第29話 八月の版画展

 僕たちは八月に別れた。だから綺麗な遼子の浴衣姿は見れたけど、沖縄には行かなかったし、水着姿を見ることはなかった。あの時、僕が選択した道は正しかったのだろうか、と何度も考えたことがある。いまだに分からないけれど、あの別れがあったから、僕はこうして今があるし、遼子にだって、芸術家としてのキャリアがある。僕が願っていた彼女の芸術家としての成功のために、僕から彼女を手放した。


 八月の夏の暑い日、銅版画展に行こうと約束をしていた。駅で待ち合わせていた遼子は麦わら帽子に、白いレースのワンピースを着ていて、本当に綺麗だった。遼子の作品が入選したと聞いて、二人で楽しみにしていた。展示場所は駅からしばらく歩いたところにある。日陰を選んで二人で歩いた。

「この後、旅行代理店行こう。沖縄の予約しなきゃ」と遼子は嬉しそうに笑う。

「来月だし、そろそろ行かないと」

 僕は最終面接を終えて、「仕事に慣れるためにアルバイトに来なさい」と言われていた。それは他企業を受けさせないための囲い込みだったけれど、そのせいで、平日、遼子に会える日が少なくなっていた。あれだけ毎日会っていたのに、久しぶりのデートになる。

「最近、忙しいもんね」

「ごめんね。就職する前からこんなことになるなんて、思いもしなかった」

「仕方ないか」

「ますますお金持ちになるなぁ…」と僕は笑った。

 小さな洋館のような建物の前に着いた。

「ちょっと待っててね」と言って、遼子が先に入った。

 僕は日陰で少し待っていた。蝉の鳴き声が暑さをさらに倍増させる。今日はアルバイトを休ませてもらったけれど、九月も休ませてもらえるのだろうか、と少し不安に思った。せっかく決まった就職だけれど、まだ卒業していないのに、こんなに会社に行かされるとは思ってもなかった。仕事はほとんど雑用だけど、先輩たちはとても親切にしてくれていた。

 そんなことを考えながら待っていると、遼子が走って僕にぶつかってきた。出品した銅版画は優秀賞に選ばれた、と教えてくれた。最優秀ではないけれど、とても嬉しそうだ。遼子が中に入って確認すると、「優秀賞」と書かれた紙が貼ってあったらしい。

「奏太! 私の銅版画が選ばれたの」

「すごい!」

 僕は遼子を抱き上げて、「やったね」と言った。

「奏太、ありがとう」と言って、遼子も僕にぎゅうっと抱きついた。

 洋館の入り口でそんなことをしたから、人目にはついた。でも遼子がどうしてもなりたかった画家に一歩近づけたことが、僕にとってもものすごく嬉しいことだったから、遠慮なく喜んだ。くるくる回ったかもしれない。そして遼子を下ろして、二人で手を繋いで、中に入った。いろんな作品があったけれど、全て飛ばして、遼子の作品の前に立った。「再生」というタイトルがつけられた版画はアメーバのような形の中に落ち葉が折り重なるように広がっていて、淡い色彩の綺麗な色で印刷されている。僕が拾った小さなプラタナスの葉っぱもちゃんとあった。

「…。私、奏太に会って、本当によかった」

 二人で本当に長い間、黙って遼子の銅版画を見ていた。遼子の苦労が少しでも報われた気がした。

「ここに、奏太が拾ってくれた葉っぱでしょ。それからこれは私が…」と遼子が喋っている間に、後ろから声をかけられた。

「倉田遼子さん?」

 振り向くと、背の高いおしゃれな男性が立っていた。薄い水色のストライプのシャツと紺色のズボンを履いていて、少しパーマがかった髪を前に垂らしていた。

「僕、審査員をしていた浅田久なんだけど」

 三十代前後で、とても色気のある男性だった。僕は彼を見た瞬間、言いようの無い不安が押し寄せてきた。

「君の作品、繊細でよかったよ。後もう少し、自分の何かがあったらよかったんだけどね。それと刷りが甘いかな。うまく線が出てないところもあるし」

「ありがとうございます」

「でも君の作品、嫌いじゃないな…。ニューヨークの画廊に見てもらいたいなぁ。作品集ってある?」

「…無いです」

「作って、持っておいで」と言って、名刺を渡した。

 名刺を遼子は受け取りながら、戸惑っていた。

「夏休みでしょ? 良かったら、ニューヨーク、行く? 僕も九月に行く予定にしてて。そこの彼氏と一緒に旅行ついでにおいでよ。案内してあげるし、画廊にも行こう。詳しいことは連絡して」

 そう言って、去っていった。

「ニューヨークの画廊だって…」と僕は遼子を見た。

 遼子はとても困った顔をして、名刺をずっと持っていた。


 ニューヨークの画廊なんて、僕にはもちろん、そんなコネもないし、そしてそれが何を意味しているのかもよく分からない。ただそれは遼子にとって、とてもつもなく魅力的なオファーだったと思う。遼子は名刺を鞄にしまって、僕の手をそっと繋いだ。

 僕たちは小さな洋館を出ると、さっきまで浮かれていた二人の足取りは重くなっていた。

「ねぇ…お腹空いた」と遼子が笑いかけてきた。

 僕は少しもお腹空いていなかった。多分遼子もそうだったんだろうけど。

「ちょっと疲れたね。どこか入ろうか」

 大きな川の向こうにファミレスがあるのが見えた。そこでいいかと尋ねると、遼子は頷いたので、川を渡ることにした。橋は日差しを遮るものがない。それなのに、遼子は立ち止まった。

「奏太…一緒にニューヨーク行かない?」

 僕は振り返って、遼子を見た。白いワンピースが風に揺れて、麦わら帽子を押さえている姿がそこにあった。いつの間にか手が離れていた彼女と僕の僅かな距離が永遠に感じた。

「会社のアルバイト…そんなに長く休めないんだ」

 そんな言い訳をした。二人でニューヨークに行ったら、どんなに楽しいだろうと僕も思う。楽しい旅行になって、ニューヨークの画廊もいい経験で終わるだろう。でもそれじゃだめだ。彼女一人で行くべきなんだと思った。

「そう…だったね」

 遼子は僕をずっと見ていた。先に目を逸らしたのは僕の方だった。真夏の昼下がり、暑かったはずなのに、全く暑さを感じずに僕は橋の上に立っていた。影は短く、太陽が真上から僕たちを照らしていた。一緒に行こう、と言いたくなる衝動を抑えていた。

「遼子は行った方がいいと思う」

 間違えたことは言ってない。それなのに、悲しそうに遼子が顔を歪ませた。きっとあの時、遼子だって分かっていたはずだ。

「今日は…もう帰るね」と遼子が言った。くるりと後ろ向きに歩き出した後ろ姿を僕は何も言えずにずっと見ていた。行こうと約束していた旅行代理店は結局、行かなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る