短編

6.5話/兄妹

 突如として住み慣れた家をなくし、育て親たる老夫妻と引き離されたことを彼女は悲しむべきであっただろうか。

 森の奥深く、幹の隙間に隠れるように建てられた手狭な家屋にて幼き淫魔、ノウェルズは育った。物心ついたときから彼女は老夫妻との血縁関係のないことを了解していたが、きっかけの記憶は見つからない。いうなれば、はじまりから至極当然に部外者の認識をもって森に暮らしていたというわけだ。成長と共に、彼女はおとなの余所余所しさの内訳を理屈で理解した。

 ノウェルズは淫魔であること、淫魔は世に疎まれること。老夫妻には彼女を世話しなければならない何らかの理由があること。

 望まれずに生まれ落ちたという意識を持ったが、育て親を憎み、世を拗ねて生きるほど極端には走らなかった。高い洞察力により、彼女は自らを取り囲む複雑な状況に目を凝らし、現状把握に努めた。やむにやまれぬ事情ありきでノウェルズを世話する老夫妻が、淫魔の眠ったはずの深夜に囁き交わす。幼い子供を気遣う内容でもあり、ノウェルズを歓迎していないらしいことが透けて見えるのに、老夫妻は子供の手が寒さにすこしでもかじかむようなことがあれば、急いでこれを暖めて暖炉に一番近い位置に子供を据えるのだ。彼等はノウェルズを嫌っているのではない。長い時間のなかで愛し始めているからこそ、扱いに困っている。

 老夫妻が愛憎混じりでノウェルズを育てたことで、彼女のほうでも老夫妻を頼るべきか否か非常に曖昧な状態となり、子供は疲弊していた。この暮らしは安寧でもあるが停滞とも言え、内側から破れば老夫妻に何らかの累が及ぶであろうし、さりとて外部に期待も出来ない。しかし、夜の森に満る静謐を馬の嘶きと蹄とが切り裂いたかとおもうと、陰鬱だった日常は森の小屋と共に焼失。老夫妻とも生き別れた。

 悲しむべきであったかもしれないが、彼女が得たのは喪失ではなく安堵だ。引き取られた先は伯爵邸で、ノウェルズにも一室が与えられた。彼女の後見人は屋敷の当主ではない。吸血種の男だ。彼は年若く、頬の丸みをまだ残す輪郭ながらノウェルズの兄を自称して、カリヴァルドと名乗った。伯爵の慈悲を受けて屋敷に庇護されたのはカリヴァルドのみであったはずが、彼が頑として譲らなかったのでノウェルズも共に引き取られて存在を黙認されている形となったのである。

 カリヴァルドは森の家屋が焼け落ちる寸前に現れて、伯爵から焼死していいと見做されていたノウェルズを炎も恐れず抱えだし、危機から救出してくれた。恩義はあるが、感謝や感激は無い。なんといっても初対面に近いし、互いを詳しく知る前から兄妹として異様に馴れ馴れしいカリヴァルドの様子はノウェルズにとって癪に障る。子供なればすぐさま庇護を求めて懐くと思い込んでいるのだろう。

 以前の暮らしにおいて、老夫妻は森で身を縮めるように隠れ住み、ノウェルズが勝手に森の外を目指してみつかってしまえば老夫妻とて危うい、という緊迫感と心細さがあった。カリヴァルドにはそれがないのでノウェルズの足枷となることもなかろう。ここで気にかけるとすれば最悪の状況でも己の生死のみ。誰かを巻き込む心配は不要だという身軽さに彼女は暫し浴し、これを自由なのだと感じた。

 カリヴァルドはノウェルズの世話をするよう家僕にも言いつける権限を有し、伯爵邸に堂々と暮らしている。ノウェルズは邸内から出ることは出来ずとも、彼の庇護下において厨房や画廊、図書室で蔵書に触れること、楽器を見聞きして触れること、ペンを握って文字を書くことなどが可能となり、自分ひとりで不自由のある場合には幼い外見を悪用し、ものもわからないふりで家僕を頼って手伝わせた。

 彼女は無邪気で暢気な子供ではない。本来なら聡明さと呼べたはずの知力を小狡く発揮し、ねずみさながら伯爵邸を探り回って、家僕の上下関係、子供に対して隙の大きい者が誰かを見抜き、邸内の指揮系統を把握する。

 伯爵邸の者にとって、ノウェルズは従順でおとなしく内気な子供であったろう。小さな淫魔はこの世で誰からも存在を望まれた経験がない。それゆえ、未成熟な精神の内側では利己心と野心ばかりが育ち、強い防衛本能と攻撃性とをひた隠して過ごすようにと悪心が助言していた。誰かを信ずる必要はない、ここで上手く過ごして、期を図ればよい。如何なる機会を得て、どこへ向かうべきかを彼女は知らずにいた。こうして迷えることすらも、彼女が初めて得た意思の贅沢なのだ。

