3 「逃げられると思うなよ、シェノン」




『シェノン』


 声が聞こえる。

 遠い記憶の声だ。


『こっちに来い』


 有無を言わせない声が。

 こちらに伸ばされる手が。

 闇の底のような目が。


 ──夢のくせに、未だ生々しくこの身に絡んでくる


 目を覚まして、シェノンは顔をしかめた。


「……あー、もう」


 この夢を見たくないというのに。

 案の定気分が悪いが、この微妙な気分の悪さは何なのか。最悪の体調でないことに、喜ぶべきなのか。以前夢を見ていたときは吐いていたくらいだ。


「魔術、かけ直し忘れてた……」


 忘れた? いや忘れたんじゃなくて。シェノンは前髪をかき上げる手を止めた。


「それなら解いておいた」


 間近で聞こえた声に、シェノンが即座に横を見ると、頬杖をついてこちらを見ているレナルドがいた。

 青色の瞳がシェノンを映す。


「おはよう、シェノン」

「──レナルド、なんで横で寝てるの」


 いまいち状況が飲み込めずシェノンは困惑する。


「シェノンが魘されてたから」


 手が伸ばされ、レナルドの指が額を掠めた。微かな風で、うっすらと汗をかいていたとシェノンは知る。


「…………あなたが気絶させたからじゃない?」


 シェノンはレナルドの手を払う。

 今目覚める前の出来事を思い出した。

 筆頭魔術師の執務室でエトと話していたらレナルドが現れ、色々あって驚いた隙を突かれて魔術を使われたのだ。


「あっさり気絶させられて驚いた。シェノン、そんなに弱かったか?」

「おお? いい度胸ねレナルド、表に出なさい」

「嫌だ」

「私も今さらあなたの模擬戦の相手なんてしたくないから」


 八年経った。魔術学院へ編入するレナルドの家庭教師から退く前でさえ、彼の実力は下位の魔術師に収まる完成度ではなかった。

 やがては筆頭魔術師になる存在。聖王の祝福を受け、生まれながらに実力を約束された存在。

 果たしてシェノンが張り合えるか。魔王の祝福など糞食らえなのでそれ抜きでだ。


「……なに」


 じーっと見てくるレナルドがふと、ふっと口元に笑みを浮かべたのでいきなり何だと思う。

 レナルドのこの表情は、すこぶる機嫌がいいときのものだ。若干印象が幼くなる。

 目覚める前のレナルドの険しい顔を思い出して、シェノンはどことなくほっとした。


「シェノンが隣にいるのはいい気分だ」

「あーはいはい」


 くだらない答えが返ってきたので、シェノンは軽くあしらいつつ周りを確認する。

 無意識に自分の部屋だと思っていた場所は、知らない場所だった。

 あるのはベッドとサイドテーブル、椅子が一脚とチェスト。ベッドの上にシェノンは横になっていて、その横にレナルドが横になっている。 


「ここレインズ公爵家?」

「ああ」

「どうして?」

「今日から、シェノンにここで暮らしてもらう」

「あーなるほどなるほど」


 まったく分からない。意味がわからない。状況が理解できない。

 なので雑に言いながら、シェノンはまずベッドの壁際から脱出するべくレナルドを越えようとする。


「逃げるなよ」


 レナルドの向こうに置こうとした手をとられた。

 シェノンは軽く手を払おうとするが、押さえ込まれ、視界が反転し、ベッドに沈み込む。

 気がつけば、組み敷かれていた。

 こんなに力が強かっただろうか? 手首をぎちぎちに押さえ込まれ、動かそうとしても腕が微塵も浮きもしない。

 反射的にシェノンは自らの肉体を強化する魔術を発動する。


 魔術とは、ここリンドワール国では今やあらゆることに使用されている術だ。

 自然の魔力という資源を、人間が生まれ持った魔力で作る回路で汲み上げ、魔術式と呼ばれる命令式で自然に起こり得ないことを含め、人間の手で事象を起こす。

 火を起こす、風を起こす、植物の成長を速くするという外部に向けたものの他、自らの身に使うことも多い。

 シェノンが特殊な生き方をするために生み出した魔術は特殊なものだが、『身体機能強化』は魔術師の騎士団ではよく使用される。

 一瞬魔術式がシェノンの腕に走り、直後、シェノンの肉体は常ではあり得ない力を得て、押さえつけてくる手に抵抗する。

 レナルドの手が浮き、隙が出来るかと思われたのもつかの間、レナルドはにやりと口の端で笑った。


「シェノン、『それ』は俺の方が本職だ」


 再び、手が押さえ込まれた。

 今のシェノンは大きな岩でさえ持ち上げられるだろう力を得ているのに、動く気がしない。

 そういえば、エトの執務室でレナルドは騎士団の制服を着ていた気がする。

 八年経ったという事実がもう何度目か頭に過る。


 八年なんて、レナルド・レインズという溢れんばかりの才能を持って生まれてきた人間が成長し切るには十分な時間だ。

 その才能は一級品。その内自分より強くなるのだろうなと八年前時点で思っていたが、ここで障害になるとは。

 仕方がない。地道に話をする他ない。これ以上は本格的な戦闘になってしまう。あまりに過ぎると、契約違反になる。

 シェノンがぱっと魔術を解くと、レナルドの方も魔術を解いた気配がした。


「正直に言うけど、あなたの行動がまったく理解できてない」


 どうしてレインズ家?

