第26話 特上握り

 僕たちは毎日幸せだった。毎朝の電話。僕からかける約束をしてたけど、たまに遼子が待ちきれなくて、掛けてきたりもした。朝の時間だからとっても短い「おはよう。今日は大学に朝から行くからランチしよう」とか「今日は就活があるから、夕方にいくから」とか、連絡事項がほとんどだ。でも朝に約束をしなければ、僕たちは会えないのだからこれは必要なことだった。それに朝から遼子の声を聞くのはとても幸せだった。

 僕は必要以上に大学に通っていた気がする。普通四回生はほとんど大学に来ないのだけれど、僕は就活終わってからも、午後からだけでも、図書室で卒業論文を書いたりしていた。それは卒業論文のためではなく、遼子と待ち合わせをして帰るためだった。ただ大学の帰り道を一緒に歩いて、ちょっとお茶をして帰るだけのために、大学まで戻っていた。

「スーツ姿格好いいね」と遼子に言われたのもあって、就活後も苦もなく大学まで来れた。

 遼子は僕があげた指輪をいつもしていて、大事そうに時々見ている。

 六月、梅雨の季節でその日は朝からずっと雨だった。スーツは防水性だったとはいえ、蒸れるので、僕は上着を脱いで鞄の中にしまっていた。図書室まで迎えにきてくれた遼子と一緒に建物から出た。傘を差そうとしたら、遼子がそのまま飛び出した。

「うわぁ。今日の雨は私、好き」

 細かくて、細い雨だった。僕は雨を受けている遼子をしばらく見ていたけれど、「風邪ひくよ」と言って、僕も飛び出した。

「映画で見たような雨…」

「傘差すか、雨宿りしよう」

「雨宿り」と言って、僕の手を引く。

 キャンパスの通りに植えられた木の下に移動した。完全に雨を防ぐことはできないけれど、随分、マシになった。濡れた髪が額に張り付いているのを遼子が手で掻き上げる。僕は鞄に入れた上着を取り出し、遼子の肩にかけた。雨で下着が透けていたからだ。

 雨の日の夕方、授業中の時間で、人通りがほとんどなかった。

「奏太の、今日の話、聞かせて」と雨を見ながら、遼子が言った。

「一次試験受かって、今日は集団面接をして…」

「集団面接?」

「そう…。七、八人のなかで自己アピールみたいなことをするんだけど…。僕は本当に特技もなくて、困ってて。でも最近は朝早起きして牛乳配達をしていることを話すようになったら、結構、うまくいって」

「牛乳配達してる人はなかなかいないもんね」

「遼子は? 今日は何してた?」

「私は卒業制作の下書きと、あとは銅版画を刷ってみたの。でも刷るのも難しくて…。圧の掛け方が弱かったら、思ったように線が出ないとか…。浮世絵って、絵を描く人、版を掘る人、刷る人と分業制で、それぞれのプロがやってたの。私も刷る人がいてくれたらよかったのにーって本当に思った」

「え? そうなの。広重が掘って、刷ってたんじゃないの?」

「違うの。だから同じ絵なんだけど、人によって、ぼかすところが違ってたりして…」

 僕たちは全く違う世界を生きていた。でも違う話を聞くのは本当に楽しくて、多分、遼子の話だから楽しいのだと思う。

 風が吹いて、葉に溜まっていた雨がバラバラと音を立てて、落ちてくる。遼子と僕は声を上げて木の下から飛び出した。逃げ出したお互いを見て、笑う。

「いい加減、傘差そう。ほら一緒に入ろう」

 そういうと、わざとむくれた顔を作って、近寄ってくる。そして傘を深くかぶせて、見えないようにしてから僕の頬にキスをくれる。僕が驚いて遼子を見ると、遼子はまた傘から出て走り出してしまう。

 本当に僕は遼子が好きだった。雨の日も、晴れの日も、遼子といると輝いて見えた。

 何とか遼子を傘の中に入れて、駅前まで帰る。まだ乾きが甘いので、二人で喫茶店に入る。

「遼子はそんなに雨が好きなの?」

「好き。雨が降ってると安心するの。雨で世界に包まれてる気がするから」

 そんなこと思いもしなかった。僕は傘という荷物が増えるし、足元が気持ち悪くなるから、厄介としか思ってなかった。

「それに…これでちょっと帰る時間が遅れて、一緒にいる時間が長くなるでしょ?」といたずらっ子のような笑顔を見せた。

 その時、偶然、お店でショパンの雨だれがかかった。だからこの曲を聞く度に、僕はこの雨の日のことを思い出す。そしてこの日から雨はそんなに嫌いじゃなくなった。


 土曜日、土曜日、土曜日、デート、デート、デート、スケジュール帳にはシールが羅列してある通りに僕たちはずっと会っていた。そのまま泊まって、日曜日には遼子の家に行くこともあったし、僕の家に来たこともあった。遼子を連れて行くと、千佳がものすごく驚いて、「まさか彼女なわけないわよね」と言った。散々、「もっと他にいい男がいる」だの「奏太には勿体無い」だの、言ってくれた。その度に「本当に好きなんです」と遼子は真面目な顔で言う。千佳が折れて、最終的には「変わった趣味を持つ美人」ということに落ち着いたようだった。