 伯爵邸では絶えず他者の出入りがあり、噂話が交わされ、来客を迎え、外界と通じる波と風の出入りがあり、子供は自分の頭上を素通りしていくおとなたちの喧噪に聞き耳をたてた。

 すると、どうやら市民権を誰もが有しており、何らかの職務や地位を与っているにも関わらず、どれほど下級のものであれノウェルズは身分なるものを所持できないらしい、ということに気付かされた。まだ具体的に市民権だの倫理だのといった複雑な、一定水準の教育を前提とした観念を得るところまでは到達していなかったが、みんなに当然あるものを自分は持たないどころか、将来も持てないらしいという不遇さを悟ることは出来たのだ。伯爵邸の囲いを抜け出しさえすれば、聞きかじった知識にある職種のなんらかに就けると夢想したが、そのような権利は淫魔には認められない。彼女の頭髪は銀色をして過剰に目立ち、遠くからも輝く。それが染料を受け付けないので布を巻いて隠すしかない。髪をどうにかしたとて、更に誤魔化しの効かない深紅の双眸を備えているのだ。このように派手な色は吸血種の一般的社会には存在せず、異常な目立ち方をする。伯爵邸内でもノウェルズの色を気味悪く思う者は存在した。この不自由な身で、誰との縁故もなく生き延びていくことは難しかろう。強かさと、それ故に生じた煩悶で気が塞がって憂鬱に窓を曇らせていると、カリヴァルドだけがノウェルズの溜息に気付く。

 

「あまり勝手をするなよ。お前は実に小狡いやつだからな」

 

 知った風な忠告を与え、馴れ馴れしくノウェルズの頭に片手をおいて髪を撫でた。彼は続ける。


「俺に似ているよ」


 小狡さが自分に似て愛着が増す、見上げた彼の表情はそう語っている。ノウェルズは鼻白んだ。自分との共通点を必死に探し出して、それみたことか、やはり我々は兄妹だと喜びたくて仕方がないとみえる。彼はノウェルズではなく妹という概念と幻想とを見詰めているのだ。カリヴァルドの眼差しにこもる期待めいた温度は押しつけがましい生々しさで、ノウェルズは苦い思いがした。

 新生活が二週間も過ぎた頃、カリヴァルドが慰めと詫びを言い置いて留守にすると、子供は高熱をだして寝込んでしまった。傍にいれば厭わしいのに、離れれば心細い。伯爵邸でノウェルズの心身や衛生管理に心を砕き、配慮している者はカリヴァルドだけなのだ。己の孤立と存在価値の低さを悲しく把握しているが故に、ノウェルズは彼が自らの生命線だと理解していた。カリヴァルドが手配し、留守を任せた女中がノウェルズの傍についたが、子供の苦しみは癒えず、熱も下がらず、しらぬ間に意識を無くして、再び瞼を開いたのは夜更けのこと。

 薄暗い室内には燭台がひとつ灯されていて、枕元の陰影を浮き上がらせている。申し訳なさそうに出て行くのであれば一番苦しい時に駆けつけて欲しいが、あの男にそんなことができるはずはない、とノウェルズは思った。彼には自分の立場があって、地位があって、日々忙しい。所在なきノウェルズとは違うのだ。

 頭のなかで恨み言を述べるということは、彼に幾分かの期待を寄せていて、縋っているだけ。己のうちにわきあがる矛盾に苦しみながら、ノウェルズは小さな拳で掛布を握りしめ、額に汗を流し、蒸れた寝具の中で寝返りを打つ。傍らで衣擦れの音がして、ノウェルズの額を湿った布が冷やした。意識が朦朧としていたので孤独と錯覚していたが、寝台に椅子を寄せて、カリヴァルドが子供の様子をのぞき込んでいる。

 どうして、と思ったが、彼の事情に気を配るための言葉を発するには至らない。子供の唇はただ痙攣し、ノウェルズ自身に自覚はなくとも生死の境を彷徨って、ようやく容態が安定したところなのだ。

 カリヴァルドは知らせをうけて急いで戻り、どうにか医師を呼びつけて、それでも淫魔の対処法は吸血種のそれと異なるであろうし、後は運に任せるほかないと申し渡されていたことで、ノウェルズの意識が回復したことの重大さをカリヴァルドだけが理解していた。


