自分のことしか考えてなかった。だから振られるまで何もしなかった。ひどい話だけど…。遼子と別れてから、誰かのことなんて真剣に考えたことなかった。考えられなかった。本当に自分のことばっかりで。綺麗って言ってくれたあの日の僕じゃなくなって…」

「奏太なら誰かを幸せにできると思ってた…。私は奏太のところにずっと帰りたかった。でも宝物を失ってまで描いてるんだからって何度も、何度も言い聞かせながら、絵を描いてた。雨の絵は奏太と見た雨を思い出したし…どこにいても空を見て、奏太のことを思ってた。誰かといたとしても…」

「遼子は誰とも付き合わなかったの?」

「…私は絵を描くって選んだから。パリの小さな屋根裏部屋にいたときも、タイの水シャワーしか出ないホテルにいた時も…ずっと絵を描いてた。だって私にはそれだけのものを失ったから…自分で、頑張れって、頑張れって、歯を食いしばってでも…そう思って描き続けたの。でも毎日、辛いわけでもなかったの。やっぱりいろんな国の空は綺麗だったし、街も人もそれぞれの美しさがあったし、それを見て、触れられる自分が本当に幸せだと思ったの。奏太を失って、ここにいるって思うと、一人ぼっちで泣いてるより、一人ぼっちでも私は今、目の前にある幸せに感謝したいって思ったから」

 想像できなかった。遼子がそんな生活をしているなんて。どこか優雅な暮らしをしているイメージがあった。

「でもおかげで画家としても認められるようになって…。少し売れるようになったから。それに病気のこともあって、奏太と会った大学で先生になることにしたの。この前行ったら、全然変わってて、何もかも綺麗になってた。古い校舎は何一つ残ってなかったの。驚いちゃった」

「そうなの? ちょっと寂しいね」

 遼子は紅茶のカップを握り締め直して、僕を見た。

「もう…帰ってきていい? 私、頑張ったよね?」

 そうだった。世界を一周してきたら帰る…あの日、遼子は指で僕の写真の上を歩いて、そう言っていた。

「世界一周できた?」

「二周半した」

 それだけ長い時間がかかった。僕も遼子も。

「…僕で…いいの?」

 遼子が頷いてくれるのを見て、僕は今までのことを思い返していた。僕が泣いたり笑ったりしている間に、遼子も同じように毎日を過ごしてきたのだろうか。いや、僕以上に努力を重ねてきたに違いない。そんな遼子を僕が受け入れていいものか、悩んだけれど、言える言葉は一つしかなかった。

「おかえり」

「ただいま。…でも待ってたの。私が奏太のこと…ずっと想って待ってた」

 僕は待っていなかった…。忘れようと、忘れたと思い込んで暮らして、でも結局、忘れられなかった。

「ごめんね。あの日、待ってればよかった。本当にごめん」

 もしあの日、僕が遼子を待っていたら、仕事は失敗しただろうし、もちろん、恋人とも別れていた。人生に「もし」はない。だからこそ、あの日、勇気を持てなかった自分に腹が立った。どうして僕は遼子を待っていられなかったのだろう。

「いいの。今、こうしていられるから。でもあの日、ちょっと泣いちゃった」

「本当にごめん。そう言えば…約束してた遼子の写真…送ってくれなかったのはどうして?」

 一つだけ気がかりだったことを聞いた。写真が送られてくるのを首を長くして待っていたのに、結局受け取ることができなかったからだ。だからもう僕のことは忘れているのかと思っていた。

「私は奏太の写真を持ってた。どこに行くのにも絶対持ってたの。でも…奏太には…重荷になるかもしれないし…。奏太には幸せになって欲しかったから」

 元々、送るつもりはなかったのか、と僕は遼子を見て言葉が出なかった。遼子の覚悟に比べて、僕の想いは大したことないな、と思った。僕から別れを切り出したというのに、遼子の方が強い気持ちでいたみたいだった。

「だからあの日、証明写真も撮らなかったんだ」

「あれは…泣いて化粧も崩れてたからよ」と笑う。

 本当に強くて、美しい人になった。もう冷めてしまっただろう紅茶のコップを両手で抱える笑顔に僕は何も言えなかった。 


 


 

 

 

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