「お姉さん、面白いね」と遼子が囁いたので、

「本人に言ったら、殺されるからね」と忠告しておいた。

「でもお姉さんのおかげで、奏太が優しいのかもね」

「おかげと言っていいのか、…原因ではあるけど。女の人に逆らえないって植え付けられた気はしてる」

 遼子が僕の家に来ていることが不思議だったけれど、でもなんだか静かで沈んでいた家が明るくなった気がする。父親もうろうろして、パチンコに出かけると言ってはすぐに戻ってきて、寿司を持って帰ってきてくれた。

 寿司桶の中にはいつもより数ランクもアップされた握り寿司が並んでいた。

「うわ。ウニが入ってる。こんなのいつも買わないのに」

「あー、ほんとだ。中トロまで」と千佳も覗き込んだ。

「それぐらい食べさせたことあるだろ」と父親は言うが、僕と千佳は顔を見合わせて首を横に振った。

 久しぶりの賑やかな我が家の食卓だった。どのネタを食べるのかちょっと小競り合いをしながら寿司を食べて、千佳がビールを三本ほど飲んだ頃に、僕は遼子を家に送るから、と席をたった。早い時間だったけど、ちゃんと家まで送りたかったから、という理由もあるけど、ちょっと早くでて、どこかでお茶でも飲んで、二人きりで話もしたかった。

「えー。もう帰るのー? 泊まって行ったら? 私の部屋で一緒に寝ましょう」と酔っ払った千佳が機嫌よく声を上げる。

「また今度にして」と僕が断った。

「奏太の部屋でもいいけどー」と千佳が変なことを言うので、僕はもう遼子の手を取って、玄関に向かった。

 遼子は最後まで、二人に「ありがとうございました」と言っていたけど、僕は遼子が疲れてないか心配した。

 玄関を出て、外を歩く。まだ日が落ちてない明るい時間だった。

「もうすぐ夏至だね。まだ明るいね」

「うん。…疲れてない?」

「ううん。姉弟きょうだいってあんな感じなんだね。私、一人っ子だから分からなくて。なんか新鮮だった」

「いや、他の家の姉弟はもっとまともだと思うけど」

 そう言うと、思い出し笑いなのか、遼子は笑いながら「今度はお姉さんと泊まろうかな」と言った。

「え? 僕一人で寝て、遼子は千佳と寝るの?」

「うん。だって、流石に奏太の部屋で寝るのは…」

「そうだけど」と何だか千佳が羨ましくなった。

 空を見上げると、まだまだ夕暮れが来そうにないような青い空だ。乗り換えのターミナル駅で僕がお茶に誘うと遼子は嬉しそうに腕に手を絡ませてきた。セルフサービスのコーヒーショップに入る。数人並んでいるので、その後ろに並びながら話をした。

「今度は夏休みの予定を立てよう」

「どこ行く? 楽しみ」

「夏祭りと…できたら旅行にも行きたいな。国内でもいいから」

「じゃあ、卒業旅行は海外に行こう」

「海外? どこ行きたいの?」

「うーんとね。スペイン。ピカソのゲルニカ見たいから」

「へぇ。フランスかと思ってた。美術館たくさんあるし…」

「フランスもいいなぁ。両方行きたい」

「スペインにしろ、フランスにしろ…ドイツ語取った意味ないよね?」と僕が言うと、二人で顔を見合わせて笑う。

 話しているうちに順番が来た。僕はアイスコーヒーを頼んで、遼子はアイスオレを頼む。禁煙席を探して座った。小さな丸いテーブルに向かい合って座る。僕たちはスケジュール帳を出して、夏祭りの日はデートのシールを貼った。

「ディズニーランドも行きたいなぁ」

「ディズニーは冬に行こう。夏は暑すぎて、待ち時間もすごいし」

「そうね。冬だと綺麗だし」と言って、ページを物凄い勢いで捲って、12月の土曜と日曜にデートのシール を貼っていった。

「国内旅行ってどこにする?」

「北海道に行きたいな」と僕が言ったら、頬を膨らませて「沖縄」と遼子が言った。

「美味しいものいっぱいあるし、涼しいよ」と僕が言うと、遼子は勝ち目があるのか、にっこり笑った。

「沖縄だって、美味しいものあるし、海は綺麗だし…。それに私、水着買ったの」

「え?」

「私の水着付き。ビキニ。北海道だとないからね」

 すごい切り札を出してきた。あっさりと僕の希望は沖縄に変更された。日にちはまだお互いのスケジュールが確定していないし、料金が安くなる九月に行こうか、と話し合った。夏が来るのが待ち遠しくて、こんなに夏が楽しみだったことはない。僕たちは尽きることなく話してしまって、結局帰るのが遅くなる。家に着いたら十時になっていた。慌ててシャワーを浴びで、僕は部屋に飛び込もうとしたら、千佳から呼び止められた。

「ねぇ。素敵な女の子で、あんた有頂天になってるみたいだけど。振られたら、お姉さんがアイス買ってあげるからね」

「アイスなんか一生買う必要ないから」と言って、僕は部屋に入った。

 早く寝ようと思ったけれど、本当に夏が楽しみで仕方がない。

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