 どうして横で寝てるの?

 というか私のこと気絶させたよね?

 どういうつもり?


「理解? この程度で理解できてないなら寝込みを襲わなかったことを褒めてほしいくらいだ」

「……冗談よして」

「冗談ってどこを指してる? 褒めることを? それとも、俺がシェノンを襲うこと自体をか?」

「……どっちも」


 レナルドが上の方で笑う。記憶より大人びたとはいえ、顔は間違いなくレナルドだ。けれど、こんな笑いかたシェノンは知らない。


「冗談? 本気も本気だ。待ってた存在が今手の内にあるんだ。俺のものにしたくて仕方がない」


 その言葉と目に晒された瞬間、シェノンは掌にじわりと汗が滲んだ気がした。

 身の危機のようなものを感じた。そんな感じだったから、上にあったレナルドの顔が降りてきて、「ちょっと」と声をあげかける。


「好きだ」


 レナルドの顔は肩の辺りに埋められ、シェノンは固まる。

 肩口で、耳に直接吹き込むように、再び声が言う。

 ──『好きだからに決まってるだろ』

 確かに聞いた言葉が、耳にこびりついていた。

 幻聴や夢ではなかったと、現実を上書きするかのようだった。


 けれどシェノンは浴びせられる言葉を許容できない。

 言葉を交わすたび、混乱の渦をさらにかき混ぜられている気分だったが、何とか口を開く。


「──断る」


 再度動かそうとした腕は相変わらず微塵も動かない。魔術なしでこれとは馬鹿力か。シェノンがいらっとしていると、すぐ近くで笑った気配がした。


「何笑ってるの」

「いや、こんなに可愛いかったかと思って」

「かわ──?」


 人生初の形容に、シェノンはらしくなく戸惑うことになる。

 その影響か、戸惑いが覚めない内にレナルドの顔が見えるようになって、一瞬びくりとする。


「八年待った。俺が諦めると思うな」


 思考が鈍いのは、今に始まったことではない。さっきからずっとだ。いいや、もっと前、エトの執務室でレナルドと会って、その言葉と感情をぶつけられてからだ。


「逃げられると思うなよ、シェノン」


 色だけはいつでも綺麗な目が、至近距離でシェノンの視線を捕らえていた。

 シェノンが動けずにいると、突然手だけではなく、レナルドが体ごと離れた。


「今はこんなところにしておいてやるが」


 そう言って、レナルドはベッドから下りてこちらに背を向ける。


「仕事行くから起きろよ」


 まったく動けないくらいに押さえ込まれていたため、シェノンは呆気なく自由になったことに理解が遅れた。

 同時に心のどこかが息をついた。

 そんな内心はおくびにも出さず、シェノンも身を起こす。


「いってらっしゃい」


 勝手に行けばいい。自分は家に帰らせてもらう。

 投げやりに言いながら、立ち上がったところでレナルドを見ると、なぜか彼は驚いたような表情をしていた。

 立ち上がっただけなので、本当に何もしていないのだけれど。思わず身に付けている衣服が首もとまで閉まっていると触って確認し、シェノンは自分を見下ろすが、何も変なところはない。


「いってらっしゃいと言われるときが来るとは思わなかった」

「私は家に戻ろうとして、あなたは出勤しようとしてるから、間違ってないでしょ」

「そういう意味じゃないんだが……それよりここで暮らしてもらうって言っただろ」

「了承した覚えはない」

「帰れねえぞ」


 レナルドが、指をさしてくる。


「これ? そういえばこれは何」


 気がつかないでいるには、無理が過ぎるものが起きたときには手首にあった。元々シェノンがつけていたものとは別で、無骨なデザインの太めのブレスレットのような代物で、見た目以上に重い。