 「ねえ、今は沢山お眠り。そうすれば朝には回復すると医者が教えてくれたのだよ。俺がここで、お前を見守っているから……それとも他に必要なものがある?」


 慎重に、子供の幽かな吐息と、弱っていく心音を聞き取ろうとするかのようにカリヴァルドは身を屈めた。住み慣れた家を無くし、養父母を喪い、大幅に環境が変わった。子供の衰弱は慣れぬ環境に必死で適応しようと気を張り続けた結果でもあり、そのことに気が回らなかったとしてカリヴァルドは保護者としての心痛を感じており、彼の眼差しには後悔と労りとが宿っている。


 「水を飲むか?」


 尋ねて、ノウェルズの身を起こすか迷ったカリヴァルドの腕が彷徨い、小さな体の背に添える。子供は自らを支えようとした男の腕を掴み返し、熱に干上がり、ひび割れた唇を震わせた。


 「私達、家族じゃない……」

 

 子供を慰撫せんとしていたカリヴァルドの動きが停止する。冷えるカリヴァルドに反比例してノウェルズは高揚していた。手応えがあったのだ。彼女とは全く無関係の場所で作り上げられ、カリヴァルドが夢中になっているらしき家族という幻想に刃を突き立ててやった、彼を傷つけてやった、という実感が。

 

「私たちは他人。会ったばかりで家族になるなら、誰でも貴方の家族になれるよ」

 

 皮肉った笑みを小さな唇の上に浮かべてカリヴァルドを見上げたとき、ノウェルズは予想外の衝撃を受けた。突然に血の気が引いて、自らが汗で全身を湿らせた卑しくも生暖かな肉塊になったと感じ、高熱すらも一瞬は忘れた。

 他者を傷つけて悦に入ることの昏い喜び。まだそうとは理解されておらず、形も曖昧な道徳心が、卑劣だと己を糾弾し、魂と理性とに警告したのである。彼女は幼いが故に他者に対して残虐に振舞ったことも、意図的に誰かの精神を滅多刺しにしたことも初めてだ。とはいえ、発した言葉は撤回したとて消失しない。彼女が初めて振るった刃はあまりに正確すぎた。子供の傍らに座るカリヴァルドは青ざめ、片手が震えている。

 所詮は自分とそう違わない未熟な、そのくせおとなのふりをした子供ではないかとノウェルズはカリヴァルドの脆弱さを頭のなかで批難した。そうして自己保身に走らずにいられない。彼女はカリヴァルドが流した見えざる出血と傷の深さを気取っていて、ちいさな胸は精神的な恐れから早鐘のように脈打ち、咎人のごとく目は泳いでいる。切り裂いたのは他ならぬ自らでありながら、被害者の傷を直視できないかのように。


 「確かに、そうだ」


 カリヴァルドは吐息し、眉を潜め、重々しく同意した。


 「俺は家族に拘ってしまう。どうしても」


 カリヴァルドは続けた。裏切られたと知った直後でも、まだ守れる家族がひとりだけ残っていた事に安堵したのだと。血縁関係がありさえすれば誰でも良く、ノウェルズを弱々しい妹として守ってやる、そういう自分に浸って精神を保っていた節があると認めた。

 

「でも、今は違う」


 カリヴァルドは体温を無くした両手で、怖々とノウェルズの小さな片手を包む。幼き淫魔もまた色を無くして青ざめていた。出会ったときは炎に照らされるなかで鮮烈に輝き、紅玉と紫水晶にも劣らぬ光を双眸に湛えたはずのふたりの子供たちは、薄闇のなかでおぼろな瞳を見分けようと凝視しあう。

 

 「今は、お前を知りたいと思っているよ、ノウェルズ。俺がお前に兄だと認めて貰えなくても構わない。だけど、お前と血の繋がりのあることを嬉しく思う自分というものを払拭できずにいる……理屈から言えば他人といえる距離だ。わかっている。どうしてか、俺は」


 彼はそこで言葉を止めた。ノウェルズは肩で息をしながらも、上下の張り付きそうな唇を動かして尋ねる。


 「あなたにとって、家族ってなに……?」


 カリヴァルドはノウェルズから目を逸らしはしなかったが、子供をみつめたまま暫く硬直した後、視線を外さずに首を左右に振る。わからないのだ、彼にも。答えなど持ち合わせていない。

 カリヴァルドを頼るべき存在ではなく、利用価値のある相手として見做していたのはノウェルズなのだから、彼が予想以上に頼りない返答を寄越したところで失望のしようもない。沈黙を共有しているのに、青ざめるほど傷つけられたのに、カリヴァルドに退室する様子はなく、ノウェルズを見つめる熱心さにも変わりが無い。

