第28話 サンルーム

「いつか…奏太が英語の翻訳とかして…、私がその横で絵を描いて…。ずっと一緒にいるの」

「翻訳かぁ…。考えてもみなかったな。英語だけじゃなくて、日本語力もいるから…。でもそれだと、確かにずっと一緒にいられるね」

「だって、奏太は図書室でいつも論文書いてて、私はアトリエで絵を描いてて…離れてるんだもん。図書室ってパステルでさえ、絵を描いちゃだめだよね」

「確かに絵は描いちゃだめだと思うよ」

「同じ大学にいるのに…。結婚したら、光がたっぷり入るサンルーム作ってね。そこで絵を描いたり、奏太は仕事したりするの」

「頑張って、働くよ」

 僕たちは少しカビ臭いベッドの上で、天井の変な模様を見ながら話していた。薄暗い部屋の中で、光溢れるサンルームを想像していた。雨はずっと降り続けていた。遼子の言うように雨の音はなぜか安心させられる。二人っきりの世界を包んでくれるような気になる。

「服…乾くかな」

「乾くまでここから出なかったらいいの」と遼子は僕を見て、微笑んだ。

「そうだね」と僕も笑った。

「さっきね。雨の街を見てたら、光が溢れてきたの。本当に雨の粒がきらきらしてて…。急ぐ人たちの様子も…。夜に沈む街さえも、綺麗に見えたの。奏太が私に光をくれたから。…本当に奏太は私の救世主だった」

 雨音と遼子の声。ぼんやりしていると遼子の手が僕の頬に触れた。その手を僕が握る。

「じゃあ、遼子は僕に愛を教えてくれた」

「愛?」

 僕は目を瞑って、頷いた。

「奏太?」

 遼子の澄んだ呼びかけを聴きながら、一瞬、僕は眠ってしまった。サンルームは雨の日も美しく、僕は夢の中でそこにいて、遼子が絵を描いている姿を見ていた。頬を小さく指で押される刺激で目を開ける。

「…遼子の夢を見てた」

「こんな短時間で?」

「うん。絵を描いてた。夢のない僕の希望…いつかサンルーム作るから…遼子はずっと絵を描いて欲しい」

 譫言のような寝言のようなことを僕が言った。返事はせずに遼子は僕の体の上に乗って、顔中に軽いキスを繰り返した。くすぐったくて、少し笑った。

 目を閉じても、開けてもそこには遼子がいて、贅沢な時間だった。


 それから三十年経って、ようやく僕はサンルームを作ることができた。遼子はいないけれど、僕の心にずっとあったサンルーム。白い枠でできた、ガラス張りのサンルームは大きな部屋と繋がっている。ここで、子どもたちが思い思いに過ごせる場所だ。絵を描く子はいるだろうか。いないかもしれない。でも僕はイーゼルと大きな画用紙を用意した。

 床は転んでも痛くないようにマットが敷かれてある。飛び跳ねたりする子もいるだろう。

『奏太は先生とか向いてると思うけどなぁ』

 いつか遼子が言ってくれた言葉が、まさかこんな形で実現するとは思いもしなかった。僕は教員免許を持っていないから、学校を作った。学校と言っても、大掛かりなものではなく、学校に行けなくなった子が居場所になるようなフリースクールのような場所だ。普通に学校に通っている子たちの放課後預かりもする。明日、開校する予定だ。

 始まりは放課後預かりだった。時代が変わって、結婚後、出産後も女性は働くようになり、子どもたちが帰宅後、家で留守番させるよりは、と学校外の放課後預かりを選択する家庭も増えた。僕は英語を教えるという放課後預かりだったので、人気が出た。学校の宿題を見たり、英語を教えたり、最初は本当に小さなビルの一室で始めたけれど、小学校の近くでやっていると、どんどん手狭になっていった。教員免許はなくても、人に教えると言う仕事ができて、そして遼子が言ったように、僕に向いていた。

 子どもたちが喧嘩したり、仲良く遊んでいたりするのを見ているのは飽きなかった。宿題を見ていると、勉強につまづく子もいて、僕は伝手を辿って、発達障害に詳しい人を紹介してもらって、スタッフとして協力してもらったりした。驚くことかもしれないけれど、その伝手と言うのはあの高田藍だった。僕たちはあれから本当に友達になった。自分ででも面白くて、信じられないことだけれど。ちなみに高田藍のお友達の西川晶子とも今でも付き合いのある友達になっている。人生は面白い。

 試行錯誤の末、十年かかったけれど、僕は古い家を改装し、小さな学校というか子どもたちの居場所を作った。莫大な借金をこの年で背負ったことに正直震えている。そして、そのせいで、結婚も一度もしないまま人生を終えそうだけれど、特に後悔はしていない。

 僕はずっと夢は持っていなかった。ただその時、その時、やることをやっていたら、なんとなく形になっていた。

 出来上がったサンルームはとても綺麗で、きっと夜も綺麗だと思う。僕は近くのアパートの一室で寝泊まりをするけど、たまにはここで過ごしてもいいかもしれない。雨の日はここで一人で雨音を聞いてみよう。

 僕はふと思い立って、今まで開けられなかった遼子からもらった水彩絵の具を開けてみようと思った。子どもたちが使えたらいいな、と思ったからだ。まだ包装すら解いていなくて、あの時貼られたままのセロハンテープは黄ばんでいた。リボンを解いて、包み紙を開ける。小さなメッセージカードが付いていた。


「奏太へ

 本当にありがとう。

 これを開けるとき、奏太が幸せな気分になれたらいいな

                      遼子」


 遼子の文字だった。

 三十年ぶりに遼子に触れた。

 四月に出会い、五月に土曜日デートし始めて、それから遼子の誕生日に遼子の一番になった。六月は、毎日少しの時間でも会っていて、七月はドイツ語のテスト、夏祭り…。八月に版画展があって、そこで別れた。四ヶ月ほどしか付き合っていなかったのに、僕の心にずっと残っている人だ。あれからそんなに時間が経っていることに気づかないほどに。


「幸せな気分になれたよ」

 遼子には届かないけれど、三十年後にもらったプレゼントと遼子に感謝した。

 ありがとう

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