間接老人

そうざ

A Indirect Old Man

 私の眼前で年若い娘さんが列を成している。皆、孫のような年頃だ。今年で八十八歳べいじゅだが、こんな体験は生まれて始めてだ。

 娘さんは私の手を堅く握り締めると、その感激を思い思いに全身で表現する。奇声を上げたり、飛び跳ねたり、泣き出したり、その姿を見ているとこちらまで嬉しくなって来る。

 唯一つ気になるのは、皆の服装が奇抜な事だ。何と形容して良いものか、きらきらとした、ごてごてとした、古い人間には一言で表現出来ない格好ばかりだった。

 ほんの一時間前まで、私は家の近所で日課の散歩をしていた。今以上に足腰が衰えるのが不安で、杖を突きながらも意識的に歩くようにしている。

 今日は日和が良かったので、ちょっと遠出をしてみようと思った。電車で隣町まで行き、以前は仕事帰りや休日によく足を運んだ繁華街を散策する事にした。

 駅前の大通りから裏道に入り、横丁を擦り抜ける。懐かしい風景に見惚れている内に、見知らぬ場所へ迷い込んでいた。

 そんなに歩いてはいない筈だがとよくよく辺りを見渡すと、見知った川や橋があった。どうやら街並みが様変わりしているらしい。

 高層の建物が増え、区画が大きく整理され、行き付けだった小料理屋や飲み屋は影も形もなかった。小さな公園も駐車場になっている。

 この辺りにこぢんまりとした音楽ホールがあった筈だ。ジャズキチを気取り、足繁く通っていた時期がある。

 あの頃は漠然と、音楽で食って行けたら、と夢見ていた。しかし、楽器が弾ける訳でも、歌が歌える訳でもなく、単にミュージシャンにでもなれば女の娘にちやほやされるだろうと、奥手の青年なりに考えた妄想に過ぎなかった。

 細い路地を突き進み、おぼろな記憶を頼りに幾つかの角を折れると、やがて立て看板が現れた。

『ライブハウス・幻』

 当時はライブハウスなんて呼び名すらなかった。だが、レンガを模した外壁の一部には憶えがある。今でも音楽関係の店として続いているようだ。

 店の裏手へ回る。見れば見る程この立地に違いないと思えて来る。

 周囲を確認しながら歩いていた時、思い掛けずつまずいた。舗装が傷んで凹凸が出来ていたのだ。

 杖が音を立てて転がった。膝やら肘やらを強かに打ち付けた。怪我という程ではなかったが、直ぐには立てそうにない。表通りから離れているから、人の通りはほとんどなさそうだ。

 過去の妄想にうつつを抜かした挙げ句の醜態。

 情けない、本当に情けない。

 途方に暮れていると、目の先に色白の掌が現れた。

 顔を上げると、そこに色眼鏡を掛けた黒尽くめの青年が中腰で立っていた。

「どうぞ……」

 青年は繊細そうな声とは裏腹に力強く私を起こしてくれた。

「あぁ、ありがとう。ありがとう」

 偶さか店内から出て来て、無様に倒れた私に気付いたようだった。

「くれぐれもお気を付けて……」

 青年が美声でそう言うや否や、彼方から黄色い声が轟いた。表通りの方から娘さんの大群が押し寄せて来る。

 青年は反対方向へ急ぎ、迎えに来ていた様子の黒塗りの高級車に乗り込むと、風のように駛走しそうして去った。

 娘さん達はとても追い付けず、一様に酷く落胆していたが、私を見て忽ち鼻息を荒くした。

「蒼魔さんと握手してましたよねっ?!」

「……ソーマさん?」

「三次元界一のっ、多元宇宙一の美青年ですっ!!」

 娘さんが次々と会話に割り込んで来る。

「蒼魔さんはめっちゃ潔癖症なんですよぉ!」

「ファンですら絶対に握手をしないんですっ!」

「たった今、あり得ない事が起きたんですっ!!」

 蜂の巣を突付いたような騒ぎになり、あれよあれよと私の前に列が出来上った。

 何でも、ついさっきあの青年のファンクラブ限定秘密演奏会が開催され、娘さん達は終演後に出待ちをしていたと言う。

 やがて正面玄関から出て来た青年に大挙して群がったが、これが真っ赤な影武者で、本物は何処だと裏口に回ってみたところ、くだんの現場を目の当たりにしたという訳である。

 行列はまだ続いている。百人は居るだろうか。再び列に並び直す娘さんも居る。私は当分、帰れそうにない。

 何はともあれ、人様のお役に立てるのは気持ちの良いものである。娘さんの中には、いつまでも長生きして下さい、と声を掛けてくれる気立ての良い子も居る。奇抜な見掛けだけで人様を値踏みしてはならないと、私は米寿にして思いを新たにした。

 往時の妄想が蘇る。子供染みた妄想がこんな形で叶うとは、人間、長生きをしてみるものである。

 若い娘さんの掌はしっとりとして弾力がある事を知った、そんな春の一日だった。

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間接老人 そうざ @so-za

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