 当然気がついていたが、尋ねる機会を逸していたのだ。


「魔術具」


 魔術具とは、身につけるだけで魔術が作用する道具のことだ。元々シェノンがつけているブレスレットもそうだ。


「それは分かる」


 魔術具を見抜けないような魔術師であるつもりはない。大体、魔術具にとって魔術の核となる魔術石がついているだけで大体魔術具だ。

 問題はどういう用途のものか、だ。


「俺と離れられない魔術具」


 レナルドは自らの手を上げた。シャツの袖が少し落ち、右手首に同じものが覗くではないか。


「対のこれから一定の距離を離れたらその場から動けない魔術が発動する。当然動けなくなるのは、シェノンのつけてる方だけだ」

「……あなたねぇ」


 最早気のせいではなく、間違いなく頭痛がしてきて、シェノンはこめかみのあたりをおさえる。

 八年経ったレナルドの行動に思考が追いつけない。八年は確かに長いだろうが、どうやったらこんなになるのか。本当に意味が分からない。


「…………ああ、うん、まあ、いいや」


 ちょっとどころか大いに、腰を据えて話す必要があるとは分かっているが、どうにも頭の中が整理できない。

 相手がよりにもよってレナルドでなければこの場で魔術具を外して逃亡すればいいのだが、レナルドなので厄介だ。

 どうしてか、今ここで外して、そのままでいさせてくれる気が全くしないのだ。

 ひとまず、シェノンは全てを考えるのを一旦放棄した。


「はいはい、私も一緒に行けばいいわけね」

「そうだ」


 それが当然のように言って、レナルドが寝室を出ていく後をついていく。

 こんなものを人が気絶している間につけたとは思えない態度だ。

 どういう育ちかたをすれば、こんな非常識なことをするようになるのか。

 ……と、そこまで考えて、自分も六年教育に関わっていた事実にシェノンは目を逸らした。


「あなたが仕事中、私はエトのところか、私の研究室か、図書室行ってるから。城の範囲くらい動けるように範囲設定してるでしょ?」


 さすがに、と思って聞いたら、レナルドが鼻で笑う。


「まさか、せいぜいこの邸の中の範囲くらいだ。庭は抜きでな」

「嘘でしょ」

「俺がここにいる状態で、今から外に出てみるか?」


 冗談抜きの本気だと、レナルドの様子で分かる。


「ところでどうして第一位のところへ行く? そもそも昨日目覚めて最初に行くのが第一位のところってどういうつもりだ」

「昨日も今日も理由は同じ。仕事復帰のため。レナルド、任務のときはこれを外してよ」

「任務なんて行かなくていい」

「……」

「俺と一緒ならいいが」

「……レナルドがついてきたら、レナルド一人でいいってなるでしょ!」 

「そんなことはない。俺だって誰かと任務に行くことはある」


 仕事に遅れるのは良くないので、一旦ついていって空いた時間でゆっくり考えを纏めようと思っていたが、あまりにレナルドのペースすぎてシェノンは危機感を覚えた。


「レナルド、ちょっと先に話をつけるものだけつけてから行こう」


 レナルドの腕を掴んで引き留めると、レナルドは大人しく立ち止まった。


「まず一緒に暮らすのはなし。論外」

「却下」


 却下。いきなり即答で否定されて、シェノンは真顔になる。


「……任務以外の日中は、あなたが気が済むまであなたのところに行くって約束するならどう?」

「それが信用できると思うのか?」


 そう言われてしまうのは、八年前までのシェノンの行動として、暇でも連絡した試しがないからだと思う。


「私が約束するって言ってる。レナルドこそそれが信用できないの」


 逆に詰めると、シェノンの真っ直ぐな眼差しに、レナルドは目を逸らした。


「……嫌だ」


 嫌だあ? シェノンはレナルドを凝視する。

 これ以上ない譲歩だったはずだ。即答にさすがに耳を疑う。少しは迷ってみせるべきだと思う。


「レナルド」


 嫌だとか、駄々っ子か。勘弁してよと呆れたり、さすがにねと怒ったり、そういう感情はため息と飲み込んでしまう。

 おそらく、今、そういうのは効果がない。

 それなら……シェノンにはレナルドがへそを曲げ続ける原因かもしれない心当たりがあって、試してみるべくおもむろに口を開く。


「……言わなかったことは後悔も反省もするつもりはないけど、あなたに不都合がなかっただとか決めつけたのは良くなかった」


 エトの執務室でのことだ。

 レナルドはあのとき、苛立ち、怒っていた。


「それは謝る。ごめん。レナルドが、その、待ってたとかは私には思いもしないことだったから」


 聞き間違いでなければ、そういうことであるようだったので。それについて考えようとすると、まったく思考が進んでくれないことではあるのだが。


「じゃあ、俺のこと好きになれよ」

「どうしてそうなるの馬鹿」


 下手に出るとこうである。

 どうしてすぐに八年後のこのレナルドは、この真意の分からない話を出したがるのか。一番消化できていないし、消化しようとも思わない話題だ。

 シェノンはどうしたものかと唸る。


「あのね、レナルド。私はあなたと一緒にいるのが嫌とかじゃないの。八年前みたいにいこう」

「嫌だ」


 ここでも即答で、シェノンはいよいよ目眩がする。


「あの頃に逆戻りする気はない」


 レナルドはふいっとそっぽを向いた。

 どうも、また一種の地雷を踏み抜いたらしい。


「シェノンには、俺が把握できる範囲にいてもらう」


 そう言って、レナルドは話を断つようにシェノンに背を向けた。

 これ以上は聞く耳も持たなさそうだ。


「はぁ」


 ため息をつき、シェノンが窓の方を見ると、外の空は清々しいほどに晴れていた。

 ──何が、レナルドにそこまでさせるというのか


「ほんとうに、いきなりすぎるんだって」


 考える時間を与えるという発想はないのか。

 シェノンの頭ではまだ、全てが未処理のまま。


「待ってたって、なに」


 好きだって、なに。


 呟く声は、レナルドには届かない。










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