 伯爵邸に来た当初と比較して、ノウェルズが彼への嫌悪を強めたのに対し、彼のほうでは傲岸不遜であった態度は次第に軟化し、ノウェルズの様子を伺い、人柄を探って見える。無礼に振る舞ったのは彼が先だが、考えを改めたのかもしれない。そんなことにも気付かないほど、ノウェルズのほうがより傲慢になっていたのだ。

 カリヴァルドと話すうちに子供の呼吸の荒さは徐々に落ち着いてきていた。変わらず熱の倦怠感は強いが、嵐が知らぬ間に去ったかの如く、不安が勝手に和らいでいる。

 

 「お前のつらいときに、こんなふうに話し込むべきではなかったね。続きは回復してからにしよう、今は横におなり」


 ノウェルズが呆然としていると、カリヴァルドが子供を再び寝かしつけようとする。彼女はこれに弱い力で抗った。腕に力を込めて筋肉に指示したとき、彼を突き飛ばすか迷った膂力は、けれどもすぐに脱力する。炎に包まれ、焼死しかけた夜にカリヴァルドが力強くノウェルズを抱き上げたときの腕や胸の感触が蘇ったのだ。

 ノウェルズが手酷く傷つけてやろうとした悪意を彼がわからぬはずもない。それでも尚、慈悲を与えんと寄り添ってくれるこの者は、一体いつまで、どこまでノウェルズにとって他人でしかないのか?

 事実、彼が傍にいてくれてノウェルズの苦しみは和らぎ、激情をぶつけるほどの気力が復活したではないか。気付いてしまえば、子供は意地の張りどころを喪い、身を起こせなくなった。カリヴァルドの片腕に弱々しく自重を任せるほかない状態で、彼女は呻く。


「一緒に寝て」


 添い寝の要望を受け入れたカリヴァルドが弱った子供を抱えて寝台に横たわり、ノウェルズを抱き寄せる。彼への嫌悪感は遠ざかり、霧散したかのように思い出せず、肌のうえに蘇りもしない。柔らかい体温と呼吸音に包まれて、緩やかに忍び寄る眠りへと引きずり込まれていく。御兄様、御兄様と繰り返し彼を呼び慕うことは、単にノウェルズが生きていくために必要な作業で、彼は利用すべき相手なのだろうか。一人で生きていくことが、身勝手であることが、誰をも信頼しないことが自由なのだろうか。子供の目元は濡れていた。慚愧の念に堪えず、我が身を恥じた自責の涙である。

 子供は夜明けに眠りから覚め、男の腕のなかで瞬く。長い睫毛が彼のシャツを掠って乾いた音をたてるほどに近い距離で、殆ど胸に頭を埋めるようにして一夜を過ごしたらしい。屋内といえど早朝は冷え切っており、寝具の内側にのみに体温が宿って心地が良い。

 体中を蝕んでいた痛みと苦しみは消え去り、ノウェルズの呼吸は安定していた。深く寝入っている男の顔を無断でのぞき込むと、顔色からして色濃い疲弊が見てとれる。誰のための心労か明白であり、ノウェルズはこの日を境に彼を所詮は子供と侮ることをやめ、態度を改めた。

 カリヴァルドは存在を容易に外界と接続され、ノウェルズよりもずっと自由に行き来が可能である。彼はノウェルズより世を知り、ものをしり、彼女を心身ともに庇護してくれる情に厚い存在で、それから大事な味方、そういう見なし方はいつでも可能だったのだ。

 淫魔の不遇さに心を痛め、伯爵邸から出ることのできないノウェルズが教育機関で学び、公的な身分を得るために外部へ働きかけんと奮闘してくれる者が彼の他にあろうか。周囲の誰よりノウェルズにとって模範となるべき年長者たれ、と苦心する彼を率先して認め、出会った時に命を救われた感謝を重く、深く受け止める道もある。このように捉え直すと、ノウェルズは彼の姿にますます深い敬愛と信頼を寄せるようになり、最早一欠片の侮りも存在しなかった。彼女は永遠に欠けない敬意を意識して、常に御兄様と呼び慕う。故に、兄が大切にする家族なる概念を蔑ろにしようはずもない。

 あなたにとって家族ってなに?

 幼き時分の問いは兄を著しく傷つけたが、記憶のなかで困り果てていた少年ではなく、成長した自らが答えてやってもよかろう。家族とはノウェルズにとって誇りだ。どこで生きて誰と会い、ノウェルズが何を成してもカリヴァルドの妹だと誰かがみなし、噂が彼へと伝わる。恥じぬ自分を築かんと邁進し、名誉を風に乗せて彼に届ける喜びをノウェルズは知っている。彼によって淫魔ながらに地位を得て、社会を生きるに至ったのだから。

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